ヘンリー6世の死

ランカスター朝のヘンリー6世はヨーク朝のエドワード4世の捕囚となっていたが,1471年5月4日のテュークスベリーの戦いでエドワード・オブ・ランカスター(ヘンリー6世の嫡男)が戦死した直後の5月21日の夜,ロンドン塔で没した.ヨーク朝の公式発表では不満と沈鬱による死ということだが,それにしてはタイミングができすぎていた.それまでは,なまじヘンリー6世を殺せば若いエドワード・オブ・ランカスターが国王を名乗って勢いづく危険があり,むしろランカスター朝の国王の身柄を手にしているほうがヨーク朝にとっては有利だった.エドワード・オブ・ランカスターの死でその必要がなくなった矢先,しかもエドワード4世らがロンドンに帰ったその晩の死ということで,ヘンリー6世の死が暗殺によるものという説は早くからあった.
シェイクスピアではヘンリー6世もリチャードが殺害したことになっているが,これもテューダー朝の歴史家に取り上げられていた説をシェイクスピアが取り入れたものである.
最も初期の史料は下手人は名指ししておらず,1480年代のWarkworth's Chronicleではヘンリー6世が死んだ晩にリチャードがロンドン塔にいたことが触れられているが,ロンドン塔は当時,王宮であり,グロスター公リチャードや国王エドワード4世がいたこと自体は何の不思議もないことだった.
テューダー朝の歴史家たちはリチャードの関与を記述しつつも,「絶え間ない報告では」(Polydore Vergil),「人々がいつも言うところでは」(Thomas More)といったただし書きを付けているのだが,シェイクスピアは戯曲という性格上,リチャードが手を下したと断定している.
現在ではヘンリー6世の死がエドワード4世の意思によるものだということは定説になっている.リチャードについては,当時イングランド軍察長官だった立場上,直接の指令を下したことは考えられ,小説The Sunne in Splendourもその線で叙述されている.
なお,1910年にヘンリー6世の遺体調査が行われ,頭蓋骨に暴力の跡が認められたという.


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