ジョン・ウォリスと暗号解読1(1642-1688)

数学者ジョン・ウォリス(John Wallis; 1616-1703)は暗号解読の先駆者の一人でもあり,生涯に数多くの暗号を解読した.ここでは暗号との関わりを中心に,原資料を交えつつその前半生を追う.名誉革命後の活動と参考文献については別稿「ジョン・ウォリスと暗号解読2(1689-1703)」を参照されたい.

目次

ピューリタン革命期の暗号解読

ウォリスの暗号論(図書館に寄託した解読文集に付した はしがき)

個人的な暗号

王政復古前後

国王の親書の解読疑惑

チャールズ二世時代


ピューリタン革命期の暗号解読

ウォリスは,イングランドが大内戦(1642-1651)に突入してまもなくの1642年末に議会派による依頼に応えて解読したのを皮切りに,1653年まで議会派のために幾多の暗号を解読した.

ウォリスの自伝は暗号解読との関わりを次のように述べている.

……
それからは牧師として一年ほどヨークシャーのバタークラムでサー・リチャード・ダーリー(Darley)(尊敬すべき老勲爵士)の館で暮らし,次いでもう二年はレディ・ヴィア(ホレーシオ・ヴィア卿の未亡人)のもとで時にロンドン,時にエセックスのカースル・ヘディンガム(歴代オクスフォード伯の古くからの地所)で暮らした.
1644年,私はウエストミンスター会議の書記官の一人だった.会議の最初の会合からではなく,発足後しばらくしてからだ.……
会議に参加中,私はロンドンで牧師を務めた.最初はファンチャーチ・ストリートで,のちにはアイアンモンガー・レーンで,これはオクスフォードに下る〔1649〕まで続いた. 内戦が始まったころ,1642年,サー・ウイリアム・ウォラー〔将軍〕付きの牧師が(ある晩,当時寄宿していたレディ・ヴィアのロンドン館でみなで夕食の席についていたとき)捕獲された,暗号で書かれた手紙を見せてくれた.牧師がそれを見せてくれたのはめずらしいからということで(実際,暗号で書かれたものを見たのはそれが初めてだった),冗談半分,本気半分という感じで何かわかりそうかと尋ねた.私が(一目見て)できるかもしれないと言うと,驚いていた.単なる新規なアルファベット〔つまり,A-Zの各文字を別の記号で置き換える単換字〕ということならばであるが.
夕食が終わったのは十時ごろだった.それから自室に戻って考えてみた.そこに含まれる異なる記号の数(高々22か23)から,新規なアルファベット以外の何物でもないと判断し,二時間ほどで(就寝前に)解読した.そして翌朝,その写し(解読したもの)を送り返した.これが私の最初の暗号解読の試みだった.
簡単な暗号に対するこの思いがけない成功は,当時,偉業と見なされ,しばらくしてから別の性質のものに取り組むよう懇請された.それは当時フランスにいた国務大臣ウィンデバンクがイングランドにいた息子に宛てた手紙だったが,さすが国務大臣というべきかなり難しい暗号で書かれていた.それは700以上まである数字で書かれており,他の多くの記号が混ざり込んでいた.だがそれとてもそれ以後出会った多くの暗号ほど難しいものではなかった.当初は取り組むのに気乗りがせず,しばらく試してみたものの,絶望的としてうっちゃってしまった.だが,数か月後,再開し,幸運にも制覇できた.
この望外の成功に勇を得て,その後他の多くの解読に乗り出し(より難しいものものあれば,それほど難しくないものもあった),内戦およびその後の多年にわたって,取り組んだうちで解読できなかったものはほとんどなかった.だが,近年では,フランスの暗号法は以前に比べてきわめて精巧になり〔二部式コードの導入や直前の文字を反復・削除する記号(ここに引用した二番目の見本を参照)の導入のことだろう〕,いくつかのものは制覇したとはいえ,解読できなかったものも多い. そのような解読した手紙のうち,いくつかのものの写しがオクスフォードのボドリーアン図書館の書庫に残っており,さらに多くが私のもと,そして国務大臣のもとにある.
……
(ウォリスの自伝(1697)より; Peter Langtoft's chronicle p. clii)

聖職者でもあったウォリスは,議会派のための暗号解読を行なった時期と重なる1644年から1649年まで,国教会再編のために活動したウエストミンスター会議で書記官を務めた.数学の論文を書き始めたのは31歳の1647年以降で,1649年にオクスフォード大学の数学教授になって生涯その地位にあった.王党派の前任者に代わってウォリスがこの地位を得たのは議会派に対する貢献ゆえにクロムウェルが取り立てたのだという.着任の時点では数学上の業績はさほどでもなかったウォリスだが,その後着実に実績を積み,1656年には主要な著作Arithmetica Infinitorumを出版した.

1640年代のロンドンには,のちに王立協会の設立につながる科学者たちが毎週集まる場もできており,さまざまな問題を論じ合った仲間には1641年に『マーキュリー』を出版したジョン・ウィルキンズ(John Wilkins; 1614-1672)もいた.1648〜1649年ごろには一部の者はオクスフォードに移って交流を続けたが,ウィルキンズもウォリスもオクスフォード組だった

ウォリスの暗号論(図書館に寄託した解読文集に付した はしがき)

議会派のための暗号解読に区切りがついた1653年,ウォリスは自分が解読した暗号文のうちから選んだ227ページに及ぶ写しにはしがきをつけてオクスフォード大学のボドリーアン図書館に寄託した(採録されている最後の手紙は1653年4月4日のハーグ発のフランス語の手紙;なお,ウォリスは暗号解読の難しさを実感してもらうために三通の手紙を未解読のまま採録しているが,その一通はバッキンガム公の手紙であり,デーヴィスが解読した).ウォリスが自らの暗号観を語っているそのはしがきを下記に訳出する.テキストはJohn Davys, An Essay on the Art of Decyphering (1737)に掲載されているものによった.

ウォリスが寄託した解読文に付したはしがき(全訳)
以下に採録する手紙その他の書類をその由来や意義,私自身がどこまで関わっているかも示さずにあまりに唐突にご覧に入れると思われないよう,簡単に説明しておく必要があるかと思う.少なくとも,最初の入り口のところで私が(慣習どおりに)なにがしかを述べることをせず,何の挨拶もせずに素通りするとしたらぶしつけだと思うかもしれない読者の期待に応えるためである.
〔暗号の普及〕
公共の問題をいくらかでも知っている者であれば,特に国内が騒乱状態にあるときには,かかる公事を扱う者にとって,通信相手から絶えず情報を受けつつ,それでいて敵陣営に対して自分たちの評議や決意を秘することがいかに重大なことかは知らないはずはない.そのため,どの時代にあっても,重要な事柄については,いかにして通信相手に情報を安全かつ秘密裏に伝達し,敵に奪取されないよう,あるいは奪取されたとしても少なくとも暴かれないようにするかについて,細心の注意と多大な努力が注ぎ込まれてきた.このことが最も関心を集め,また難しくなるのは内戦下においてである.内戦下では敵対する陣営が入り乱れ,味方と敵を区別することが不可能ではないまでも難しくなる.
今回の内戦を機に,秘密記法,あるいは(通例呼ばれるところによれば)暗号記法(writing in cipher)について多くの方法が発明された.これまでは君主の大臣または同様の地位の者以外にはほとんど知られていなかった事柄であるが,近年,イングランドにおける騒乱・内乱の間に非常に一般的でなじみのあるものになり,今では,ひとかどの人物であればほとんど誰もが,多少なりとも暗号記法の知識をもち,機会があればそれを利用している.これまでは人は(現在使われている暗号に比べ)取るに足りない簡単な暗号でさえ,暴かれることなく十分安全だと満足していたかもしれない.暗号を解読できる者などほとんどいない時代だったのである.だが今や,危険を恐れるあまり人は至極慎重になり,この〔暗号の〕技術に多大な進展をもたらしており,今使われている暗号はほとんどが,それを書いたときの鍵の写しなしでは暴くことが不可能と判断される可能性がきわめて高いようなものである.
〔暗号文の長さ〕
この種の暗号で書かれた手紙のいくつかが,さまざまな時点で奪取され,解読のために私のところに持ち込まれた.その手紙が書かれている暗号の難しさに見合って十分な量〔の暗号文〕がありさえすれば,私が試みたうちで解読できなかったものはあまり多くない.そのいくつかを筆写したものをここに採録しておく.
〔最初の暗号解読〕
暗号化された手紙の解釈のような尋常でない任にあえて乗り出したときの自信のほどをきかれたならば,私はその平明な説明として本稿を挙げるのみである.
私が最初に試みたのは,ここに最初に収録したものである.暗号で書かれたものを見たのはこれが初めてだった.(それ以前には,そのような書き方は知らなかったし,ましてや暗号解読の作業に関することは何も,そもそもそのようなことが実現可能であるかさえも知らなかった.)だがその手紙は奪取後まもなく〔Davys注:1642年12月29日のチチェスター占領後にサー・ウイリアム・ウォーラー(Sir William Waller)によって奪取された.〕,めずらしいものとして私に見せられ,単刀直入に読めるかどうかを尋ねられた.私はそれを見せてくれた紳士に,読めるかどうかはわからないが,しばらく預けてもらえるならあとで報告すると伝えたうえで,一見単なる新規なアルファベット〔単換字暗号〕でしかないと思われるが,もしその通りであればできる可能性があると付け加えた.そのような答えを期待していなかった紳士は,読んでみるつもりがあるなら喜んで預けると言い,預けていった.
夕食後(私が最初にそれを見たのは晩のやや遅い時間のことだった),どのような進め方をしようかとしばらく考えたのちに着手し,数時間のうちに(就寝前に)困難は克服し,手紙を普通の文字に書き写した
〔コード暗号への挑戦〕
簡単な暗号(たしかにそれは簡単な暗号だった)に対するこの成功により,同程度の複雑さのものであれば他のどんな手紙でも同じくらい簡単に読める確信ができた.だが,それ以後出会うもののような複雑な暗号を解読できるとは全く思っていなかった.
この最初の手紙を私が解読したという報せを受けて,私はその後まもなく,いくつかの他の手紙に取り組むよう要請された.それらは当時奪取されたばかりの,数字暗号で書かれたものだった.だが一見して私はその仕事は不可能だと結論し,それを求めた紳士に,それを試みることは全くもって無駄なことだと思うと言った.というのも,前に一つの暗号を解読したとはいえ,それは全く別の性質のものであり,単一のアルファベット〔換字表〕でしかなく,新たに持ち込まれた手紙では一見して明らかな複雑さはなかったのである.そのため,新たな暗号文についてはそれ以上何も考えなかったし,聞くこともなかった.それらの手紙を解読するという考えは絶望的なこととして放棄されたのだろう.
その後ほどなくして,私は同じようにして,国務大臣ウィンデバンクからその息子への手紙〔Davys注:パリ発,旧暦1641年3月1日付〕〔訳注:同じものではないと思うが,別稿でWindebankが使った暗号を紹介している〕の解読に努めるよう改めて要請された.重要な事項を含んでいると考えられたのである.不可能な仕事だと判断して前にかかり合いになるのを断ったものと同様,成功する見込みはほとんどなかったのだが,執拗な懇願により,取り組んでみるよう説き伏せられた.
この第二の取り組みでは,予想通り,前回とは事情が大きく異なることがわかった.前回のものは最も簡単な暗号の一つであったが,この二番目のものは私が出会ったなかで最も難しいものの一つだった.一通り目を通してみると,やがて,混入している数字以外の記号は別として,数字は700台まで続き,そのため,途中の数字がすべて実際に使われるわけではないが(使われるべきとも思えないが),800近い数の記号を含む暗号に取り組まねばならないことがわかった.それも,前回の試みにおいて最も大きな支援を与えてくれた利点はいずれも得られない.私は暗号化の仕方も暗号解読の仕方も(前回の手紙から学んだことだけは除いて)全く知らず,そのようないかなる暗号に対する鍵も見たことすらなかったし,誰から情報を入手しうるかも,そのような暗号が利用される典型的な仕方も知らなかったのである.
しかしながら,一部には自分自身の好奇心から,一部にはそれを求めた紳士の懇請に応えるため,できる限りのことをやってみる決意だった.その実施のために考え付く最善の方法をいくつか構想してみたが,それでも容易なことではなく,何度も絶望的だとあきらめた.だが何度かの中断後に再び再開すると,ついに困難を克服した.だがその労苦と費やした時間は相当なもので〔Davys注:私の記憶によれば,ブレンコウ氏は約3か月だったと言っていた〕,ここに書く気はしない.だがそれでも,この努力により,多大な困難を伴うとはいえ実行可能な業務であることを発見したことで報われた思いだった.
〔暗号解読の先例と多様性〕
その後,パティスタ・ポルタおよび他の一〜二名がその主題についてなにがしかを書いていることを知らされた(そのことは以前には私は知らなかった).その情報に接すると,それらの著作から,後日同様の機会があった場合に助けになるような何らかの方向性を見出すことができるかどうか確かめたくなった.だがそのどれにも,私の目的にかなうことはほとんどなかった.その内容のほとんどはいかにして暗号で書くかを示し(これは私の仕事ではない),そのようにして書かれたものは人間の技により解読することはできないということを示すことのみであり,バティスタ・ポルタだけにいくらかの一般的な指針があることを見出した(私の誤解でなければ,何であれ解読に関する目的で書いたのはポルタだけであり,ポルタはその時代には,その方面での能力で有名だったようである).だがそれもことの性質から明らかなことや,私も自分で気づき,複雑な暗号の性質上許される限り利用したことであった.実のところ,ポルタの規則のうち,現在の暗号法(どうやらポルタの時代よりも今ではずっと改善されている)が何らかの仕方で完全に回避できないものはほとんどないのである.(このことは,それらの規則を実際に適用してみる気になればすぐにも思い知るであろう.)それらの規則は,当時使われていたらしい種類の暗号(ここに収録する最初の手紙のようなものと思われる)にのみ適合するものであり,現在使われているような込み入った暗号ではほとんどあるいは全く助けにならない.このように,他からはほとんど助けが期待できず,またその種の機会があるとすれば,自分自身の努力および今回の事例が与えてくれる観察結果に恃むほかないことがわかった.実際,ことの性質上,他のいかなる指針も許されるものではない.どの新しい暗号もまず新たな工夫がされており,解読のための一定の方法というものはありえない.〔暗号解読を〕試みる者は第一に,できるだけ忍耐力と洞察力を備えている必要がある.あとは剣闘士は闘技場で作戦を決めるというように,真実であると結論しうる何かに思い至るまであたう限りの最善の仮説を行なっていくしかない.
〔モチベーション〕
とはいえ,すでにうまくいったことで,その後,身分や位階の高いさまざまな人から要請されたときには同じような挑戦に対してより乗り気になっていた.以下に採録した文書が明かすように,それらにも成功した.その成功に対し,私の最大の報酬は,私自身の探究心を満たしたことであり,要請した友人を満足させられたことだった.しばしば出くわしたあの信じがたいほどの労苦を乗り越える忍耐力をもてたのは,ひとえに困難を追究する私の探究的な性向ゆえである.これより少ない奉仕で私が期待できる以上の報酬を受ける例がしばしばあったことは知っているが,私の探究心が,私が受け取った利益や期待できる利益以上に私を説得するより大きな原動力となったのである.
〔解読された責任〕
ここで使われているさまざまな暗号がどのくらいよくできているか,それらを解読される危険にさらしたのが暗号の弱さ(よって,よりよい暗号を工夫しなかった関係者の怠慢)であったのか,そのような危険のない暗号を発明することは不可能なのかについて私の判断を求められるとしたら,私はどちらでもないと答える.というのも,人間の技によって解読できないような精巧な暗号がありうることは疑わないが,これらの〔解読された〕暗号を使った者に技量や注意が欠けていたと責めるつもりもない.これらの暗号をどのような人物が,どのような内容について使うのかを考えると,暗号を注文する技量が欠けていたとか,内容を秘匿する注意や努力が欠けていたことはありそうもないことが容易に信じられるであろう.そうした人物の多くは非常に高い位の人物や暗号を主要な職務とする他の者であり,いくつかの文書の内容は最重要の関心事であった.そういう場合には,そのような人物たちが,弱い暗号や解読の危険がないと想定できない暗号を利用したりするとは思えないし,用件もそのような暗号に託されるのはふさわしくない.
〔簡単な暗号〕
たしかに使われた暗号のいくつかは取るに足りないもので,たとえばp.133のものは,(仮に暗号の名に値するとしても)特にバティスタ・ポルタが述べており,子供にも一般に知られている古い暗号でしかないが,その暗号で書かれた内容のためには十分な秘匿性がある.同様のことは,p.211の暗号にもあてはまる.これも簡単な暗号でしかないが,その内容はそれ以上のものは要求しない.p.214のものは〔普通の数字暗号などとは異なるものの〕上記に比べてそれほど難しくないが,その必要もない.内容がそもそも暗号を必要とするほどのものではないのである.とはいえ,それも他のものと同様に採録することを不適当とは考えなかった.というのも,知人のなかに,その種の記法の解読には他の暗号法よりも特別な困難があるという持論をもつ人たちがいるからである.だがそれもこの寄託により,他のものに比べてより大きな困難を呈するものではないことが明らかになるであろう.現に,それをここに挿入したあとになって,(予想はしていたが)それが単にシェルトン氏のZeiglography〔Davys注:〔ラテン語の〕sigla,notae,速記の意味の〔ギリシア語〕Σιγλαに由来するsiglographyのこと.1671年に八折判でロンドンで印刷されたシェルトンのラテン語版ではTachygraphiaと呼ばれている〕〔訳注:日記作者サミュエル・ピープスの「暗号」としても知られる〕と呼ばれる新しい速記法でしかないことがわかったが,それでもp.1のものが上述のものと同程度の難しさであり,単一のアルファベット〔単換字暗号〕を含んでいるだけであることを見出すのにかかった時間は一時間余りでしかない.p.213のものはやはり同じ性質のものであるが,これを挿入したのは,普通以上の難しさがあるからではなく,むしろ,簡単な暗号ではいかに少量でも露見しうるかを明らかにするためである.一方,より手の込んだ暗号では,必然的に,ずっと大量の暗号文が必要とされる.p.198およびp.200のものは冗字が混入されているためにいくぶん複雑さを増しているが,それでもしいて言うなら簡単な暗号と言ってよいであろう.
〔数字によるコード暗号の優位性〕
だが,上記以外については(すべてが同じくらい優れているわけではないが)そのうちの最悪のものでもよくできた暗号であり,賢明な人が秘密を託すに値するものと言ってよいであろう.結果的には解読を免れ得なかったとはいえ,それは心配する理由がほとんどないものの一つであったと信じている.私自身の見解では,それらの多くは過去に使われたことのある最良のものに匹敵するよくできた暗号で書かれており,私が暗号を使うとしたら,きわめて重大な用件であっても,これらの多く,いや大半よりもよくできた暗号を使うことまでは望まないであろう.
これらのうちの最良のものを使うのであっても,探知される危険性があることは否定しない.(ただし,そうはいってもここに採録するこれらの手紙の解読前にはまず信じられなかっただろう.)また,安全性の点でこれらに勝る他の何らかの暗号を考案する可能性も否定しない.だが(将来の発明について早計に判断しないようにすると)(現在普通に使われている数字暗号に比べて)より巧妙でありかつ,同じくらい使いやすい暗号法を考案することが簡単にできるとは思われない.これらよりも精巧な何らかの暗号法を工夫しようとする者があったとしても,よりよいとするところの暗号法は,同じくらい暴かれやすいか(作者はもっと優れていると考えるかもしれないが),さもなければその暗号を使って書く者,それを読む者いずれにとってもきわめて面倒で,我慢できるほどの手早さはかなわず,数字暗号について簡単に実証できる便利さの多くを確かに欠くであろうことは疑いない.
〔解読される危険性〕
それでも解読される可能性があるとわかっているような暗号をなぜ信頼する気になるのかと尋ねる者があったとしたら,こう答える.どんな小さな危険性にも二の足を踏むような人はそもそも暗号を必要とするような事柄に関与すべきではない.関与すれば,暗号が解読されるよりもずっと大きな危険を避けることはできない.暗号で書かれた手紙がそもそも奪取されるというのは可能性でしかない.奪取されたとしてもすべてではなく,多くの手紙のうちの一部だろう.その一通が最も重要性の低いものであることだってありうる.重要性があったとしても,解読を試みようという者の手には渡らないこともありうる.解読を試みたとしても,その労力は無駄に終わるかもしれない.解読の可能性はあるとはいえ,誰でもできるというわけではないのである.戦乱中にいずれかの陣営によって奪取された手紙は数あれど,私の知る限り,私の手に渡ったもの以外に解読されたものはなかった.それらの手紙も私のもとにさえ来なければ,解読の危険を逃れられたと信じている.
だが,私と同じことができる者が他に何人かみつからないと考えているのかと思われるかもしれない.私の答えはこうだ.いや,他にいる可能性があることは疑いない(私がやったのと同じことを他の誰にもできないと考えるほどうぬぼれてはいない).だが経験上,その「何人か」はあまり多くないであろうし,みつけるのも簡単ではないであろう(もし簡単だったら他の誰かがやっていたはずだ).それに,試みればできる者でもそのような作業に取り組むつもりにならないかもしれないし,取り組んだとしても他の仕事があまりに多くて集中できないかもしれない.集中できたとしても,継続するために必要であることがわかるであろう多大な忍耐力を持ち合わせていないことだってありうる.実のところ,私にとっては,他に誰も解読しないことよりも,他の誰かが解読することのほうが驚きだ.よって,こうしたもろもろの考察の結果,重大な用件を適正な場面でそのような暗号に託すことは,大きな冒険だとは考えない.むしろ,私が頻繁に暗号を使う必要に迫られるとしたら,もっと精巧だがより面倒な暗号を考案する骨を折るよりは,これらのような暗号を利用することを選ぶであろう.扱いやすい暗号の便利さは,その解読によって発見されるかもしれないというわずかばかりの可能性を補って余りあることは疑いない.
だが,一人によって成し遂げられたから誰にでもできる簡単なことだと考え,その基準で危険も評価する者がいるかもしれないので,いくつかの手紙(末尾のもの)を未解読のままにしておいた.我こそはと思うならば,それで技量を試してみられたい.これらは残りすべてに比べて格別難しいものを選び出したわけではない(それらは,その前に採録したいくつかの手紙と,同じ暗号ではないものの,同じ種類のものでしかない).私のもとに届いた最後のもののいくつかであり,他のものはこの種の暗号をいくつか未解読のままにしておこうと思いつく前にご覧のようにみな挿入されてしまっていたという理由による.
〔数字暗号よりよい暗号の模索〕
これをすべてふまえた上で,これらの暗号を使う何らかのより有利な方法を見出すこと(これらの暗号がすでに有しているか,少なくともほぼ同等でないようなそのような方法を着想することは難しいだろうが),あるいはこれらの暗号のどれよりも優れた何らかの暗号法を考案すること(これもあまり簡単なことではないだろうが)に関心のある者がいれば,私としては異存はない.私が上記のことを述べる主たるねらいは,書いたものがたまたま解読されたことで,用件を不十分な暗号に託したとか,探知されたのは単に暗号の弱点ゆえだとして,そのような暗号を使った人々の怠慢や愚行を責めるべきではないことを示すためである.むしろ,それらの暗号は(その多くは)これまでに使われた,または今後使われそうなどの暗号にもひけを取らないものと信ずる.よって,解読の可能性はあるにしても,機会があれば(前述したように)私自身使うのを恐れるものではない.
〔採録した文書について〕
ここに筆写した文書については,どのように体系立てて配列するかにはあまりこだわらなかった.よって,ほとんどは先に手にしたものを先に配列した.
冒頭の若干のものは,どんな形で私のもとに届けられたかがよくわかるよう,まずは暗号だけで筆写し,次いで読みやすいよう可読文字で解釈だけを示し,その後,暗号の適用がより明瞭に観察できるよう,両者を一緒に示し(行間に解読文を赤字で入れた),最後に解読過程から収集された鍵を,少なくとも実際にその手紙で使われている限りにおいて示した.
だがこの手間を全体にわたって続ける必要はないと考え,したがってその後の手紙では文書自身を一度だけ筆写し,その解読文を行間に記入し,その鍵を追加した.
文書の筆写にあたっては,一文字一文字に至るまで原文に従うよう注意を払った.よって,綴りの誤りや文章中の他の明らかな間違いを直したりはせず,適宜余白に注記した.
解読文では,時に,文脈の意味から解明できない若干の単語,特に名前や数字について空白を残した.もっとも,そうした語でさえ,文書自身からわかる状況から,あるいは少なくとも他の仕方で知りえた事実と照らし合わせることによって推論できることもあった.ただし,この場合,私は時に,(わかったときであっても)現在の目的にとっては全く重要でないので,名前を挙げるのを控えたことがある.
推測に基づいて意味を完成させることができた若干の箇所では,意味が,別の単語で表わされている可能性があり,どれを取るべきかは他の状況からははっきりしなかったので,空白を残して,意味を補完するために私自身と同様の推測の自由を読者に残すことにした.そのような事例において私自身の不確実な推測を差はさむと,私が自信をもって決定した他のいくつかの単語についても同じように理由に乏しかったのだと読者に思われかねないからである.
それでも,若干の同義語においては,間違ったほうを選んだことがありうるとは思っている.suddainly〔突然〕の代わりにsoon〔まもなく〕,safety〔安全〕の代わりにsecurity〔保安〕などとしてしまうたぐいである.だがそのような些細な事柄であっても決定にあたっては細心の注意を払い,慎重に行なったので,そのような間違いがあるとしても,非常にまれであると自負している.
〔当事者への呼びかけ〕
この点に関し,また残りすべてにおける解読の正しさについても,それらの手紙の発信元または宛先の当人が(こうしてそれらの手紙を閲覧に供したことにより)自分の鍵を使って解読文を調べ,その結果,私の間違いがあったとしてそれをみつける機会があったとしたら,お願いしたい.そうした方々のうちには,何らかの有意な誤りをみつけられたとしても,私に厚意を示す義理はないとお考えの方もあると思う(もっとも,私がそれらの手紙を解読したからといって特に気分を害する正当な理由も思いつかないが).そうした人々には,次の厚意,いやむしろ公正さを望みたい.私が間違いや根拠のない推測によっていささかなりともそれらの人々に不当な扱いをしないよう細心の注意を払ったように,そうした人々にも,仮にいかなる形であれ私を非難するとしたら,誠実をもって私を扱い,間違いでないことを間違いだと主張しないで欲しい.そのような人々がそのような心構えで私の作業を調査すべく骨折ったとしても,私の推測を否定する機会を見出すよりは,導きとなるものが何もないと思われるなか,一見疑わしい事例において私がいかに正しいほうを選ぶことができたかに驚嘆するであろうと信じている.
〔寄託の動機〕
それらの手紙を閲覧に供することにした動機については,こう言うにとどめておく.私はそれらを印刷して出版する価値があるとは考えなかったが(それに印刷・出版することはあまり便利ではなかっただろう),それでも完全に埋もれてしまうべきでない程度には意義があると考えた.それは特に,このような試みがそれほどありふれたことではないからである.また,他の者が見ればきっと満足するであろう.少なくとも次のような利点が得られることは間違いない.暗号の問題を探求する好奇心をもつ者はここに多様なパターンを見ることができ,(その多くは)他のどこかで出会う可能性がある暗号にひけを取らないものである.それに,人によっては,十分安全であると結論される可能性がきわめて高いようなよくできた暗号でも探知される可能性があると知って満足することもありうる.そして最後に,これにより,この時代に使われた暗号がどのようなものであったかを後世の人々が知ることができるかもしれない.
これだけは言っておく必要があると思った.これ以上言う必要はないだろう.あとはこの全体を,あえて見てみようという人の判断にゆだねることにする.

ウィルキンズの『マーキュリー』が古今の著作を引用しながら秘密記法を体系的に論じつつも当時の暗号の実態とは乖離していたのとは対照的に,ウォリスはあくまでも自分が解読した暗号に焦点を絞っているので,そのため言及されているのは単換字暗号,速記,数字によるコード暗号にすぎない.そのうち,自分が解読したはものの,簡単さと解読されにくさのバランスを考えると数字を使ったコード暗号が最適との見識を示している.実際,ウォリスが解読した中でも数字暗号は主流らしく,その後も数字暗号は長年にわたって外交現場での主流であり続けるのだが,数字暗号について全く触れなかったウィルキンズ(1641)の『マーキュリー』や音符暗号を最適と推すシックネス(1772)(別稿),コード暗号は手間がかかりすぎるとしてサイファー方式に基づく新規な暗号方式を提案するブレア(1819)(別稿で扱う予定)のような例を考えるとウォリスの先見の明がわかる.ウォリスはすでに,自らの経験から,アルゴリズムの秘匿による安全性という古い考え方を脱していたといえる.

また,暗号解読には暗号の複雑さに見合った量の暗号文が必要であるとも指摘しており,現代の暗号学でいう「判別距離」の概念を定性的に洞察していたことになる.

なお,上記のはしがきを書いた1653年の時点では「その手紙が書かれている暗号の難しさに見合って十分な量〔の暗号文〕がありさえすれば,私が試みたうちで解読できなかったものはあまり多くない」としているが,先に引用した後年の自伝(1697)ではその後フランスの暗号が高度化して「解読できなかったものも多い」と漏らしている.

個人的な暗号

薔薇十字暗号 (1657)

背景は不詳だが1657年7月22日付けで知人(議会派のリチャード・ローレンスとされる)から挑戦として送られた暗号文に解読結果を書き込んで返送したものが残っている.その暗号は薔薇十字暗号であった(研究社『暗号事典』p.526の図版参照).


王政復古前後

ジョン・サーロー

ウォリスが護国卿体制下で諜報活動を統括した(1653-1659)ジョン・サーロー(参考)に奉仕したことは,いくつかの著作では当然視されている (Wikipedia (accessed on 11 November 2012) のウォリスがサーローのもとで暗号解読部門を確立したとの記述は裏づけを欠くように思われる).Oxford DNB(Thurloeの項)は王党派暗号解読に関してSamuel MorlandとIsaac Dorislausの名を挙げるのみである一方,ある著者はサーローから復古王政に引き継がれた人材として,Dorislausは時にMorlandに助けられて郵便庁で手紙の開封や筆写に当たったと述べ,ウォリスを暗号専門家として挙げている (Alan Marshall, Intelligence and Espionage in the Reign of Charles II, 1660-1685, p.80, 83-84, 23, 93)

Thurloe State Papersには捕獲された暗号の手紙も収録されているが,そのうちAn inercepted letter from Paris, 8 July 1653 (NS)のフランス語の手紙は解読されている.手稿の筆跡を見れば解読者がわかるかもしれない.(王党派Kingston, John Barwick, General Masseyの暗号(別稿(英文)参照)も解読されて収録されているが,これはvol.1のPrefaceにあるようにサーローの収集した文書とは由来が別なので,本来の受信者が解読したのだろう.)一方,オランダの暗号の手紙は一見すると単純な換字式暗号のようだが未解読のまま収録されている(一例としてBeverning and Vande Perre to the Dutch ambassador Boreel at Paris, 1 September 1653 (NS)).そのほか An intercepted letter of du Gard in a letter to White, Brussels, 10 June 1656 NS An intercepted letter, Brussels, 12 August 1656 NSAn intercepted letter, from Jo. Waddall, 22 August 1656 なども未解読のままであり,ウォリスの手に書かれば解読できたものもあるような気がする.

結局,(サーロー罷免後に)次の述べるスコットのもとでウォリスが復帰したという記述 (Underdown p.295) が正しいように思う.

トマス・スコット

議会派で諜報活動を指揮した(1649〜1653年, 1659年5月〜1660年4月)トマス・スコット(1653年にサーローに代わられたが,1659年に長期議会が復活すると返り咲いた)が王党派に告白したところによると,王政復古前の国王とイングランドの長老派の間の交渉について,情報員から得られる以上に,捕獲された手紙から情報をつかんでいたという.それらの手紙は「通常,あらゆる単語,音節が暗号で書かれており,暗号解読に関し比類なき能力の学識者であるオクスフォード大学のウォリス博士によって解読された(博士は内容には決して関わらず,技法と巧妙さにのみ関心を示した).それ〔暗号解読〕は君主に用立て,奉仕すべき至宝である.それが関連する幾人かの人に与えた悲しい影響は,私は私の誠実な助言および投票行動によって防ごうと努めた……」(C.H.Firth, 'Thomas Scot's Account of His Actions as Intelligencer during the Commonwealth', English Historical Review (1897), p.122 (Internet Archive))

王党派との接触

王政復古の直前の時点でのウォリスによる暗号解読として具体的に知られている例がある (Life of Dr. John Barwick p.250-251; 別稿も参照).バリック,ランボールド(いずれもイングランド国内にいた王党派)らの手紙がダンケルクの守備隊によって捕獲されてしまい,各々の手紙はみな異なる暗号で書かれていたにもかかわらず,ことごとく解読されてしまったのだ.

だがウォリスは決して筋金入りの共和主義者というわけではなく,あくまでも依頼に応じて解読したということだったようだ.接触した王党派に対して,重要な手紙や固有名を含む手紙の真意を明かしたことはないし,これからもしないなどと話した (Rumbold to Hyde, 7 February 1660; CClSP, iv, p.550).その一方で,その気になればいろいろ明かせたと話したという (Life of Barwick).バリックは友人のマシュー・レンを通じて聞いた「自分が解読できない暗号は知らない」というウォリスの言葉を王党派の大法官ハイドに報告している(CClSP, iv, p.561, 598)

体制側が解読を吹聴しても,関係者はみな,鍵(暗号表)が敵の手に落ちた可能性はないとしてはったりだと思っていたが,ウォリスと親しかったマシュー・レン(同名のイーリー司教の息子(1629-1672);Wikipediaによると1661年にオクスフォード大を卒業)が解読された手紙の写しをもらって書いた本人たちに見せたところ,みな自分が書いたものだと認めたとのことである.

政治的中庸

残念ながらウォリスの自伝では,王政復古については素通りしてしまっている.だがその末尾では,大内戦,名誉革命などの変転をくぐり抜けてきたことを念頭に,一般論として中庸を貫いたということを述べている.

運命のめぐりあわせにより私の生きた時代には幾多の大きな変転がありました.その間私が常に努めてきたことは,両極端の間の中庸の原則に従い,私が暮らすことになった場所における時の権力にほどほどに従って行動し,私とは異なる行動をしたみなに反して,そのような場合にありがちな激しい憎悪をもたないことでした.一方の陣営に与した有為の人物を多数知っています.どの陣営が優勢であろうと,真に宗教,学識そして公共の福祉のためになる優れた計画を(私にあたう限り)促進することを望みつつ,機会がある限り善行をする用意があり,物事がしかるべく運ばない場合には,現状とできるだけ折り合いをつけてきました.それにより(神の恩寵により)偉大ではないまでも,安楽で有意義な人生を送ることができたのです.
(ウォリスの自伝 p.clxix)

ウォリスは科学上の論争を含め多くの点で争いをいとわない面もあったが (Kemp p.9),その政治的中庸は,少なくともチャールズ一世の処刑に反対する署名をしていた (DNB) ことでは確実に裏付けられる.そのおかげもあって,王政復古後はウォリスはチャールズ二世のもとで厚遇された.(ちなみに,ウィルキンズは1656年にクロムウェルの妹ロビナと結婚して護国卿政権下で厚遇され,王政復古でいったん地位を失うもその後チェスター司教に取り立てられた.)

国王の親書の解読疑惑

ピューリタン革命期の王党派の秘密文書の暴露ということで最も有名なのは,ネーズビーの戦い(1645)で国王軍が完敗を喫した際,国王の文書箱が奪われて多くの書類が議会派の手に渡り,あまつさえ出版された事件だろう(別稿(英文)参照).公表された中には解読された暗号文もあり,その解読をしたのがウォリスだとして批判されることになった.

その先鋒が現われたのは護国卿体制時代の1657年の刊行物(A severe inquiry into the late Oneirocritica; or an exact account of the grammatical part of the Controversie between Mr. Thom. Hobbes and John Wallis, D.D., p.7)でのことだった.著者ヘンリー・スタッブ(Henry Stubbe)はウォリスが泥沼の係争を繰り広げることになる相手に肩入れしており,「〔ウォリス〕博士は(数ある中でも,多くの忠実な人々の破滅につながったことに)ネーズビーで捕獲された国王の文書箱を解読し,その偉業のモニュメントとしてオリジナルを解読文とともにオクスフォードの公共図書館に寄託した」と述べた (Biographia Britannica p.4131)

だが,少なくともウォリスが寄託した解読文集にはネーズビーの文書は含まれていない.ウォリスが王政復古の直前に寄託した文書を持ち出して工作したという指摘もあった (Biographia Britannica p.4131) が,その形跡は見当たらないという (Davys, kemp).ウォリスの「はしがき」からしても文書にはページ番号が振られているようなので,途中の一部を痕跡を残さず抜き取ることは難しいだろう.王党派のハイドも(別稿参照),議会派によって出版された解読文は,すでに解読されているものか,暗号の鍵が捕獲されたものに限られていたという認識を示している.ハイドの証言もうのみにはできないが,Davysもハイドのこの認識を支持し,国王が使っていた暗号の鍵は同じ文書箱に保管されていて一緒に捕獲されたと考えるのが自然と指摘している. (なお,ウォリスが寄託したのはオリジナルではない.オリジナルは解読を依頼した政権に返したものと思われる.)

ウォリスが国王の親書を解読したことはあったようで,チャールズ一世が息子に宛てた1647年2月3日の手紙(別稿(英文)参照)の解読が図書館に寄託した解読文集に含まれている (Geneva, Astrology and the Seventeenth Century Mind, p.25の図).だが,王党派が決定的な敗北を喫したネーズビーで捕獲された文書となると特別な意味合いがあったのだろう.

1680年代にウォリスがネーズビーで捕獲されたチャールズ一世の手紙を解読したとの話が再び取りざたされたらしく,ウォリスは1685年4月8日にオクスフォード主教のジョン・フェル(Bishop Fell)に次のように語っている.ちょうどこの二月にチャールズ二世が薨去してジェームズ二世が即位したばかりのタイミングであり,ウォリスの地位をめぐって何かやり取りが合ったのではないかと想像される.

最近,亡き国王〔チャールズ一世〕の手紙,つまりネーズビーの戦いで亡き国王の文書箱から捕獲され,その後〔共和派によって〕出版された手紙を解読したということで私に対する不平が取りざたされているようです.これについて,四十年以上も前になされたことを今になって蒸し返すのが正しいかどうかということはさておき,そのようなことは全くありません.それらの手紙や書類については,どんなものであったにせよ,出版されたもののほかは一つとして見たことがありません.それに,聞いたところでは,それらの書類は,出版されたとおりの平文の単語の形で捕獲されたものであり〔少なくともこの点はウォリスの勘違い〕,私にせよ他の誰かにせよ,解読など全く必要なかったということです.ただ,その一部は,誰がやったのかは知りませんが,フランス語から英語に翻訳されたということです.たしかに,その後他の人物の他の手紙が時折捕獲され,私のもとに持ち込まれました.その一部はたしかに解読しましたが,一部は解読すべきではないと考え,当時権勢を振るっていた人々の一部の不興を買うことになりました.私の態度は一貫して,閣下にもご不快に思われないだろうやり方でした.当時の国王陛下(チャールズ一世)やそのお味方には,国王の生前も死後も,機会ある限り数々の便宜をはかってきました.さらに,今私に不平を言う者たちでさえ,私の立場におかれていたとしたらする勇気はなかったほどの奉仕もしました.そして亡きチャールズ二世陛下には,王政復古前にも王政復古後にも数々の善良な奉仕をしました.それは陛下御自ら,かたじけなくも何度か私に認めてくださりました.大法官クラレンドン卿〔エドワード・ハイド〕か国務大臣ニコラス氏か亡き陛下がご存命であられたら,一部の者が申し立てるのとは非常に異なる評価をしてくださるでしょう.そして今上陛下〔ジェームズ二世〕もそれをいくらかはご存知だと思います.それにまだ存命の名誉ある他の何人かも.
Wallis to Dr. John Fell, 8 April 1685 (Peter Langtoft's chronicle p.clxx)

チャールズ二世時代

チャールズ二世時代の暗号解読が話題になることはあまりないが,国務大臣アーリントン(1674年に辞任)のもとで暗号解読をしていたことは,「ジョン・ウォリスと暗号解読2(1689-1703)」で引用する1691年8月15日付の手紙でウォリスが明記している.ただ,1691年ごろに比べれば仕事量は十分の一にも満たなかったということである.

ウォリスが1668年以来フランスで亡命生活を送っているクラレンドン伯(エドワード・ハイド)の手紙を解読していたことを示す客観的な史料もある.1669年10月7日付けのジョン・エリスからウォリスへの下記の手紙は,解読すべき手紙を日常的にウォリスに転送した多くの手紙のうちの一つであるように思われる.エリスは復古王政の諜報活動を担ったサー・ジョーゼフ・ウイリアムソンに仕え,ウイリアムソンはアーリントン卿の指揮下にあり,次の引用で「閣下」はアーリントン卿を指すものとされる. (Correspondence of John Wallis (1616-1703), iii, pp.252, xxix)

貴方から受け取ったものはきわめて満足のいくものです.ただ,今後はお送りいただいたものがすべて届いたことが確実にわかるよう,送る包みの番号を三〜四語で書いてください.
今回は英語のものを十通同封します.いくつかは新しい暗号ですが,ごく簡単なものです.閣下はできるだけお急ぎいただくことを望んでおいでです.フランス語のものについては,次の便でかなりの数を送ります.
(John Ellis to Wallis, 7 October 1669 OS)

ウォリスの仕事はアーリントン卿の国務大臣辞任で終わることはなかった.1683年6月にライハウス陰謀事件(国王チャールズ二世と王弟ジェームズの暗殺未遂事件)が発覚したとき,アーガイル伯の暗号の手紙(別稿(英文)参照)が捕獲されたのだが,このときウォリスはこの暗号を解読できなかったと告白している (James Walker (1932), The Secret Service Under Charles II and James II)

上記のフェル主教への手紙に見られる弁明からも,ウォリスがジェームズ二世には信用されていなかったことがうかがえるが,そのジェームズ二世は即位後わずか四年足らずで名誉革命により追放の憂き目に遭う.ウォリスは名誉革命後の新政権では再び精力的に暗号解読をすることになるのだが,それについては「ジョン・ウォリスと暗号解読2(1689-1703)」で扱う.



本稿は当初「ジョン・ウォリスの暗号論」として公開しましたが,拡充・再構成して「ジョン・ウォリスと暗号解読1(1642-1688)」と改題しました.
©2012 S.Tomokiyo
First posted on 21 October 2012. Last modified on 26 April 2013.
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