歴史小説

Dear and Glorious Physician (Taylor Caldwell)

聖書の『ルカ伝』と『使途行伝』の著者とされるルカを主人公にした小説.少年期にキリストの生誕を告げる星を見たものの,人生の苦難に直面して長年神を憎んでいたが,イエスの磔刑のころ神の恵みに気づき,福音の普及に努めるという設定になっている.帝政発足直後のローマ帝国を背景に,恵まれない人々の医療に尽力しながら内心空しさを覚えるルカが救いを見出す物語を克明に描き出している.専門家の監修を受けたという医療の描写は詳細で,ピラトやヘロデはもちろん,ローマ皇帝ティベリウスまで自然な形でストーリーに関わってくるなどスケールも大きく,聖書とは独立した物語として読み応え十分.
聖書との関連では,ルカ伝のさまざまなエピソードをルカが当事者から聞くという場面もいろいろあるのだが,当事者が呆然としてしまって結局漠然とした描写に留まったりするのでもどかしい.そんななか,イエスの処刑の場面を,その場を取り仕切ったローマの士官(聖書に出てくる百人隊長の上官)の視点で描いている部分は最も直接的に聖書とつながりがある部分だろう.
女性の社会進出や奴隷制,世界を導く大国などに関し,20世紀の文明批評も込められているようだ.
(あと少しというところで本を通勤電車で落としてしまったため,最後まで読んでいない.)
あらすじ
第一部
アイネイアスはローマの有力軍人プリスクス・キュリヌスの奴隷の子だったが,主人の子ディオドルスと一緒に勉強させてもらったことで頭角を現わし,有能な帳簿係になり,ディオドルスがひそかに思いを寄せていた女奴隷のイリスとの結婚を機に自由の身となった.
家を継いだディオドルス(シリア総督)はある日,アイネイアスの十歳の息子ルカーヌスが病気の娘ルブリアのために祈っているのを見た.ルカーヌスは未知なる神に祈っていたのだという.(未知なる神に酒を捧げるのがギリシア人の古代からの慣習だった.)それはユダヤ教の神に似ているようだったが,ルカーヌスは神を父と呼び,神はユダヤ人だけでなく異邦人のためにもいるなどと話した.感心したディオドルスはルカーヌスを家まで送り届け,アレクサンドリアの大学で勉強させてやると言った.
ルカーヌスがみつけた薬草のおかげでルブリアの容態は落ち着くが,医師ケプタはルブリアの命が長くないとわかっており,ルカーヌスだけには話しておいた.二人は東方へ向かう明るい星を見た.カルデア(バビロニア)人のケプタは予言されている何かを待ち望んでおり,その象徴に金の十字架を持っていた.
ルカーヌスはルブリアと一緒に勉強するようになったが,優秀で,やがてディオドルスの哲学談義の相手をするまでになった.
ある日,ケプタに連れられてアンティオキアに行ったルカーヌスは,秘密の神殿で大きな十字架を見て,処刑という忌まわしいものの象徴のはずなのに,不思議と安らぎを覚えた.ケプタは三博士と,ルカもいずれ自分たちの仲間となるだろうと話し合った.
その後,金髪碧眼の美少年ルカーヌスをケプタの奴隷だと勘違いしてローマの高官の慰み者に買い取ろうとする商人に出会った.ルカーヌスは,奴隷の非人道性を身をもって感じたのだった.
年に一回シリア総督として裁きをする日はディオドルスにとって文字通り頭痛の種だったが,年頃になってきた娘ルブリアがルカーヌスと親しくするのを見て激昂し,館に戻ると,ローマから訪問中だった義兄弟の元老院議員カルウィリウスに当り散らした.
ディオドルスの家は古いローマの家系で,ディオドルスは初代皇帝オクタヴィアヌス(アウグストゥス)とも何度も戦陣を共にしたことがあり,現皇帝ティベリウスからも目をかけられていた.最近のローマの風紀の乱れには常々不満に思っており,オクタヴィアヌスが民主制を崩壊させたことについて当人に直接苦言を呈したこともあった.
ルブリアの病が再発し,死期は近いと思われた.反発するルカーヌスに,ケプタはかつて希望の星を見たこと,ルカーヌス自身も患者に神の話を聞かせていたことを思い出させ,伝承のヨブの話を聞かせたりした.
ルカーヌスが苦悶していると,ルブリアが悲しまないでと話しかけた.ルブリアは自分の死期が近く,それでルカーヌスが悩んでいることをわかっていたのだ.ルブリアは,昔ルカーヌスから聞かされた神のことを信じていると話し,ケプタからもらった十字架をルカーヌスに渡した.ケプタによれば,十字架の上で死ぬことになっている,大昔に予言された者が,まだ子供だが今どこかですでに生きているとのことだった.
ルブリアが亡くなったとき,ルカーヌスは,神への復讐として病める者を癒して神から取り上げる決意をし,ケプタについて医療現場を回った.ケプタは治療するだけでなく,心の持ちようや道徳・神についても患者に語りかけていた.
娘を喪くしたディオドルスは放心状態だったが,ルカーヌスが亡くなった父との関係をとりとめもなく話すと不思議と癒され,同じように悲しんでいる妻アウレリアのことを思いやる気になった.
ルカーヌスの癒す力が評判になったが,ケプタはその心にあるのが神への憎悪であることを知っていたので,子供の姿でまだ知らないどこかにいる神に慈悲を祈った.
妊娠しているアウレリアが急に危険な状態になった.ルカーヌスは神に祈りたい気持ちになったが,神は苦難を定めるもので,祈るのは筋違いかとも思えた.だが,ディオドルスには「神々」がついていると言ってやった.
アウレリアを助けることはできなかったが,死産と思われた未熟児はルカーヌスの無心の努力で生き延び,祖父にちなんでプリスクスと名付けられた.
奴隷たちは病を癒すルカーヌスを神との仲介者だとあがめたが,ルカーヌスは内心では神を敵視していた.プリスクスはルカーヌスの母イリスが育て,ディオドルスはローマに行き,引退して農地に帰ることを願い出ていた.
ディオドルスはイリスと結婚するつもりで戻ってきたが,アウレリアが自分のイリスへの思いに気づいていたと知って,償いのために断念しようとする.だがイリスは,アウレリアからもディオドルスのことを託されたことを話した.
第二部
四年後,ルカーヌスはアレクサンドリアの大学を卒業しようとしていた.ローマではイリスとディオドルスとの間に一男一女が生まれていた.
ルカーヌスの優秀さを認めるユダヤ人の先生ヨセフ・ベン・ガムリエルは,ルカーヌスが数学でなく医学を志すことは残念だったが,悩めるルカーヌスをユダヤ教の教えに導こうとした.ルカーヌスは先生から孔子の翻訳を入手したり,インド人の先生と交わったりして,いろいろな教えに接する.
患者を研究材料としてしか見ない医学の先生たちにはルカーヌスは批判的で,奴隷や貧困者に対しても親身に接していた.ユダヤ人の先生のヤコブだけが理解者だった.ある日,奴隷が盗みで捕まって激しい頭痛を訴えていたとき,他の医師は癌だと言って頭の切開の材料にしようとしたが,ルカーヌスは心の病だと見抜いて,解放されて書記として生きる道を与えてやることで回復させた.
ガムリエルが富裕な友人エラザルの病を見てほしくてルカーヌスに紹介する.病人は心臓病ですでになすすべはなく,なぜかルカーヌスが誘拐された息子アリエーをみつけてくれると信じて亡くなった.娘のサラはどこかルブリアを思わせるところがあり,ルカーヌスが弟を見つけることを願った.ルカーヌスはこの一家に対する残忍な仕打ちを見て,神への怒りを新たにするのだった.
ルカーヌスは卒業後はローマで医師としての仕事を約束されていたが,ローマは医療が整っているので自分は貧しい者の治療に当たりたいと言って辞退し,家庭教師クーサを唖然とさせる.アレクサンドリアを去る前,師ガムリエルは,十三年前に東方へ向かう星が現われ,予言されていたユダヤの王がベツレヘムで生まれたという噂があること,それを恐れたヘロデ王が生まれた子を殺させ,その一人が自分の子であったこと,先日過ぎ越しの祭でエルサレムに行ったときに殺された我が子と同年輩と思われる少年が神殿で自分たちを相手に堂々と議論して感動したこと,心配して迎えに来た母親に,父のところにいるに決まっているのになぜ心配したのかと言い返したことなどを話した.ガムリエルはその少年が何者であったかは言うことができず,ルカーヌスなら見出せるかもしれないと言った.
ローマでは,死期が迫ったディオドルスが上院で演台に立ったが,紹介役の上院議員カルウィリウスも予想もしなかった皇帝批判をぶち上げた.カルウィリウスは急ぎティベリウス帝に会い,事情を説明したが,皇帝は取り巻きが偽善者だらけであることなどディオドルスの指摘は正しいと述べたが,それでも死を命じなければならなかった.だがディオドルスの遺産と奥方イリスをもらいうけるカルウィリウスの下心は唾棄するように退けた.病死したディオドルスは皇帝から名誉をもって弔われる一方,カルウィリウスは毒殺された.
皇帝の任命を断ったルカーヌスは宮殿に呼び出されるが,物怖じしないルカーヌスは皇帝に平然と対し,健康に関する助言までして気に入られた.しかも世を絶望視するルカーヌスは,皇帝にも同じ思いを感じ取るのだった.
ルカーヌスは半年間宮殿に留まることを約束したが,皇后ユリアの誘惑を足げにしたことで命を狙われることになり,皇帝の配慮でローマ追放とされた.宮殿を去るとき,ルカーヌスは,ルブリアから渡された,ケプタのものだった金の十字架を取り出すのだった.
第三部
大学を卒業して七年が経った.各地で恵まれない人々に医療を施すルカーヌスは偉大な医師との評判を得ていた.年に何度かローマに戻ってもお咎めはなかった.アレクサンドリアのサラ(24)とは文通を交わし,時々会ってもいた.ルカーヌスはサラに自分のことは忘れて結婚するように勧めるが,サラは愛するルカーヌスを待ち続けるつもりだった.
アテネで口がきけないが学のある黒人奴隷ラムスを買い受けて自由にしてやったところ,ラムスはどこまでもルカーヌスについていくという.ラムスは,ソロモンの秘宝を受け継いだアフリカの秘密の小国の王だったが,ハム族にかけられた呪いを解いてくれる救い主を求めていた.ルカーヌスはそれがユダヤ人の伝説の話だとわかり,自分は信じないものの,神の恵みを信じるサラの手紙を見せてやったところ,ラムスは感激した.サラは,新年に雑踏の中で言いようのない寂しさを覚えていたところ,十代の青年に会ったのだが,青年は不思議と自分の名前だけでなく内心の苦しみまで知っているようで,一人ではない,神がともにいると言い,サラは心が洗われる気がしたというのだ.ラムスはルカーヌスの相棒になった.
極貧の身から身代を成した陶芸家テュルボら兄弟の依頼で,ルカーヌスは謎の病気を訴える父親の気持ちを解いて和解させてやったが,帰宅すると,家が襲われていてラムスが重傷を負っていた.医療費をケチってルカーヌスのもとに来た小金持ちの農民が,些細な代金を請求されたことを逆恨みして,貧民を煽って襲わせたのだ.
ルカーヌスは貧しい者に寄り添うのを身上としていたが,貧しい者も富める者と同じように蔑むべき存在だと知った.それまで神が苦しみを与えるのを悩んでいたが,因果応報なのだと思った.
ルカーヌスはアテネを去らねばならなくなったが,船上でアントニウスという百人隊長からイスラエルで神に会ったという話を聞かされた.助からないと思われた召使の病を治したのだ.それを聞いていたラムスは顔を輝かせ,ルカーヌスが寝ている間に書置きを残して去った.ルカーヌスは何日も寝込んでしまい,夢で神に語りかけられた.
ローマに戻ったとき,なんでもないような男と結婚したのに幸せらしい妹をいぶかると,妹は人生には苦難があることはわかっているが,愛すべきものはいくらでもあると語った.ルカーヌスは妹が満足を知る人間なのだと感じ,母イリスもそうだと思い当たった.陽気なばかりでディオドルスのような責任感のかけらもない軍人の弟プリスクスは,神が現われたという東方からの噂を聞いたと話した.むなしさを感じたルカーヌスはちょうど滞在していたサラに求婚した.だがサラはルカーヌスには果たさなければならない務めがあるとして,断って去った.
その後,旅の途上でルカーヌスは死を前にしたサラからの手紙を受け取った.任務でイスラエルに滞在したプリスクスからは,ユダヤの支配者ヘロデ・アンティパスやローマの行政長官ポンティウス・ピラトのことともに,ナザレのイエスという,民衆から神とあがめられている人物についても書いてきた.ルカーヌスは神が現われるなら王や高貴な人の姿となるはずで,ぼろをまとって庶民の間に現われるなどばかげていると思った.そしてプリスクスやラムスが書き送ってきた奇跡の話も,なんとか科学的に説明をつけようとした.
ある日,日食でもないのに真っ暗になり,地震があった.再び平穏に戻ったとき,なぜかルカーヌスは気分が晴れた.
その後,けちな金持ちの奴隷を解放してやったが,その曲がった指で,二十年来探していたサラの弟のアリエーだとわかった.ルカーヌスは思わず神を称えるのだった.
ルカーヌスは船医の契約が終わったらアリエーをイスラエルに連れ帰るつもりだったが,その途上でヘロデやピラトとも親交のあるユダヤの有力者ヒレルと会った.民衆の間に混じって説教をする,評判の教師に会って,厳格な律法主義者のパリサイ人より取税人のほうが価値があると説くのに感動したのだが,財産をなげうつよう言われてしりごみしたことを悔いていた.二か月ほど前からその教師の話を聞かなくなったと思っていたが,ちょうど天地が暗くなった日に十字架で処刑されたのだという.
ルカは学者として,神といわれる教師について聞いた話を記録するようになり,かつてガムリエルやラムスから聞いた話も書き留め,福音書の執筆に取りかかった.
カエサレアに着いたルカーヌスは,思いがけずローマで世話になったプロティウスと再会し,ヒレルのおかげでピラトの宮殿に滞在することになるのだが,そこでは音信不通だった義弟プリスクスが病床に着いていた.ナザレのイエスの処刑を指揮したのだが,癌で余命いくばくもないとのことだった.プリスクスは,その日のことを詳しく話した.最初は特に関心もなく命令を遂行するつもりだったのだが,その教師を見ると王者の風格を感じ,何か間違ったことをしているのではとの疑念にさいなまれた.十字架の教師が口にした,「この人たちをお許しください」との祈りの言葉も理解しがたかった.部下の百人隊長は「この人は正しい人であった」と言った.病に加え自責の念にさいなまれるプリスクスに,ルカーヌスは神は許したと話した.
ルカーヌスはプリスクスから聞いたことと自分が感じたことをもとに福音書の磔刑の場面を書いた.翌朝,信じがたいことにプリスクスの病が癒えていた.プロティウスらは神がルカーヌスを通じて奇跡をはたらいたのだと思った.
宮殿の主ピラトがエルサレムから戻ってきた.ピラト自身はユダヤ人の教師を救おうとしたのだが,ユダヤ教の高官が処刑を求めてきかなかったのだ.ピラトは気分がすぐれなかったが,ルカーヌスはキリスト教徒の迫害をやめるよう皇帝に上申すればよいと皇帝からもらった印を渡して強く求め,それを受け容れたピラトはすぐによくなった.
エルサレムに行ったヒレルやアリエーからイエスの母マリアがエルサレム郊外でヨハネという青年と暮らしていることを聞いたこともあって,ルカーヌスはプロティウス,ピラトに同行してエルサレムに行った.
ヒレルはイエスの弟子ペテロや,マリアと暮らすゼベダイの子ヤコブ,ヨハネ兄弟にルカに会うことを承知させていた.ペテロは異邦人に福音を説くよう命じられていたが,それまでユダヤ人は異邦人と交わることをよしとしなかったので,どうしたものかと考えあぐんでおり,ギリシア人のルカのことを聞いて目が覚めたのだった.
ルカは福音を世界に広めるのが自分の務めだと話す.だが,使徒の間でも,キリスト教徒になるにはまずユダヤ教に入信して割礼を受けるべきかそれは必要ないかといった基本的な点も含め合意ができておらず,ヒレルは悲観的だった.
ルカーヌスはピラトのはからいでヘロデとも会ったが,ピラトはその場でヘロデにユダヤを去るよう求めた.ヘロデは義兄弟のアグリッパに皇帝へのとりなしを依頼した.
ルカーヌスは,マリアはガリラヤを訪れていると聞いたが,ゼベダイの子ヤコブとヨセフの兄弟に会って話を聞いた.ヨハネは「はじめにことばがあった」など抽象的なことを情熱を込めて語り始め,自分も福音書を書くつもりだと言うが,ルカーヌスはイエスの生涯の目撃者としての情報を求めた.
キリスト教徒に対する迫害は公式には停止されたものの,熱心なユダヤ教徒サウロ(パウロ)がダマスカスに向かったという情報があってヒレルは心配していたが,ルカは万事うまくいくと直感していた.
……


歴史小説でたどる英国史(など)   inserted by FC2 system