ヘースティングズ処刑(1483年)

ヘースティングズは1483年4月,少年王エドワード5世への王位継承に際し,ウッドヴィル派の先手を打ってリチャードが先王から指名されたとおり護国卿として実権を握るのに貢献した人物だった.リチャードに急を知らせて行動を促したり,母后を説得して少年王の護衛兵を2000だけにさせたりしたのがこのヘースティングズだった.ところが同年6月13日金曜日,リチャードは枢密院の会合でヘースティングズ卿が護国卿リチャードに対する陰謀を企てていると告発し,裁判なしに即刻処刑させた.
この事件はリチャード三世による「王位簒奪」へ向けた行動の出発点と見ることができる.
当初,護国卿として少年王を盛り立てていく姿勢を見せたリチャードの行動方針が明らかに変わったのは6月10日のことである.この日,リチャードは自らの地盤である北部のヨークに派兵を要請する手紙を送っている.これが陰謀を知ったからだとすれば一応筋が通る.陰謀がでっちあげだったなら,ヨークからの援軍が届いてから行動に出てもよかったはずである.また,端役まで執拗に追及されたことは陰謀の実在をうかがわせる.さらに,ヘースティングズ処刑後に通常の反逆者の例に反し,遺族に寛大な処置をしている.
このように陰謀が実際にあってリチャードが誠意をもって行動したことを示唆する状況証拠はあるものの,決定的とは言い難い.しかも,裁判もなく処刑したことは弁明の余地がないように思われる.ヘースティングズの裏切りを知ったショックのあまりで片づけるわけにはいかないだろう.
ではリチャードが実権を握った際の最大の功労者であったヘースティングズにとって,リチャードに反旗をひるがえす動機があっただろうか.これについてはヘースティングズの忠誠心と野心の二面から考えられる.まず,先君エドワード4世の親友であり,少年王エドワード5世への忠誠心厚いヘースティングズにとって,リチャードが少年王を廃位しようとしているのことへの不満がある.事実か口実かはともかく,エドワード5世が私生児だったとのスティリントンの証言(⇒エドワード4世とエリナー・バトラーの事前結婚:「王位簒奪」の正当化)は聞かされたであろうが,ヘースティングズにとってそれは受け入れがたいものだったに違いない.一方,ヘースティングズは人並みの野心もあり,リチャードとバッキンガム公の接近で自分の影響力にかげりが出てきたことが不満だったこともありそうなことである.
こうした二面からの不満はヘースティングズをかつての仇敵ウッドヴィル一派と結託させるほどのものだったのだろうか.少なくともヘースティングズ(妻はソールズベリー伯リチャード・ネヴィルの娘キャサリン)の義理の娘セシリー(ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルの娘アリス(キャサリンの妹)の娘)がウッドヴィル家のドーセット侯の妻だったというつながりはある.また,かつてのウォリック伯とマーガレット・オブ・アンジューの同盟を見ても,乱世にあっては昨日仇敵だったことをもって今日同盟者となる可能性を否定することはできない.
だがどこまで具体的な計画があったかは永遠にわからない.
ここでリチャード悪人説の大家トマス・モアに立ち戻ると,ヘースティングズを密告したのはケーツビーだとしている.リチャードがヘースティングズの同調が得られるかどうか探るために送ったケーツビーに対して,ヘースティングズが不用意に心のうちを話したのだという.(ヘースティングズに対する不吉な前兆などシェイクスピアの劇的な描写はモアの記述を下敷きにしている.)一方,同時代の史料(Mancini)にはバッキンガム公がヘースティングズ(ほかにモートン,ロザラムも)の同調を打診したという記録もある.いずれにせよ,ヘースティングズが少なくともリチャードの計画に難色を示したことは確かだろう.
なお,ジョゼフィン・テイ『時の娘』はヘースティングズ処刑は即日ではなく,1週間後だったという19世紀末になって登場した新説を採用しているが,アメリカのリチャード3世協会のページによるとこの説は今では否定されている模様.


リチャード三世のホームページへ inserted by FC2 system