電信時代の中国で「電碼」などと呼ばれる電信コードが使われ,「明密」などと呼ばれるフォーマットのコードブックを使って数字の入れ替えによる暗号化も行なわていたことは「電碼――中国の文字コード」で詳述した.それを書いた時点(2014)では,中国の暗号については,日清戦争時や日中戦争時に日本側が簡単に解読していたという逸話や,孫文や張学良に関する断片的な情報から,市販の電碼の応用程度のものと思っていた.学界でも長らく,当時の中国の暗号については論じるべきものはないと思われていた(Kuzuoglu (2018) p.1-2).だが,2014〜2018年にかけて新たな資料がいろいろ発表されていた.それらをもとに,一般向けの電信コードブックとはべつの,中国の暗号について改めてまとめてみたい.
目次:
中国では仮名がないため,電信を送るには「電碼」などと呼ばれるコードブックを使って漢字を4桁数字などに置き換える必要がある.
電信導入当初の『電報新書』,『電信新法』,『電報新編』まではコードブックの漢字の割り当ては一定していなかったが,以後,少なくとも市販の電碼については『電報新編』(1881)の割り当てがスタンダードになった(上掲別稿で多数の例を挙げている).
『電報新書』『電信新法』『電報新編』の漢字の配列順は『康煕字典』(1716)に倣っているという.たしかに収録字数や途中の空欄の多寡によりコードの割り当ては変わるものの,配列順序自体は変わっていないようだ.
1883年に勃発した清仏戦争では戦場がベトナムだったこともあって電信の整備が進み,コードブックも増えた.1883年の清仏戦争勃発時,總理衙門(そうりがもん)(清朝末期の外交などを担う官庁)が『電信新法』を南洋大臣および各地の総督らに発したところ,続々と配布要請がなされるようになり,電信が通信手段として不可欠なものとなっていった.(張(2018))
總理衙門は『電信新法』(1871)をベースに改訂したものを公式の秘密コードブックとし(夏(2009) p.115),その後も改訂を続けた.『電信新法』の改訂版が1888年と1890年に出ている(吉(2014)).
次の改訂は『紅字電信新法』(1895)(タイトルページの名称は『電信新法』のまま「紅字密本」の呼称が加えられた;略「紅密」).部首が赤で印刷されていたことが名称の由来という(夏(2009), 破密(3)).「紅密」は1893年にはすでに海外との通信用に使われていたのだが,1895年には地方にも支給された.『甲午戰事電報録』では李鴻章の電文に「密紅」と付記されており,このコードブックの使用が確認できるという(吉(2014)).夏(2009)が国家図書館古籍部で「紅密」の現物を確認したところによると,6950字を収録しており,
一(0001),丁(0002),七(0003),丈(0004),三(0005), …,龢(6950)
という配列順だったという(p.115 n.1).「龢」は『電報新編』だと7901,『電信新法』(初版)だと7343(いずれも補遺でない本体部分の最後から2番目)だから,冒頭部分は同じでも後ろのほうでは配列が変わっているようだ.
總理衙門(1901年からは外務部)は『紅字電信新法』(1895)の後も『密新電本』(1897)(後述する『秘書類纂』p.271にある日清戦争時の電文には「密新」(新法)という指示が使われている;吉(2014)も類例に気づいていたらしくそれは1888年か1890年の『電信新法』を指すと考えている模様),『己亥電本』(1899),『宙字密本』(「宙密」)(1900),『洪字密本』(「洪密」)(1902),『辰字密本』(「辰密」)(1904),『午密電本』(「午密」)(1906),『申字密本』(「申密」)(1908)と更新を続けた(夏(2009), 張(2018)).コードブックの改訂は手間がかかり,日清戦争前よりはペースが上がったものの,13年に8回の改訂がやっとだったようだ.
「己亥」の称は1899年が己亥の年であることから.「辰」「午」「申」もそれぞれ明らかに干支に由来するネーミングである.
義和団事件のころに使用が始まった「宙密」からネーミングの趣向が変わるが,ネーミングだけでなく「密直」という新たな方式が導入された(後述).夏(2009)が中国の第一歴史档案館で「宙密」の現物を確認したところ,タイトルは『電信新法(宙字密本)』であり,8154字を収録し,配列順序は
一(0001),七(0002),丁(0003),下(0004),上(0005),丈(0006),…,龢(8132)
となっていたという(p.115, n.4).字数増に伴って番号がずれたことのほか,冒頭部分の配列も変えたようだ.(Zhang(2018)にある「宙字号」(1902)のイメージ(下記参照)では漢字の配列順序が『電報新編』と同じ配列になっており,上記と異なっている;単に「密直」方式を説明するための図だからとも思ったが,Zhang(2018) n.41によれば公式の指定コードブックの改訂は文字の増減だけとあるので夏(2009)と見解が異なるようだ;現物の再確認が望まれる).
洪密(1902)発行のときは,前の宙密は機密電報でない通常用として使い続けることとされ,1908年には申密,午密,辰密,洪密の4つが並立していたという(張(2018)).
駐英使節の曾紀澤〔曽紀沢〕(Wikipedia)はコードブックの改訂に熱心だったことがその日記からうかがえる.曾紀澤は国際電信料金の節約のために『電句集錦』(1880)を作成した.欧米で普及していたコードブック(別稿参照)と同じように,一つのコードで句や文を表わせるものである.そのため4桁コードではなく5桁コードとなった.曾紀澤は数字コードに所定の数を足すことによる暗号化も提唱していた.(張(2018), 破密(2))
『電句集錦』は少なくとも李鴻章,何如璋,陳蘭彬,李鳳苞に配布された(Zhang(2018) n.24).
ここなどに画像あり.
1879年の国際電信規則の改正により国際電信は3字ごとに1語とカウントされることになったため(1879年版のXXIII 6と1875年版のXXI 7を比較),『電報新書』『電信新法』の4桁数字では2語にカウントされてしまう.そこで数字に代えて英字3字コードを採用したのが本書.(1897年の国際電信規則改正で4桁数字が1語で送れるようになったので,英字3字コードの意義は失われた(Zhang(2018) p.235).)
収録文字は『電信新法』に基づいているという.英文の中扉には「Confidential」とあり,一般刊行されたものではないようだ.
中扉や序文によれば,発行者は,清朝の信頼を得て総税務司(Inspector General)の任にあったイギリス人ロバート・ハート(Wikipedia).
駐独公使の李鳳苞(Wikipedia)も国際電信用に3字英字コードからなる『電報簡編』(1881)を作成した.これは盛宣懐の中国電報局にも受け継がれたが,結局,在外公使と總理衙門の間のほかはそれほど使用されなかったという.英字3字だと26×26×26=17576項目が可能なので,通常のコードブックの7000程度の漢字を収録しても余裕があるので,文も収録した.(張(2018), 破密(2), 夏(2009))
日清戦争(中国語では甲午戦争)前後に日本が清の暗号を解読していたことはよく知られている.1886年に北洋艦隊が長崎に入港したときの騒擾に際して水兵から暗号書を捕獲していたのだが,1894年6月に日本政府が駐日公使の汪鳳藻に伝えた文書を公使が本国に送ったものがきっかけとなって解読された.(破密(3)は日本側の解読文と公使が送った原文を引用して,後者が短くなっていることを示している.汪も公知の文章をそのまま暗号で送ってはいけないことは知っていたのだが,さすがに長すぎたので手掛かりを与えてしまったようだ.)
日本側の解読が明らかになったのは陸奥宗光の『蹇蹇録』(1929),伊藤博文文書をまとめた『秘書類纂・日清事件』(1933)(国会図書館;p.266以下に37通の解読電文;1967年に『機密日清戦争』として山辺健太郎による新たな史料を含む解説が付されて復刻)が公になってからのことだが(Nedved (2017) p.12, Nedved (2018) p.99で引用されている吕(1979)),具体的な暗号については1967年の山辺解説までが吕(1979)で中国語で紹介されて以降,長らく進展はなかった.そこで吉(2014)は,日中双方のアーカイブでの言及を調べて,日本側が解読していた暗号を『密紅』とその前の『電信新法』の2つの版だとした.解読された通信文は,葉志超(将軍)(Wikipedia),袁世凱(事実上の朝鮮公使)(Wikipedia),汪鳳藻(駐日公使)(Wikipedia),李鴻章のものがあった(Nedved (2018) p.99-100, Nedved (2017) p.13-14).
日本側による暗号解読の事実は知らなかったとはいえ,清朝も電信が普及するにつれてコードブックの漏洩も起こるようになったことは認識していた.たとえば日清戦争中には,勝手に複製されたコードブックが漏れたとの報告が沈能虎(Wikipedia)から李鴻章まで上がっていた(張(2018)).
そこで,用途を限定した専用コードブックも登場するようになった.
外務部による『申字電本』の時期,地方で使われた『東密電碼』『盛密電本』というコードブックもあった(夏(2009) p.116, n.5).
總理衙門と許景澄(Wikipedia)の間のコードブックや『行軍電報類編』のほか下記があったという.
『羅道漢字密本』は李鴻章が天津にいるドイツ系イギリス人のコ璀琳(グスタフ・フォン・デトリング)(Wikipedia)(Wikipedia)に宮廷との通信において使わせたもので,名称はコードの作成ないし管理を担った羅豊禄(Wikipedia)によるもの.
『香帥東海密本』は李鴻章と盛宣懐の間で使われたもので,名称の「香帥」は李鴻章のライバルの張之洞(号は香濤)(Wikipedia)に,「東海」は盛宣懐(号は東海)に由来し,盛宣懐と張之洞との連絡用に作成された可能性もあるという.『羅道』『香帥』はいずれも日清戦争中に使われたが,日本側に解読された形跡はないという.(吉(2014), Nedved (2017) p.15-16, 18)
一方,1897年の『密新本』発行時に広州将軍保年が『新密電編』というコードブックを手書きで作成して提案したのだが,保年が間もなく亡くなったこともあって地方発のこのコードブックは採用されなかった.(張(2018),Zhang(2018)p.239)
伝統的に中国では文字の順序を入れ替える転置式暗号というものはあったが,中国語での換字式暗号は電信コードブックの登場によって初めて可能になった.
1871年の電信導入後まもない『電報新書』(1872)ではすでに,4桁コードに利用者間で合意した秘密の鍵数字を加算することで暗号化する方法が紹介されている.そのような方法は1878年に駐英使節の曾紀澤が總理衙門や李鴻章との連絡に使って以来使われていたが,国内各地との連絡には正式に導入されていなかった(Zhang(2018)p.239, 張(2018)).
1897年に新たなコードブック『密新本』を発行するとき,總理衙門は機密事項の連絡に際してはコードに適当な数を加算または減算するよう通達した.(張(2018))
後年の例だが,1916年には日本亡命中の孫文の電文が,各数字から111を引けば中国の電信コードブックを使って解読できることを日本軍が突き止めていることは上掲別稿で紹介した.
実際の電文があったので紹介しておく.政府が電報局から内密に入手したようだ.
たしかに111を引いて普通の電碼で変換すれば中国語らしきものが出てくる.4月24日の電文の0690 0114→0579 0003(廿七),6713 3179 0140→6602 3068 0029(近江丸)などを見ると,繰り下がりのある普通の算術加算をしているようだ.なお,4月18日の電文だけは数字が5桁区切りになっているものを4桁区切りに直して変換した.5桁グループ×15=75個の数字があるので最後に3桁余ってしまうが,余り「123」は桁数を揃えるための埋め草かもしれない.
外務大臣の問い合わせに漢口総領事は5月9日に回答しているが,5月10日に孫文から斎藤巡査宛てに新たな暗号方式の電文が到着したことを5月11日付で報告している.それによれば,たとえば0452というコードなら逆に綴って2540とし,それから111を引いて2429とし(算術減算),それが電碼で「文」と解読できることを説明している.
1897年のコードブック更新に際しては,のちの「明密」につながる提案もなされた.北洋大臣の王文韶(Wikipedia)が,数字の加減算は民間の『電報新編』でも行なわれており,簡単な加減算では容易に破られるし,複雑すぎると間違いやすいと指摘し,数字が空欄になっているコードブックを作成して数字は別の部分に載せればよいという「密直」方式を提案した(「直」は直隷省から).次の改訂「宙密」(1900)で採用された.ページ番号が上2桁を表わし,縦横の座標で下2桁を表わすというものである(図の例では「交」は0138).これならページ番号や座標を書き直せば独自の暗号書ができる.(Zhang(2018)p.240, 張(2018))(ページ番号を振りなおして上2桁を変えることはここ(英文)で紹介したSittler (1868)と同様.)
1900年以降,總理衙門の公式版とは別に「密直」方式のコードブックが多数登場し,唐紹儀(Wikipedia)の『唐密』,陳壁(Wikipedia)の『陳密』,栄禄(Wikipedia)の『栄中堂』などがあったという(Zhang(2018)p.241).
「密直」方式では漢字のマスにコードが付記されていないので,暗号化が不要な場合にはかえって使いにくくなってしまっている.その点を改良したのが「明密」である.
1908年に商務印書館から一般に刊行された『明密碼電報書』は,従来のコードブック同様に各漢字に4桁コードを付しており,平文通信(「明」)にはそのまま利用できる一方,「密直」式に行・列に数字を割り当てて暗号通信(「密」)にも使える「明密」方式になっている.
(これを含め「明密」式の多数のコードブックを上掲別稿で紹介している.)
実際に数字を書き込んだものとして,張学良のものだった『明密碼電報新書』(表紙によれば1931),東京都立中央図書館の実藤文庫にある『明密碼電報書』(1913)などが残っていることを上掲別稿で紹介した.
Kuzuoglu (2018) n.3は状況証拠から明密方式の発明が商務印書館より前にさかのぼると思われると述べているが(典拠のHu 2007は不詳),「密直」方式が(漏洩のため,または方式そのものは秘密ではなかったため)一般向けのコードブックに採用されたということなのだろう.
1918年の国民党の日本との通信の断片から,コードコンデンサーが使われていたことがわかるという(Kuzuoglu p.9-10).コードコンデンサーについては別稿で書いたが,この場合,4桁数字コードを4字の英字に変換するものだ.これを10字ごとのグループとして送ることにより電信料金を節約できる.
たとえば「明密碼電報…」をコードブックでコードにすると
2494 1378 4316 7193 1032 …
になるが,これを党史館蔵のコードコンデンサーを使って2桁ずつ英字(子音+母音)に変換すると
cete ziqi hibu puti yafo …
となり,これを10字ずつのグループにすると次のようになる.
ceteziqihi buputiyafo …
当時の国際電信規則では10字までの発音可能な「単語」は1語の料金で送れることになっていたので(別稿(英文)参照),「1語」にたくさんの情報を詰め込むのが「コードコンデンサー」の役割だったのである.数字‐英字変換テーブルを秘密にすれば,「コードコンデンサー」はコードをさらに暗号化(superencipherment)する役割も果たすことになる.
現存している実際の表としてKuzuoglu n.6が挙げているのは党史館の『山田與本黨秘密通訊所用之六十四號密電碼』のことと思われ,『總理與山田往來所用日文密電碼』(1918)にその説明があるらしい.この山田というのは山田純三郎(Wikipedia)のことで,孫文を支援し続けた人物.
愛知大学東亜同文書院大学記念センター(展示室ギャラリー)には山田純三郎と「中山先生〔孫文〕との間の暗号電報」の「用法」を示したメモがあるが,ここでも同じコードコンデンサーが使われている.
なお,"Yamada Junzaburo, Shanghai"という署名のはいった『交通必携』(1910)というハンドブックが残っており,これにも『電報新編』と同じと思われるコード割り当てのコードブックが収録されているのだが,p.159に手書きの表がついている(John McVey, telegraphic and signal codes).この表も山田が使ったコードコンデンサーだと思われる.
上記の愛知大学東亜同文書院大学記念センター(展示室ギャラリー)にはさらに別の表も展示されている.漢字を表す数字コードの代わりにカナ文を英字に変換するコードコンデンサーらしい.
石原外務大臣が1916年に入手した電文には孫文宛のものもあった.それは英字コードになっており,冒頭のTwelve(表を指定する指示符か)と末尾の数語以外は英字10字コードになっている.qi, xuなどを含む音節構造から上記と同様のコードコンデンサーを使っているものと思われる.電碼の4桁コードにはおそらく9000番台がなかったことが手がかりになると思われるが,当時解読されていたかは不明.
山田の既知のコードコンデンサーでは解読できないようだ(my blog).
1916年に黄興(Wikipedia)が林虎(Wikipedia),李根源(Wikipedia)に宛てた電報が残っている.この3名は辛亥革命後,孫文とは別に日本に滞在して袁世凱打倒を目指していた.
一見,コードコンデンサーを使って英字にしたもののように見えるが,上記の2例とは異なり,C,Lなどがなく,またSI, TIなどの代わりにSHI, CHIなどを含むことから,日本語のカナの音節を使っていることが明らかである.これも一種のコードコンデンサーなのか,他の暗号方式なのかははっきりしない.
暗号電報の次に解読文がファイルされている.ブログ参照.
「密直」ないし「明密」ができたからといって,コードブックのバリエーションが不要になったわけではないようだ.いかに数字を入れ替えようと,同じページの漢字はページ番号が共通するという点は変わらないので,それが暗号解読の糸口を与えかねないからだ(Kuzuoglu p.14).(市販の電信コードブックを使った暗号の解読例を別稿(英文)で紹介した.)
1911年に辛亥革命で中華民国が成立してからも,漢字配列の異なる多数のバージョンがそれぞれ異なる名称を与えられていたという.Kuzuoglu n.5が挙げている台湾の党史館で検索してみると,たしかに多数の書名がみつかる.
『仁密電碼本』(Ren mi Dianmaben)(1913/4) 『世密電碼本』(Shi mi Dianmaben)(1916/6) 『存密電碼本』(Cun mi Dianmaben)(1916/9) 『川密電碼本』(Chuan mi Dianmaben)『義密電碼本』(Yi mi Dianmaben)(1917/9) ※総理(孫文?)の北伐(第1次は1922年)時に使用したものとのことだが,なぜ最新版を使わなかったのだろう. 『芸密電碼本』(Yun mi Dianmaben)(1919/10) 『支密電碼本』(Zhi mi Dianmaben)(1920/6) 『超密電碼本』(Chao mi Dianmaben)(1920/6)※総理(孫文?)と森林(Wikipedia)が使用 『滬密電碼本』(Hu mi Dianmaben)(1921/3) 『仲密電碼本』(Zhong mi Dianmaben)(1921/9) 『堅密電碼本』(Jian mi Dianmaben)(1921/9)(1922/1) 『誠密電碼本』(Cheng mi Dianmaben)(1922/6) 『東密電碼本』(Dong mi Dianmaben)(1922/6) 『兆密電碼本』(Zhao mi Dianmaben)(1922/6) 『公密電碼本』(Gong mi Dianmaben)(1922/6) 『珊密電碼本』(Shan mi Dianmaben)(1922/6) 『良密電碼本』(Liang mi Dianmaben)(1922/6) 『堂密電碼本』(Tang mi Dianmaben)(1922/6) 『新密電碼本』(Xin mi Dianmaben)(1922/6) 『石密電碼本』(Shi mi Dianmaben)(1922/6) 『衷密電碼本』(Zhong mi Dianmaben)(1922/6) 『雍密電碼本』(Yong mi Dianmaben)(1923/9) 『統密電碼本』(Tong mi Dianmaben)(nd)※胡漢民(Wikipedia)と孔庚(Wikipedia)が使用 『義密田密電碼本』(Yi mi Tian mi Dianmaben)(nd)※何畏と謝持(?Wikipedia)が使用とある. 『衡密電碼本』(Heng mi Dianmaben)(nd) 『工密電碼本』(Gong mi Dianmaben)(nd) 『正密電碼本』(Zheng mi Dianmaben)(nd) |
1922年6月にたくさんのコードブックが出されているのがわかる(第1次北伐が終わった月だが,たまたまか?).これほど多数のコードブックを一時に作成するというのは大変だと思うのだが,どれほど大きな違いがあるものなのか,現物を確認する必要がある(残念ながら,Kuzuogluの図2に挙げられている「明密」は『電報新編』以来の一般的な電碼と同じ配列のもの).
1931年には「卿密」「良密」があったが,張学良とその字「漢卿」に由来する名称だという(破密(8)).これらについては次節で実例を挙げる.このように,2つペアでネーミングしたコードブックがよくあったようだ.
国史館に記録されている通達から名称だけ確認できるものもいろいろある.1937年1月には「統密」および「一密」が「勝密」および「利密」に変更され(それぞれ「統一」「勝利」からとったネーミングと思われる),7月には「治密」から「民密」に,8月には治密・民密を廃止して「霆密」に変更し,9月〜10月15日には「建密」,以後は「設密」が使われ,1938年1月には「穆密」および「雍密」,4月には「麟密」および「角密」,6月には「雪密」および「恥密」,8月には「務密」および「茲密」の使用が通達されるなどした(Kuzuoglu p.13).
清朝時代の13年間に8回に比べると非常にハイペースの更新だ.ただし,数字の置き換えのみを指示する場合もあり,1939年4月30日の通達は1234567890の数字をそれぞれ3690142875に置き換える(1→3,2→6など)というだけのものだったという.(Kuzuoglu p.13)
破密(8)は電文の実例を紹介している.
卿密 | 電報新編 | |
2317 | 編 | 4882 |
2392 | 縮 | 8986 |
3945 | 法 | 3127 |
4438 | 弟 | 1717 |
5277 | 即 | 613 |
6365 | 甚 | 3928 |
7438 | 請 | 6153 |
7715 | 贊 | 6363 |
98#2 | 照 | 3564 |
冒頭と末尾の部分は『電報新編』以来の普通のコード割り当てで解読できるのだが(「敬電」は「24日の電信」の意味で,「敬」は「韻目代日電碼表」で「24日」を表わす),上記で青字で示した「2317 1420 3945 4438 6365 7715 #136 7438 5277 98#2 1420 #### #369」の部分はそれでは解読できない.その直前にある「卿密」というのがこの本体部分のコードブックを示している.『電報新編』のコード配列と比べると,かなりシャッフルされていることがわかる(たとえば普通のコードでは縮=8986は補遺にあるので,編=4882とはかなり離れている;卿密では両者は同じページ23にあると思われ,単に「密直」ないし「明密」式で座標を入れ替えただけではないことがうかがえる).2回現われる1420は同じ漢字になっている.
これも同じく冒頭と末尾は普通の割り当てで,冒頭の平文部分にある「陽電」は「7日の電信」の意味で,「陽」は「韻目代日電碼表」で「24日」を表わす.末尾近くには発信日時が「虞酉」と記されており,「虞」も7日を表わし(つまり,張学良から電信を受け取ったその日の返信),「酉」は「酉の刻」(17時〜19時)の意.
途中から「良密」になっている.「卿密」では「弟」は4438だったが,「良密」では3338になっている.1字だけで判断はできないが,もしかしたら,ページ番号だけの違いかもしれない.
2008年10月に中国湖北省の中山艦博物館が,1938年に日本軍の攻撃で沈没した「中山」(Wikipedia)から見つかった暗号電文の解読を募った.その一つの冒頭は7115 6752 7022 0735 1378「陳部長和密」であり,宛名が海軍部長の陳紹寛(Wikipedia)であったことがわかるが,ここから「和密」に切り換わるので普通のコードブックでは解読できなくなる.末尾はまた普通のコードとなり,7456 0582(馬午)は21日(韻目代日電碼表)の午の刻(11時〜13時)という発信日時を表わしている.
2013年『現代艦船』で中山艦博物館の元館長が述べたところによると,2009年に一部が解読されたという(891のうち352).
「明密」形式の秘匿性の限界に対して,特製コードブックではなく,コード数字の暗号化にもう一段階加える解決法として提案されたのが,張延祥の『万万密電碼』(Wanwan Midianma)(1939)で,当局の承認も得られた.これは4桁数字コード5つを5桁数字4つにグループ分けし直すことによって,コードブックの同じページの漢字が通信文にあったとしても,電文では必ずしも同じ数字にならないようにする方式である.(Kuzuoglu p.15-16)(再グループ化して転置という発想はスレーターの電信コードブック(別稿(英文)参照)でもEXAMPLE VIIとして示されている.)
極端な例として,同じ漢字が5回連続する「密密密密密」を例にとる.
(1) コードブックでこれをコードにする:
1378 1378 1378 1378 1378
(2) これを5桁数字に区切りなおす:
13781 37813 78137 81378
(3) この各グループを逆順にする:
18731 31873 73187 87318
(4) 最後に再び4桁数字のグループに直す:
1873 1318 7373 1878 7318
これなら同じ漢字が5回続いても5つの異なるコードがあるように見えることになる.
この第3段階で,4つの5桁グループを逆順にする代わりに,それぞれ異なる所定の置換パターンに従って5桁グループの数字をそれぞれ変換してもよい.Kuzuogluで挙げられている例では,たとえば第1の5桁グループについて,
変換元:0123456789
変換後:1308249567
が定められていたら,0→1,1→3,2→0などと変換するので,第1の5桁グループ13781はこの第3段階で38563に変換されることになる.
どのくらい使われたのかは定かではないが,若干の言及が残っており,実際に使われたことがうかがえるという(Kuzuoglu p.16).(なお,「逆順」にする操作そのものは1916年5月の孫文の電文(上記)でも使われている.)
また,張延祥は『字句電碼書』というものも作成しており,日中戦争中に使われた(Kuzuoglu n.12).
破密(6)によれば,中国の最初の暗号解読者となった天津電報局員の蒋宗標は,興味本位に電文末尾の決まり文句などから暗号解読を身につけ,1921年に秘密電信の解読に成功したという.
そのことが上層部に伝わると,直隷派の曹錕(Wikipedia)の通信を監視するよう命じられた.使われていたのは明密式であり,簡単だった.解読結果は奉天派の張作霖にも伝えられた(直隷派と奉天派は連携していたが,1921年には英米の支援を受ける前者と日本の支援を受ける後者の関係は悪化した).張作霖は直隷派の秘密文書を暴露し,直隷派が内偵により蒋宗標のことをつきとめると,蒋宗標は逮捕されたが,その重要性もあって釈放された.
蒋宗標は軍人が送る多数の電文を写し,多くの類似点をみつけ,新聞に発表される電信と比較して解読に成功したのだという.
温毓慶(Wen Yuqing, Yu Ching Wen)(毎日頭條)はハーヴァード大で博士号を取って(1920)帰国し,物理学教授などを経て1928年1月には国民政府交通部無線電管理局局長などを務めていた.温は株をやっていたこともあって,投資家が海外のエージェントに送らせている暗号化された情報に興味をもち,参考にしようと研究して暗号解読の手法を身につけた.
その後,修得した技術を使って汪兆銘(=汪精衛),陳公博ら改組派(国民党左派)の電信を解読しようとした.汪兆銘(=汪精衛)は,蒋介石と対立して1928年にフランスに去る(Wikipedia).解読は蒋介石政権の重鎮,宋子文(Wikipedia)からの財政的支援も受けた.3か月間データを集め,4月に最初の重要電報の解読に成功して宋に報告した.蒋介石は「電務股」を設立して温をそのトップに据えた.
6月末,温は改組派が馮玉祥将軍(Wikipedia)と連絡していることを知り,その暗号電信を解読しようとした.異なる暗号方法が使用されていたため行き詰ったが,新聞に平文が掲載されていたのに気づいて解読に成功した.
温は桂系(Wikipedia)の通信の解読にも成功し,その情報は蒋介石の役に立った.
1930年代なかば,温は日本の軍国主義への警戒から日本の暗号を研究し,簡単な外交暗号から始めて次第に複雑な暗号も解読できるようになり,南京に「密電検電検訳所」(KahnなどではMidian Jianyi Suo (密電検訳所)として引用されている)を設立した.
蒋介石は温毓慶の暗号解読の成果をごく内輪だけで独占したので,参謀長の何応欽(Wikipedia)は参謀本部で日本外務省の暗号解読に取り組んだが,温の成果には遠く及ばなかった(Yu).
戴笠(Wikipedia)は独自の情報組織を作り上げようとして,アメリカからハーバート・O・ヤードレーを招聘した(Kahn p.192, 187 etc.).日本の外交暗号をはじめ多くの暗号を解読したばかりか,その成果を著書『アメリカン・ブラックチェンバー』で暴露してセンセーションを巻き起こした人物である.
1938年11月に中国入りしたヤードレーは暗号解読を指導する一方,日本の暗号を研究し,1939年2月には簡単な気象暗号の一部の解読から重慶の爆撃を言い当ててみせた.1939年中ごろまでにはヤードレーと魏大銘は日本の航空暗号の解読に成功し,空襲を予見できるようになった.(Kahn p.193; Yu)
戴笠は蒋介石を説き伏せて当時乱立していた中国の暗号組織を軍事委員会技術研究室に一元化する.蒋介石が主任に任命したのは温だったが,戴笠はヤードレーの指導を受けた人材を大勢送り込んで主導権を握ろうとした.争いに嫌気がさした温は香港に去り,宋子文に誘われるままに渡米した.(Yu; 物理学家温毓慶)
一方のヤードレーはといえば,暗号組織一元化のあおりで1940年初頭には仕事が中断しており,7月に中国を去った(Kahn p.198).
Zhang Wenyang (2018), "The grammar of the telegraph in the Late Qing: the design and application of Chinese telegraphic codebooks", Modern Chinese History, 12(2):227-245, July 2018 (Researchgate) DOI: 10.1080/17535654.2018.1540191(筆者が最初に読んだ次の解説記事のオリジナル論文らしい)
張文洋(Zhang Wenyang)(2018)「晩清電報的語法:漢字電碼本的設計與應用」(雪花新聞)
夏維奇(Xia Weiqi)(2009)「晩清電報保密制度初探」, 社会科学輯刊4 (no.183):113-118(pdfをネットで見つけたがURLをなくしてしまった)
誰動了我的窩頭(2017- )「破密:中国密碼戦史」
Ulug Kuzuoglu (2018), "Chinese cryptography: The Chinese Nationalist Party and intelligence management, 1927-1949", Cryptologia, 42:6, 514-539 (Academia.edu)
「物理學家温毓慶的經歴與成就」(2017)中國物理學會期刊網(毎日頭條)
David Kahn (2004), "The Reader of Gentlemen's Mail" (Internet Archive)
Maochun Yu (2011), OSS in China
吉辰(Ji Chen)(2014)「馬關議和清政府密電問題考證補」,『山東社会科学』(済南)2014年6期(online)
吕万和(Lyu Wanhe)(1979)「甲午戰爭中清政府的密電碼是怎樣被破譯的」,『歴史教育』1979, 06(online)
Gregory J. Nedved (2017), "Decryption in Progress: The Sino-Japanese War of 1894-1895 ", Cryptologic Quarterly, vol.36, 2017-03, Center for Cryptologic History (pdf) (おそらくSymposium on Cryptologic Historyでの講演に基づくもの.Nedved (2018)より(発表年は早いが)充実しており,こちらが改訂版と思われる).
Gregory J. Nedved (2018), "The Sino-Japanese War of 1894-1895: Partially decrypted", Cryptologia, 42:2, 95-105
(下記は筆者未見)
上海図書館蔵の「盛宣懐档案」……中国電報局を担った盛宣懐のアーカイブで,電信の解読文からなるとのことだが(Zhang (2018) p.227),上記『宙字号』のようなコードブックも所蔵している.近年公開されて電信研究者の注目を集めているという.
台湾の党史館……国民党政府のコードブックが残っている.KuzuogluがPHI(Party History Institute)として引用.(オンラインでのユーザー登録は廃止したそうで,現地に行かなければ登録できないようです.)
台湾の国史館……KuzuogluがAH(Academia Historica)として引用