ユトレヒト条約後のダンケルク

ユトレヒト条約ではフランスの港湾都市ダンケルクの防塞,城塞,港,堰の取り壊しが決定されたが,その実現までには曲折があった.

ユトレヒト条約まで

スペイン継承戦争の講和の方針はイギリスが先にフランスと話をつけて強引に取りまとめる形になった.その英仏間の交渉でもダンケルクの無力化は最大の争点の一つであり,ルイ14世は同意にあたってユトレヒト講和会議で何らかの対価が与えられることを条件にした.1712年6月22日,英仏2国間の休戦が成立し,ダンケルクをイギリス軍の管理下に置くのと引き換えに,ネーデルラントでフランス軍と対峙している同盟軍からイギリス軍が退去することになった.
ところが,イギリスが資金を出しているドイツなどの同盟軍が退去するかどうかが問題になった.イギリス軍だけなら1万余りだが,イギリスの資金でまかなっている兵力は4万にもなるのである.イギリス軍を指揮するオーモンド公はドイツ諸侯の説得に当たったが,独断で講和路線を進めるイギリスへの不信感は強かった.同盟軍と対峙するフランスきっての名将ヴィラールは,イギリス軍の退去だけだったらダンケルク明け渡しに値しないと奏上し,6月27日,ルイ14世は7月4日に予定されたダンケルク明け渡しを撤回した.ドイツ諸侯はオイゲン公子の指揮下に移ることを選んだが,7月10日,結局はルイ14世はヴィラールに休戦条件の実施を指示し,16日には休戦が宣言された.7月18日,イギリスから,ジョン・リーク提督指揮する軍艦12隻,輸送船16隻を中心とする船団がダンケルクに到着した.こうして長年イギリス人を海上で悩ませてきた私掠船の基地ダンケルクが,イギリス軍(当初はジョン・マサム少将指揮)の管理下に置かれることになったのである.
その間,ユトレヒト講和会議ではダンケルクの「対価」が話し合われていた.ルイ14世は同盟軍に占領されたリール,トゥルネーの返還を希望していたが,結局,リールだけの返還を受けることで合意が成立した.その他の案件もまとまってユトレヒト条約が調印されたのは1713年4月11日のことである.

ユトレヒト条約後

港の取り壊しはダンケルク住民にとっても死活問題なので,住民はイギリスに使節を派遣してアン女王と国民世論に訴えた.ルイ14世も時とともにイギリスの風向きが変わることを期待していた.
しかし,6月4日にオランダ軍がリールをフランスに返還すると,7月中旬には防塞破壊作業の最初の請負契約がされた.しかし,フランス側の監督官は意図的に欠陥のある計画案をイギリス側に提示したりして作業を遅らせた.10月初頭にはフランス兵8個大隊が防塞破壊作業に着手したが,大地が凍ると一時冬営にはいってしまい,イギリス側の粘り強い主張でどうにかその冬の間に防塞の破壊は進んだ.
一方,イギリス側は先にダンケルク周辺の運河と閘門を破壊することを求めていたが,フランス側は合意に含まれていないと主張し,また周辺地域に洪水を引き起こすとして抵抗していた.1714年4月10日になってようやくルイ14世も運河閘門の破壊に同意した.しかし,フランス側はダンケルク西方のマルディックの整備に力を注いでおり,ダンケルクでは8月になってようやく閘門の大半が破壊され,土の堰に取って代わられた.だが,その遅さに業を煮やしたイギリス側は8月6日に港を占拠し,ダンケルクの港への入り口を塞ぐ囲い堰を作ってしまった.
そんな8月12日(イギリスが使っていた旧暦では8月1日),イギリスのアン女王が薨去して,イギリスでは王位継承をめぐってジャコバイトが反乱に及ぶ可能性が浮上し,ダンケルクのイギリス軍の一部も本国に引き揚げられた.その一方,政権がトーリーからホイッグに移行したことで,ダンケルクのドックを壊して港を埋め立てるという要求が強くなった.
翌1715年にはジャコバイトの王位継承者ジェームズ・エドワードを擁立しようとする十五年の乱が勃発するが,当のジェームズ・エドワードが12月にイギリスに向かう船に乗ったのがダンケルクからだったことがイギリス人の怒りを買った.また,マルディックの運河建設がダンケルクに代わる軍事施設を目指すものではないとするフランス側の説明も信じがたかった.
スペイン継承戦争後の国際協調体制を確立させようとする動きのなか,1716年秋からの英仏間の交渉で「ダンケルクの港の完全なる破壊」「マルディックの運河に新たな港を築き,地域を水没させうる水を排水することと,ネーデルラントのその地の人々の生存および維持に必要な通商を遂行すること以外の用途に供する意図があるのではとする疑念を防ぐ」ことが決められた(1717年1月の英・仏・蘭の三国同盟(ハーグ条約);1716年10月の英仏同盟).こうしてダンケルクの無力化はようやく完了する.
1720年末には嵐で港を塞ぐ堰が崩壊し,民間港としては使えるようになったが,防塞が再建されたのは次のオーストリア継承戦争勃発後の1743年のことだった.

革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜 inserted by FC2 system