ロンドン塔の2王子の謎

1483年にリチャード3世が王位についたとき,廃位された少年王エドワード5世と弟のヨーク公リチャードはロンドン塔で暮らしていた(ロンドン塔は当時,王宮でもあった).その2人の王子がいつのまにか行方不明になった.何者かによって殺害されたと言われ,その現場とされるガーデン・タワーは後世,ブラッディー・タワーとして知られるようになった.

リチャードの命による2王子殺害説のあらまし
実はリチャードが手下ティレルを送り込んで2王子を殺害させたというシェイクスピアも採用している詳細な記述はトマス・モアが唯一の典拠となっている.トマス・モア『リチャード三世史』によるあらましは次の通り.
7月6日の戴冠後,リチャードはロンドン塔長官のブラッケンベリーに2王子殺害を指示したが拒否され,ティレルに指示した.ティレルは実行役としてマイルズ・フォレスト,ジョン・ダイトンの2名を雇った.二人は就寝中の2王子を窒息死させ,ティレルの検分を経て塔の階段の下に埋めた.その後,リチャードの指示で別の場所に埋め直された.
モアは1502年のティレルの告白をもとにしたとしているが,その告白の記録がみつからないことから実在しなかったと見る史家もいる.とはいえモアが最初からでっちあげたとも思い難く,若いころモアが仕えたモートンが情報源だろうと言われている.

史料
●最も同時代に近いマンチーニ『リチャード3世の王位就任』は次のように書く.
「ヘースティングズが排除されたのち,国王〔少年王エドワード5世〕に仕えていた従者たちは国王の身辺から遠ざけられた.国王と弟は塔本体の奥の部屋にこもらされ,窓格子の奥に見えるのは日に日に少なくなり,ついには全く姿を見せなくなった.国王が奉仕を受けた最後の従者であったストラスブールの医師〔Dr. Argentineのことだが実はイングランド人〕の報告によれば,少年王は,いけにえの準備をされる者のように,毎日のように告解と悔悛をして罪の許しを求めた.死が迫っていると信じていたのである…….私は,少年王が人々の目につくところから退けられてからというもの,少年王の話になると涙に暮れる人を数多く見てきた.少年王が始末されたのだという疑惑はすでにあった.ただし,少年王が始末されたのかどうか,どのような死を迎えたのかについては,私はこれまでのところ全くつかんでいない.」
このようにリチャードの関与については触れられていない.また,全体にリチャードを怪物扱いする叙述もないという.

●フランス大法官ギヨーム・ド・ロシュフォール(Guillaume de Rochefort)は,1484年1月にフランスのトゥールの地方三部会で2王子が始末されたとの噂を紹介し,リチャード3世が虐殺したとも述べた.Wikipediaは情報源がマンチーニの可能性があるという.ジョゼフィン・テイ『時の娘』はイーリー司教モートンが大陸に亡命した時期と符合することを指摘する.

●ヘンリー・テューダーはイングランド侵攻(⇒ボズワースの戦い)を前にリチャードを「人殺し(homicide)」と非難する声明をイングランド国内の支持者に送った.それには「私の合法的な権利,血統に基づくしかるべき王位の継承を推し進めるため,そして諸君を不当に支配しているあの人殺しにして冷酷な専制君主の正当な排除のために」とのくだりがある(Rowse, Bosworth Field (1966) p. 213; 出典はGardiner).
※Rowse(反リチャード派)は「リチャードが本当に人殺しだったことは誰でも知っていた.ヘンリーにとって,ひとたびボズワースで事が決したあとは,ことさらに何か付け加えたり,王冠の尊厳にさらに泥を塗ったりする必要はなかった」と述べる.人殺しの内容については何も述べられていないが,ヘンリー7世がリチャードの王子殺しを宣伝しなかったことを指摘するリチャード3世擁護論への反論のように読める.

●『クロイランド年代記』はリチャードの意図を強く示唆する記述がある.(クロイランドがイーリーの近くであり,モートンによる情報操作の可能性も指摘されている.)
「こうしたことが進行しているその間,エドワード王の上名の二人の息子はロンドン塔に留まり,特命のとある人物たちの保護下に置かれていた.二人をこの捕囚の状態から救出するため,王国の南部・西部の人々は少なからぬ声を上げ,会合をもち,徒党を組むようになった.まもなく多くのことが秘密裏に進行していることが判明した.……
聖域に避難していた人々が,王の娘の一部がウエストミンスターを出て,身をやつして海の向こうに行くべきだと勧めていたとの報告もあった.ロンドン塔にいる先王の前記男の子らに何らかの致命的な不幸が降りかかった場合,王の娘が安全であれば,王国はいまだ,いつの日か正当な継承者の手に帰するかもしれないとの意図である.……
ついに,……人々は,先述の不満を晴らす決意をした.それに際して,当時ウェールズのブレックノックで暮らしていたバッキンガム公ヘンリーは以前の振る舞い〔リチャード3世即位への協力〕を悔いており,この試みの主導者となることが公に宣言された.その間,エドワード王の上名の息子たちは非業の死を遂げたとの噂が流れたが,経緯は不祥だった.……」

●ヴァージルの『イングランド史』は次のように記述する.
(大意)「リチャードは庶民の同意を得ることなく,自派の一部の貴族の力と意思によって,神の法にも人の法にも反して王位についた.まもなくヨークに向かい,まずグロスターに行った.滞在中,罪の意識に一刻たりとも気が休まることなく,いかなる手だてを使ってでもそれを払拭すべく,二人の甥を死によって片付ける決意をした.二人が生きている限り,リチャードの危険はなくならないからである.そこでロンドン塔長官のブラッケンベリーに,何らかの手段によりすみやかに二人の死を実現するべく令状を送った.……しかし,何も起こる様子はなく,長官は命令の実行を送らせていると判断し,まもなく殺害を急がせる任をジェームズ・ティレルに託した.ティレルは国王の命令を果たすことを強いられ,悲しみに満ちてロンドンに向かい,前代未聞の最悪の例として,二人の王子を殺害した.こうしてエドワード王子と弟リチャードは最期を迎えたが,子供たちがどのような種類の死をもって処刑されたかはしかとは知られていない.だが,リチャード王はこの事実によって懸念と恐怖から解放され,殺害をあまり長くは秘密にせず,数日後には,二人の死の噂が出回るのを許した.エドワード王の男子継承者が生き残っていないとわかれば,人々もリチャードの施政を受け入れると考えたからである.だが,この邪悪な事実が知れ渡ると,誰もが悲嘆にくれた.……」

4つの説
(1)自然死
ただし,適切な発表がなかったことが説明できない.
(2)リチャード3世犯人説
テューダー朝の史書によるリチャード3世悪人説をうのみにする歴史家はいないが,それでもやはりリチャード3世が関与したと考える人が多いという.
一方,リチャード3世擁護派は,殺すとしても,病死など適当な理由をつけて発表すればいいのにそれをしなかったのは不可解と指摘する.
(3)ヘンリー7世犯人説
リチャード3世は2王子の殺害によって何も得るところがなく,むしろヘンリー7世のほうに動機があったとする主張がある.ジョゼフィン・テイ『時の娘』はこの立場で,2王子の行方不明が同時代に大きく騒がれた形跡がないこと,ヘンリー7世が即位当初,2王子殺害をリチャードの悪行として宣伝しなかったことなどを指摘している.大きな前提になっているのが,2王子殺害の噂はクロイランド,フランスという,イーリー司教モートンのいた近辺のみであるという仮定で,ヘンリー7世がロンドンを手にしたときにはまだ2王子は存命で,失踪の噂も一般には知れわたったものではなかったと推理している.
ジーン・プレイディーの一連の小説,特にUneasy Lies the Headもリチャードは手を下しておらず,王子の死はヘンリー7世時代という設定になっている.
いずれにせよ,ヘンリー7世を犯人とするには,なぜリチャードが2王子の失踪について正式発表をしなかったのかを説明するか,2王子失踪の噂が一般的なものではなかったかを示すかしなければならないだろう.
(4)バッキンガム公犯人説
エドワード3世の血を引くバッキンガム公がすべてを仕組んだという学説がある(Wikipediaも参照).Penmanの小説The Sunne in Splendourはこの立場で書かれている.王子が行方不明になり,リチャードが発表を思いとどまり,王子殺害の噂が流れ,それでもエリザベス王妃はリチャードには王子を殺す理由がないと相手にせず,やがてバッキンガムの手で殺されたことが明らかになり,それがエリザベス王妃のその後の態度を変える……と,何もかもが説明される非常に説得力のある筋運びになっている.

2王子の遺体
2王子失踪からほぼ200年後のチャールズ2世時代の1674年,ロンドン塔の階段の基礎から2体の遺骨が発見された.1933年にその調査がなされ,年まわりがちょうど合う少年の骨であることが確認された.しかし,その結論は現在の基準ではそのまま受け入れられるものではないという.特に,骨は若すぎ,また2体の年齢差も小さすぎるとの指摘もある.また1933年の調査ではDNA鑑定はもちろん,性別や骨の年代も調べられていない.


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