クラレンス公の殺害

シェイクスピア版ではリチャードは兄クラレンス公ジョージに刺客を送り込んだことになっている.酒樽で溺死というセンセーショナルな死に方は数年後の文献(Mancini, 1483)にも見られ,特に疑う理由はないというが,リチャードが兄の死にかかわったという伝説は多分にシェイクスピアによるもののようだ.クラレンス公ジョージは兄王エドワード4世にたてつく数々のふるまいをしており,その中には王権を侵す反逆罪に当たるものもあった.1478年1月には国王自身が弟に対する私権剥奪法を議会に上程した.議会がクラレンス公を断罪したのちも国王は処刑を命じるのを10日間逡巡したが,2月18日にクラレンス公は殺害された.クラレンス公の殺害はエドワード4世の確たる意思によるものだったものと思われる.
この直後に司教スティリントンが一時投獄されたことなどをふまえ,リチャード3世擁護派はしばしばクラレンス公がエドワード4世の事前結婚とその子供たちの庶出について知ったことがエドワードに決意させたと考える.小説もそのような設定になっているものが多い(Plaidy, Penman, Bowen3者とも).


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