日露戦争中の日本の一外交暗号の概要判明

1904年に使われた外務省の英字暗号

稲葉(2011) p.17-18および稲葉(1993) p.251は,日露戦争中の1904年10月にそれぞれ駐フランス公使,駐オランダ公使が外務大臣小村寿太郎に宛てた暗号電文をその英語原文とともに掲載している.トマス・ジェファソンやルイ14世の古典的な暗号になじみのある者にとって,milax, agidae, ridannassiなど長さも定まらない単語もどきのような暗号は奇異に映る.しかも稲葉(1993)に掲載されているテキストではコード語の区切りを示すと思われる原文の区切りが示されているが,"but it is believed that"とか"will be raised"などといった中途半端な単位なのである.だがこれは,当時広く使われていた商用暗号で普通に見られる構成だった.電報料金節約のため,商用コードブックは断片的なものも含め多数の連語を登録して一語で送信できるようにしていたのである.

また,国際電信規約では,1879年の改訂で,コード語は英語,フランス語,ドイツ語,イタリア語,オランダ語,ポルトガル語,スペイン語,ラテン語の8言語のうちのいずれかに属する本物の単語でなければならないとされていた.さらに,1875年以降,1語として数えられるコード語は最大10文字と規定されていた.(国際電信規約の変遷については別稿(英文)参照.)上記の暗号電文に使われているコード語はこれらの規則に則ったものと思われる.当時の日本でよく8つもの言語から(しかもそのへんの辞書ではみつからないような)単語を集めてきたものだと思われるが,コード(preconcerted language)に使うことが公式に認められる25万以上の単語を集めたOfficial Vocabulary for Telegrams in Preconcerted Language (1894)がベルンの国際事務局によって刊行されており,これをもとにコード語を選定した商用暗号も多かった.原本を見ていないので確認できないが,日本の外交暗号もこれをベースにした可能性はある.(←その後,この英字コードが1894年以前に成立したと思うようになった.別稿参照.)

下記の図の左側は上記の2つの電文の暗号文と平文を対訳形式で示したものである(暗号文と平文の対応付けは筆者の推測).下図の右側には,2つの電文に現われるコードをまとめて,コード語のアルファベット順に並べ替えたものを示しているが,両者のコード語がうまく整合しており,駐フランス公使,駐オランダ公使が同じ暗号を使っていたことがわかる(andを意味する同じコード語reprimandも使っている).ただし,赤字の部分がイレギュラーになっており,さらなる検討を要する.

また,このリストからこの外交暗号のコードブックの構成の概要もうかがえる.冒頭部分から順に,日付,数字,地名,一般語句(核になる語の逆アルファベット順),文字・連字(逆アルファベット順)のセクションで構成されている.このようなセクション分けされた構成は,商用暗号ではたとえば下記のArmand Coste (1888)に見られる.

このように,一見奇異に見える当時の外務省の暗号は,当時の商用暗号としてはごく一般的な形のものであったことがわかった.当時の目には暗号電文を見ただけで商用暗号と同様の構成であることは歴然としており,ロシア秘密警察のパリにおける中心人物であるマヌイーロフが英語の商用コードブックを購入して解読を試みた(1904年6月)形跡も残っている.


1904年に使われた海軍武官の英字暗号

稲葉(2011)は上記と同様の英字暗号を使った海軍武官から海軍次官への電文の暗号文を紹介している(この電文は芝罘の公使館付海軍武官からのものだが,同年の駐英公使館付海軍武官から海軍次官への電文でも同じ種類の暗号が使われているという).こちらは各コード語に平文が付記されているのでわかりやすい.コード語のアルファベット順に並べ替えたものを下図に示す.

一見して,平文をイロハ順に配列したものであることがわかる(赤字部分は不詳).「探照燈」→「確か」,「なし」→「何物」のところはイロハ順から外れているが,平文の配列は単純に読みに基づくのではなく,仮名を先にしたり,漢字の画数の少ないものを先にしたりすることはよくあった.国内用の商用暗号では英字でなくカナを使うものが多かったが,この海軍武官暗号も,平文の配列に関しては国内の商用電信暗号(別稿参照)に沿ったものとなっているのである.「に」など助詞で始まる句が登録されているのも商用暗号に例があり,めずらしいことではない.英字コードに関しては,上記の外務省のものと同様,国際電信規則に則った,当時の商用暗号ではごく普通の形式といえる.

また,一般語句のあとに数字・日付・時間・地名などが配列されているらしい.

なお,下図には入れていないが,コードブックに登録されていない語はローマ字でそのまま書かれている.また,一部のコード語は末尾にno, woなど助詞が平文で付されている.


(2014年6月6日追記)その後,JACARで上記と同様の暗号を使った暗号電文を多数みつけた.イギリスでの軍艦製造等に関連して1894年(明治27年)1月から9月初頭にかけては下記の左のような暗号が(C11081481000, C11081481100, C11081481600, C11081481800, C11081481900),9月以降は下記の右のような暗号が(C11081481900, C11081484100, C11081485300)使われていた.旧版ではイロハ順の語句のあとに登録されていた月日は廃止されて,数字のみを登録するようにしたらしい.また,旧版の末尾に付されていた特定地名への発着を表わす表現や仮名1字に対する符号はイロハ順の中に組み入れられた模様である.1897年(明治30年)1月(C06091095100 p.40, 43),1898年(明治31年)10月(C06091152600 p.39)の時点でも同じ符号が使われている.

一方,1899年(明治32年)には「equissimo 患者(くわんじゃ)」「proscrever 既に」「alcovitar にて」「acarreto 委細郵便」といったコードが使われているが(C11081493800),イロハ順の末尾付近の「すでに」に対応するアルファベット順の位置からして1904年版に向けて増補していく途中段階を示すものと思われる.


1904年に使われた陸軍武官の数字暗号

稲葉(2011)はさらに,参謀本部から駐英公使館付き陸軍武官に宛てられた電報の数字暗号を紹介している.日露戦争開戦前後の1904年1月や5月には参謀本部とロシアやドイツの公使館付き武官との間の電報を外務省や公使館を通じて外務省の外交暗号を使って送る依頼がなされており,この陸軍武官暗号は開戦後に作成されたと見られるという.

コード順に並べ替えてみると,ほぼ原文のローマ字順となっている模様(赤字部分は不詳).最後の「芬蘭」(フィンランドのこと)は末尾に固有名をまとめたセクションがあったのだろう.

ローマ字順の配列は英語学関係の書籍などではめずらしくないが,コードブックでは日本旅行協会『電報略号集』(1935),市田昇三郎『商和電信暗号 改訂版』(1941)といった例(別稿参照)はあるものの一般的ではない.それでも,この電文では,登録されていない用語は平文のままローマ字で書かれているので,ローマ字表記に基づく配列にはそれほど違和感がなかったのかもしれない.


(2014年7月13日追記)その後の調査によるとこれはおそらく「陸軍電信暗号書」だと思われる.詳しくは別稿参照.

参考文献

稲葉千晴(1993), 「ロシア国立文書館にみる日露戦争中の日本関連文書」, 『社会科学討究』, No. 112, p.231 ff., March 1993

Chiharu INABA (1998), "Franco-Russian Intelligence Collaboration against Japan during the Russo-Japanese War, 1904-05", Japanese Slavic and East European Studies, Vol. 19 (open access)

稲葉千晴(2011), 「日露戦争中の日本の暗号」, 『都市情報学研究』, No. 16, 2011, pp. 17-24


初期の日本の外交暗号については別稿(英文)参照.さまざまな商用暗号については別稿(英文)参照.ネット上で見られるコードブックのいくつかを下記に挙げておく.
Slater (1870) 24000 words (no phrases); five-digit code groups (not code words).
Bloomer (1874) About 7500 words and phrases; code words and serial numbers.
Anglo-American (1891) About 27000 words and phrases; code words and serial numbers.
ABC4 (1881) About 25000 words and phrases; code words and serial numbers.
Armand Coste (1888) 30000 entries for words/phrases/syllables.
Lieber's (1896) About 75000 words and phrases; code words and serial numbers.
Westinhouse (1902) About 45000 words and phrases; code words and serial numbers.
Bentley (1906) 30000 words and phrases; five-letter artificial code words (no serial numbers).


©2014 S.Tomokiyo
First posted on 25 January 2014. Last modified on 13 July 2014.
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