オランダの暗号史について,主としてKarl de Leeuw, Cryptology and Statecraft in the Dutch Republicに基づいて紹介する.
オランダは16世紀にはスペイン・ハプスブルク家の領地だったが,フェリペ2世に対して反乱を起こし,八十年戦争ともいわれる闘争の末に1648年のウエストファリア条約によって正式に独立を達成した.
初期の反乱指導者オラニエ公ウィレムが1572年9月21日に弟ヤンに宛てた手紙で使った暗号は次のようなものだった(Konst- en Letterbode (1836), p.311-312 (Google)).
同時代のスペイン暗号(別稿)と比べるまでもなくごく初歩的なものであることがわかる.たとえばquel coup de massue(「なんたる災難」;同年8月のサンバルテルミーの虐殺のこと)と書くのに次のようにしているという(手紙はフランス語).
(この年ウィレムはドイツからの軍勢を率いて攻勢に出てかなり勢力を広げたが,この日,退却を強いられた.手紙の発信地メヘレンはアルバ公の軍勢により見せしめのため略奪された(Wikipedia).)
オランダにとって,早い段階から暗号解読は重要だった.スペイン本国とネーデルラント各地の都市や軍司令官との間で送られる手紙が奪取されることは多く,早くは1573年から数年間,ヴァランシエンヌのシャルル・ボーリュー(Charles Beaulieu)が暗号解読を行い,同じプロテスタントのイングランドに暗号解読の結果を提供することもあった.
1576年からはオランダ独立の初期の指導者オラニエ公ウィレムの右腕であったマルニクス・ファン・シントアルデホンデ(Marnix van Sint-Aldegonde)(1540-1598)が暗号解読に従事した.純粋な暗号解読だけではなく,ひそかに入手した暗号表も使われていたが,暗号漏洩が発覚して暗号が変更された後も暗号解読は継続したというから,全くのコードブック頼みということではなかったらしい.(De Leeuw, p.12)
(なお,私も一度当時のスペインの暗号を解読したことがあるが(別稿(英文)),母音を特別な記号で示す当時のスペインの暗号は,一見複雑そうに見えるが,実はいったん仕組みがわかれば普通の暗号よりも簡単だということを実感した.)
1605年からはジャック・ダローム(Jacques d'Alaume)が暗号解読者として年俸1200ヒュルデンで登用された.
次の世代にはコンスタンテイン・ホイヘンス(Constantijn Huygens)(1596-1687)(物理学者クリスティアーン・ホイヘンスの父)は戦場でスペインの暗号を解読したこともあったという.(p.14)
この間,オランダの暗号は単換字暗号に10あまりのコードを追加した程度の初歩的なものであり続けた(p.14).スペイン側と違ってオランダの通信は長大な距離を運ばれる必要がなかったため,暗号はそれほど重要ではなかったのだ.
だが1609年の休戦でオランダが事実上の独立を勝ち得て独自の外交を行うようになると,通信秘匿の必要性が高まった(1621年にはスペインとの休戦も期限切れになる).
1615年にパリに派遣されたブートゼラール(Gideon van Boetzelaar)は毎週のように本国に通信を送る必要があったが,毎週送り出すほど使者を抱えているわけではないので通常の郵便を使う必要があり,暗号が必須だった(通常の郵便を使うことが多いのは17世紀後半になっても同じ(p.17)).その暗号は30ほどの記号(1桁数字,ラテン文字,ギリシャ文字)を含む同音換字暗号(ホモフォニック暗号)に80ほどのコード(2桁数字に時折点や線を加えたもの)を加えたものだった.トルコに派遣された初の大使ハーハ(Cornelis Haga)の場合は単換字暗号(記号)に加えてやや大きな分類別のコード(数字1〜116)を備えていた.(p.15)
オランダの暗号に改善がみられるようになるのは,1648年のウエストファリア条約以降だという.(折しも,1650年にはオラニエ公の急死で無総督時代が始まる.)連邦議会は1651年7月31日,国外へ派遣する使節には信任状とともに暗号を渡すことを制度化した.暗号の手紙の宛先も連邦議会の総会ではなく書記宛とし,書記が連邦議会議員から選ばれた秘密委員会に提出するものとされた.1658年にはコードブックを作成し,暗号化・解読を監督する専任要員ペーネン(Pieter van Peenen)が任命された.(p.17)
その一方で,1650年,1664年にフランスに送られたボレール(Willem Boreel (Wikipedia))は,2度目の派遣時に前回と同じコードブックを渡されたというから(p.20),暗号更新に関してはまだそれほど熱心でなかったのかもしれない.(下記引用にあるように1653年にも現場からすでに同じ暗号を長く使い過ぎているとの指摘はあったのだが.)
やはり1650年ごろ(p.41),外交官に渡される暗号では1万項目以上の語彙をもつハードカバーを付けたコードブックが登場した(各ページは50項目×6列を含む).コードグループは4桁数字ではなく,3桁数字に文字や点,ダッシュなどを組み合わせた記号を使っていた.語彙には単語や名前だけではなく,フレーズも含まれる.二部コードはまだ導入されていないとはいえ,これは他国も含めても当時最大規模の暗号表といえる.200または250以下の数字はアルファベットの文字や連字,語尾,接続詞などを登録しており,この部分はランダムな配列であり暗号化用と解読用の表が別に用意された.このサイファー部分はつけ外しが容易にできるよう別の紙に書かれていた.
サイファーは複数用意され,どの表を使うかを指定する数字で区別された.一例では,アルファベット24字のそれぞれに5つの数字が割り当てられ,数字はそのままでアルファベットを一つずつずらした表があった(もちろん,指示符に使う数字はサイファーで使わない).(p.18)このようなスライド方式や指示符の使用はアタナシウス・キルヒャーの著作にあるものだという.(p.20)現存するコードブックはファーヘル(Fagel)家に伝わったもので,1672年以降のものしかないが,それ以前にも同様のコードブックが使われた形跡があるという.
コードブックのサイズは多様で,コードグループの数は大規模なら8000〜12000,中規模なら5000〜7000,小規模なら2000〜3000で,時代とともに拡大したというよりは,任務の重大さによってサイズが変わった.大コードを使った例は,1698年にポートランド(Duke of Portland)(フランス;大同盟戦争後の平和維持のための交渉),1718年にホップ(Hop)(フランス),1721年にブロイニンクス(Hamel Bruyninx)(ウィーン)がある.小コードは1718年にハウウェンス(Houwens)(ポルトガル),1727年にケッペル(Keppel)(プロイセン),1723年にホップ(Hop)(イングランド)などがある.(p.20)
暗号数字に対して語句がアルファベット順に割り当てられる一部コードに対し,ランダムに割り当てられる二部コードは解読されにくいが,暗号化用の表(アルファベット順に配列)と解読用の表(数字順に配列)を別個に用意する必要があるので(だから「二部」(two-part)コードという),作成に手間がかかる.法律顧問(首相のようなもの)ヘインシウス(在任1689-1720)(Wikipedia)と大使シュッツ(Wikipediaの父か?)に配布された二部コードがハノーファーに残っているという(p.46, n.xcvi)が,これはオランダでは定着しなかったようだ.
Ingmar Vroomen en Lidewij Nissen, "Cijferschrift en spionage", Jaarboek De Zeventiende Eeuw 2018, p.21-40 (Google)にはこの時期の暗号の写真がいくつか載っている.(図3:法律顧問デ・ウィットとファン・ホッホの間の暗号(コードの104〜299の部分;オランダ語?);図4:デ・ウィットからファン・ホッホへの暗号段落を含む手紙(19 September 1664))
Thurloe State Papers ( vol.1 (1638-1653), vol2 (1653-1659), vol.3 (December 1654-September 1655), vol.4 (September 1655-May 1656), vol.5 (1656), vol.6 (1657-1658), vol.7 (1658-1660) )には,共和制イングランドに奪取されたと思われる駐ロンドン大使の暗号の手紙がいろいろ残っている.ここでは暗号に関連するもののみ摘記する(英語の部分は,おそらく原文のフランス語から翻訳されたのだろう).
まずは第一次英蘭戦争(1652-1654)中のもの.
次は1657年から.
オランダ東インド会社のセイロン総督を務めたファン・フーン(Rijckloff van Goens (Wikipedia))が本国やインドネシア総督に送った暗号の手紙(1674年1月)が残っている.基本的には外交暗号よりずっと単純な,記号を使った単換字暗号であるが,重字(EE, FF, LL, OO, PP)と7つの単語にも記号が割り当てられていた.(Jörgen Dinnissen and Nils Kopal, "Island Ramanacoil a Bridge too Far. A Dutch Ciphertext from 1674": DOI: https://doi.org/10.3384/ecp183156 )
17世紀中庸に海外貿易で栄えたオランダは,1660年代からルイ14世のフランスの拡張政策に脅かされるようになる.1672年にオランダ侵攻を始めたフランス軍の前に立ちはだかったのは22歳にもならないオラニエ公ウィレム3世だった.
1675年の手紙(フランス語)でウィレムが使った列転置式暗号を別稿で紹介した.
1684年に駐オランダのフランス大使ダヴォー伯の暗号の手紙が奪取されて解読され,ウィレムがそれを公表するという事件があった(p.22).手紙が奪取されたのはマーストリヒト付近で,スペイン領ネーデルラント総督デ・グラーナ(De Grana)によるものとされたが,ウィレム自身が手配したとの見方もある.対立するアムステルダムがフランスと内通していることを示そうとしたのだ.
その時の暗号が復元されている(別稿).当時のフランス暗号で普通に使われていた一部コードと二部コードの折衷式で,縦方向に数字を配列し,単語は横方向にアルファベット順に配列するというものだ.そのような二次元配置によって,暗号化と解読用に別々の表を用意する必要なしに,数字と単語の対応にある程度の不規則性を導入できる.だが,暗号解読者から暗号作成者への助言はなかったようだ(オランダに限ったことではないが).暗号解読はコードブック以上に秘匿が重要だったらしい(p.23).
オレンジ公ウイリアムといえば,イングランド貴顕からの招請に応えて軍勢を率いて上陸し,無血のうちにジェームズ二世を廃位した「名誉革命」が有名だが,そのためのやりとりにももちろん暗号が使用された.1688年6月30日付のイングランド貴顕からの招請状(別稿)は25(シュローズベリー伯),24(デヴォンシア伯),27(ダンビー伯),29(ラムリー卿),31(コンプトン司教),35(エドワード・ラッセル),33(ヘンリー・シドニー)という暗号数字によって署名されていた.
ウィレム三世夫妻の信任が厚いダロンヌ(Abel Tassin d'Alonne)は,名誉革命前からオラニエ公妃メアリーの秘書であり,ジェームズ二世の宮廷の情報収集を担っていたが,革命後もジェームズ二世の復権を目指すジャコバイトの情報収集に当たった.後年のスペイン継承戦争時代に暗号解読に従事した記録はあるので,それ以前から行っていた可能性は高いという(p.22).
ほかに科学者スフラーフェサンデ('s Gravesande(Wikipedia))も暗号解読の手伝いを依頼されることがあり,1717年の著作で科学的思考の例として暗号解読に触れた(p.23).興味深いことに,スフラーフェサンデはイギリスの解読官ジョン・キールの友人でもあったというのだが,暗号解読について意見交換がされた記録は残っていない.(p.24)
このように暗号解読は着々と続けられていたが,オランダが積極的にブラックチェンバーと言われる暗号解読部局を維持していたわけではなかった.
転機は,オーストリア継承戦争で台頭したプロイセンに対する警戒感だった.プロイセンのフリードリヒ二世はオラニエ家の血を引いており(祖父フリードリヒ一世の母がオラニエ家出身),1751年10月のウィレム4世の没後,オランダ総督位を要求してくる可能性もあった.1751年の秋,新たに着任したプロイセン使節デ・ヘレン(De Hellen)宛ての手紙を奪取した.だが,夏に袖の下を使って入手した前任者ダモン(D'Ammon)のコードブックは更新されたようで,直接役には立たず,同盟国のイギリスに解読してもらうことになった.(p.25)
そうしたなか暗号解読に頭角を現したのが自然科学者ピエール・リヨネ(Pierre Lyonet)だった.リヨネは1738年に連邦議会書記のもとで暗号係となり,暗号化・解読やコードブックの作成を担っていた(p.24).当初は奪取した文書の写しを頼まれただけだったのだが,旧版のコードブックやイギリスから提供された解読が手がかりになって暗号解読の技法を身につけていった.リヨネはまずイギリスから提供された解読文のブランクを埋めることから始め,その後は駐ロンドンのプロイセン大使の手紙の解読も行った.1753年春には助手としていた親類のクロワゼ(Samuel Egbert Croiset)の費用を公費で出してもらえることになったが,暗号解読の功績あってのことだろう.(p.25)
1752年からは通信奪取の対象も広げられ,新任のフランス大使ボナック(Bonnac)の手紙に関心が向けられたが,これは結局,イギリスの暗号解読官ウィルズによって解読された.オランダには当初は解読内容だけが伝えられていたが,1754年1月には解読されたコードブックも提供された.(p.26)
1755年12月にフランスの暗号が変更されたときは,リヨネは独自に解読に当たり,翌年6月には解読に成功した.七年戦争開戦が迫っており,フランスはイギリスと同盟しているオランダの出方を探ろうとしていたのだが,リヨネがダフリ(d'Affry)のコードを解読したおかげで,幼いウィレム5世を後見していた母の信頼する秘書がフランスと内通していたことが発覚した.(p.27,136)
リヨネが暗号係になったころからオランダの暗号の運用に改善が見られたが,1756年には一部コードと二部コードの折衷ともいうべきものが登場した(上述した,1684年に奪取したフランス大使の暗号と同じ方式).語彙は4000ほどで当時としては標準的だが,各ページは5つの列に分かれており(図3によれば,見開き2ページで10列を使った模様),コードグループは列に沿って配列され,それが表す単語は行に沿って配列された.つまり,暗号化用と解読用の二つのコードブックを用意しなくても済む一方で,コードグループと単語の対応は単純なアルファベット順ではなくなるため,解読がある程度難しくなる.(p.27)コードグループは4桁数字または3桁数字に点や棒などの記号を付けたものだった.(私が「二次元配置」と呼ぶこの方式はフランス(別稿),イギリス(別稿)では1650年代には使われていた.私は「二部コード」と呼ぶことも多かったが,デレーウのいう「修正一部コード」のほうが正確かもしれない.)また,語彙にはフランス語とオランダ語の単語が登録されていた.(p.27-28)
なお,1782との書き込みのある総督用のコードブック(フランス語)は,アルファベット順の小さなブロックがランダムに並んでいる,ブロック単位の二部コードだった.しかも,コードブックで暗号化した数字に順次加算するための数字表まで用意されていた.20世紀になって普及した乱数加算と同様の方式である.(p.138-139; p.37-39)
この暗号はそれほど使われず,ベルリン駐在のファン・レーデ(Van Reede)は総督秘書のラレイ(T. I. de Larrey)に使いにくいとこぼしている(1792年2月4日).それでも,この暗号を使ったワルシャワ発の1793年3月9日の手紙が遺されている.(p.51, n.clxxxvii)
暗号解読に成功したリヨネは必ずしも政府に評価されなかったが,それは多分にリヨネがオラニエ派政府と対立する共和派の考えに近かったからだという.伝統的にオランダはフランスと敵対し,イギリスと同盟していたが,リヨネは大西洋貿易での競合などのためイギリスのほうが危険だと思うようになっていた.実際その後,イギリスとの対立が高まり,アメリカ独立戦争ではイギリスと開戦することになる.この時期,リヨネの作業量も最大となった.(p.30)
アメリカ独立戦争ではイギリスは敗れたものの,英蘭間の戦争ではオランダの通商の被害が甚大で,講和でもイギリスに譲歩を強いられ,オラニエ派に反対する愛国者運動が起こった.1785年には総督ウィレム5世はハーグを捨て,国内各地を遍歴したのち,ネイメーヘンへの避難を強いられた.反革命を目指すオラニエ派は愛国派に解読されないよう独自の暗号を使うが,暗号作成を担ったのは,ハーグに残った総督の秘書ラレイ,その後はファン・シッタース(W. A. van Citters)だったという.この間,総督妃ウィルヘルミナ〔ヴィルヘルミーナ〕は各地との連絡を取りまとめ,自らハーグ駐在のプロイセン大使や叔父のフリードリヒ大王との連絡もした.(p.34, 140)この時期以降,ウィルヘルミナは自ら暗号実務を担うようになる.(p.149-150)
オラニエ公は公妃ウィルヘルミナの実家プロイセンの軍事支援を得て1787年にはハーグに返り咲いた.リヨネの没(1789年1月)後,クロワゼは暗号担当としては残されたが,リヨネのような待遇は引き継げなかった.
このタイミングでプロイセンのコードは複雑になり,フランスもコードブック更新の頻度を上げたため,クロワゼの解読作業ははかどらなかった.(p.31)1788年にフランスが突然郵便でなく,使者を使うようになったことで,オランダのブラック・チェンバーの情報が漏れた可能性も浮上した.クロワゼに不信感を抱いた法律顧問ファン・デ・スピーヘル(Laurens Pieter van de Spiegel)(ゼーラント州の法律顧問だったがオラニエ公復権後に任命) (Wikipedia)や総督妃ウィルヘルミナは,独自の小規模なコードを作ってクロワゼを介さずにイギリスやプロイセンに駐在する大使と連絡するようになった.法律顧問はプロイセンの暗号を解読するクロワゼによって自分の通信内容が握られ,フランスに漏らされることさえあると懸念していた.暗号局を廃止することも考えたが,ウィレム5世はそこまでは踏み切れなかった.(p.32, 122-123, 141)
具体的には,法律顧問は,駐ロンドン大使ナーヘル(Nagell)とはごく簡単な暗号を使った.一方,駐ベルリン大使ファン・レーデは普通のコードを使った暗号文の余白に秘密インクで通信文を書いた.(p.142, Fig.3, Fig.4)
反動政治のもと愛国者は亡命し,1789年のフランス革命とも呼応してオランダの革命を目指した.フランスの革命政権は1793年にイギリス,オランダに宣戦布告した.1795年1月に厳寒のため川が凍ると,革命軍は国境を突破し,ユトレヒト,ハーグまで占領した.オラニエ公はイギリスに亡命し,革命フランスの影響下で愛国派が政権を握り,バタヴィア共和国(バターフ共和国)として新体制が発足した(森田安一編『スイス・ベネルクス史』p.300, de Leeuw p.145).
この間,パリでの休戦交渉に当たった使節からは連邦議会の通常の暗号で報告が送られてきたが,法律顧問はそれをクロワゼに渡して解読してもらうことを拒み,渋るクロワゼにコードブックを提出させた.オランダがフランスに占領された後,法律顧問はこのことで連邦議会に対する反逆罪に問われることになった.バタヴィア共和国成立後,クロワゼはコードブックの作成を受け持つほか,1803年までプロイセン暗号の解読を続けた.(p.32)
だがクロワゼの引退後,オランダの暗号の品質は下がった.1815年から1840年にかけて,オランダの暗号は諸国によって解読され続けた.(p.33)
1795年の革命でイギリスのハンプトンコートで亡命生活を強いられた総督ウィレム5世は大陸との連絡には郵便を使わざるをえなかったのでもちろん暗号を使ったが,暗号化・解読の作業のみならず,おそらくは暗号作成も総督妃ウィルヘルミナが担ったという.(p.34)ベルリンにはオラニエ公の太子を送ることになったが,ウィルヘルミナは同行するボイヤー(J. L. D. Boyer)に暗号を渡した.(p.145)
それは,300ほどの項目(フランス語)からなる二部コードだった(p.145-148, p.158-160).とはいえ,暗号化部分は完全なアルファベット順ではなく,分類別のセクションもあり,さらに補遺としてアルファベット順の265〜307とランダム配列の308〜334があった.
めずらしいことに,単独英字や連字は含まれておらず,コードグループに1〜9の数字を付して使用する文字を表した.2字以上を使う場合は左肩の数字で先頭からの削除字数を表し,右肩の数字で末尾からの削除字数を表し,下線を付した場合はコードグループが表す単語全体を使う.(p.148-149)
p.151の図7に実例があるが,冒頭は次のようになっている(単語の終わりを示す一重下線と二重下線は区別していない).
ウィルヘルミナはコードグループの使い方も工夫した.コードブックが収録しているのは334までなのだが,3732(due de York;37 (due), 32 (York)より),6922(Prince of Orange;69 (prince), 22 (Orange)より)などの数字を入れるのである.(p.150)
この暗号は1795年9月から1802年まで使用された(p.149).
この暗号は太子フレデリックから姉のルイーゼ公妃(ブラウンシュヴァイク公妃)への手紙やスタムフォルト将軍(フレデリック(Wikipedia)の軍事教育係)の手紙にも使われた.(p.152)
このハンプトンコート暗号のプロトタイプのような暗号が,1793年,1794年に総督一家が太子フレデリックと連絡するのに使われていた.詩の各語(若干の語を補足してある)に順に番号を付けておき,載っていない単語の音節は,コードグループが表す単語のうち何番目の文字を使うか,または何文字を省略するかを示すことで表された.(p.154; p.35, Fig.4, Fig.5)たとえばet=95は登録されているが,étéは登録されていないので,le=35の2文字目を使うという意味でe=352を付け足す.dreであれば,64=Fredericの第4,2,3文字を拾うという意味で64423とする.54/1は54=d'unの末尾の1字を削除してduを表し,2/65はLe Ducの先頭2文字を削除してducを表す.
また,よく知られている書籍暗号との共通性もあり,ウィルヘルミナがそうした先行例から着想を得た可能性はあるが,コードの語彙を書籍暗号に利用するという点は書籍が特定される危険がない点で優れている.ハンプトンコート暗号の方式が刊行物に記載されるのは後年のKlüber, Kryptographik (1809)が初めてとなる.
上記の「ハンプトンコート暗号」が亡命中の主要な暗号であったが,他の暗号も使われた.
オランダ軍の残りとの連絡にはミラボー暗号(アルファベットを4〜5行に分けて書き,何行目の何文字めかを分数の形で示す)の変形が使われたという.(p.35)
ハーグの友人たちとは,バタヴィア政府を「夫人たち」,共和国を「農場」,革命を「商売」と言い換えるなどした暗号が使われた.(p.35)イギリスの名誉革命後にジャコバイトもよく使った方式である.
1800年ごろの亡命宮廷の関心はイギリスとの講和を目指したスパーン(Alexander van Spaen (Wikipedia))の交渉にあった.(p.149)オランダはフランスの対英戦争に組み込まれていたが,負担が重く,中立を目指していた.そのためにはフランスの進駐軍に退去してもらって,やはり中立だったプロイセン兵に主要都市を固めてもらうというのが現実的な路線であり,共和国政府はイギリスともプロイセンとも関係の深いオラニエ家の協力を求めるため,バタヴィア共和国への忠誠は拒んだものの,共和国転覆の動きには加わっていなかったスパーンに白羽の矢を立てたのだった.スパーンはオラニエ家ともプロイセン家ともコネがあった.スパーンは1800年春にイギリスに渡り,オラニエ家の仲介でイギリス政府と接触した.(p.163-164)その後スパーンはベルリンにわたって交渉したが,1800年7月になると,ナポレオン・ボナパルト将軍のイタリアでの勝利のため,フランス政府は講和を急ぐ理由がなくなってしまい,結局講和は1802年のアミアンの和約を待つことになる.
ベルリンからのスパーンの手紙は,12×16の一種の回転グリルを使っていた(p.169, 172-181).なお,ウィレム5世の文書からは,1745年に書かれたと思われる,16×16の回転グリルを使った暗号文も発見されている(p.106-118).
ウィレム5世は1806年に没し,ナポレオン没落後の1815年,太子ウィレムが初代オランダ国王ウィレム1世として即位する.