明治日本の外交暗号:1874-1885-1904

長田順行『西南の役と暗号』(朝日文庫版)p.147には1874年の外務省換字表が掲載されている.吉村昭『ポーツマスの旗』(新潮文庫版)p.124-125には1874〜1902年にかけての外交暗号の変遷が記載されている.稲葉千晴「日露戦争中の日本の暗号」などでは1885年に英語の語句を5桁数字で表わす暗号が制定されたこと,1904年に仮名符号が制定されたこと,1904年に英語の語句を表わす英字コードが使われたことが紹介されている.

本稿ではこれらの記述を関連付けて明治日本の外交暗号の変遷をたどる.


目次:

明治7年の外務省換字表(1874)

明治13年出版の横文電報用の電信符号(1880)

明治18年符号(1885)

英字符号

日清戦争後の暗号改正(1895-1902)

明治37年の仮名符号(1904)

リンク


明治7年の外務省換字表(1874)

外務省が最初に制定した暗号表は次のような簡単な換字表であった.ここで,92-99の部分は1874年5月14日版(外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285000 p.2)によった.(『ポーツマスの旗』はこれが最初であるかのような書き方をしているが,5月14日版は下記の続きとして6行×9欄=54個の増補をしたものである旨が明記されている.)なお,手書き版では「こと」「とも」は合略仮名が使われており,「96 メ」は「して」を表わすらしい (Wikipedia)


(1)上述した増補は,1874年の台湾出兵に関して設置された蕃地事務局によるものだが,蕃地事務局は半年くらいの間にこまめに何度か改訂を行なっている(別稿参照).


(2)1875年2月の時点では,「朝鮮事務掛リ」によりアイウエオの5行(イロハ順ではない)が増補されたものがある(外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285000 p.3).

B03030132400には,1875年9月の江華島事件 (Wikipedia) との関連で,朝鮮に遣わされた森山茂が外務卿寺島宗則に宛てた,この暗号を使った電文がある.一ページ目の八六(我),八八(彼)に加えて,イ一(我政府),ウ八(難),ウ九(易)といった増補分のコードや,ヲニ,ヱニ(平文の手書きが読めない)のようなコードも使われている.

翌1876年2月,朝鮮の諸外国に対する開国の契機となる日朝修好条規 (Wikipedia) が結ばれ,5月に日本に修信使が派遣された.「明治九年朝鮮国修信使金綺秀来朝一件」のB03030150900にはそれに先立つ4月13日付けの暗号文(長崎の尾間啓治から外務省宛)(B03030152500に平文付きの原文)があり,これも同じ換字表を使っているが,ア八(朝鮮),ウ三(至急),ウ四(火船)などの増補分のコードが使われている.


(3)上記とは異なる増補が外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285000のp.8にある(p.7は草稿らしい).こちらは海外の大使館などとの連絡用らしく,増補分は各行にはカナではなくABCDEFが付されている.

(2014年8月15日追記)大野哲弥『国際通信史でみる明治日本』(2012)第三章 (同著者の先行研究として大野哲弥「明治7年,台湾出兵時の暗号電報」(情報化社会・メディア研究 2009;6:9-20)(CiNii)がある)によれば,樺太千島交換条約(1875)締結に関わった駐露公使,榎本武揚(1874年3月に横浜発,6月着任)と寺島外務卿との間の1874年11月から1877年6月にかけての電報で使われた「新製秘号」では,上記の1〜9の行に加えてA1(日本政府),B1(魯政府),C7(魯公使),F4(至急御返事可被下候),F5(御差越可被下候)といった用語が追加されていたというから,ちょうどこのバージョンに相当する.なお,上記の暗号表の最初の5行だけのバージョンも残っているという.これは清音のみで濁音・半濁音は完備しておらず,ガは2500(カは25),パは130(ハは13)というように,濁点・半濁点用の数字を付記する方式を取っていたという.これは,榎本・寺島間で1874年6月,7月,9月に使われた記録があるという.


(4)外交史料館・和文電信暗号関係雑纂B13080285000のp.9にはさらに別バージョンがあるが,カナの順番など上記の蕃地事務局バージョンと一部類似している.


このように,外務省は1874年5月以前に換字表を導入し,以後,それに基づいてさまざまな異なる増補版が作成されたことがわかる.

明治13年出版の横文電報用の電信符号(1880)

当然といえば当然だが,外務省は早くから海外電信に使えるコードを用意していた.1878年の時点では,軍艦・清輝 (Wikipedia) のヨーロッパ遠征に当たり,海軍暗号では語彙が足りないので外務省電信暗号を使うことになった(C09112884100).同様のことは1886年にもあったらしい(C10123900300).また,1879年には海軍がロンドンとの連絡に外務省暗号を使っているが,その際,暗号電文中の「レソリー」が金銭の意の「レソールシス」の誤りではないかとのコメントがあることから(C09113542300),すでにresourcesのような英単語をコードとして使っていたことがうかがえる.

1880年には外務省が「横文電報」に使用する「電信符号」を出版していたらしく,1887年3月に外務省と長崎県との間の通信に借用される旨の記録がある(B12081280600).

1885年の時点で「元来現今使用スル所ノ暗号電信簿ハ曾テ英国領事公刊セシモノ故ヘ広ク世人知ル所ノモノニ有之候」(手書き文字が判読しにくく,この読みはJACARの検索時に表示される「詳細」データによる;この「詳細」は一般に誤りが多いが,この箇所についてはちゃんと読める人が書いたのではないかと思われる)(B13080286000 p.2)と述べられているのがこれに相当するものと推察される.

明治18年符号(1885)

外務卿(1879.9.10-1885.12.22)の井上馨は暗号の重要性を痛感し,1883年に外務省内に電信符号編纂掛を設け,権少書記官・栗野慎一郎を責任者に指名して研究させたという (『ポーツマスの旗』)

1885年5月16日起草の井上外務卿から在外各公使領事宛の通達(電信課長・佐藤愛麿の印あり)では,暗号で伝えられた内容を任地の政府などに知らせるような場合には適宜パラフレーズすることによって暗号についての手がかりを与えにくくすることを指示するとともに,目下,使用中の暗号電信簿に代わる符号を編纂中であると伝えている(B13080286000 p.2).この年三月には「暗号電信符号取調費」の裁可も得ていた(A10110427600 p.3).

英文用の5桁数字コード

1904年に制定した仮名符号の使用心得書(B13080297300)によれば,1885年に英文用のコード(明治18年符号)が制定されていた(当時,外交官が電文を英語で書くのは普通のことだった).

これは次のように英語の語句に5桁数字を割り当てるものだった.平文の配列はアルファベット順で,その後に数字に対する符号を集めたセクションがあることがわかる.

15768 and
15314 are
22534 by
24443 characterized
52115 Japanese Gov't
57941 moderation
66719 The proposals of
68448 reasonableness
93657 8

「使用心得書」によればp.863に数字のセクションがあるということなので,00001から99999までのコードをほぼフルに使った大部のコードブックであったらしい.ABCコードなど当時の欧米の主だった商用暗号(別稿参照)をも上回る規模である.

明治19年の編纂作業(1886)

1886年9月,外務省の電信課長・佐藤愛麿がおそらくコードブックに収録する語彙を選定するために陸軍省にその官制について照会した記録がある(C03030116900).これはおそらく上記明治18年符号の補遺ではないかと思われるが,それとは別の符号であった可能性も完全には排除できない.

英字符号

英文用の英字コード

ABCコードも含め欧米の商用暗号は数字のほかに英語・フランス語などの単語を使ったコード語を割り当てるようになっており,電文では誤り防止の観点から数字ではなくコード語が使われることが多かった.


下記で見るように,外務省暗号でもそのような英字のコード語は遅くとも1893年以前には使われていた.10万語規模のコードブックの改訂がそれほど頻繁に行なわれるとは思えないこと,次節で述べるように簡単なカナの換字表さえ長年同じものが使われていたことを考えると,その8年前の明治18年符号において,欧米の商用暗号のように,数字暗号とともに英字コードが定められていたことは十分考えられる.

1905年の時点で後述の明治37年仮名符号(1904年)がまだ配布されていなかった(B13080297300 p.34)在タイ公使館では明治18年(1885年)編纂と明治31年(1898年)編纂の符号を使っていたが「近来数字符号の電信を接受すること少なからず」として数字符号の送付を求めていることからも(B13080297300 p.41),在タイ公使館が常用していた明治18年の符号は英字コードだったのではないかと推測される.

また,同じく1905年に日本の情報員,明石元ニ郎がもたらした情報によれば,ロシアは明治18年(1885年)と明治31年(1898年)にそれぞれ改訂した暗号表を所持していたが,ハーグの日本公使館に保管されていたものを秘密裏に撮影したものだった (『ポーツマスの旗』p.133-140).このことは,少なくとも日露戦争時に明治18年符号が在ロシア大使館,在ハーグ公使館で使用されていたことを示す.

以下,少し時期は下るが英字コードの使用の記録を挙げておく.

●日清戦争前後の時期,軍が朝鮮の釜山・京城間に架設した軍用電信線は通信の遅延を防ぐため片仮名暗号・数字暗号のみとし,欧文は取り扱わないとされたので,1893年8月17日,これを外務省の官報通信にも使うにあたり,外務大臣・陸奥宗光の名で朝鮮駐在の大島公使に数字暗号を使うよう指示が出され,わざわざその用法は「今用いおる外務省電信符号凡例第三項に示しあり」と説明している.翌1894年8月18日に改めて念押しの通知がきたときには,外務大臣は「本省と公使館とは久しくこの方法を用い居たり」として数字暗号を使うよう釜山に指示を出すとともに,陸軍大臣・大山巌に対しては,「従来当省使用の電信符号は仮令途中に於て少しく誤謬を生ずることあるも解読に易き様専ら横文を以て綴り和文は格別秘密を要せざる通信若くは万止を得ざる場合に限り使用致居候」と説明し,実際に数字符号を使ってみたところ「数字符号の誤りは実に推読に難く往々主要の点に於て文意明晰を書くこと不尠」と警告している.これに対し,陸軍大臣は通信手には兵卒もいるので横文電報は扱えないと説明したが,10月には欧文にも対応できるようになった.(B07090434600)

●1904年に使われた記録が確実に残っている英字コード(別稿参照)が1890年代に使われていた英字コードと同じものである可能性がある.1904年に使われた英字コードはA-Uで始まるコード語を英語の語句に割り当てるものだが,ちょうどその続きに対応するV,W,Xの項目の増補の記録があるのである.1896年に外務大臣経由で大蔵大臣がロンドン駐在の監理官に連絡するために行なわれた増補である(B09072646200 p.8-9, 38-43, 45-48).また,1897年にはロンドンとの銀塊相場報告用特別符号としてWの部の増補がある(ibid. p.50-52,58-61).


●1897年4月にも英字コードの使用の記録がある(B12081334500).大隈重信外務大臣から在ニューヨーク領事に送った電文中,「日当并船車料は電送すべし」との符号Vainementと記すべきところを誤ってVagusと記してしまったという.領事からは理解できないと問い合わせがあったが,電文中に一語全く不明のものがあった場合には試しに誤符号の前後を調べてみればわかるはずと逆に注意されている.いずれにせよ,ここでもA-Uに続くVのセクションに「日当并船車料は電送すべし」のような完全文が収録されていたと考えても矛盾しない.

●1896年に小村寿太郎が朝鮮でロシアと交渉した (Wikipedia) 際には「英文暗号」で報告しているが(B06150003700 p.105, 106),これは平文が英文ということで,符号が英字であったか数字であったかまではわからない.


以上のように,欧米の商用暗号で広く使われていた普通の単語のような英字コードは,1904年には確実な使用の記録があり(別稿参照),少なくとも同種のものが1893年以前から使われていたことがわかる.さらに明治18年符号(1885)と同じものである可能性もある.

日清戦争後の暗号改正(1895-1902)

朝鮮駐在公使・領事との暗号(和文電信符号)の改正(1895)

日清戦争(1894年7月-1895年3月)後,同じ暗号を使い続けることの危険性が認識されたらしく,外交史料館・和文電信暗号関係雑纂のB13080285200には,朝鮮駐在公使・領事との間の暗号について,1895年,1897年,1900年,1902年と定期的な暗号表(和文電信符号)改正の記録がある.

暗号改正の必要を訴えた一人は,日清戦争勃発後に朝鮮駐在公使となったが戦後免職された井上馨 (釜山でお昼を) だった.上述したように,井上は外務卿の経験もあり,暗号にも関心を寄せていた.井上は1895年7月23日付の外務大臣臨時代理の文部大臣西園寺公望宛の書簡で,帰任の途次に電信で報告したとおり機密漏洩の疑いがあると伝えた.その原因として「同一の電信符号を永く使用」したため電信取扱者にも理解されるようになったと述べ,第一号・第二号・第三号の3通りの暗号表を作成して10日ごとに切り換えて使うことを提案している(p.7).3つの暗号表はいずれもカナのペアリング式の互換表である.換字パターンは不規則で,第一号ではイとル,ロとム,ハとエなどがペアになっていて互いに換字されるものとなっている(p.8).

同じころ,京城の内田領事,仁川の山座領事も,協議の上,それぞれ7月29日付,7月30日付で「和文電信符号第二号は従来永く使用されたるため朝鮮地方の電信技士はこれを会得し居るかの疑有之」として暗号表改正を提案した(p.10, p.13).山座領事からは7月18日付で暗号変更の必要性を訴えた電文(英文)も残っている(p.3).両名から提案されたA表は,カナと漢数字の〇〜十を不規則に混ぜた56字のペアリング式の互換表である(p.11, p.14).

だが,外務省の対応はお役所仕事らしからず迅速だった.おそらくは電信による警告を受けてすぐ暗号表の改定に着手し,これらの提案が届く前の7月24日付で西園寺外務大臣から井上公使・内田領事(京城),山座領事(仁川),加藤領事(釜山)へ,「従来使用の和文電信暗号は既に久に亘り且つ其符号簡易に過ぎ機密漏洩の掛念も有之に付今般別紙甲号の通り数字二字の暗号」に変更する旨を伝えている(p.4-5).この正式な暗号表はファイルされていないので,二数字による暗号ということしかわからないのだが,明治7年(上記)や明治37年(下記)の仮名符号を比べてみると,この間の一連の暗号表の改訂は,9×9または10×10の座標中でイロハ順のカナの配置を変更しただけのものではないかと推測される.

8月5日には早速,釜山の加藤領事から「暗号の件承知せり」と「新版数字にて」返信があった(p.6).暗号の提案をしてきた内田領事,山座領事からも8月8日,9日に受け取り確認があり(p.8, p.12),先の提案は取り下げられた(p.15, p.16).

(なお,吉村昭『ポーツマスの旗』(新潮文庫版)p.124-125の暗号表の更新についての記載は上記のことを指しているものと思われるが,井上・内田らの提案について混同があるようだ.)

その後の改正(1897, 1900, 1902)

その後の1897年5月(p.17-p.30,特にp.18),1900年9月(p.34-p.59,特にp.34),1902年4月(p.60-61)の改訂は事務的に進められたようである(お役所仕事らしく通知文も前例踏襲されている).届けられた新暗号の領収証や使わなくなった旧暗号の返納の記録はファイルされているが,返納された暗号自体はファイルされていない.

清国駐在公使との暗号の改正(c.1900)

清国駐在公使との間の暗号(電信符号)は1900年の前半に更新されたらしい.朝鮮駐在公使との間の暗号も1900年に更新されているが,これは9月なので,少なくとも同時ではないようだ.

1900年といえば義和団事件の年である.義和団の排外運動を受けて清国は6月に諸外国に宣戦布告し,北京の各国公使館のあった区域では清国軍の攻撃が始まり,日本人を含む外国人は,8月14日に列国の連合軍の到着で救援されるまで籠城を強いられた (Wikipedia)

この際,7月25日に北京駐在領事から在天津の領事宛に「新電信符号は焼失したるに依り旧符号を使用せよ 本官等は間断なき清国兵の攻撃に対し防御し居れり」との電報が(天津からの「特使にて」)あった(B08090187000;B08090194000も関連).

明治37年の仮名符号(1904)

1904年に新たな仮名符号が導入された.これについては同年2月の「仮名符号使用心得書」というマニュアルが残っている(B13080297300).マニュアルで挙げられている暗号化の例から暗号表を再構成してみると,次のようにカナを2数字で表わすものと考えられる.上記の朝鮮駐在公使・領事との間に1895年に導入された暗号がやはり数字二字によるものなので,1895年,1897年,1900年,1902年と定期的に改訂を進めてきた延長であると思われる.(この仮名符号は当初イギリス,ロシア,フランス,ドイツ,アメリカ,オーストリア,イタリア,スペイン,ベルギー,オランダ,清国,韓国の十二国駐在公使館に発送したとあるから,朝鮮駐在公使の1902年の暗号を更新したものであることは確かだろう.)

以号・呂号の2通りの表が規定され,奇数月は以号,偶数月は呂号を使うものとされた.以号のカナの割り当ては次のようになっている.


このようにカナ1字は2数字で表わされるが,電信として発送する際には5数字ごとに区切るものとされた.これは電信の課金が5数字単位で行なわれたことによる.

さらに,英語を使う際には上記の明治18年符号(旧符号)の5桁数字(ただし25を加える)も併用できるとされた.

微改訂(1905)

この仮名符号は翌1905年5月には早くも,各コード数字に1を加える微修正をすることになった(B13080297300 p.33).それにより「電報」を表わす30は31(以号),18は19(呂号)となり,99(以号では「ぬ」,呂号では「国」)は00となる.これは数年おきの改訂とは異なる緊急避難的なものらしく,暗号漏洩の疑義が生じたからだろう.1904年末にはロシアに暗号が解読されているらしいという報告を受けて「今後,極秘を要する電報は『第二号』または『仮名符号』を使用すべし」と訓電していたのだが (『ポーツマスの旗』新潮文庫版,p.132),その後「仮名符号」についても懸念が生じたためだろう.

数字コードと英字コード

このように,外務省では仮名用の数字コード,英文用の数字コード,英文用の英字コードが使われていた.国内ではカナの換字も使われていたが(別稿参照),欧米などでは和文(カナ)の電信は使えなかった.1904年の仮名符号などは広く各地の在外公館に順次送付された記録があるが,上記のように在タイ公館など1905年の時点で配布されていないところもあり(B13080297300 p.34),必ずしも一律ではない.

1908年の時点の朝鮮の統監府でも英文暗号しかなく,一方,在ウラジオストック領事館は「新旧数字符号ノ暗号電信」のみなので,本省を経由しないと直接やり取りできないと問題提起されている(B13080098400).

数字コードと英字コードの使い分けについてはもう少し調べてみる必要がある.

リンク

アジア歴史資料センター(JACAR)……上記のB05014019200などはここのレファレンスコード

(引用中,用字・仮名遣い・句読点などは現代風に改めた場合がある.)



©2014 S.Tomokiyo
First posted on 15 April 2014. Last modified on 15 August 2014.
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