明治期の日本の暗号については,長田順行『西南の役と暗号』(1989, 朝日文庫;菁柿堂版の単行本より若干増補されている)が,現存する当時(1877)の電文から復元されたものを中心に下記のような暗号を紹介している.ここで,「対合」とあるのは文字と文字を対(ペア)にして互いに入れ換える互換式の換字をいう.(その後,大野哲弥『国際通信史でみる明治日本』(2012),大野哲弥「西南戦争時の政府暗号補論」(情報化社会・メディア研究 9, 59-66, 2012)(CiNii),大野哲弥「明治7年,台湾出兵時の暗号電報」(情報化社会・メディア研究 2009;6:9-20)(CiNii),佐々木隆「明治前中期の政府暗号」(メディア史研究 第3号 p.114-130, 1995),佐々木隆「明治時代の政治的コミュニケーション(その2)」(東京大学新聞研究所紀要 33, p.117-193, 1985;特にp.171-178)などの研究があることを知った.)
(1)大蔵省用の換字表(p.137)…対合 ※佐々木(1995)はこれの訂正版を掲載している(表1) (長田(1989)の復原は「ヰ」「ヱ」「オ」を含まない点を看過したために一部誤りが生じたという).1875年12月に大蔵省,内務省が共同で通達したものだという.また,1879年3月に制定された「出納局預け金電信渡に使用する暗号」を紹介している(表4)(不規則な換字).
(2)内務省用の換字表(p.144-145[p.146に写真])…イロハ順でなくアイウエオ順;対合 ※佐々木(1995)によればこれは内務省用に上記(1)に代えて1876年10月に通達されたもの(表2).1880年初頭の改定版も紹介されている(表5)(不規則な換字).さらに,1881年4月に設置された農商務省が11月に独自の暗号を制定したこと,1882年9月に改定したことを紹介し,改訂版の暗号を掲載している(表6)が,結局長田(1989)の紹介する内務省用の換字表に先祖返りしたようだ.
(3)司法省用の換字表(p.141)…対合 ※大野(2012)はこれと別に,イロハ…(平文)をアイウ…(暗号)と並べて対応付ける換字が1878年2月に使われていたことを紹介している.ただし,暗字の「イ」がア行,ヤ行,ワ行に現われるため,暗号文の「イ」は文脈によって「ロ」「ス」「サ」と訳し分けなければならないという代物だったらしい.
(4)警視局用の換字表(p.130[対合;p.146に写真],p.135の2バージョン) ※大野(2012)は別バージョンを紹介している.佐々木(1995)は1878年の警察暗号と1879年の大警視暗号(警視局暗号)という二つの別個の暗号があったことを指摘し,その後者と思われるものを復元している(表3).
(5)明治7年(1874年)の外務省換字表(p.147)…座標式 ※明治期の外務省の暗号については別稿にまとめた.また,日露戦争期については稲葉(2011)が貴重な資料を提供しており,それに基づいて筆者も先に見解も公表した(別稿参照).別稿(英文)では1933年までを扱っている.
(6)陸軍省用の換字表(1875年)(p.170)…座標式
(7)陸軍省用の換字表(1877年〜)(p.151-160)…22通りの換字表;対合 ※明治・大正期の陸軍暗号については別稿にまとめた.
(8)海軍暗号(p.146-147)…数字・カナを使った座標式らしい ※明治期の海軍暗号については別稿にまとめた.
(9)元老院暗号(p.173)…対合 ※大野(2012)が具体的な表を復元している.
(10)太政官暗号(p.186-187)…数字・カナを使った座標式(なお,「太政官」というのは内閣の前身のような組織だが,行政・立法・司法の三権を一手に握る最高機関で,三条実美・岩倉具視らがその中心人物.) ※大野(2012)はこれが「改正号」であり,1878年2月14日までは同様の形式の別バージョンが使われていたことを明らかにしている.
また,県令などを務めた三島通庸(1888没)(Wikipedia)関連文書には,大蔵卿から送付された,イロハ順のカナを記した2つの円盤を使った暗号盤が残されている (これが明治の暗号盤;佐々木(1995)は同文書を詳細に調べているらしく,この暗号盤もすでに紹介していた).西南戦争(1877)の際に右大臣・岩倉具視が使った,これと同じとおぼしき暗号盤が先ごろ発見されたことも記憶に新しい (英語,日本語).岩倉も加わっていた太政官が各地の県令から報告を受けていた記録はあるので (長田順行『ながた暗号塾入門』p.213),太政官は軍部との連絡には上記(9)の「太政官暗号」を使う一方,県令とは暗号盤による換字で連絡していたのだろう.
本稿ではこれらに若干の追加をしようと思う.
目次:
(2014年8月15日追記)大野(2009)の第2節は,1871年(明治4年)11月から1873年(明治6年)9月にかけて欧米に派遣された岩倉使節団率いる岩倉具視が本国政府に暗号利用が望ましいことを指摘し,実際に米国内での連絡に暗号が使われたことを紹介している.(岩倉使節団と留守政府の間の連絡に暗号が使われた形跡はないという.)
1872年6月,本国政府への状況説明のため,書記官の田辺太一,安藤太郎が帰国することになった.サンフランシスコまで来たところでワシントンの岩倉使節団と電報で連絡し合った上で,結局帰国を取りやめることになるのだが,この電報連絡に暗号が使われた.米国国内での電信とはいえ,明治政府による最初期の暗号利用といえる.
田辺らの帰国の際の口上書では「電信の義以来暗号等相用度則今般所持いたし候事」と説明するくだりがあり,帰国が中止になったため,これは大使公信 (本国宛の公式文書) 第9号に記載されたという.
台湾出兵 (Wikipedia) は宮古島の船員が台湾の先住民に殺害されたのを期に明治政府が行なった初めての海外出兵(1874)であった.政変や反乱が相次ぐ国内の不満を海外に向けるためもあって,明治政府は4月に参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官に,西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し,出兵に踏み切った.軍艦3隻が長崎を出港したのが5月2日.5月22日に本格的な制圧を開始し,6月3日には事件発生地域を制圧したものの,その後大量の病死者を出した.10月31日で清国との交渉がまとまり,日本軍の行動が正式に認められて,賠償金等と引き換えに撤兵が決まった.
蕃地事務局長官の大隈と長崎の蕃地事務支局の林海軍大佐・横山租税権助との間の多数の暗号電文が残されている.A03030222600(以下,この種の番号はアジア歴史資料センターのレファレンスコード),A03030150900等によれば,そのほか都督の西郷,柳原全権公使,弁理大臣として清国に派遣された大久保利通,上海・香港・厦門領事も使っていたらしい.
以下,本節はJACAR(アジア歴史資料センター)の国立公文書館>内閣>単行書>蕃地処理のセクションに基づくが,大野(2009)により補足した.
下記は1874年10月20日の増補改訂版(以下,「10月版」)である(A03030300000;A03030397300,A03030965000にも写しがある).
この形に至るまでには,台湾出兵の数か月のうちに数度の改訂を経ていた.
出兵当初はこの最初のページだけであったと思われる.また,当初の電文を見ると,九三〜九九の部分はこれとは異なっており,九三(なり),九四(こと),九五(とも),九七(より),九八(にて),九九(まで)などとなっていた模様である.これは,「三六 ン」の配置や濁音・半濁音や「我」「君」など若干の漢字も含むという点も含め,長田(1989)のp.147で紹介されている「明治7年の外務省換字表」と同一と認められる.これは「電信秘号99格」と称され,特命全権公使の柳原が提案したものだった (大野(2009); これも含めいくつかのバージョンが早稲田大学図書館にある).
たとえば,5月2日に長崎の大隈が三条太政大臣に「蕃地ヘ進発ノ儀」を報告した電文(A03030136400)では,10月版ではコードが割り当てられている「ヘ三 日進」,「ヘ四 孟春」や少なくとも一時期コードが割り当てられていた「ヘ五 明光丸」「ヘ七 三邦丸」といった船名が一文字ずつ暗号化されている.「出発」を一字ずつ暗号化していることも,のちによく使われる「ハ五(出帆)」がまだ登録されていなかったことをうかがわせる.5月19日の長崎の蕃地事務局から東京の大久保・大隈への電報(A03030150400)でも,10月版の「イ八 台湾」のような基本的地名を一文字ずつ「二七 一一 二四 三七」と暗号化している.
(外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285000のp.2にこの時点での暗号表(5月14日付)が見られる.なお,それによると増補分のイロハ…は海外との通信ではABC…にすることになっている.)
上記のように,台湾出兵当初の暗号は純粋に数字一〜九を使った座標式だったのであるが,実務上語彙の増加の必要性が実感されたらしく,まもなくカタカナの行を追加して,カナ+数字の形のコードも導入したようだ.(数字とカナの混用は当時,官報のみに認められていた.私報に認められるようになったのは1890年代である.)
5月20日付けの横浜からの大隈の電文(A03030150800)で「今度増補したる電信暗号を柳原に一枚渡せ」とあるので,このときに上記10月版の2ページ目にある「台湾」などが追加されたのだろう.ただし,「イ」「ロ」の次は10月版の「モ」ではなく「ハ」だった.また,この時点で追加されたのは「ト」の行までだった.いくつかの電文には「ロ七 人」が使われているが,これも10月版と異なる.
なお,増補の適用は6月1日からだったようである.たとえば, 5月21日の柳原全権公使から三条太政大臣宛の電文(A03030150900)の「都督」, 5月22日の大隈から厦門領事への電信案(A03030151500)の「電信」, 5月24日の長崎の柳原全権公使からの電文(A03030152200)の「支那政府」, 5月30日の長崎の蕃地事務局から大隈宛ての電文(A03030156400)の「上海」などがみな一字ずつ暗号化されている.
この暗号を使った電文は多数ある.例を挙げると,A03030157700(6月1日;「ロ七 人」などを使用), A03030158500(6月2日;10月版と異なる「ヘ五 明光」を使っている), A03030158900(6月5日;「ハ五(出帆)」「ハ九(大至急)」「ハ三(都督)」などを使用), A03030159400(6月4日;「ハ七(電信)」などを使用), A03030159800(6月4日;「ホ二(石炭)」は誤記か?), A03030160000(6月4日;「九八(にて)」「九三(なり)」「九五(とも)」などを使用), A03030160100(6月2日,4日;「ヘ七(三邦丸)」「ハ五(出帆)」「ロ七(人)」などを使用), A03030175300(6月30日;「ハ六(到着)」「九七(より)」「九八(にて)」など使用), A03030175400(6月30日;「九七(より)」「九八(にて)」「ハ五(出帆)」など使用) A03030176200(7月2日,6月30日,7月4日;「ヘ五(明光丸)」「ト五(差出申候)」「ハ六(到着)」「ト三(至急御返事可被下候)」など使用), A03030176300(7月2日,3日;「リ一(東京)」は誤記か?「九八(にて)」「ハ七(電信)」「ロ七(人)」「九七(より)」「ハ六(到着)」「九四(こと)」「九八(にて)」「ハ七(電信)」など使用),
この間,6月29日に蕃地事務局と長崎の蕃地事務支局との間専用で局外へ混用しないようにという注意付きで「チ」「リ」「ヌ」「ル」の行が増補された(A03030159000, A03030573400).
そして8月19日の電文(A03030222100)で,「モ九(大至急)」が使われており,2ページ目の「ハ」が「モ」に変更されたことがわかる.カタカナの「ハ」が漢字の「八」とまぎらわしことはA03030159000やA03030565400でも指摘されていた.前日の8月18日の電文(A03030219700)ではまだ「ハ九(大至急)」「ハ五(出帆)」のように「ハ」を使っていたので,19日が施行日だったのだろうか(→その後,大野(2009)によりA03031078300に8月20日より施行とあることを知った.現場では1日早く使い始めてしまったらしい).なお,「ニ」の行ははじめからなかったが,漢数字の「ニ」とまぎらわしいためだろう.電信コードで「ニ」「ハ」そして場合によっては「ミ」を漢数字二・八・三との区別のために不使用にすることは,商業暗号でもよく行なわれていたことだった(別稿参照).
また,この8月19日の電文は「ヌ三(スナイドル)」も使っており,この時点では「タ」の行まで延長されていたものと思われる(上記の「ト」の場合もそうだが,末尾に少し長めのフレーズを登録することはよくある).なお,上記6月29日の「チ」「リ」「ヌ」「ル」の本支局間専用の増補(それによれば「ヌ三」は「近日」)は(一部異同があるが)10月版の「タ」「レ」「ツ」「子」に登録された(たとえばA03030240600にある9月8日に「ツ四 明日」「ツ九 都合宜候」を使用).
そして本支局間では9月1日より,他では9月10日より施行としてさらに小改訂が施された(A03030222600).その変更は,メ〔「して」を表わすらしい(Wikipedia)〕→償金,ヨリ→談判,ニテ→金川丸,マデ→東京丸,大久保→大久保弁理大臣,反逆→至極陰密に という6点である.最初の四つは一ページ目の末尾の九六,九七,九八,九九に関するものだが,このうち「談判」は「ワニ」としてすでに登録済みであることを指摘されて取り消されている.「大久保」はA03030260500によると「ロ七」のことらしい.「至極陰密」は10月版の「ワ七」にある.
この時点の暗号表が外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285000のp.4-5にある.(大野(2009)で知ったが,早稲田大学図書館にもある.)
94の「コト」を「三条公」とするなどの改訂はその後の何らかの時点で行なわれたらしい.
そして本稿冒頭で掲げた10月版が長崎支局に送られた(A03030300000).書面が届いたら承知の旨を電報で伝えてもらい,即日施行ということである(支局からの返電は11月1日).また,四通送ったうち,大久保弁理大臣,西郷都督,品川上海領事に一通ずつ送り,安藤領事その他へは支局で謄写の上送るよう要請している.ただし,長崎では使用開始がばらばらだと差支えがあるとして,使用開始日を東京,熊本,上海,長崎については11月11日(本局と長崎支局の間は11月1日),北京,天津,厦門,香港,上海については上海が総括して長崎に伝えることで使用開始とすることを建言して認められている(A03030339800,A03030618900).
内容は「三行増加且六廉御改正相成度」とのこと.「三行増加」というのは上記の「タ」「レ」「ツ」「子」に続く最後の「ム」「ヤ」「キ」の追加だろう.改正された「六廉」というのは,上記で改正が取り消された「九七」や,おそらく役を解かれた「ヘ五 明光丸」「ヘ七 三邦丸」の入れ替えなどだと思うが未確認.
早稲田大学図書館の駐英公使からの電文(1874年11月9日)では誤ってこのバージョンで解読が試みられた上で訂正されている.(ちなみに,駐英公使からの別の電文(1874年11月7日)では縦座標と横座標を取り違えたようで,おそらく正しく解読できなかったおかげで保存されている.左右の数字を入れ換えて解読すると「年数5年 長さ200フィート 幅30フィート …… 112トン …… アームストロング2門 しかし弾薬なし …… 11万本」のようなことが書かれている模様.なお,「ヂ」と同音の「ジ」がないため,「55 シ」+「00 濁点」で表現している.大野(2009)にあるように,「00 濁点」は最初の5行しかなかった初期の暗号表で規定されていたもの.)
その後もこの暗号が使われた例は12月23日の電文(A03030386500)などがあるが,蕃地事務局は残務整理にはいり,暗号も使われなくなっていく.
ちなみに10月10日に,横浜に来ていた大隈長官が蕃地事務局に宛てて「電信暗号入用ゆえすぐ一人横浜税関へ持参あるべし」と打電しているが(A03030788200),暗号表の管理が気になる.
1874年(明治7年)の台湾出兵で使われた暗号を調べると,カナと「我」「君」など若干のみを含んでいた座標式の暗号表が数次の改定を経て9×29の規模のコード表になっていった様子がよくわかる.その最終的な形は長田順行『西南の役と暗号』で紹介されている1877年(明治10年)に使われた「太政官暗号」とよく似ている.太政官暗号は9×33のサイズだが,「タ一」〜「タ九」「レ一」〜「レ四」が数字の「一」〜「九」「万」などに,「レ五」〜「ノ八」が濁音も含めカナ(五十音順)に割り当てられている.一方,数字の列は「一一 東京」「一二 横浜」「六四 陸軍」などとなっている.このことから,太政官暗号は台湾出兵の暗号のように最初数字のみだったわけではなく,最初からカナおよび数字を含む座標式として作成されたことがうかがえる.
(2014年8月29日追記)早稲田大学図書館の大隈重信関係資料にカナ2字の座標式の「暗号表」がある.これは横にイ,ロ,ハ,バ,ニ,ホ,ボ,……,セ,ゼ,スを取り,縦にア,イ,ウ,エ,オ,……,ラ,リ,ル,レを取った横62×縦42の表(縦77センチの大きなシート)で,「イア 委細」「ロア 六十」「ロキ ろ」といった一般語から「ヲア 大蔵卿」(大隈重信の大蔵卿在任は1873-1880; 大蔵卿が大蔵大臣に変わるのは1885年)「ケヌ 縣令」(日本で県令が置かれたのは1872年11月から1886年まで (Wikipedia))「ヤノ 山縣」「サヨ 西郷」「スノ 杉山」といった役職名・固有名などが収録されている.
明治初期に蕃地事務局・太政官・外務省・海軍などが使っていた座標式暗号はいずれもカナ+数字または数字+数字によるもので,このようなカナ2字の座標式暗号は見られない.一方,カナ2字コード自身は電報料金節約のための電信暗号では一般的なもので,別稿では山林局のもの(1882),農商務省のもの(1883)を含め多数紹介してある.
1883年には外務卿は各開港場地方庁(神奈川・兵庫・長崎・新潟・函館)との間に使用すべき電信符号を送達していた.1890年でも同じものが使用されていたらしいが,函館からの紛失の申し出に応じて改訂版を送り直した.その際,開港場に加えて北海道庁長官・京都府知事・大阪府知事にも新たに送られたらしい.(B13080285300)
1902年(明治35年)には開港場などに限らず,北海道庁・各府県知事(東京を除く)宛てに暗号表を送付している(外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285400).1904年には台湾総督府にも送られている(同p.60).このとき各府県に送った暗号表はカナの簡単な換字表だった(割り当ては不規則だが)(外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285600).
1904年4月,当時の埼玉県知事の木下周一が浦和駅でスリに遭って内務省・外務省の電信暗号符を盗まれ,譴責処分されたという (七戸克彦「現行民法典を創った人びと[24]」法学セミナー2011(PDF)).この外務省の暗号符というのがこの暗号だったのではないかと思われるが,特に対応が取られた記録は見当たらない.
そもそも使用頻度は低かったらしく,栃木県では誤って焼却してしまい数年後になって外務省に再交付を求めている(外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285500 p.1).また,岐阜県では改訂に際して旧版の返却を求められて初めて前任者から引継ぎがなかったことに気づくありさまだった(p.8).その暗号は外務省からの「北米合衆国及英領加奈陀地方行移民の渡航許可取扱方」(1907年12月3日)で使用されていたのだが,岐阜県はその時点でなぜ不都合がなかったのかと問われて,愛知県知事に問い合わせて内容を把握したといった事情を説明した(p.41).問題は暗号表の紛失だけではなく,1907年12月4日には各県から判読できないという問い合わせが続出した(B12081290900).
これらのことが契機になったらしく,この1907年12月,外務省は北海道長官,各府県知事(東京府を除く)に宛てて新たな暗号表を交付した(B13080285500 p.2-4).(翌年一月一日より使用とされたが,群馬・栃木両県知事へは紛失を考慮したらしく「即日」発効としている.)
暗号表そのものはファイルされていないが,挙げられている例からすると,濁音・半濁音も含めたカナに対して換字を設定していること,カナ以外に若干の頻出語に対して,ハ行以外のカナに半濁点を付したものを割り当てていることがわかる.また,同内容の発信用・受信用の二部構成であることも説明されている.
イ→ハ ヲ→ル ヨ→エ ノ→ウ ケ→ブ エ→ト ン→メ ジ→ぺ |
国人 →ヨ゜ 取調〔?〕→ヤ゜ 至急 →マ゜ アリタシ →ミ゜ ( →ル゜ ) →ワ゜ |
府県には外務省のほか内務省の暗号も交付されていたことは上記の埼玉県知事のエピソードでもわかるが,県令などを務めた三島通庸(1888没)(Wikipedia)関連文書には,内務省・大蔵省と県庁の間での通信用の暗号表が数点残されており,初期のものはイロハに対して逆順イロハやアイウエオ順を割り当てただけのものだったが,1879年のものは配列順が不規則になっているという (これが明治の暗号盤).
たとえば長崎県知事が内務大臣に当てた暗号電報(訳のみ)がB03050616100にある.長崎県知事は外務省宛に内務省暗号を使ってしまい,今後は外務省暗号を使うようにと注意されたこともあった(1901年,B12081285600).
佐々木(1995)は三島通庸関連文書にある,山形県と福島県で使われた三つの暗号表を紹介している.表8はイロハ順のカナを7×7の表に記載したもので,カナを2桁の数字で表わす座標式の暗号.表9も同様だがカナの配列がやや不規則になっている.後者はその例文から1881年後半から1882年前半のものと思われるという(三島は山形県令だったが,1882年1月に福島県令兼任,7月からは福島県令専任になったという).また,表10はイロハ…を逆順のイロハと対にする単純な対合式の換字で,1882年12月に福島県令の三島が県内での使用のために配布したものだという.さらに,明治10年代初頭のものと思われる,12行(イ〜ヲ)×9ます(一〜九)の座標式の暗号もあり(表11),前半はイロハ順のカナ,濁音,半濁音を,後半は東北の地名や治安対策関係の用語が含まれている.
ブログ・痩田肥利太衛門残日録は,仙台通信局の「電報暗号表」(「大正十三年六月二十日より使用」とある)の画像を紹介している.イ→ケ,ロ→ン,ハ→ソ,ニ→テなどとする換字表である.
捕獲審検所(prize court)というのは戦時に行なった拿捕が正当であったかどうかを審査する機関 (Wikipedia) で,日本でも日清戦争,日露戦争,第一次大戦に際して設立された.(アジア歴史資料センターの国立公文書館>内閣>捕獲審検所関係文書 に史料あり.)
下記は,捕獲審検所長官・松室と佐世保鎮守府・鮫島との間の電報で使われたもので,日露戦争開戦後の1904年3月に送付されたもの(A06040059000).
A06040058600やA06040059200 p.105をはじめ電報送達紙はいろいろファイルされており,発信人符号「サホ」を使ってもいるが,暗号電文は確認できなかった.A06040059200 p.95ではわざわざ「長官暗号所持せられず.普通文字にてさらに電報を乞う」とあるので,暗号が使われていたことは確かなのだろうが.
外務省と捕獲審検所の間で電報のやりとりがあった.下記は上記と同時期に外務省との間で手配したものと思われる(A06040059000).
なお,同じファイル(A06040059000)によれば,1904年6月に大蔵省から佐世保捕獲審検所に電信用語符号表とその追加を送ってきており,翌1905年6月にはその改訂版を送ってきている.これは横須賀捕獲審検所宛てに送られたA06040085800と同じと思われる.この『大蔵省電信用語符号表』は秘密のための暗号ではなく,電報料金節約のためのコードであると思われる.これについては別稿で紹介した.
また,A06040090600 p.18によれば,1914年の佐世保捕獲審検所の設立に関連して,内閣,海軍省,高等捕獲審検所,捕獲審検所の間の暗号が制定されたらしい.
佐々木(1995)は明治期に使われた閣僚間の暗号を三つ紹介している.いずれも対合式の不規則な換字である.
表12は少なくとも1881年から1891年まで使用されたもので,参議,右大臣,首相などの電報に使われていたという.表13は少なくとも1891年秋から1896年夏まで使用されたもので,枢密院議長,警察署長,首相,内相,首相秘書官,逓相,外相などの電報に使われていたという.表14はこの間の1894年秋に使われており,複数の暗号表が並行して使われていた可能性もあるという.
内閣書記官長,拓務省 (Wikipedia) ,朝鮮総督府では大正・昭和になっても上記と同様のごく単純な換字が使われていたらしい.
下記は1924年(大正13年)の「内閣特別暗号(南満州鉄道株式会社社長理事、内閣書記官長、拓殖事務局長相互間)」(8月21日より施行)である (国立公文書館・本館-4E-018-00・雑03175100).対合式なので,表のサイズが半分ですんでいることがわかる.
下記は1926年(大正15年)の朝鮮国王・純宗 (Wikipedia) の葬儀に当たり,内閣書記官長 (Wikipedia) と朝鮮総督府に派遣された葬儀委員長との間で使われた暗号である(JACAR A10110720300).
下記は1934年(昭和9年)2月に朝鮮総督府法務局長から拓務次官(拓務省)への連絡に使われた暗号である(B05014019200).
下記は1934年(昭和9年)8月10日施行の改訂版の「内閣暗号」である (国立公文書館・本館-4E-018-00・雑03559100 p.6).同じ互換式でも,アイウエオ順の表になっている.1936年版も残っている (ibid. p.78).
アジア歴史資料センター(JACAR)……上記のB05014019200などはここのレファレンスコード
(引用中,用字・仮名遣い・句読点などは現代風に改めたところがある.)