マリーアントワネットとフェルゼンの暗号

マリーアントワネットとフェルセンがヴァレンヌ逃亡事件後の連絡に使った暗号について,フランスのテレビ局の問い合わせをきっかけに調査を行なったジャック・パタラン,ヴァレリー・ナシェフによる論文"I shall love you up to the death" (2009)などに基づいて紹介する.

ヴァレンヌ逃亡事件後のやりとり

1791年6月20日,フランス革命が急進化しつつあるなか,国王ルイ十六世,王妃マリーアントワネットらは変装してパリを脱して国境を目指したが,発覚してヴァレンヌの町で拘束され(22日),テュイルリー宮殿に連れ戻された(25日).

計画のお膳立てをしたスウェーデン貴族のフェルセンは御者に扮して国王一行に同行していたが,パリ郊外で国王の意を受けて一行と離れており,22日にはオーストリア領ネーデルラントのモンスに到着して王弟プロヴァンス伯らと合流し,すぐ祖国の父とスウェーデン王にパリ脱出成功の第一報を送った.だが翌日,国王一行の警護をするはずだったブイエ将軍から顛末を聞かされた.オーストリア領ネーデルラントの総督になっていたメルシー伯のいるブリュッセルに行ったフェルセンは,27日付でマリーアントワネットに手紙を書いた.

マリーアントワネットのほうも6月28日に無事を知らせる数行の短い手紙を送り,29日にはフェルセンが脱出の手引きをしたことが知られていることなどを伝えた

これらの手紙はいずれも暗号で書かれていた(マリーアントワネットの28日の手紙のキーワードはvertu,29日の手紙のキーワードはdepuis).この後,フェルセンは国王・王妃とスウェーデン国王や外国宮廷の仲介役となりフランス王政支援のために奔走する.その1791〜1792年の間,王妃とフェルセンの間の手紙は数十通が残っているが,そのほとんどすべては暗号または見えないインクで書かれている.

では二人が使った暗号はいったいどのようなものだったのだろうか.実はこれが多表換字式暗号というかなり凝ったものになっている.(16世紀のメアリー・ステュアートの暗号(『暗号事典』参照)は単換字式という単純な暗号を使っており,これが命取りになったことは有名である.)

暗号表

マリーアントワネットとフェルセンが使った暗号のベースとなるのは次のような暗号表である.

(1行目を見てもわかるように,アルファベットが23文字と&で構成されていることを注意しておく.実はこの時代,IとJ,UとVは同じ文字の異形とみなされることが多く,辞書もたとえばvacancy … ulcer … voyager … up … vulgarのように両者の区別なくアルファベット順に配列している.また,Wはフランス語ではほとんど使われないので,暗号表に収録されないこともめずらしくない.たとえば19世紀のバズリー(『暗号事典』参照)のシリンダー暗号機もWがなかった.)

この暗号表の使い方を説明するため,とりあえず「多表式」という点は無視してまず第1行(「Aの行」)だけに着目する.この行は,アルファベット2文字ずつのペアリングが示されており,ペアになった2文字を入れ替えることで暗号化を行なう.たとえばABがペアになっているので,平文(ひらぶん)のAはBに暗号化し,BはAに暗号化する.たとえばLouisならL→M,O→N,U→T,I→K,S→Rと置換して,MNTKRとなる.このように,上に示した暗号表の各行が一つの暗号表(換字(かえじ)表)を示していることになる.

このようなペアリングに基づく暗号としては,アトバシュ(聖書の暗号),カーマスートラの暗号,明治初期の警視局暗号などの例がある(『暗号事典』参照)

多表式換字暗号

さて,マリーアントワネットとフェルセンが使った暗号は「多表式」であった.つまり,「Aの行」から「Yの行」まで22通りの暗号表を切り換えながら使うことで,解読しにくくしているのである.その切り換え順を指定するためにキーワードを使う.たとえばdepuis(「…以来」)というキーワードの場合,手紙の最初の文字を暗号化するためには「Dの行」の暗号表を使い,2番目の文字を暗号化するためには「Eの行」の暗号表を使い,3番目の文字を暗号化するためには「Pの行」の暗号表を使う……などと行を切り換えていく.このような切り換えを間違えなく実行するために,暗号化の際には平文の各文字の上(または下)にキーワードの文字を書いていくのが通例だった.たとえばdepuisというキーワードでle roi et la reine(国王と王妃)を暗号化する場合,平文の上に次のようにキーワードを書いておく.

キーワード→DE PUI SD EP UISDE

 平 文 →le roi et la reine

そうしておくと,最初のlを暗号化するときには「Dの行」を見ればよく(「Dの行」でLのペアリングの相手はQなのでLはQに暗号化される),次のeを暗号化するときには「Eの行」を見ればよい,などとわかる.暗号化の結果は次のようになる.

キーワード→DE PUI SD EP UISDE

 平 文 →le roi et la reine

 暗号文 →QU KCE &C BQ PIYRU

平文ではeという文字が4回現われるが,暗号文ではU, &, I, Uと異なる文字に暗号化されているのがわかる.これが多表式換字が単換字暗号よりも強力であるゆえんである.

QUKCE&CBQPIYRUという暗号文を受け取った側も,やはりそれぞれの文字にどの暗号表を使うかを判別するために,まず各文字の上にキーワードを書いていく.

キーワード→DEPUISDEPUISDE

 暗号文 →QUKCE&CBQPIYRU

そして同じように,暗号文のQを解読するには「Dの行」を参照し,Qのペアリングの相手がLなので,Qは平文のlになる.暗号文の次の文字Uを解読するには「Eの行」を参照し,などと続けていくと次のように解読できる.

キーワード→DEPUISDEPUISDE

 暗号文 →QUKCE&CBQPIYRU

 平 文 →leroietlareine

(歴史上,単語の切れ目のスペースを残したままの暗号の例もあるが,多くの場合暗号文ではスペースは入れない.単語の切れ目のスペースがあると単語の文字数などが暗号解読の手がかりになってしまうのである.そのため,解読したら今度はle roi et la reineという切れ目を見きわめなければならない.これは通例それほど難しいことではないが,暗号化に誤りがあったりすると混乱のもとになる.同じ多表式換字暗号に悩まされたジョン・アダムズの例を別稿で紹介してある.)

自筆の手紙

パタランとナシェフはフランスの国立文書館でキーワードが書かれた暗号文の手紙の手稿をみつけた.これらの手稿はフェルセンの姉の孫クリンコウストレームが1877年に編集を加えて出版した(参考文献に挙げたKlinckowstrom)ものだが,手稿そのものは破棄されたと思われていた.それが1982年にクリンコウストレームの子孫がオークションに出した手紙をフランスの国立文書館が購入したのだという.パタランとナシェフの論文は例として2つの手紙の手稿を掲載してくれている.

第一はマリーアントワネットがフェルセンに宛てた1791年7月8日付の手紙であり,暗号文の下にキーワード(courage),暗号文の上に解読された平文が書き込まれている.この手紙は活字ではたとえば参考文献に挙げたKlinckowstromのp.147に掲載されている.それによると解読文はフェルセンの筆跡だという.(なお,この手稿を見ると,フェルセンは上の例とは逆に,受け取った暗号文の下にキーワードを書いて,上に解読した平文を書いていったようだが,もちろんどちらでもよい.)

第二はフェルセンがマリーアントワネットに宛てた1791年10月10日付の手紙であり,平文とその下にキーワードが書き込まれている.おそらくこれをもとに暗号化したのだろう.この手紙は活字ではKlinckowstromのp.193に掲載されている.それによるとこれはフェルセンの筆跡による控え原本のようだ.(マリーアントワネットが受け取ったオリジナルはフランス革命の間に失われたことだろう.)

1文字おきの暗号化

面白いことに,マリーアントワネットとフェルセンは1字おきにしか暗号化せず,残りの文字は平文のままにしていた.上記と同じ例を使うと,

キーワード→DE PUI SD EP UISDE

 平 文 →le roi et la reine

 暗号文 →QU KCE &C BQ PIYRU

とする代わりに,キーワードを1字おきに割り当てて,キーワードを割り当てられなかった文字は平文のままにすることにして,

キーワード→D- E-P -U -I -S-D-

 平 文 →le roi et la reine

 暗号文 →QE OON EG LK R&IRE

と暗号化するのである.掲載されている手稿でも,キーワードの文字を1字おきに割り当てていて,残りは暗号文の文字と平文の文字が同じであることがわかる.唯一の例外として1791年6月28日のマリーアントワネットの手紙は全部の文字を暗号化しているという.これは上述したようにヴァレンヌ逃亡事件に失敗して連れ戻されたあと最初にフェルセンに無事を知らせた短い手紙である.おそらく最初は何も考えずに全文字暗号化していたが,あまりの手間に1文字置きにすることを思い出したのだろう.

キーワードの文字を正しい順序で使い続けることが重要なことは言うまでもない.だが上記の7月8日の手紙では,フェルセンは1つ飛びにキーワードの文字を割り振るべきところをある箇所で2つ飛びにしてしまい,そのため一節が意味不明になっていた.(段落が変わればまたキーワードの先頭から使い始めることになっていたため,幸いフェルセンは次の段落からはきちんと解読できており,意味不明なのは一節ですんでいた.)パタラン,ナシェフは暗号文を解読することで,この不明だった箇所を復元することに成功した.

暗号の取り決め

フェルセンは1790年初頭からブイエ将軍やスウェーデン王の腹心のタウベ男爵と暗号でやり取りしていたが,フェルセンはどの相手とも同じ暗号表を使っていたらしいという(Patarin and Nachef, p.2, Section 3; David Kahn p.775に上記と同内容の換字表あり).また,フェルセンはパリ脱出を準備する段階で国王・王妃の手紙の暗号化や,逆に国王・王妃に届く手紙の暗号解読を受け持っていたという(Klinckowstrom p.vi, lviii).こうしたことから,マリーアントワネットとフェルセンがあらかじめ同じ暗号表を持っていたことは想像に難くない.

だがパタランとナシェフも指摘するように,暗号化のためのキーワードは日々変わっている.パリ脱出を準備する段階で,使用するキーワードについて何らかの取り決めがあったはずだ.彼らの論文からわかるキーワードは次のとおりである.
1791年 6月28日 vertu
1791年 6月29日 depuis
1791年 7月 8日 courage
1791年10月10日 autres
1792年 7月 9日 depuis

6月28日と29日でキーワードが変わっているから,毎日(または毎回)キーワードを変えていたものと思われる.1791年6月29日と1792年7月9日で同じキーワードを使っているのが手掛かりになりそうだが,同じ曜日というわけでもない.日付の下一桁で決めているのかとも思ったが,6月28日のキーワードと7月8日のキーワードが違うのでこれも当てはまらない.あとは,「手紙の平文の部分の3番目の単語をキーワードとする」などのルールを取り決める可能性もあるが,フランス語版の手紙を見てもそのようなルールが当てはまるとは思えない.手稿を調べてキーワードのリストを作成してみれば何らかの規則性がみつかるかもしれない.あるいは,単に暗号表と一緒に使用キーワードの一覧表があったとか,手紙を届けた使者が口頭でキーワードを伝えたといったことも考えられる.

また,全文字を暗号化するか1文字おきに暗号化するかの区別をどうやって伝えたかも問題である.(前述したように6月28日の手紙は全文字暗号化していたが,その翌日の手紙以降は1文字おきの暗号化を使っている.この間に「1文字おき」のルールを連絡したとは考えにくい.)これについて,1791年11月26日付のフェルセンのマリーアントワネットへの覚書は「最初に[.]を打つ.飛ばす文字があるときは2つの点[:]を打つ」と書いているが,7月8日の手紙の冒頭の手稿を見てもこの方式によっているものとは思えない.もっとも,この方式が守られなかったから11月になって確認しているという可能性はある.

なお,暗号の取り決めという以前にそもそも監視されている状態でどうやってマリーアントワネットがフェルセンと手紙をやりとりできたかということについては,信頼できる人に託すというほか,ビスコット(ラスク)の箱やお茶・チョコレートの包みに忍ばせたり,帽子や服の裏地に縫い込んだりして運んだという(Klinckowstrom p.lxvi)

また,革命派の監視下にあって暗号表を安全に保管できたのだろうかという素朴な疑問もあるが,1792年春に急進派が王妃を拘束しようと企てていると聞いてマリーアントワネットが書類を焼いたといったことからすると,少なくともこのころまではプライベートな書類まで検査されることはなかったことがうかがえる.1790年10月にヴェルサイユからパリに移ったとはいえ,いまだテュイルリー宮殿に住んでおり,一介の囚人のように持ち物を逐一調べられるようなことはなかったのだろう.140年前にやはり共和派によって処刑されたイングランド王チャールズ一世もワイト島で虜囚同然になっていたが,暗号表を焼いたのは処刑の前日だという(別稿(英文)参照).

暗号解読の結果

パタランとナシェフは暗号表とキーワードを使って手稿の暗号文を解読した上で,刊行されている手紙のテキストと比較した.上述した,フェルセンが解読できなかった箇所の復元はその成果の一端であるが,1791年6月29日の手紙では,これまで刊行されていた手紙で省略されていた部分がマリーアントワネットのフェルセンに対する愛情を示す部分だったことを証明した.これまでも言われてきたことではあるが,削除されているのは政治的な内容や協力者の個人情報だとする懐疑的な見方もあったのである.

彼らはさらに,これまで知られていなかったという1792年7月9日の手紙を新たに解読した.(フェルセンはこの手紙だけ解読せずにおいたのだろうか?)これには「私たちが金輪際離れ離れになってしまってはもやは幸せはないでしょうから.さようなら.私を憐れんでください.私を愛してください.何よりも,私が何をするのを見ても私から話を聞く前に私のことを判断しないでください.私にとって大切であり大切に思うのをやめられない人から一瞬でも悪く思われるなら死んでしまうでしょう.」といったくだりがあり,マリーアントワネットのフェルセンへの愛情をはっきり示している.

マリーアントワネットのラブレター

なお,ヴァレンヌ逃亡事件後にマリーアントワネットがフェルセンに書いた暗号の手紙として次のものが知られている.

「愛していると申し上げるのがやっとです。その時間もないほど。私は大丈夫です。どうか心配しないでください。あなたもご無事でありますように。手紙は暗号にして郵便で送ってください。宛名はド・ブラウン氏……で、第二の封筒をド・グージュノー氏宛にしてください。宛名は侍従に書かせてください。私が手紙が書けそうだったら誰宛にすればよいか教えてください。それなしでは生きていけません。さようなら(アデュー)、誰よりも愛され、愛した方。心を込めて抱擁いたします」

この手紙は1877年にクリンコウストレームが出版した手紙には含まれておらず,1907年にリュシアン・モーリー(Lucien Maury)が初めて『ルヴュ・ブルー(Revue Bleue)』誌上で発表したものだが,モーリーによれば,手紙を出版したクリンコウストレームは手稿を破棄した(実はそうではなかったことは上述のとおり)が,クリンコウストレームが見落としたこの手紙の写しをその息子がモーリーに提供したとのことである.オリジナルにはおそらくフェルセンが解読を書き込んでいたはずだが,パタランとナシェフはもとの暗号文をみつけることはできなかったという.

この手紙はマリーアントワネットのフェルセンに対する愛情をストレートに表現したものとしてよく引用されるが,この手紙が本物かどうかについては議論があった.パタランとナシェフは出所が明らかな手紙にもマリーアントワネットの愛情表現があることを示したことになる.

マリーアントワネットの他の暗号

マリーアントワネットが使った暗号はフェルセンとの間のものだけではない.イタリアにいる親族(姉のパルマ公妃,ナポリ王妃ら)に手紙を送ったときにも上記と同じ多表式のペアリング暗号を使っている(暗号表は同一ではない).一方,ベルトラン・ド・モルヴィルらとの文通にはベルナダン・ド・サンピエール作『ポールとヴィルジニー』を使った書籍暗号を使ったという.

おまけ

なお,フランス語のchiffreや英語のcipherは「暗号」以外の意味もあるので注意.特にイニシャルを組み合わせて紋のようにした飾り文字を表わすことも多い.マリー・アントワネットのイニシャルMAの飾り文字はたとえばここ(マグカップに付いたMAの飾り文字の写真+chiffreについてのフランス語の説明)やここ(宮殿の門に使われているMAの飾り文字の写真)で見られる.

参考文献

Jacques Patarin and Valerie Nachef, 'I shall love you up to the death', Cryptology ePrint Archive: Report 2009/166, 英語版PDF, フランス語版PDF講演用スライドPDF ※英語版PDFとフランス語版PDFは同一ではなく,オリジナルと思われるフランス語版のほうが正確なようです.

Klinckowstrom (ed.) (1877), Le comte de Fersen et la cour de France, Vol.1 (Internet Archive, another version), Vol.2 (from 1792) (Google, Internet Archive)

Katharine Prescott Wormeley (trans.) (1902) Diary and Correspondence of Count Axel Fersen, Grand-Marshal of Sweden (Internet Archive, reprint at Google)

O. G. Heidenstam (ed.), The Letters of Marie Antoinette, Fersen and Barnave (reprint at Google)

Lucien Maury (1907), Revue littéraire et critique - Revue Bleue, Numéro 17, 5ème série, Tome VII, pp. 536-538 (Internet Archive)

吉田一彦,友清理士 (2006)『暗号事典』研究社

なお,本稿の英語版では若干内容を補充しましたので併せてご参照ください.


©2010 S.Tomokiyo
First posted on 27 December 2010. Last modified on 13 January 2011.
An expanded English version is here.
Articles on Historical Cryptography
inserted by FC2 system