XYZ事件と暗号

1797〜1798年のXYZ事件は,米仏関係改善のために大統領アダムズが送った三名の使節に対し,フランス政府が使節団を正式に受け入れる前提として賄賂を要求したため交渉の席に着くことさえできなかった外交史上の事件である.フランス政府は代理人オタンゲ(Jean Conrad Hottinguer),ベラミー(Pierre Bellamy),オートヴァル(Lucien Hauteval)を通じて使節団とやりとりしたが,大統領が議会に開示した報告書ではこの三名の実名がX,Y,Zで置き換えられて発表されたことでXYZ事件の名がある.米仏関係を険悪化し,海上での戦争状態にまで至らしめた.

対仏関係の冷却

アメリカはフランスには独立戦争で支援を受けた恩はあったが,1790年代になるとフランス革命の過激な展開にアメリカ人の間に戸惑いが広がった.1790年代初頭にアメリカではフェデラリスト(アレグザンダー・ハミルトン,ジョン・アダムズら),リパブリカン(トマス・ジェファソン,ジェームズ・マディソンら)という二大党派が成立したが,親フランスのリパブリカンに対して親イギリスのフェデラリストはフランスに対する批判を強めていた.

1793年にはフランス革命政府が送ってきた公使ジュネはアメリカを英仏間の戦争に巻き込みそうになる行いをして,アメリカ政府が召喚を要求するまでになった(ジュネ事件).1794年に米英間で結ばれたジェイ条約もフランスの反発を買った.アメリカはフランス革命戦争には中立を保っていたが,イギリスの荷も運んでいたためフランスは私掠船にアメリカ船を拿捕させるようになり,1796年には新任のアメリカ公使チャールズ・コーツワース・ピンクニーの受け入れを拒否するまでになった

特使の派遣

第2代アメリカ大統領ジョン・アダムズは,チャールズ・コーツワース・ピンクニー(Charles Cotesworth Pinckney),ジョン・マーシャル(John Marshall),エルブリッジ・ゲリー(Elbridge Gerry)の三名からなる使節団をフランスに送って関係改善を図ろうとした.アメリカ船の被害の防止や補償,通商条約の締結,1778年の米仏同盟条約に基づくフランスからの支援要請について話し合うことが目的だった.

使節団の受け入れ拒否と贈賄要求

使節団は1797年10月にパリに着くと,さっそくフランス外相タレーランを訪ねた(10月8日).のちにナポレオン政府やウイーン会議で辣腕をふるうタレーランだが,当時はまだ,フランス総裁政府の外相としてその華々しい経歴の途についたばかりだった.使節団が訪ねたときは取り込み中とのことで,いったん帰って連絡を待つよう言われた.

やがてタレーランの代理人オタンゲ(X)が面識のあったピンクニーを訪ねてきた(10月18日).フランス政府は5月16日のアダムズの議会演説の内容がフランスの名誉を傷つけるものと考えており,使節を受け入れる前提としてその償いが必要だということだった.償いの具体的な内容はというと,ずばり,金だった.総裁政府と外相のための心付けをタレーランに預け,さらにフランス政府に借款を与えなければならないというのだ.心付けの額として,25万ドル(120万リーヴル,5万ポンド)という数字も示された.そのような贈賄はヨーロッパでは通常の慣行だったが,アメリカ使節には考えられないことだった.

だがオタンゲはアダムズ演説の問題箇所を指摘することも,借款の額も挙げることもできなかった.実はオタンゲ自身は直接タレーランとはやりとりはないとのことで,タレーランの腹心であるベラミー(Y)を伴って改めて説明に来た(10月20日).ベラミーはアダムズ演説で問題とされている箇所を示し,それぞれ訂正・釈明・補償を求めた.また,アメリカがフランスに借款を与え,さらに暗黙の前提として心付けを贈れば,タレーランが総裁政府を説得して使節団を受け入れさせることができるということだった.ただし,ベラミーもタレーランが信頼する腹心というだけで,交渉権は与えられていなかった.

翌日,ベラミーは個人的見解として,額面割れしている3200万フローリン(約1200万ドル)のオランダの債券をアメリカが額面価格で買い受けることで事実上フランスに借款ができるという案を提案した.戦後オランダが債券を償還すればアメリカにとっては何の損もないというものである.しかし,いずれにせよフランス側の使節団の権限を超えたものだった.

この段階で使節団は10月22日付で国務長官宛てに公式報告書No.1を書き,マーシャルは10月24日付でジョージ・ワシントンにも報告した

「ノーだ.ノー.一文たりとも出すものか」

10月27日にはフランスの国際的立場を強める知らせがパリに届いた.ナポレオン・ボナパルト将軍がイタリア戦線での勝利を足がかりにオーストリアと外交交渉を進め,10月17日にカンポ・フォルミオ条約が調印されたのだった.この条約により,フランスは対仏大同盟の一翼であるオーストリアを離脱させ,両国の間でヴェネツィア共和国の領土を分割した.

その日再び使節団を訪れたオタンゲは,総裁政府は勢いづいており,心付けを出さなければフランスがアメリカに宣戦布告することもありうると警告した.アメリカ側は,戦争を望むものではないが,アメリカはすでに宣戦布告された戦争よりもひどい状況に置かれていると言った.現状ではアメリカの通商は無防備なままに略奪にさらされているが,戦争となればアメリカも自らを守る手だてを講ずるというのだ.

オタンゲがしびれを切らして言った.

「あなたがたは肝心の点について何も言っていない.金だ.金の提供が求められているのだ.」

使節団がすでにはっきり言ったと言うと,オタンゲは繰り返し答えを求めた.これに対し,ピンクニーが言った.

「答えはノーだ.ノー.一文たりとも出すものか.」

マーシャルも,アメリカは中立国であり,交戦国への資金の提供は中立を破ることになり,独立国としてそのようなことを強制されるいわれはないと主張した.

使節団がアメリカの独立国としての名誉を犠牲にするわけにはいかない一方,フランス側としてもアダムズ演説によって名誉を傷つけられたと考えており,また王政時代の要求を下げることは共和国の威信にもとるものと考えていた.両者の主張は平行線をたどるばかりだった.

第三の男

タレーランは別のチャンネルでの接触も図っていた.10月22日,第三の男オートヴァル(Z)がゲリーに接触してきた.タレーランはアメリカ亡命時代にゲリーと知り合っており,個人的に会う意向を伝えてきたのだった.(ちなみに,このゲリーはのちに不自然な選挙区設定で「ゲリマンダー」という言葉を生むことになる人物である.)

ゲリーはアダムズの友人だったがもともと親フランスで,そもそもゲリーの任命にはフェデラリストが反対していたほどだった.代理人を通してやりとりするタレーランのやり方に,マーシャルやピンクニーは当初から受け入れるべきではないとの意見だったが,ゲリーは波風を立てずにもう少し様子を見るべきと主張し,これまでは内輪もめを避けるためにマーシャルとピンクニーが譲歩してきたのだった.

ゲリーは11月28日に「旧友」としてタレーランを訪ね,借款についての指示を仰ぎに使節の一人が本国に戻ることを提案したが,それも本題について議論ができるというのが前提であり,結局は平行線に終わった.

XYZを通じた接触の打ち切り

カンポ・フォルミオ条約でタレーラン個人の総裁政府内での立場も固まり,タレーランとしてもやや積極的な動きができるようになった.だが,やはりフランス自身の戦略的・外交的強みがものをいった.10月30日,ベラミーとオタンゲがゲリーに招かれて朝食を共にしたあと,ベラミーはアメリカがヴェネツィアと同じ運命をたどるかもしれないと警告した.イギリスを頼りにしようにも,イギリスとてフランスに和を乞わなければならないだろうと言う.さらに,老獪なタレーランの腹心らしく,アメリカ国内での党派対立も突いてきた.交渉が決裂したらアメリカ国内の親フランス勢力が「あなたがたの言うフェデラリスト,フランスでいう親英派」の責任を問うだろうというのだった.この日,ベラミーはアメリカ側からすべき提案を文書として渡していった.

結局,使節団は11月1日には,非公式な代理人を介したやりとりを続けるべきではないと決めた.3日,使節団はオタンゲにこれ以上間接的なやりとりをするのはアメリカに対する侮辱だとして,確かな権限のある人物からでなければこれ以上の提案は受けるつもりはないと通告した.

同じ11月3日,マーシャルは本国のチャールズ・リー(司法長官)に暗号で手紙を書いて,資金の要求が繰り返されたことやアメリカの親仏派が交渉決裂のとがをフェデラリストに負わせると言われたこと,ヴェネツィアの運命を警告されたことなどを伝えた.国務長官への公式な報告については「これらの一切の会話は公式な手紙の準備をしているところだが,遅延と暗号でのみ書く必要性とのためにまだ送れずにいる」とした.(次の積極策の代わりに暗号を使って本国に現状を報告し,しかも6通のコピーを送ることを提案したのはゲリーだった.)11月8日付の報告書No.2は,「四つ折り判で36ページの暗号文,8ページの暗号化した証拠物件として,先月22日付のNo.1で開始された詳細の続きを同封します」という表書きを付けて送られた.

積極策

11月11日,使節団はついにタレーランに使節団を公式に受け入れるよう求める書簡を送った.マーシャルは当初からその考えだったが,フランス側を刺激したくないというゲリーに譲っていたのだった.だが,タレーランは回答を引き延ばし続けた.

その後,マーシャルは米仏問題におけるアメリカ側の立場を正式にフランス政府に伝えるべきだと改めて主張し,ゲリーも賛同するようになった.だが,マーシャルが中心となって数週間がかりで書き上げ(1月17日付),さらに二週間がかりで翻訳したこの文書も,タレーランの態度を変えさせることはなかった.

ゲリーへの接触

非公式な折衝を断られたあともタレーランはゲリーとの個人的な交友を続けた.ピンクニーはロンドン駐在公使のルーファス・キングに,フランス側がゲリーを厚遇することによって使節団の分断を図ろうとしていると報告した(12月14日).12月24日,キングも暗号で手紙を書いて懸念を表明し,ピンクニーとの間で使われていた暗号を変更した.しかし,ゲリーも心得ており,贈賄の要求にはノーの答えがゆらぐことはなかった.

タレーランとゲリーの個人的な交流は2月になっても続いていた.ゲリーは心付けを支払うほうに傾いたが,マーシャルとピンクニーは依然として反対だった.使節団の間で激論が戦わされるようになり,タレーランはマーシャルとピンクニーを排除して,ゲリーだけを交渉相手とする方針をもちかけてくるまでになった.

その間,1月18日にフランス政府が出したイギリス製品を積んでいる船は荷主を問わずに拿捕対象とするとの布告によって,これまでタレーランと非公式に会うことを避けていたマーシャルやピンクニーもそれどころではなくなった.そこで3月2日,使節団は初めてタレーランと対面した.タレーランは借款を戦後にするという提案をしてきたが,それでもアメリカ側にとって受け入れられるものではなかった.

結局,4月になってマーシャルとピンクニーは相次いで退去した.ゲリーはタレーランから交渉相手と目をつけられており,ゲリーが帰国したら宣戦布告だと言われていたため,パリに残ることにした.フランス側も条件を下げて懐柔を図ったが,ゲリーは同僚が去った今,単独で交渉する権限はないと突っぱねた.フランスに対する不信感を募らせたゲリーは,結局,7月には帰国の途についた.

使節団からの公式報告

使節団がフランス政府から受けた仕打ちについてはさまざまな噂がアメリカに伝わっていたが,使節団からの一連の公式な報告が国務長官のもとに初めて届いたのは1798年3月4日の晩のことだった.だが,その長文の大半は暗号で書かれており,解読には日数がかかりそうだった.

国務長官のもとに届けられた報告のうち,暗号化されていない部分からだけでも使節団が公式に受け入れられなかったことはわかった.大統領アダムズは翌3月5日,議会に短いメッセージを送って事情を伝えた.

その後,解読が進むにつれ,大統領周辺では事態の深刻さが一層明白になっていった.二週間後の3月19日,アダムズは使節団からの報告の結果を検討した結果を議会に伝えた.アダムズは,使節団にも指示をした自分にも落ち度はなかったとした上で,交渉成立の見込みはないとの認識を示し,議会に戦争の準備を求めた.連邦に大きな権限をもたせるのが持論のフェデラリストとしては連邦軍を整備する絶好のチャンスだった.

これに対し,親フランスで常備軍に警戒感を抱くリパブリカンはアダムズの報告を疑った.ジェファソン(政敵のアダムズのもとで副大統領だった)は手紙でアダムズのメッセージを「正気でない」と言った.解読された文書にはフランス政府に交渉の用意があることを示す内容も含まれているのに,それを大統領が隠しているのではないかと考える向きもあった.たとえばリパブリカン系の新聞『オーロラ』は,大統領が文書を議会に開示するのを拒むとしたら,自分の行動に支持が得られるかどうか自信がないからだと書いた.4月2日,下院は大統領に,使節団からの報告の公開を要求した.

報告の内容が軍備増強の持論に有利と知っているアダムズにとって,これは願ってもないことだった.当初は革命下のフランスにいる使節たちの身の安全を考えて公開を考えていなかったアダムズだが,使節団からの報告書No.1からNo.5を近々公表することを伝えて退去勧告は送っており,今公表してもニュースが大西洋を渡るまでには使節団はフランスを出ると考えていた

1798年4月3日,議会の要求に応じてアダムズは三名の使節団からの手紙の解読内容を議会に開示した.その中で,フランス側の使節三名の名前はX,Y,Zという匿名にされ,そのためこの事件はXYZ事件と呼ばれるようになった.

XYZ使節団の暗号

使節団から国務長官への公式報告で使用されている暗号は語彙数1593のコード暗号で,たとえばtheなら954というように単語や文字を数字で置き換えて表わすものである.たとえば,有名な「ノーだ.ノー.一文たりとも出すものか(No. No. Not a sixpence)」というピンクニーの言葉は次のように暗号化されていた.

449(no) 449(no) 457(not) 1193(a) 1178(six) 27(pen) 493(ce)

さらに,コード数字の右下に∧を付ければ語末のs(複数,所有格,三単現),/を付ければ過去分詞を表わすなどといった規則も規定されていた.ほかには6のような記号を付ければ文字をダブらせる,∨を付ければ1文字削除などの決まりがあった.下記の例(10月30日にベラミーが書面で渡した提案に対する使節団の回答)ではちょうどこの4つの記号がすべて使用されている.

なお,解読された報告を公表したことは,外国当局にXYZ使節団の暗号の強力な手がかりを与えた可能性があった.何らかの形で暗号文の写しを入手していれば,解読結果と照らし合わせてかなりのコードを特定することができるのである.この暗号はパリに残ったゲリーが5月に使ったのを最後に使用されなくなる.

反仏世論の沸騰

文書はマスコミにも公開され,フェデラリストのメディアはこぞってフランス非難を書き立て,アメリカの名誉のための戦争を主張した.リパブリカン系のメディアはフェデラリスト政府や使節の責任を問い,慎重論を説いたが,世論は反フランス一色になった.ピンクニーの「ノーだ.ノー.一文たりとも出すものか(No. No. Not a sixpence)」という贈賄拒否のことばは「防衛のためなら数百万でもいとわないが,法外な請求は一文たりとも認めない(Millions for defence, but not one cent for tribute)」という英雄的なスローガンとなって取り上げられた.人望のあるほうではなかった大統領アダムズも,このときばかりは人気が高まった.

その後,宣戦布告こそないもののフランスとの海上戦に突入した.アメリカ本土へのフランス軍の侵攻も深刻に考えられ,独立戦争を指揮した初代大統領ジョージ・ワシントンが全軍の司令官に任命された.また,アダムズ政権は,外国人移民や野党勢力を抑えるための外人・煽動防止法を制定した.

和解

その後,フランスも態度を軟化させたため,アダムズは再度,オリヴァー・エルズワース(Oliver Ellsworth),ウイリアム・R・デイヴィー(William R. Davie),ウイリアム・ヴァンス・マレー(William Vans Murray)からなる使節団をフランスに送り,1800年10月には合意に達することができた(モルトフォンテーヌ条約).しかし,フランスとの和解はハミルトンらフェデラリスト強硬派の反発を買い,この年の大統領選でジェファソンに敗れる要因となった.



参考文献
American Historical Papers
Albert J. Beveridge, The Life of John Marshall, V2
Henry Jones Ford, Washington and His Colleagues (1918)

©2009 S.Tomokiyo
First posted on 6 May 2009. Last modified on 6 May 2009.
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