哲学以外のライプニッツ

哲学者・科学者として知られるゴットフリート・ライプニッツ(1646〜1716)はヨーロッパ激動の時代を生きた宮廷人でもあった.ここでは哲学・科学上の業績はさておき,政治史の流れの中に位置づけてライプニッツの生涯をたどってみる.

  1. 学歴(1661-1666)
  2. ポーランド王位継承問題(1668)
  3. ルイ14世の覇権主義(1667-1670)
  4. パリ行きと「エジプト計画」(1672-1673)
  5. 和平の試みとロンドン滞在(1672-1674)
  6. パリのライプニッツと2度目の訪英(1673-1676)
  7. ハノーヴァー着任(1676)
  8. オランダ戦争の終結(1676-1678)
  9. 新ハノーヴァー公エルンスト・アウグスト(1679-1680)
  10. ルイ14世の覇権主義(1681-1684)
  11. ハノーヴァー家の選帝侯位獲得に向けて(1684-1685)
  12. ヴェルフェン家の歴史調査(1685)
  13. 大旅行(1687-1690)
  14. ハノーヴァー選帝侯位獲得へ(1689-1692)
  15. 歴史調査とその現世的成果
  16. 宮廷スキャンダル(1694)
  17. 大同盟戦争の終結(1697)
  18. 『最新中国事情』(1697)
  19. 普遍教会(1673-1702)
  20. プロテスタント両派の統一(1698-1699)
  21. 新ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(1698)
  22. 三人の女性
  23. イングランド王位継承問題(1698)
  24. グロスター公の死と王位継承法(1700-1701)
  25. スペイン継承問題(1700-1701)
  26. ブランデンブルク=プロイセン(1700-1701)
  27. ハノーヴァーとヴォルフェンビュッテルの対立(1701-1702)
  28. スペイン継承戦争(1702)
  29. オラニエ公家継承問題(1702)
  30. ハノーヴァーとベルリンの往復(1700-1705)
  31. 王妃の死(1705)
  32. ゾフィアの訪英問題(1705-1706)
  33. イングランド王位継承問題とスペイン継承戦争(1706)
  34. ハノーヴァーとプロイセンの縁組(1706)
  35. 君侯たち(1707-1711)
  36. ウイーン訪問(1708-1709)
  37. 『弁神論』(1710)
  38. プロイセンの科学協会との関係(1710-1711)
  39. 皇帝薨去(1711)
  40. ロシア皇帝ピョートル一世(1711-1712)
  41. ウイーン滞在とユトレヒト講和条約(1712-1714)
  42. ゾフィアの死(1714)
  43. ハノーヴァー家の王位継承(1714)
  44. 歴史編纂(1714-1716)
  45. ニュートンとライプニッツ(1710-1716)
  46. ハノーヴァー選帝侯(ジョージ一世)との関係(1716)
  47. 最期(1716)

●学歴(1661-1666)

ライプニッツは1646年7月1日(グレゴリオ暦)ライプツィヒに生まれた(当時ライプツィヒを含むドイツ各地で使われていた旧暦のユリウス暦では6月21日生まれとなる).1661年にライプツィヒ大学に入学したライプニッツは,1666年に学位論文を提出するが,20歳という若年を理由に認められず,郷里ライプツィヒを去って11月にニュルンベルクのアルトドルフ大学で博士号を得た.

※以下,新暦(グレゴリオ暦)と旧暦(ユリウス暦)の別は原則として参照した資料のまま記し,わかったもののみ新暦,旧暦の別を示す.ライプニッツの生きた時代では,イギリスは旧暦,フランスやドイツのカトリック地域(オーストリアを含む)は新暦が使われいたが,ドイツのプロテスタント地域(ハノーヴァーを含む)では1700年に旧暦から新暦に移行した.

17世紀(詳しくは1700年の2月まで)には新暦の日付から10日を引いたものが旧暦の日付になるが,18世紀には新暦の日付から11日を引いたものが旧暦の日付となる.(18世紀のカレンダーも参照)

●ポーランド王位継承問題(1668)

1667年,ニュルンベルクを後にしたライプニッツはマインツ選帝侯ヨハン・フィリップに仕えることになり,法典改正などに従事した.

折しも1668年,ポーランド王ヨハン・カシミールが退位してポーランド王位継承問題が起こった.選挙王制であるポーランド王位をめぐってロシア,フランス,オーストリアといった列強がそれぞれ候補者を擁立する.このたびもフランスのコンデ家やロレーヌ(ロートリンゲン)公家の候補者の名が挙がっていた.だが三十年戦争の傷跡も癒えないドイツの安全のためにはノイブルク家のパラティン伯フィリップ・ヴィルヘルムが望まれ,ライプニッツはノイブルク家を推す論考「ポーランド王選挙のための政治的論証」(Specimen demonstrationum politicarum pro eligendo rege Polonorum [pro rege Polonorum eligendo])を筆名ゲオルギウス・ウリコヴィウス・リトゥアヌス(Georgius Ulicovius Lithuanus)のもとに起草した(ドイツ風の名前よりもラテン風の名前のほうが受け入れられやすいという計算があったようだ).後援者で友人でもあるマインツの政治家ボイネブルクがプファルツ選帝侯によってワルシャワに派遣されることになっていたので,その理論武装のためである.これは60の命題から論理的に主張を展開する形をとっていた.

ライプニッツはポーランド王に選出されるべき条件として,改宗するのではなく最初からカトリックであること,ラテン語に明るくなるよう努めるべきこと,成年で,ふさわしい資質を備え,異端に対して力を用いず,他を支配しないこと,隣接の諸侯の一人でないこと,個人的義務によって縛られていないこと,他国の王でないことなどを挙げた.その上で候補者をこの原則にあてはめていく.カトリックでないロシア人は除外される.他国の王でないことからロマノフ家の候補者はもちろん,コンデ家もロレーヌ家も間接的に除外される.隣国の強国の人であってはならないから,ロシア人もロレーヌ人も不適となる.こうしてライプニッツはノイブルク家のフィリップ・ヴィルヘルムが唯一の適格な候補者だとの結論を導くのだった(永井博『ライプニッツ』p.64-67参照).

だが結果的には1世紀ぶりにポーランド出身の王ミハウ(Michael)が選出される結果となった.

●ルイ14世の覇権主義(1667-1670)

ポーランド王位継承問題でドイツの安全とヨーロッパの安定を考えたライプニッツは,同時にルイ十四世のフランスの覇権主義をも危惧していた.それは「エジプト計画」という壮大な構想の建白書を生むとともに,パリ行きというライプニッツの生涯の次なる一章を開くことになる.

ルイ十四世は1667年に遺産帰属戦争を起こしてスペイン領ネーデルラントに侵攻していた.自国の危機を感じたオランダがイングランド,スウェーデンと三国同盟を結ぶと,フランスも1668年5月のエクス・ラ・シャペル(アーヘン)の和約でいったん矛を収めた(友清理士『イギリス革命史』上p.115-124参照).三国同盟に横やりを入れられたルイ十四世としては,イングランドとスウェーデンを離反させてオランダに攻め入ることが次の目標となった.

ルイ十四世のオランダへの敵意は1670年にはその前兆が見られ,1672年のオランダ戦争開戦につながることになる(『イギリス革命史』上p.130-).ライプニッツの仕えるマインツ選帝侯にルイ十四世の意図が報告されたのは1671年12月であった(永井p.76;エイトン『ライプニッツの普遍計画』p.67).ライン川の自由航行保証のために選帝侯の協力を求めるためである(エイトンp.67).ライプニッツ自身は1670年11月にオランダ戦争を予見していたという(永井p.76).

一方,ルイ十四世はロレーヌにも食指を動かしており,1670年初夏,ロレーヌ公が危機に際しての援助の保証を求めたのを受けてマインツ選帝侯とトリール選帝侯が会見してもいた(エイトンp.66).(フランスは8月に出兵してロレーヌを占領する.)

そんな1670年,ライプニッツは「いかにして内外の公共の安全と帝国の現在の状況を堅固なものにするかということに関する考察」(Bedenkenwelchergestalt Securitas publica interna et externa und Status praesens im Reich auf festen Fu zu stellen)で,フランスとオーストリアに挟まれたドイツ諸侯が同盟を結ぶことについてのボイネブルクの考えをまとめている(R・フィンスター,G・ファン・デン・ホイフェル『ライプニッツ その思想と生涯』p.20).

1670年の論文〔たぶん上記と同じ〕でライプニッツは当時の政治状況を次のようにまとめている(永井p.71-).三国同盟はフランスの脅威に対する守りとして強力ではあるが,ドイツ諸侯のうちには三国同盟を支持する勢力と支持しない勢力がある.同盟派の諸侯を集めて三国同盟に加われば,大国オーストリアが主導権を握り,反同盟派との対立が激化してかえってドイツの安全が損なわれてしまう.よって,ドイツ内部での利害の一致ができる新しい同盟を構築する方向を目指す必要がある.そのためには特定の他国を仮想敵国とするものであってはならない.むしろオーストリア,ポーランド,ハンガリーといった諸国に対するドイツの防衛をも視野に入れた同盟であれば,反オーストリア的なケルン,バイエルン,ブランデンブルクなども引き込むことができる.そのようにしてドイツでの統一的な地盤ができれば,ヨーロッパの安定のためにも有益になる.現状ではドイツの分裂がフランスとスペインの脅威,オランダとスウェーデンの優位を招き,ドイツは列強が戦う戦場となっているが,ドイツ国内の統一によって国際情勢も安定する.

そしてヨーロッパの安定のためには,各国が地理的に適切な政策をとることが必要であるとライプニッツは説く.それによれば,皇帝とポーランドはトルコ,ロシアはタタール,イギリスとデンマークは北米,スペインは南米,オランダはインドを目標とすべきであり,フランスは近東,特にエジプトを目指すべきであるとした.

このように,ドイツの安全およびヨーロッパの安定のためにルイ十四世の野心の矛先をエジプトに向けさせようというのが「エジプト計画」の根本であった.

●パリ行きと「エジプト計画」(1672-1673)

「エジプト計画」はボイネブルク,ライプニッツの間で1670年夏以来,極秘のうちに温められたものだが,いよいよフランス王にぶつけようという段階を前にして,1671年秋にはマインツ選帝侯にも知らされた

1672年初頭,ライプニッツの起草した漠然とした梗概書とボイネブルクの書簡が外交ルートでフランスの外務大臣ポンポンヌに送られた.するとおそらく単なる好奇心から(エイトン),2月12日付の外務大臣の返書でボイネブルク自身か誰か適当な者から詳細を聞きたい旨が伝えられた.そこで25歳のライプニッツがマインツ選帝侯の使節としてパリに派遣されることになった.こうして,2度の短期訪英をはさんで4年余りにわたるライプニッツのパリ滞在が始まるのだった.パリ行きはまた,後援者ボイネブルクの債権回収という目的もあり,学問追究のためにライプニッツが望んでいたことでもあった

ライプニッツはボイネブルクの書いた信任状を持って3月19日に出発し,31日に到着した.突然の出発で,表向きはボイネブルクの子息の後見人ということになっていた.

だがルイ十四世のオランダ侵攻はすでに既定の方針になっており,この4月には開戦が布告される.大臣はライプニッツとの会見の件は放置した.それでも,ちょうどこの6月にフランスとトルコが対立する事件があり,ライプニッツのエジプト計画にとってはまたとない好機かとさえ思われた

ライプニッツは「フランス王の布告すべきエジプト遠征についての正論」(De expeditione Aegyptiaca regi Franciae proponenda justa dissertatio)という詳細な建白書と,ボイネブルク向けの要約の「エジプト計画」(Consilium Aegyptiacum)を書いた.だが,建白書は提出されず,要約もボイネブルクの死(1672年12月)で日の目を見なかった.

フランスは翌1673年にトルコと和解し,これでライプニッツの「エジプト計画」のお蔵入りは決定的になった.建白書はライプニッツの文書にまぎれてハノーヴァーで死蔵され,ナポレオン時代になって発見される(ただし,ナポレオンがエジプト遠征の前にそれを知っていたわけではないという).

●和平の試みとロンドン滞在(1672-1674)

1672年6月にライン川を渡ってオランダに侵攻したフランス軍はまたたくまに数州を席巻した(『イギリス革命史』上・第2部第3章以下参照).二十歳そこそこのオレンジ公ウイリアム率いるオランダは,堤防を切って国土を水没させる洪水戦術でかろうじて首都近辺へのフランス軍の侵攻を阻んでいた.窮地のオランダはブランデンブルク選帝侯と神聖ローマ皇帝の協力は取り付けたものの,事態が一気に好転する見込みはない.ライプニッツの主君であるマインツ選帝侯はもともと平和志向が強く,ケルンでの和平交渉を提案したが,フランスはケルンでは皇帝の影響が強すぎると警戒していた.そこでマインツ選帝侯は使節団をパリに派遣することにした.だがフランスが承知しないと見ると,使節団はフランスの同盟国イングランドに赴くことになった.

ライプニッツはこの使節団に随行して1673年1月にロンドンに渡った(1月21日にドーヴァー上陸;3日後にロンドン着).ところが2月12日にマインツ選帝侯が没したので使節団はライプニッツともどもパリに戻った(2月20日発).1か月のロンドン滞在中,ライプニッツはイングランドの王立協会の科学者たちと交流した.学者たちの間ではラテン語が共通語だったが,ラテン語が得意でない人物が相手だと,英語を読めはしてもおそらくは流暢に話せなかったライプニッツは意思疎通に苦労することになる(エイトンp.104).

ケルンでは6月から和平交渉に着手されたが,結局は物別れに終わった.翌1674年には神聖ローマ帝国が正式にフランスと開戦するまでになる(『イギリス革命史』p.192).

●パリのライプニッツと2度目の訪英(1673-1676)

なお,マインツ選帝侯の死でライプニッツの身分は不確かなものになった.新しい選帝侯からパリ滞在を続ける許可は得たものの,給与は出ず,ライプニッツはもはや名目上の臣下でしかなくなった.

ライプニッツのこのパリ滞在は,物理学者ホイヘンスと知り合い,微積分を発見するなど実りあるものとなる.しかし,給与の支給は拒まれ続け,ライプニッツはかねてより誘いのあったハノーヴァー公ヨハン・フリードリヒの招聘を受けることを決めた.

1676年10月4日(新暦)にパリを後にしたライプニッツはロンドンに10日間滞在した(新暦10月18日遅くに到着).

王立協会での用件を片付けた後にはルーパート王子を訪問した.ルーパート王子は後述のゾフィアの兄でプファルツの出だが,イングランド王チャールズ一世の孫だったこともあって,当時イングランドの海軍卿の任にあり,英蘭戦争では提督として活躍もした(『イギリス革命史』上第1部第5章等参照).ルーパート王子はドイツにワインを運ぶ船への乗船を勧めてくれた(10月29日乗船,2日後に出港).

ライプニッツはアムステルダム(11月13日着)を拠点にオランダで1か月を過ごし,その間,ハーグでスピノザと哲学談義に打ち込んだ.ハノーヴァーに着任したのは12月中旬のことだった.

ちなみに,ライプニッツがロンドンを発った直後の1676年10月24日(旧暦),ニュートンがライプニッツに宛てて6accdae13eff7i3l9n4o4qrr4s8t12uxという暗号(アナグラム)を含む微分法についての手紙を書いていたのだが,手紙は翌年になってハノーヴァーのライプニッツのもとに届くことになる.これは微積分発見をめぐるニュートンとライプニッツの優先権争いの問題で「第二の手紙」として知られる有名な手紙である.

●ハノーヴァー着任(1676)

ハノーヴァー(ドイツ語読みではハノーファー)に着いた30歳のライプニッツは,ライネ河畔の城で図書館に住んで,数年間,その組織的拡張に携わり,法律家としても主君に貢献した.その肩書は図書館長と宮中顧問官(のち司法枢密顧問に昇格)である.

1677年末に枢密顧問官に昇進したときのライプニッツの俸給は500ターラーであった(エイトンp.111,スチュアートp.260).比較として,ハノーヴァー公のカフェテリアの給仕婦の給料が年9ターラー,ネズミ取り人が11ターラー(いずれも食事は別),最上位の宮廷人で年棒2000ターラー(その何倍もの賄賂収入は別),1704年の時点におけるライ麦約100kgの価格が3ターラーとのことである.また,『ケンペルのみたトクガワ・ジャパン』p.44によれば,18世紀,10ターラーで650kgのパンが買えたという.

ライプニッツがその後半生を過ごすハノーヴァーはドイツの領邦国家の一つだが,その主家ブラウンシュヴァイク家はライプニッツの奉公中に選帝侯位の獲得(1692),イギリス王位継承(1714)と,大きな飛躍を遂げる.

ブラウンシュヴァイク家の領土は,分割相続するドイツの領邦に典型的な分離・統合を繰り返していて複雑だが,1641年以来は,ブラウンシュヴァイク・リューネブルク・ツェレ(首都ツェレ)とブラウンシュヴァイク・リューネブルク・カレンベルク(首都ハノーヴァー)からなっていた.これらのリューネブルク系と1635年に分かれたブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテルという家系もある.

1648年の時点では長男クリスチャン・ルートヴィヒがツェレを,次男ゲオルク・ヴィルヘルムがハノーヴァーを治めることになった.1665年にこの長男が没すると,今度はゲオルク・ヴィルヘルムがツェレ公となり,三男ヨハン・フリードリヒがハノーヴァー公となった.このヨハン・フリードリヒがライプニッツを招聘した人物である.

その弟の四男エルンスト・アウグストがのちにハノーヴァー選帝侯となる人物であるが,この段階ではまだオスナブリュック司教でしかなかった.

●オランダ戦争の終結(1676-1678)

ライプニッツがハノーヴァーに着任した1676年末にはオランダのネイメーヘンでオランダ戦争の講和会議が開かれていた(『イギリス革命史』上p.211).この講和会議にヨハン・フリードリヒは選帝侯と同じ資格の公使を派遣する資格を要求していた.ライプニッツはこれに根拠を与えるために1677年,カエサリヌス・フュルステネリウス(Caesarinus F¨urstenerius)の筆名で「ドイツ諸侯の主権および使節権について」(De jure suprematus ac legationis principum germaniae)を書いた.当時独立国同然だったが帝国に従属しているドイツ諸侯が講和会議に派遣した代表が主権国家の代表とみなされるべきかというのが主題で,皇帝と帝国領主が調和して互いに補完的にはたらくという二重主権を主張した.知識人の間で評判になったものの,所期の目的は達成できなかった.

また,これに関連して書かれた対話形式のパンフレット「帝国の選帝侯および諸侯の使節権に関しネイメーヘンにおいて討議された時局問題をめぐるフィラレートとウジェーヌの対話」(Entretien de Philarete et Eugene sur la question du temps agit´ee `a Nimwegue touchant le droit d'ambassade des ´electeurs et princes de l'Empire)は講和会議に参加した使節に配布された.

1678年のネイメーヘン条約でオランダ戦争は終結した(フランスとドイツの講和は翌年2月)(『イギリス革命史』上p.215-).

●新ハノーヴァー公エルンスト・アウグスト(1679-1680)

1679年12月,ライプニッツ着任後3年目にして主君ヨハン・フリードリヒがイタリアへの旅の途上で急逝した.これにより弟でオスナブリュック司教だったエルンスト・アウグストがハノーヴァーを継承することになった.

1680年1月4日に主君の死を知ったライプニッツは2月にオスナブリュックに新たな主君に会いに行った.

ライプニッツの職務の継続が保証され,法律や政治の知識は重宝されたが,学問上の予算は激減することになる.一方,エルンスト・アウグストの妃ゾフィアはのちにライプニッツのよき理解者であり,友人となる.

●ルイ14世の覇権主義(1681-1684)

オランダ戦争終結後も,ルイ十四世のフランスは「再統合」の名目で各地で領土併合を行っていた(『イギリス革命史』上p.254〜参照).1681年の秋にはフランスはストラスブールを占領した.これについてライプニッツは,「王は王国を守るためにそれを必要とした.すなわち,帝国から盗んだものを守るために,彼はもっと盗まねばならなかったのである」と痛烈に批判している(エイトンp.176).

時を同じくして,1683年7月から9月にかけて帝都ウイーンがオスマントルコ軍に包囲されていた.ヨーロッパ各地からの援軍でどうにかトルコ軍を撃退したが,ルイ十四世はそれを待っていたかのようにスペイン領ネーデルラントに出兵した.10月にはフランス,スペイン間の戦争となり,ここに再統合戦争が始まった(翌年8月のレーゲンスブルク条約で休戦).

こうしたフランスの政策について,ライプニッツはルイ十四世の拡張政策を逆説的に風刺し,批判する匿名のパンフレット「いともキリスト教的なる軍神」(Mars christianissimus)を1683年に書いた(1684印刷;1685ドイツ語版).ここではライプニッツは「悪魔は別として,この世で最も強力な人物は疑いなくいともキリスト教的な陛下である」としてルイ十四世を悪魔と並べ称した(「いともキリスト教的な陛下」はルイ十四世を指して一般的に使われた敬称).その上,「人類の喜び」の一つになりえたのに「ヨーロッパの疫病神」になったと遠慮がない.そしてフランスの態度を,剣以外にいかなる正義も認めようとしないと断罪し,普通の人間なら条約や良心に縛られるものだが,法の中には,国王が他の法に縛られることを免除する,他のあらゆる法を超越する法もあると皮肉っている.そして新約聖書の教えに従って,キリスト教徒を殲滅した上で蛮族を征討するだろうとまで,敵意に満ちた言辞を連ねている.(エイトンp.178,スチュアートp.346参照)

●ハノーヴァー家の選帝侯位獲得に向けて(1684-1685)

1684年から1685年にかけて,ライプニッツは選帝侯位を求めるハノーヴァー公エルンスト・アウグストのための覚書を起草した.その中でライプニッツは,8人の選帝侯のうちプロテスタントが三人(ザクセン,ブランデンブルク,プファルツ)しかいない上,カトリックのマインツ選帝侯,トリール選帝侯,ケルン選帝侯などの三教会君主の座は司教座と結びついているためカトリックであり続けるのに対し,プロテスタントの選帝侯は君主の代替わりや改宗によってカトリックに変わってしまうおそれがあると指摘した.現に,1685年5月にプファルツ選帝侯家が絶えて,プファルツ選帝侯位はカトリックのノイブルク家に移行したのである.そこでまず特定の候補を示さず皇帝にプロテスタントの選帝侯の増員を持ちかけることを提言している.その上で,ハノーヴァー家(ブラウンシュヴァイク・リューネブルク家)こそが,家系とフランスに対抗する地政学的条件の両方からふさわしいことを述べる.(エイトンp.179参照)

●ヴェルフェン家の歴史調査(1685)

1685年8月,ライプニッツはヴェルフェン家(ヴェルフ家とも)の歴史的重要性をまとめる仕事に着手することになった.ヴェルフェン家というのは中世に権勢を誇ったハノーヴァー家の祖に当たる家系である.

この問題については,1677年に出版されたフィリップ・ヤーコプ・シュペーナーの『ヴェルフェン家史』に触発されて興味は抱き,1680年の時点でライプニッツのほうから提案したこともあったものだった.個人的に調査にも着手していたのだが,1685年,正式にブラウンシュヴァイク家の歴史編纂がライプニッツの主要な職務となった.同時に,ライプニッツは終身枢密顧問官ととなって地位と収入も保証された.

ヴェルフェン家の名前は9世紀から見られるが,ハノーヴァー家に続くヴェルフェン家は11世紀のヴェルフ4世を初代とする.ヴェルフ4世は,1055年に後嗣なく没したヴェルフ3世の姉クニグンデとイタリアの名家エステ辺境伯との子である.

12世紀にシュタウフェン家が王朝を開いたとき,これと激しく争ったのがヴェルフェン家の三代目ハインリヒ(傲慢公)で,両家の争いはイタリアでの皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の対立にも発展する.次の世代ではシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ一世(バルバロッサ)のもとヴェルフェン家のハインリヒ(獅子公)も協力的だったが,獅子公はやがて公然と皇帝のイタリア政策に反対するようになり,1180年,皇帝は獅子公を帝国追放に処した.獅子公は妃の父であったイングランドのヘンリー2世のもとに身を寄せた.

獅子公の子オットーは,ライバルの死のおかげでヴェルフェン家唯一の皇帝オットー4世となった.その次は再びシュタウフェン家のフリードリヒ2世が皇帝となるが,1235年にヴェルフェン家とシュタウフェン家の対立を終息させ,オットー4世の子のオットーを初代ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公に叙した.

このブラウンシュヴァイク・リューネブルクの家系が分裂と統合を繰り返した結果,ライプニッツの時代にはブラウンシュヴァイク・リューネブルク家(ハノーヴァー,ツェレ)とブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル家になっていたことは上記のとおりである.

●大旅行(1687-1690)

1687年11月から1690年にかけて,40代になったライプニッツは史料探しのための大旅行をした.南ドイツ,ウィーン,北イタリアを経てローマ,ナポリまで至り,再び北イタリア,ウィーン,プラハ,ドレスデンを経由して帰還するというものであった.これは初めからこのような長期のものを計画したものではなく,調査の必要上次々に足を伸ばした結果であった.

ライプニッツは,フランクフルト,ヴュルツブルク,ニュルンベルク,レーゲンスブルクなどを経て1688年3月末にミュンヘンに到着する.目当ては,ラテン語で刊行されているアヴェンティヌスのバイエルン年代記のもとになったドイツ語の手稿だった(エイトンp.213).手稿には刊本にない原資料が示されており,そこでライプニッツはアウグスティヌスのベネディクト会の修道院にある古い手稿本のことを知った.アウクスブルクに赴いたライプニッツは,この旅行の最大の収穫となる古い写本『ヴェルフ家諸侯の歴史』(Historia de Guelfis principibus)を発見したのだった.(ibid. p.211)

これにより,それまで証拠なしに推定されていたブラウンシュヴァイク=リューネブルク家とエステ家の血縁関係が確認された.ライプニッツはエステ家についてさらに詳しい調査をするためにモデナ宮廷へのつてを求めた.

ライプニッツは5月にウイーンに到着した.

5月末にはトルコとの戦争を続けている皇帝軍に加わっていたエルンスト・アウグストの四男カール・フィリップが母ゾフィアからの手紙をライプニッツに届けにきた(ibid. p.214).

東のハンガリーでトルコと戦い続けてきた皇帝は,西にも戦争を抱えることになる.1688年9月,フランスがライン川沿いの諸都市に出兵して,大同盟戦争(アウクスブルク同盟戦争,九年戦争)が始まった(『イギリス革命史』下p.50).

そしてフランスのライン川出兵は,オランダのオレンジ公ウイリアムによるイングランドへの軍事遠征を可能にする.オレンジ公はイングランド貴顕からの要請を受け,カトリックのジェームズ二世に対するべく,ここ数か月間,極秘のうちに準備を進めてきたのである(『イギリス革命史』下第1部第3章参照).

9月16日付(ハノーヴァーの暦だとすると旧暦か?)のライプニッツ宛ての書簡(Klopp VII p.49-50)で,エルンスト・アウグストの妃ゾフィアは,まもなくオレンジ公がイングランドのプロテスタントを守るために無敵の艦隊を率いて出港すると確信している旨を述べている(エイトンp.216).ツェレ公(エルンスト・アウグストの兄),ヴォルフェンビュッテル公,ブランデンブルク選帝侯はオレンジ公との取り決めにより,オレンジ公出発後のオランダの防備のために兵を送っていた.ゾフィアは,フランスの脅威に備えるために皇帝がトルコと和解することがオランダでは期待されているとも述べている.ゾフィアは11月4日の書簡(Klopp VII p.56-59)で,オレンジ公が10月末に50隻の船を率いてイングランドに向けて出港したことを知らせている.

ライプニッツは10月末には皇帝レオポルト一世にも会った(エイトンp.218参照).

ライプニッツはハノーヴァーに帰国するつもりでいたが,1689年初頭,モデナの文書館の利用が許可されたことを知り,イタリアに向かうことにした.

まず行ったのは,仲介した大使のいるヴェネツィアだった.ここでウイーンに設立されるべき帝室図書館に備えるべき本の目録を作成に着手し,夏から秋ごろには完成したが,その2500点のうち日本に関するものとして,B・ヴァレン『日本王記』(1649),J・F・マリーニ『イエズス会神父日本地方伝道記』(1663),『対日本皇帝東インド会社使節団』(1687),『対日本諸皇帝統一東インド会社記念使節団』(1680)の4点(「皇帝」が天皇か将軍かは不明)があるという(佐々木能章『ライプニッツ術』p.218).

モデナからの連絡を待つ間,ライプニッツはさらにローマにも足を伸ばした.だがローマ入り数日後にあてにしていたクリスティナ女王(元スウェーデン女王)が亡くなってしまい,女王所有の資料を見られたのは11月にローマを発つ直前のことになってしまった.ナポリまで足を延ばして14世紀のブラウンシュヴァイク公オットーと結婚したナポリ女王ジョヴァンナ(ヨハンナ)の史料も見た.

ローマ滞在中の8月12日,教皇イノケンティウス11世が逝去し,教皇選出会議に集まってくる枢機卿とも接触した.

12月に到着したフィレンツェでは,エステ家に関係する古文書および初代ヴェルフェン公の母クニグンデの墓がヴァンガディッツァのカルメル派修道院にあるとの報告があるとの情報を得た(エイトンp.234, 251).

12月30日にモデナに到着したライプニッツは,モデナ公の全面協力も得て5週間にわたって記録を調査し,ブラウンシュヴァイク家とエステ家のつながりを完全に証明した.

ライプニッツはヴェネツィア,ウイーン,プラハ,ドレスデンを経由,郷里のライプツィヒを通過して1690年6月にハノーヴァーに帰着した.

ちなみに,一日当たりの出費は,秘書・従僕を雇う費用も含めて約2.5ターラーだったという(エイトンp.243).

●ハノーヴァー選帝侯位獲得へ(1689-1692)

1689年9月にライン川に出兵したフランスがまず目指したのはライン川の重要な渡河地点フィリップスブルクの包囲で,10月には陥落させた(『イギリス革命史』下p.175-).その後フランス軍はプファルツ選帝侯領を中心に荒し回り,1690年3月にはハイデルベルク城も破壊した(その廃墟は今も残っている).

1690年,皇帝軍は9月にマインツを奪還するなどの戦果を上げた.6月に大旅行から戻った直後の手紙で,ライプニッツは同盟軍はライン川で何らかの作戦行動に出るであろうが,フィリップスブルク奪還はできまいとの観測を述べている(エイトンp.244).

その同じ手紙でライプニッツは,主君エルンスト・アウグストが,「成果についての見通し次第では」アウクスブルク同盟軍に協力してネーデルラントに兵を出す用意を整えていることも述べている.

ハノーヴァーは皇帝に協力しての出兵を選帝侯位獲得の交渉材料に使っていた.皇帝はフランスとの戦争ばかりでなく,トルコとの戦争も抱えていたのである.1690年にはハノーヴァー公エルンスト・アウグストの四男カール・フィリップと次男フリードリヒ・アウグストがトルコ戦で相次いで戦死していた.犠牲のわりに報われない状況にしびれをきらし,エルンスト・アウグストはフランスからの接触を受けていたこともあって1691年には皇帝に対して強い態度に出た.その結果,1692年,ついに皇帝から選帝侯位を受けることに成功した(『イギリス革命史』p.186).12月にはウイーンで選帝侯帽の授与式が行われたが,主君の名代として参加したオットー・グローテが述べた挨拶文はライプニッツの手になる歴史的回顧を織り込んだものだった(エイトンp.254).

ただし,ハノーヴァー家の勢力伸長はマインツやザクセンからは不信の目で見られており,ヴェルフェン家の歴史に基づいてハノーヴァー家の栄達が当然のものであることを主張し続ける必要は残るのだった.実際にハノーヴァーが選帝侯会議に初めて席を得るのは1708年のことになる.

●歴史調査とその現世的成果

歴史調査の都合もあって,ハノーヴァー(ブラウンシュヴァイク・リューネブルク)の図書館長であったライプニッツは,1691年1月にはヴォルフェンビュッテル図書館長にもなる(エイトンp.244,252も参照).ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒは文筆活動もする人物であり,ライプニッツは個人的な親交ももつようになっていた(エイトンp.180も参照).

そうした資料探しの成果として,1693年には『国際外交法典』(Codex Juris Gentium Diplomaticus)を出版した.12世紀から15世紀に結ばれた重要な国際条約をまとめたものである.また,1698年,1700年には未公刊ながらドイツの歴史を扱った2巻の『歴史の補遺』(Accessiones historicae)を著した.

ヴェルフェン家の歴史調査とは,つまるところ主家ブラウンシュヴァイク・リューネブルク家の隆盛のための材料集めなのであるが,ライプニッツはそれだけに終わらせるつもりはなかった.哲学者・科学者としての原則に合う仕方で歴史調査もやり遂げようとしたのである.ライプニッツは,主君を賛美するために系譜をローマ時代にまでさかのぼらせるやり方を批判し,権力者を喜ばせるために小説のように扱われてきた歴史学も,科学の厳密さの上に立脚すべきであると考えていた.

だが,調査のための旅行が次々と足を伸ばすうちに2年半にわたる大旅行となったように,歴史編纂もライプニッツの当初の意図からどんどん拡大して終わりの見えない状況になる.

その扱う内容はヴェルフェン家の諸事にとどまらず,中世のドイツ帝国とイタリアの歴史という性格を帯びるようになっていった.さらに時代をさかのぼり,諸民族の起源や人間登場以前の自然史まで話は及ぶ.この導入部という位置づけの1694年の『地球前史(プロトガイア)』(Protogaea)はニーダーザクセン地方の地質学的・自然史的叙述となった(没後に刊行).

こうして壮大な構想を広げながら一向に収束しない作業を,次代の主君ゲオルク・ルートヴィヒはのちにこう皮肉ることになる.

「あらゆることをなそうとし,そのために果てしのない文通と往来の旅にふけり,奇妙なものを精を出して集める,といったことにかけては天才ですが,しかし物事を一つにまとめ,それにけりをつけることに関しては,才能がないのか,やる気がないのかのどちらかなのです」(1713年の手紙)(フィンスターp.80より)

少し先走ったが,ライプニッツのこの歴史調査は死ぬまで続けられ,途中,さまざまな形で派生的な成果を生むことになる.

歴史調査は,領有権の根拠ともなる.

大旅行の際のウイーン滞在中,ライプニッツは現地のハノーヴァー大使に,東フリースラント問題でハノーヴァー家の権利(かつてフリースラントがブラウンシュヴァイク家の女系の支配下にあったとする)の裏付けとなる文書の提供を申し出ている.東フリースラントはハノーヴァー家がブランデンブルク家と領有権を争っていた地であった.(エイトンp.213)前東フリースラント伯は1665年に没したとき,まだ息子を妊娠中だったヴュルテンベルク出身の妃クリスティーネ・シャルロッテが継承し,妃は1690年になってようやく息子に治世を譲ったのだった.

また,ウイーンの帝室図書館では,皇帝の同盟者であり,フランスに所領を奪われたロレーヌ公の権利を裏付ける文書を発見してロレーヌ公の大臣や皇帝に報告した.(ibid. p.217)

1689年にザクセン・ラウエンブルク家が絶えたとき,ブラウンシュヴァイク家とアンハルト公家との間で継承権の争いが起こったが,ライプニッツはこれについても1690年末に系統調査を依頼された(ibid. p.253).のちの1714年にライプニッツがラウエンブルク公領についての正式な書面を起草して皇帝に提出し,認められることになる(ibid. p.452).

ちなみに,1696年から1697年にかけては,ライプニッツは,オスナブリュック司教領を恒久的にハノーヴァー領とすることに力を入れた(ibid. p.258).ただし,成果はなかったようで,エルンスト・アウグストの没時(1698)には,ウエストファリア条約でプロテスタント,カトリック交互とした取り決め通り,カトリックであるロレーヌのカール・ヨーゼフがオスナブリュック司教となる.

また,先述のように,1687年から1690年にかけての大旅行の最大の収穫は,ブラウンシュヴァイク家とエステ家の縁戚関係を証明したことにあるが,この調査結果は,1695年にモデナ公リナルドとエルンスト・アウグストの姪シャルロッテ・フェリキタス(ヨハン・フリードリヒの娘)との縁組の実現に貢献した(エイトンp.236,256も参照).

1699年には,エルンスト・アウグストのもう一人の姪ヴィルヘルミーネ・アマーリエ(シャルロッテ・フェリキタスの妹)がローマ王ヨーゼフ(のちの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ一世)に嫁ぐとき,花嫁がルクレチア・ボルジアの子孫と称していることを理由とする反対に対して,ライプニッツは系図と演繹とで論駁した

●宮廷スキャンダル(1694)

1694年,ハノーヴァー宮廷で一大スキャンダルが起こった.7月1日(旧暦),太子ゲオルク・アウグストの妃ゾフィア・ドロテアと恋仲になった近衛隊長ケーニヒスマルクが謎の失踪を遂げたのである.選帝侯の指示により暗殺されたと言われ,妃はアールデンの城に幽閉され,法廷での審理により12月に離婚が成立する.(森護『英国王妃物語』p.189-208,エイトンp.254-255,Hatton p.48-, 『スペイン継承戦争』p.40他参照)

この審理にライプニッツが関わったことを示す史料はないという.この事件について,選帝侯妃ゾフィアとその姪であるオルレアン公妃エリザベート・シャルロッテとの間の文通で取り上げられたのを契機に(ゾフィアはライプニッツとのやりとりを文通相手のこの姪に仔細に知らせていた),ライプニッツも見解を残している.それは,別居と離婚の全責任は太子妃ゾフィア・ドロテアにあるとするハノーヴァー宮廷の公式見解に沿う内容だった.(エイトンp.257)

●大同盟戦争の終結(1697)

1688年に始まったフランスと同盟諸国との間の戦争は1697年のレイスウェイク条約によって終結した(『イギリス革命史』下p.219-).この講和条約はイギリス,オランダを治めるウイリアム3世の主導でまとめられ,皇帝は最後まで同意をしぶった結果,やむなく調印したものだった.フランスからは征服地の多くが返還されたが,ストラスブールはフランスが保持することとされたことがドイツ人にとっては耐え難いことだった.

ライプニッツは,レイスウェイク条約はかつて帝国が結んだ条約のうち最も不名誉なもので,プロテスタント教会にとっても危機だと述べている(エイトンp.305,308).

●『最新中国事情』(1697)

ライプニッツは1697年に,イエズス会の宣教団からの情報に基づく『最新中国事情』(Novissima Sinica)を出版した.これを見たフランス人宣教師ジョアシャン・ブーヴェ(Joachim Bouvet; 中国名は白晋,白進)が,同年出版された,康煕帝(在位1661-1722)の半生を描いた著作『中国皇帝物語』(Portrait historique de l'Empereur de Chine;邦訳は後藤末雄訳『康煕帝伝』がある)を贈ってきた.ライプニッツは,許可を得てこれをラテン語に訳し,1699年刊行の『最新中国事情』第2版に収録した.

中国哲学への関心もさることながら,教会の問題にも関心の深かったライプニッツは,中国皇帝を改宗させることができれば,百の戦場での勝利以上の効果があると考えていた.(エイトンp.306;cf. スチュアート p.355)

●普遍教会(1673-1702)

ライプニッツは個人的にはプロテスタントのルター派だったが,カトリックとプロテスタントの統一という構想も抱いていた.新旧両教の対立は政治的にも重要な要因となっており,三十年戦争の惨禍も記憶に新しい.ライプニッツの時代でも,1685年にフランスでナント勅令が廃止されて新教徒が迫害され,1688年にはイギリスではカトリックのジェームズ2世が王位を追われる名誉革命が起こった.

教会統一はドイツ,ひいてはヨーロッパの安定をもたらすというのがライプニッツの持論であった.だが,ライプニッツの寛容の考えはしばしばカトリック,プロテスタント両陣営から無信仰と非難された.

かつて20代のライプニッツが滞在したマインツは,選帝侯ヨハン・フィリップとボイネブルクが教会統一を構想しており,教会統一運動の先頭に立っていた.ライプニッツも「カトリックの論証」(Demonstrationes Catholicae)という論文を書くことを生前のボイネブルクに約束していた

この論文は実現しなかったが,ボイネブルクとの話し合いの結論は,カトリック教会が主張するトリエント公会議の議定書(1564年)は二,三の条項を除けばプロテスタントでも容認しうる.それら二,三の条項についても,新旧両教会が合意できる解釈を与えることができるというものだった.(エイトンp.148)

教会統一の考えは1676年からライプニッツが仕えたハノーヴァー家にも受け入れられる.

ハノーヴァー家はルター派だったが,ライプニッツが当初仕えたヨハン・フリードリヒは個人的にカトリックに改宗していた.それでも領民の大半が信仰するプロテスタントには干渉せず,文化にも理解のある人物だった.次のエルンスト・アウグストは,選帝侯位獲得を目指したこともあって,カトリックの皇帝とも良好な関係をもった.こうしたことから,ハノーヴァー家はライプニッツの教会統一の考えに理解を示した.

一方,ローマ教皇イノケンティウス11世もカトリックの側からの教会統一を推進しており,ハノーヴァー宮廷で公妃ゾフィアやライプニッツに改宗をはたらきかけた.1683年にはハノーヴァーで新旧両教の神学者により教会統一を論じる合同会議が開かれた.この時期のライプニッツの書簡が1686年の論文「神学体系」(Systema tehologicum)に結実する.ライプニッツの考えるカトリック教会とは,現実のローマカトリック教会そのものではなく,内的な「真に普遍的な教会」であり,それはプロテスタントの理念とも一致するものだった.

だがカトリック大国フランスのルイ十四世は,ドイツの分裂が好都合であることもあって教会統一には一貫して反対で,教皇自身による統一工作にも干渉した.ライプニッツの主君エルンスト・アウグストも1692年に念願の選帝侯位を獲得すると,以前ほどの関心を示さなくなった.1701年にイギリスでハノーヴァー家への王位継承が定められると(後述),カトリックの王を認めないイギリスでの王位継承の障害になりかねない教会統一は,ハノーヴァー家にとって不都合なものになった.

ライプニッツが教会統一に関して活発に活動したのは1673年から1702年までだったという(永井p.158).

●プロテスタント両派の統一(1698-1699)

宗教的統一の問題には,プロテスタント内部でのルター派とカルヴァン派の統一もある.

これに関しては,17世紀初頭にルター派からカルヴァン派に改宗した経緯があるブランデンブルク選帝侯家が両派の和解に前向きだった.そしてルター派のハノーヴァー家を引き入れて統一論議がなされたのだが,ハノーヴァー側からはライプニッツやルター派の僧院長モラヌスなどが参加した.

ライプニッツは,この統一には第一段階の市民的寛容,第二段階の教会の寛容,第三段階の信仰の統一があるが,特に聖餐の教義で合意を見出すことは難しく,第二段階までが実現可能な目標であると考えていた.ブランデンブルク側はそれを不十分として,両派が福音教会と称する一つの教会の下に一つになることを求めていた.論文による論戦が行われ,1698年9月にはハノーヴァーでライプニッツ,モラヌスがブランデンブルク側のヤンブロスキと直接会談し,両派の統一は,教義上の寛容,教会の儀式および称号の統一に基づくべきであるという点では一致した.

しかし,プロテスタント両派の統一に関しても,1699年にはライプニッツは時流に合わなくなったと書いている.しかも,プロイセン王となった(後述)ブランデンブルク選帝侯も統一に関心を失っていく.同じく統一に熱心だったブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒも,1710年にカトリックに改宗してしまう

後述のように,国家間の婚姻においては,当事者の改宗が条件とされることがある一方,信仰を侵さないことが定められることもあり,統一運動は政治的な都合のうちに埋没していくことになる.

ライプニッツ自身も1706年には,ルター派のハノーヴァー家とカルヴァン派のプロイセンの縁組に際して主君から統一に向けた運動をやめることを命じられることになる

●新ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(1698)

1698年1月,エルンスト・アウグストが没し,長男ゲオルク・ルートヴィヒがハノーヴァー選帝侯となった.だが今度の君主は,法律や政治の知識ではライプニッツを活用せず,ヴェルフェン家の歴史の完成を督促するばかりだった.

新選帝侯はライプニッツのことを「生き字引」とか「考古学的な発掘物」と呼んでからかった.ライプニッツは巨大なかつらを含むバロック的なファッションを固持しており,若いころパリで身につけたスタイルがその後の何十年かでとっくに時代遅れになっていたことに気づいていなかったのだった(スチュアートp.381).

ただし,Hatton, George I p.90によれば,定説に反し,ゲオルク・ルートヴィヒがライプニッツとのやりとりを楽しんでいたことを示す母ゾフィアの手紙(1711)があるという(エイトンp.438も参照).エイトンp.377にもライプニッツがめずらしくゲオルク・ルートヴィヒと哲学の議論をする場面(1703)がある.

いずれにせよ,51歳になって新たな主君をもったライプニッツは,主君の不信の目をよそに各地に足を運ぶ精力的な活動を続ける.

●三人の女性

ライプニッツの後半生は,主君からは十分に評価されない一方,三人の知的な女性との交流に恵まれた.

◆ゾフィア

その第一が選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒの母ゾフィアだった.イングランドのステュアート王家の血を引いており.イングランドの王位継承者に指名されることになる人物でもあった.

ライプニッツはゾフィアには,エルンスト・アウグストがハノーヴァー公となる前の1679年にヘルフォルトの修道院長であるプファルツ公女エリザベート(ゾフィアの姉)を見舞った際に会っている(エイトンp.150).エルンスト・アウグストがハノーヴァー公となるとまもなく親交を深めるようになり,フランス語で多数の手紙をやりとりした.ゾフィアが長男ゲオルク・ルートヴィヒが学者モラヌスを言い負かしたことを得々と述べるライプニッツ宛ての手紙があるという(Hatton p.47).ゾフィアはライプニッツから年賀状をもらえることは王侯からの年賀状以上にうれしいと述べたこともある(エイトンp.154).

田舎宮廷であるハノーヴァーでの暮らしをぼやく,イングランドのトマス・バーネットに宛てた手紙でも,ライプニッツはゾフィアのことは例外としている.

「学識ある人々と交わることのできるロンドンやパリのような大都会に暮らしていないのは私の不運です.ここハノーヴァーでは,同好の人物はほとんどいません.実際,会話に学問的な話題を持ち込むのは悪い宮廷人ということになるのです.そうした問題を話す人は偉大な侯妃さまをおいてほかにいません」(Melville, George I vol. 1, p.255,エイトンp.250)

ゾフィアの存在は,主君への奉公に劣らずライプニッツとハノーヴァーのきずなとなっていた.

◆ゾフィア・シャルロッテ

ゾフィアに勝るとも劣らぬライプニッツのよき理解者となったのが,ゾフィアの娘ゾフィア・シャルロッテだった.選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒの妹にあたり,ブランデンブルク選帝侯妃(まもなくプロイセン王妃)となってベルリンで暮らしていた.

ただ,1697年に宰相ダンケルマンが失脚するまでは何の影響力もなく,ライプニッツのことも単に母の友人と見なしていたという(エイトンp.366).

ゾフィア・シャルロッテは母以上に学識が深く,ライプニッツに対し,弟子と見なしてほしいと伝えた(1699年9月1日付)ほどである.

ゾフィア・シャルロッテとのつきあいもあって,ライプニッツはブランデンブルク(プロイセン)宮廷との縁もできる.

◆キャロライン(カロリーネ)

そしてライプニッツと親交を深めた第三の女性が,ゾフィア・シャルロッテのもとで育てられていた公女キャロライン・オブ・アンスバッハ,のちのイギリス王ジョージ二世妃となる女性である.

この三人の女性はライプニッツのよき理解者となり,頻繁に文通も交わした.

●イングランド王位継承問題(1698)

ハノーヴァー家のゾフィアはイングランド王ジェームズ一世の孫であり,名誉革命でウイリアム三世が王位についた直後からイングランドの王位継承者として取り沙汰されていた.1689年の議会では,名誉革命の立役者の一人であるソールズベリー主教ギルバート・バーネットが王位継承問題についてハノーヴァー家を指名しようとしたことがあった.(このバーネット主教とはライプニッツもイングランドの歴史と政治について書簡を交わしている(エイトンp.258).)

1694年末にウイリアム三世の妃メアリー二世が世を去って,当面世継ぎができる見込みはなくなった.ウイリアム三世の継承者としてはメアリーの妹アンがいたが,アンは流産や夭折で次々に子を失っており,残っているのは5歳のグロスター公だけだった.

1695年にはトマス・バーネットというスコットランド貴族がハノーヴァー家による王位継承問題との関連でハノーヴァーを訪れてライプニッツと知り合っている(エイトンp.250).

1698年,夏に故郷オランダを訪れたウイリアム三世はツェレに足を伸ばし,そこでゾフィア(およびゲオルク・ルートヴィヒ)に会っている.これは,グロスター公とゾフィアの孫娘の結婚によってイングランドとハノーヴァーの結びつきを強めるためのものだったという(van der Zee, William and Mary p.446).

グロスター公に万一のことがあった場合には,ウイリアムはハノーヴァーのゾフィアを王位継承者と考えていた.だが,この時点ではまだ,ゾフィアとゲオルク・ルートヴィヒを差し置いて,ゾフィアの娘ゾフィア・ドロテアの子であるブランデンブルク太子が王位継承者に指名される可能性もあった(Baxter, William III p. 371-372; Hatton p.73).それでも,ウイリアム三世としては,エルンスト・アウグストやその兄ツェレ公とは長年共に戦ってきた仲であり,ハノーヴァーを優先させたかった.

この会談に当たって,ライプニッツの助言を受けたゾフィアは,ゾフィアとその子孫をイングランド王位継承者に指名すべきこと,グロスター公が成人したらハノーヴァーの公女と結婚させることをウイリアムにもちかけ,ウイリアムは好意的な反応を示したという(エイトンp.327).この間,ライプニッツ自身もイングランド大使ジョージ・ステップニーと話し合いをしていた.

●グロスター公の死と王位継承法(1700-1701)

1700年7月30日(旧暦),イングランド王位継承者であった少年,グロスター公が急死した.この年も夏をオランダで過ごしていたウイリアムはそこで訃報を聞いた.

これでウイリアムの義妹アンの次の王位継承者はいなくなり,ゾフィアの王位継承が現実味を増したことになる.

ゾフィアもライプニッツも,この死の意味するところは十分に認識していた.ライプニッツも8月20日,ベルリンでゾフィア・シャルロッテにいとまを告げてハノーヴァーに帰ろうとしている矢先に訃報に接し,翌日,早速ゾフィアに手紙を書いてこれまで以上にイングランドの王位継承が重要問題になったと指摘した(Adolphus William Ward, The Electress Sophia and the Hanoverian Succession p.179, エイトンp.328).ゾフィアはその3日前にすでにライプニッツに宛てて手紙を書いており,ことの重要性は認識しつつも,もう少し若ければ王冠も楽しみだが,選べるなら偉大よりも長寿を取りたいという,控え目な書き方をしている.

ウイリアム三世の意向を受けたと思われる大使ステップニーからもゾフィアに手紙が届き,ゾフィアが王と直接連絡を取った上でライプニッツを通じて受諾の意向を伝えることを求めてきた.こうしてライプニッツは正式にイングランドの王位継承問題に関与することになったのだった(エイトンp.328).ライプニッツは『イングランドの継承問題に関する考察』を著したほか,この問題では多くの書簡も書いている(スチュアートp.347).

ただ,ゾフィアがステップニーに送った返事は,ライプニッツに対するものと同様,気のないもので(エイトンp.328,Melville p.140, 『スペイン継承戦争』p.41, Hatton p.73, Baxter p. 372),あまつさえゾフィアは名誉革命で王位を追われたジェームズ二世を支持するジャコバイトとの批判さえ呼ぶことになる.

こうしたゾフィアの態度について,のちにライプニッツは次のように説明している.

「選帝侯太妃は常に,イングランドやスコットランドでしゃしゃり出るのはふさわしくないと考えておいででした.それで現時点で彼らにとって何が最善かを考える心配は前国王〔ウイリアム三世〕に任せていました.今でも〔アン〕女王と両国の国民に任せています.生来陰謀の敵であり,広き道を行くことを好まれます」(Melville p.141)

いずれにせよ,10月にウイリアム三世と旧友ツェレ公ゲオルク・ヴィルヘルムがオランダの宮殿ヘット・ローで会い,エクス・ラ・シャペルで湯治中だったゾフィアとゾフィア・シャルロッテも合流した(Ward p.179, van der Zee p.461,エイトンp.328).1701年1月18日にもゾフィアとライプニッツはツェレでゲオルク・ヴィルヘルムやイングランド大使ジョン・クレセットと王位継承問題を話し合った.その後,ゾフィアはウイリアムに自分の進退についての意見を求める手紙を書いた(エイトンp.328).

ウイリアム三世は2月21日に議会でプロテスタントの王位継承の重要性を訴える演説をし,1701年6月12日(旧暦)にハノーヴァー家のゾフィアを王位継承者に指名する王位継承法がイングランド議会で成立した.8月14日に王位継承法がハノーヴァーのゾフィアに届けられた.

ライプニッツはこの1701年に「イギリス王位継承に関するブラウンシュヴァイク家の権利について」(Considerations sur le droit de la Maison de Bronsvic-Lunebourg `a l'´egard de la succession de l'Angleterre)を書いている(Fricke p.21, 中公クラシックス『ライプニッツ モナドロジー・形而上学叙説』p.242).

●スペイン継承問題(1700-1701)

イングランドの継承問題以上にヨーロッパ諸国の関心を集めていたのはスペイン王位の継承問題だった.後継ぎを残さず没することが確実視されていたスペインのカルロス二世は1700年11月に薨去した.カルロス二世は海外植民地も含む広大なスペイン領をフランスのアンジュー公フィリップに遺すことを遺言していた.だがそれでは,フランスの力が大きくなりすぎる.オーストリアのカール大公もスペイン王位継承権を主張しており,長年イングランド,オランダを率いてルイ十四世と戦ってきたウイリアム三世も,スペイン領を列強の間で分割することが必要だと考えていた.(『スペイン継承戦争』第1章等参照)

ライプニッツもヨーロッパを覆う暗雲であるスペイン継承問題には関心を寄せており,1700年5月から8月にかけてのベルリン滞在中も,ゾフィア・シャルロッテと語り合っている(エイトンp.367).

1701年初頭,ライプニッツはスペイン継承権がオーストリアにあると主張する匿名の文書を発表した.それは,アントワープの一市民を装ってフランスを支持する書簡,アムステルダムの一市民を装ってそれに反論する書簡をパンフレットとして発表したのち,ドイツ語訳と解説,関連する法律の抜粋などを付けて『正義のために』(La justice encourag´ee)と題して出版された.(ibid. p.330)ほかにカルロス三世を名乗るカール大公を支持する『カルロス三世の権利を擁護するための声明書』も発表している(スチュアートp.347).

●ブランデンブルク=プロイセン(1700-1701)

1701年1月18日,ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ三世はケーニヒスベルクで戴冠式を挙げ,プロイセン王フリードリヒ一世となった(正確には「プロイセンにおける王」という変わった称号だった).折しもスペイン王位継承問題をめぐってスペイン継承戦争の勃発が必至の情勢で,ブランデンブルク選帝侯を味方につけておくために皇帝が1700年11月に認めたのである.(なお,ライプニッツは1700年12月に皇帝レオポルト一世に十年ぶりに会っている.)

代替わりによりハノーヴァーでの影響力が下がる一方,ライプニッツはゾフィア・シャルロッテの影響もあってこのプロイセン宮廷との関係を深めていた.1700年にはライプニッツの献策によりプロイセン版科学アカデミー「科学協会」(のちのプロイセン王立アカデミー)が創設され,ライプニッツが終身初代会長となった.この1700年には,ライプニッツは司法枢密顧問官にも任命された.ライプニッツはハノーヴァーとプロイセンという二国の要職を占めるまでになった.ただし,両国に仕えることで,ライプニッツは不信の目で見られることもあった.

●ハノーヴァーとヴォルフェンビュッテルの対立(1701-1702)

ブラウンシュヴァイク・リューネブルク家(ハノーヴァー選帝侯家)はブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル家とはライバル関係にあったが,そのヴォルフェンビュッテルのアントン・ウルリヒがフランスの援助を受けてハノーヴァー家に反抗する計画を進めていた.きたるべきスペイン継承戦争でハノーヴァー家の軍がネーデルラントなりライン川方面なりに行ったら,ツェレ公領(ブラウンシュヴァイク・リューネブルクはハノーヴァーとツェレからなる)を占領しようとしていたのである.

1701年10月初頭からベルリンに滞在していたライプニッツは,ゾフィア・シャルロットに情勢分析の覚書を提出した.フランスは帝国を分断するためにケルン,バイエルン,ヴォルフェンビュッテルに資金援助を行ない,ヴォルフェンビュッテルに対しては中立の見返りとして兵備に協力しているというものである(エイトンp.330).ライプニッツは12月初旬にいったんハノーヴァーに戻って選帝侯に報告・提言をした(ibid. p.322,330).ハノーヴァー選帝侯から王妃ゾフィア・シャルロッテに宛てた書簡とライプニッツが行なうべき外交工作に関する指示とを携えて,ライプニッツは12月23日にベルリンに戻った.

フランスとの戦端が開かれようとしているこの時期のヴォルフェンビュッテルのこの動きには,イングランドのウイリアム三世も皇帝レオポルト一世も懸念しており,外交圧力で解決できない場合には先制攻撃によりハノーヴァーの混乱を食い止めることに同意していた.

1702年3月19日,ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒはヴォルフェンビュッテルに兵を進め,パイネ(Peine;ハノーヴァーとブラウンシュヴァイクの中間地点),ゴスラー(Goslar)の両市を占領することで,大規模な衝突なしにヴォルフェンビュッテルをフランスとの同盟から引き離すことに成功した.

その後,ライプニッツは実力行使の正当性を書簡で述べている(エイトンp.331参照).

●スペイン継承戦争(1702)

1702年5月,前年すでに戦端が開かれていたスペイン継承戦争の宣戦布告がされたが,イングランド,オランダ,ドイツの同盟陣営では総司令官をどうするかについての決着もついていない状況だった(『スペイン継承戦争』p.57).この4月,ライプニッツはウイーン駐在ハノーヴァー公使への手紙で,イングランド王位を継承する運命にあるハノーヴァー選帝侯が大陸におけるイギリス軍の指揮をとるべきだと述べている(Melville).

「我らが主君選帝侯殿がほぼ半分の兵を自家で提供する三〜四万の兵力を率いてライン川中流域およびモーゼル川流域に出発できるほど関心が一致していればと望む.これは,選帝侯殿が,当然侯に属すべきイングランド軍の指揮を与えられないとした場合のことだ.だが,〔アン〕女王にその気があるかどうかは疑問だ.女王にとって我々を妬む材料はないが,人々にとっては妬むのは当然だろう.デンマーク公である夫君殿下はいわずもがなだ」

1703年末までにはネーデルラント戦線では同盟軍が着実に戦果を重ねる一方(『スペイン継承戦争』第4章),バイエルンがフランスと同盟したため南ドイツでの戦況は不利になっていた(『スペイン継承戦争』第6章).ライプニッツはゾフィアへの手紙で,オランダと帝国の両方に総指令本部を設置すること,腕力ではなく科学を用いることなど多数の提言をした(エイトンp.331).

その一方,ライプニッツはこの年,「スペイン継承戦争の開始についての考察」を書いている(佐々木p.289).ライプニッツはまた,オーストリアがスペイン領全体を継承する権利があるとの主張をスペイン人が書いたことにしてイングランドやオランダで流布させた(エイトンp.331).

●オラニエ公家継承問題(1702)

スペイン継承戦争勃発の直前,イングランド国王にしてオラニエ公(オレンジ公)であるウイリアム三世が没した.ウイリアム三世が存命だったら,スペイン継承戦争での同盟陣営の司令官については文句なくウイリアム三世だったことと思われる.

ウイリアム三世の死により,イングランド王位は義妹のアン女王が継承したが,オラニエ公位の継承者は決まっていなかった.ウイリアム本人の遺言により同じナッサウ伯家に連なるヨハン・ウィレム・フリーゾが指名されていたが,プロイセン国王フリードリヒ1世もウイリアムと同様にかつてのオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの孫であり,オラニエ公位の継承権を主張していた(『スペイン継承戦争』p.57,306,359参照;『オランダ独立史』コーナーのオラニエ公家系図も参照).ライプニッツはこの問題についても,この1702年に「プロイセン王が祖父フレデリック・ヘンドリックの後継者となることの正当な権利についての概要」「英国国王ウイリアム三世の王位継承をめぐるプロイセン王フリードリヒとナッサウの王ヨハン・ウィレム・フリーゾの言い分」「オラニエ家の遺産への覚書」を書いている(佐々木p.289).

●ハノーヴァーとベルリンの往復(1700-1705)

ハノーヴァーとベルリンの間を頻繁に往復したライプニッツの足跡をまとめておく.

ライプニッツは1698年にゾフィア・シャルロッテから招かれて以来,ベルリンに行きたがったが,なかなか選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒの許可が下りなかった

1700年5月11日から8月にかけてようやくベルリン滞在の機会が得られた(エイトンp.319,361).

1701年は10月初頭から1701年1月にもベルリンに滞在する(ibid. p.321,322,362,372).この間,12月に一度ハノーヴァーに戻ってヴォルフェンビュッテル情報の報告をしたことは前述のとおり.

1702年6月11日から翌1703年6月3日に帰るまではまる1年にわたってプロイセンに留まり,リュッツェンブルク宮殿でゾフィア・シャルロッテやキャロラインとの哲学談義を楽しんだ(ibid. p.322-323).1702年の夏にはハノーヴァーからゾフィアもリュッツェンブルクにやってくる(ibid. p.373).また,1703年1月にはライプニッツをプロイセンに残してゾフィア・シャルロッテのみがハノーヴァーを訪問している.

1703年の夏はライプニッツには許可が出なかったが,ゾフィアは8月にリュッツェンブルクを訪問している(ibid. p.377).

1704年1月にライプニッツはベルリンへ行き,ドレスデンなどに小旅行もして2月半ばにハノーヴァーに戻った(ibid. p.324).

1704年は8月末にリュッツェンブルクに到着し(ibid. p.325),ゾフィアも10月はじめに合流する(ibid. p.377).

この1704年,キャロラインに,スペイン継承戦争でスペイン王位を主張しているカール大公との縁談が持ち上がった.カール大公の叔父にあたるプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム(ヨハン・ヴィルヘルムの姉エレオノーレと皇帝レオポルト一世の子がカール大公)が望んだことで,プファルツ選帝侯は自分の聴罪師フェルディナント・オルバンを派遣して公女の説得にあたらせた.信仰の違いのため物別れに終わったが,キャロラインが最終的に断りの手紙を外交的な言辞で書くときにはライプニッツが起草した.

三人のよき理解者と過ごしたこの数年間はライプニッツにとって最も幸せな時期だった.だが,1705年1月,ベルリンでの仕事に忙殺されるライプニッツはハノーヴァーを訪問するゾフィア・シャルロッテに別れを告げた.そして,これが永遠の別れとなったのだった.

●王妃の死(1705)

1705年2月1日,プロイセン王妃ゾフィア・シャルロッテは訪問中のハノーヴァーで急死した.哲学を好んだゾフィア・シャルロッテは死に際しても冷静だったと記録されている.ゾフィア・シャルロッテは,ライプニッツですら説明できなかったものを知りに行くのだからと言ったという伝説があるが,これはゾフィア・シャルロッテの孫フリードリヒ大王の創作らしい(エイトンp.381).

悲報を聞いた58歳のライプニッツは身内を失ったかのような悲しみようだった.プロイセン王の命令により王妃の手紙と王妃が受け取った手紙の多くが焼かれたため,残りの手紙を救おうと宮廷の高官たちに王妃が保存していた書簡を差出人に返却するよう説得に当たった(エイトンp.378参照).

3月はじめにハノーヴァーに戻ったライプニッツは,ゾフィア・シャルロッテの達観した最期の様子を聞いて,ベルリンのキャロリンに報告している.

ライプニッツはゾフィア・シャルロッテの追悼演説の草稿を書き上げるが,これはもう一度ベルリンを訪れ,5月末にハノーヴァーに戻ってまもなくのことだった.

その9月,ゾフィア・シャルロッテの薫陶を受けてベルリン宮廷で育てられたキャロラインはハノーヴァーの太子ゲオルク・アウグストに輿入れした.

●ゾフィアの訪英問題(1705-1706)

ハノーヴァーでのライプニッツは,選帝侯の母ゾフィアや選帝侯太子の嫁キャロライン・オブ・アンスバッハとの交流に慰めを見出す一方,イングランド王位継承者に指名されているゾフィアの政治的な相談役でもあった.ただ,その熱意のあまり勇み足もあったようだ.

ハノーヴァー家のゾフィアが王位継承者に指名されたといっても,ホイッグとトーリーが政争を繰り広げ,名誉革命で王位を追われたジェームズ二世の遺児を復位させようとするジャコバイトも暗躍するイングランド政界の動きは流動的だった.そこでハノーヴァー家の者の訪英によって王位継承を確実にしようという動きが起こることになる.1705年暮れのイングランド議会で王位継承者のゾフィアを招聘することが提案されたのだが,アン女王が自分の後継者を身近に見るのをいやがったこともあって政治危機に発展した(『スペイン継承戦争』p.149-).この間,ロンドンにいる連絡役からライプニッツも頻繁に報告を受けていた.

だが,招聘問題がようやく落着したと思った1706年2月,ライプニッツが関わったパンフレットがロンドンで刊行されて大騒動を巻き起こすことになった.それは二通の手紙を含んでいて,一通はゾフィアが1705年11月にカンタベリー大主教に宛てて訪英の意向を述べたもの(Fricke p.61)だが,もう一通はゾフィア招聘に反対する者はジャコバイトだと非難する内容だった(エイトンp.384参照).後者の手紙はサー・ロウランド・グウィン(Sir Rowland Gwynne)がホイッグの貴族スタンフォード伯に宛てたものという体裁だったが,その実,起草したのはライプニッツで,グウィンはそれを英語に訳して署名しただけだった.

この手紙は政府や上院でも取り上げられる大問題になり,グウィンはハノーヴァー宮廷を追放され,帰国もかなわなくなった

ゾフィアとライプニッツは,選帝侯から今後,許可なく動かないよう命じられるのだった.

●イングランド王位継承問題とスペイン継承戦争(1706)

ゾフィアの訪英は実現しなかったが,その代わりイングランド議会はハノーヴァー家への王位継承を確実にする摂政法,帰化法を成立させた(『スペイン継承戦争』p.150-152).1706年5月,ハリファックス伯がハノーヴァーを訪れ,正式に摂政法と帰化法の成立を報告した.

ハリファックスは文人ジョーゼフ・アディソン,建築家ヴァンブラを伴っており,ライプニッツとも交歓した.ライプニッツはトマス・バーネットへの報告に際して,ハノーヴァー家の王位継承を確実にするには,あれこれの議会法よりフランスに対する軍事的な勝利が有効だとの見解を述べた(エイトンp.386).折しも5月23日のラミイの戦い(『スペイン継承戦争』p.162-168)で同盟軍はフランスに大勝したばかりだった.1704年のブレニムの戦いでの勝利ではフランス軍をライン川右岸から一掃していたし(『スペイン継承戦争』第7章),イタリアでも9月にオイゲン公子が勝利を上げ,フランス勢を駆逐するようになる(『スペイン継承戦争』p.175-177).フランスを軍事的に追い込むことで,フランスに庇護されているイングランド王位僭称者の立場を弱くするというのがライプニッツの考えだったようだ.

なお,ライプニッツは別の手紙(7月26日付)でも,同様の見解を繰り返すとともに,キャロラインとその夫の選帝侯太子ゲオルク・アウグストの英語の学習がはかどっていることを報告している(エイトンp.386).

●ハノーヴァーとプロイセンの縁組(1706)

1706年秋には今度はハノーヴァー公女ゾフィア・ドロテアがプロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムに嫁いだ.

この際,公女のルター派の信仰を侵さないことが取り決められていた.ライプニッツはルター派の公女とカルヴァン派のプロイセンの両者に受け入れられる儀式としてイングランド国教会の形式を提案しているが,プロイセン王もハノーヴァー選帝侯ももはやプロテスタント両派の統合には関心がなかった.選帝侯は,以後,プロテスタント合同の運動をすることをライプニッツに禁止したのだった(エイトンp.387参照).

結婚式はまずハノーヴァーで11月14日に代理を立てて行われ,11月26日にベルリンでも行われた.ライプニッツもこの機にベルリンを訪問した

このたびのライプニッツのベルリン滞在は翌年5月下旬まで半年に及び,科学協会会長としての仕事に取り組んだ

●君侯たち(1707-1711)

◆スウェーデン王カール十二世

1707年5月にベルリンを出たライプニッツはアルトランシュテット,ハレ,ヴォルフェンビュッテルに旅行している.アルトランシュテットは当時,北方戦争で快進撃を続けていたスウェーデンのカール12世が宮廷を構えていたところである.スウェーデンがロシア,ポーランド,デンマークと戦う北方戦争は,フランスに対してイギリス,オランダ,オーストリアが戦うスペイン継承戦争と同時進行しつつ,互いに巻き込まれないように進んでいたが,1706年2月にポーランド王であるザクセン選帝侯を破ったスウェーデン王カール12世がザクセン領内にまで侵攻してからはドイツも無関心ではいられなかった.(ザクセン選帝侯はライプニッツの献策したドレスデンでのアカデミー設立に前向きになっていたが,スウェーデン軍侵攻のおかげでご破算になった.)ライプニッツは,カール十二世に会う機会はなかったが,王が黙々と昼食をとるのを見たと書いている(エイトンp.389).

◆カール大公(のちカール六世)

ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公のアントン・ウルリヒとの親交のおかげで,ライプニッツはオーストリアやロシアの皇室とも縁ができる.アントン・ウルリヒの孫娘エリザベートは1708年にスペイン王カルロス三世を名乗るカール大公(まもなく皇帝カール六世)に嫁いでいた(エリザベートはカトリックに改宗).

アントン・ウルリヒのもう一人の孫娘シャルロッテ・クリスティナは1711年にロシア皇太子アレクセイ(ピョートル大帝の子)に嫁ぐことになる.

◆オイゲン公子

のちにライプニッツと活発な交流をするオーストリアの将帥オイゲン公子は,イギリスのマールバラ公とともに同盟軍を率いる名将だった.1708年,マールバラ公に会うべくウイーンからハーグに向かうオイゲン公子はハノーヴァーに立ち寄って選帝侯とこの年の戦役について打ち合わせをしている(『スペイン継承戦争』p.221).ライプニッツとオイゲン公子もこのとき知り合った可能性がある

ちなみに,この少しあと,ライプニッツはリッペ伯の宮廷を訪れたときに,1690〜1692年にかけて日本を訪問したエンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716;1698年からリッペ伯の侍医)に会っている.1712年に有名な『日本誌』のラテン語原書を出版することになる人物である.

●ウイーン訪問(1708-1709)

1708年12月,ライプニッツはブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公の用向きで隠密にウイーンを訪れた(エイトンp.393参照).ヒルデスハイム司教区をブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル司教区に復帰させるのがその目的である.数年前から統治者のないヒルデスハイム司教領の継承者はヴィッテルスバッハ家のケルン選帝侯(ケルン大司教)だが,スペイン継承戦争に際してフランス側についたケルン選帝侯は,対フランス同盟陣営の優勢により領国を追われ,1706年には帝国追放処分となっており,支配力は及ばなくなっていたのである(エイトンp.437参照).

また,このウイーン滞在中,ライプニッツはモデナのエステ家が主張するコマッキオの領有権に関する覚書を書いている.スペイン継承戦争にからんで神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立しており,皇帝軍が教皇領に侵攻してコマッキオを占領していたのである(『スペイン継承戦争』p.244).

ライプニッツはその後,ライプツィヒ,ベルリンなどを訪問し,ハノーヴァーに戻ったのは1709年3月上旬のことだった

●『弁神論』(1710)

ライプニッツは1710年に匿名で『弁神論』(Essais de Th´eodic´ee)を出版した.これはライプニッツが敬愛したプロイセン王妃ゾフィア・シャルロッテとリュッツェンブルク(王妃の死後シャルロッテンブルクと改名された)の宮殿で語り合った内容が下敷きになっている.当時影響力の強かったピエール・ベールに対する批判だが,王妃に言われて話したことを書きとめておいたものを,王妃の死後,友人たちの助言もあってまとめたのだった.

●プロイセンの科学協会との関係(1710-1711)

1710年にはプロイセンの科学協会が会長であるライプニッツの知らないところで人事を行い,相互不信が募った(エイトンp.434-435,スチュアートp.383参照).

1711年1月19日(フリードリヒ一世の国王在位十周年記念式典の翌日),科学協会の祝典にライプニッツは参加しなかった

この年2月から5月にかけてがライプニッツにとっての最後のベルリン滞在となった.ライプニッツの滞在は科学上の目的のものだったが,この滞在の時期は,ちょうどヒルデスハイム司教領へのハノーヴァーの軍事行動に際して生じたプロイセンとの間の政治危機に重なったため,ライプニッツはハノーヴァーのスパイと疑われもした(エイトンp.437参照).

●皇帝薨去(1711)

ライプニッツも会ったことのある神聖ローマ皇帝レオポルト一世は1705年に崩御し,長男がヨーゼフ一世となっていた.その皇妃アマーリエはかつてのハノーヴァー公ヨハン・フリードリヒの娘で,ライプニッツも文通していた.そのヨーゼフ一世が1711年4月に崩御した.

帝位継承者はローマ王としてあらかじめ選帝侯によって選出されるが,ヨーゼフ一世に男子がなかったこともあってまだローマ王が選出されていなかった.帝位はハプスブルク家の世襲のようになっており,順当にはヨーゼフ一世の弟であるカール大公が次代の皇帝となると思われたが,正式には選帝侯による選出を経なければならない.それに,当のカール大公は,スペイン王位を賭けてイベリア半島で戦っていた(『スペイン継承戦争』p.292, p.314等).

帝位の空白に際し,筆頭選帝侯であるマインツ選帝侯の意を受けて,ハノーヴァー選帝侯はライプニッツに,ザクセンおよびプファルツの両選帝侯が代理として帝国議会を続行する権限について調査を命じた(エイトンp.439).

なお,皇帝の同盟国であるプロイセン王(ブランデンブルク選帝侯)などはいち早くカール大公支持を表明したが,フランスのルイ十四世はこの機に同盟の分断を図ろうとした.プロテスタントの選帝侯の一人を皇帝にすることを画策したのである.だが,フランス宮廷からポーランド駐在大使に送られた訓令がハーグでオランダ政府の手に落ち,ハノーヴァーで暗号が解読されたため,ルイ十四世の計略は明るみに出た(エイトンp.440;同書の挙げる文献はSchnath vol. 3 (1978), p. 435-437; 吉田一彦・友清理士『暗号事典』p.357も参照).

こうしてフランスの陰謀は潰え,8月の皇帝選挙ではカール大公が順当に選出された.スペイン戦線から戻ったカール大公は,12月22日にフランクフルトで神聖ローマ皇帝カール六世として戴冠した.

新皇帝カール六世の皇妃はブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒの孫娘エリザベートである.ライプニッツは,アントン・ウルリヒとの交友のおかげで帝国宮廷とも強いパイプをもつことになる

●ロシア皇帝ピョートル一世(1711-1712)

アントン・ウルリヒのもう一人の孫娘シャルロッテ・クリスティナは1711年10月にロシア皇太子アレクセイ(ピョートル大帝の子)に嫁いだが,結婚式の行われたトルガウにライプニッツも赴き,ピョートル帝にも拝謁した.ライプニッツはロシアにおける学術・軍事技術上の提案をし,ロシア領内での地磁気を調べる野外実験の許可も取り付けた

1712年11月にはピョートルに招かれてカールスバートで再び会い,年金1000ターラーとロシア司法枢密顧問官の称号を得た.

ハノーヴァー,プロイセン,ロシアの司法枢密顧問官,プロイセン王立科学協会会長,ハノーヴァーおよびヴォルフェンビュッテルの図書館長と肩書を連ねるライプニッツは,総額8000グルデンもの年収だったという.ただ,あちこちの宮廷に仕えるライプニッツは,当然,物理的にすべての宮廷にいることはできず,ウイーンにいればハノーヴァーの給金を凍結され,ハノーヴァーにいればプロイセンの給金を止められといった具合に,苦労は絶えなかった.その都度,ライプニッツは現地にいなくても十分な貢献はしていると弁明の手紙を書かねばならないのだった.

●ウイーン滞在とユトレヒト講和条約(1712-1714)

カールスバート訪問を機にブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒから新たな任務を得たライプニッツは,ドレスデン,プラハを経て12月にウイーンにやってくる.ライプニッツはこれまでも大旅行(1687〜1690年)の行きと帰り,1700年末,1708年にウイーンに滞在しているが,このたびは1712年末から1714年9月に及ぶ,これまでで最も長期の滞在となる.滞在中,たびたびの帰国命令にも応じなかったライプニッツは,1713年秋からはかなりの間,給金も凍結されることになる.(ライプニッツはしばしば,病気だなんだと偽のアリバイを書き送っていた(スチュアートp.382-384).)

1713年4月,ライプニッツは,アントン・ウルリヒのとりなしで内示を得ていた帝国宮廷顧問官に任命された.皇帝の助言者としてライプニッツは皇帝にも自由に会える立場になった

ウイーンでのライプニッツの任務とは,ロシアをオーストリアとの同盟に引き込むことだった.スペイン継承戦争はすでに10年以上も続いているが,ここでロシアが加われば,北方戦争とからんで戦争がさらに長期化することは必至だった.だが,帝国宮廷はイギリス主導によるスペイン継承戦争講和の動きに反対だったのである.

スペイン継承戦争は,対フランス同盟陣営はネーデルラントやイタリアでは優位に立っていたが,肝心のスペイン王位の確保は絶望的で,独仏国境地帯でも膠着状態になっていた.そんななか,イギリスの主導で現状ベースの講和の方針が模索されていた(『スペイン継承戦争』第17章等参照).1712年初頭以来,オランダのユトレヒトで講和会議が開かれていたが,その出発点となる提案は,イギリスの利権を確保する一方,スペイン王位や独仏国境地帯のアルザス,ストラスブールの帰属に関する皇帝の主張は顧慮していなかったのである.運命のめぐりあわせで,スペイン王位を主張していたカール大公は今や神聖ローマ皇帝カール6世となっていた.長年スペイン王位を目指して戦ってきた皇帝にとって,スペイン王位の放棄は許しがたいことだった.ウイーンの宮廷ではそもそも講和会議のボイコットの声さえ出ていたほどである.そんなウイーンにあって,ライプニッツも講和を阻止しようとする何十という覚書を書いた

ライプニッツは,オーストリアの名将オイゲン公子とも親しくなった.オイゲン公子は神学にも関心があって意見交換をした.ライプニッツはオイゲン公子のために「理性に基づく自然と恩寵の原理」(Principes de la Nature et de la Gr^ace, fond´ees en raison)を書き,オイゲン公子はこれを聖遺物のように常に携え,特別な人にしか見せなかったという(中公クラシックス『ライプニッツ モナドロジー・形而上学叙説』p.39).そして講和問題についても,ライプニッツとオイゲン公子は講和反対で完全に一致していた.

そんな講和反対の動きにはずみをつけるさらなる朗報があった.1713年3月初め,ロシアのピョートル大帝が,スウェーデンに対する作戦について話し合うためにハノーヴァーを訪問し,ヴォルフェンビュッテルも訪れた(エイトンp.448).ヴォルフェンビュッテル公アントン・ウルリヒは4月3日付の手紙でウイーンのライプニッツに,大帝がライン川戦線のために2万の兵を提供する用意があると述べたと伝えてきたのである.意を強くしたライプニッツは,ストラスブールやアルザスを奪還するために戦争を継続すべきことを主張する覚書を皇帝に提出した(エイトンp.450).

だが,ユトレヒト講和条約の調印への流れを変えることはもはやできなかった.1713年4月11日(新暦)にユトレヒト条約は締結された.スペイン王位についてはフランスの推したフェリペ5世の王位が認められ,その一方で皇帝の要求したストラスブールやアルザスの奪還はなおざりにされた.皇帝やハノーヴァーなどのドイツ諸侯はユトレヒト条約に参加しなかった.皇帝はオイゲン公子を総司令官に立て,ライン川戦線でフランスとさらに1年間戦い続けることになる.

ライプニッツも論文「許すべからざるユトレヒトの講和」(Paix d'Utrecht inexcusable)を書いた.ライプニッツはストラスブールとアルザスの返還なくしてはドイツの安全は不可能であり,オイゲン公子とマールバラ公がフランス本土に攻め入ってウエストファリア条約の定める均衡を回復しようとしていた矢先にイングランドとオランダが勝手に講和したと,講和条約を非難した(エイトンp.445).

なお,カール六世は皇帝になるためにイベリア半島を去るにあたり,長年自分に従ってきたスペイン人を見捨てるものではない証として,妃エリザベートをあとに残してきた.だが,イギリスとオランダの協力なくしてスペインでの戦争続行は不可能だった.ユトレヒト条約に先立つ協定で,イベリア半島からは同盟勢力が撤退することになり,皇妃エリザベートも1713年3月末にバルセロナを出帆した(『スペイン継承戦争』p.365).ライプニッツの友であり恩人でもあるアントン・ウルリヒは孫娘と会いたくて,皇妃の帰路についてライプニッツに問い合わせている(エイトンp.448).晩年のアントン・ウルリヒは,6月にインスブルックで孫娘エリザベートに会うことができた.

●ゾフィアの死(1714)

1714年6月8日(新暦),ハノーヴァーでライプニッツの敬愛するゾフィアが急死した.ちょうど6月6日にハノーヴァー家の者の訪英を改めて断る手紙がイギリス政府から届けられており,世評ではそのショックのあまりの死ということだった.だがゾフィアは死の前日には冷静にその対策を進めており,その様子をキャロラインがウイーンのライプニッツに書き送っている.

ウイーンでゾフィアの死を知ったライプニッツは,キャロラインに宛ててゾフィアを失ったことは大きな悲しみだと述べた.そして,愛する庭園で,医者や牧師に煩わされることなく最期を迎えたいというゾフィアのかねてからの望みどおりだったことが慰めだとした(エイトン p.455).そしてゾフィアの死はライプニッツにとって物質的な面でも影響を与えた.この秋から選帝侯がライプニッツの給金凍結に踏み切った(前節参照)のは,ライプニッツを敬愛していた母親への遠慮から解放されたことがきっかけだという(スチュアート.384).

●ハノーヴァー家の王位継承(1714)

先述のように,イギリス王位継承に向けてはライプニッツも動いたことがあったが,選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒは積極的な熱意は示さず,それがイギリス王位に対する無関心の現われだと思われることもしばしばだった.ハノーヴァー家の支持者たちは,そんな選帝侯の態度にもどかしい思いをさせられていた.

1714年4月,そのような評判を打ち消そうと,ウイーン滞在中のライプニッツは駐英公使シュッツに対してこう書いている.

「自らの栄光と利益を無視し,偉大で繁栄している国民の厚意に蔑みをもって応えるようなことがあれば,我が宮廷は世界で最もイロコイであるとかねがね思っていました.そのような考えは,我々を知っていれば,分別あるいかなる者の頭にも浮かびようがありません.それでもイングランドでは,そう信じ込ませようと大いに骨折る人物がいるのです」(Melville)

ハノーヴァーの大臣たちがイギリスの内情にあまりに無知だと述べたイギリスからの手紙に応えては,ライプニッツはこう書いている.

「我がドイツの大臣たちがイギリスの内政に口を出そうなどとはしないことを望むばかりです.それ自身きわめて正しくないことであるばかりでなく,まず間違いなく国王が人民の愛情を失うことになりましょう」

やがてハノーヴァー家による王位継承がついに現実のものになった.1714年8月1日(旧暦),イギリスでアン女王が薨去したのである.6月に亡くなったゾフィアは,2か月の差で王位継承を逃したことになる.ゾフィアの子のハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ一世としてイギリス王と宣言された(『スペイン継承戦争』第19章参照).

ジョージ一世によるイギリス・ハノーヴァー朝の幕開けに当たっては,ライプニッツの学識にも期待の目が向けられた.8月14日付でジョン・カー(Ker of Kersland)というハノーヴァー滞在中のイギリス人は,ウイーンのライプニッツにハノーヴァー帰還を求めて書いている.

「すぐウイーンをお発ちになり,ハノーヴァーにお戻りいただくことが,国王へのご奉公の面でも,グレートブリテンの幸福のためにも大きなことです.貴下の博識,特にブリテン事情についての知識,長年の経験,そして国王との大いなる評判のため,世界の誰よりもイングランド行きを目前にした国王の主たる顧問となる資格がおありです.イングランドの慣習や言語について,国王は少し不案内にすぎます」

いずれにせよ主家がイギリスという大国の王位を得るというのはライプニッツについても大きなチャンスになるはずで,主家からの度重なる帰還命令にも,ゾフィアやキャロラインからの懇請にも応じなかったライプニッツは,ついにウイーン滞在を切り上げ,9月3日,ハノーヴァーに向かって旅立った.ただし,14日にハノーヴァーに着いたときには,国王はすでにその3日前にイギリスに向けて出発していた.(旧暦9月18日にイギリス着)

太子ゲオルク・アウグストも随行したが,太子妃キャロラインはハノーヴァーへの残留を命じられていた.ライプニッツはヘレンハウゼンのキャロラインのもとに留まることにした.

ライプニッツは国王にイギリス行きの許可を求める手紙を書いたが,側近ベルンシュトルフからは取りつく島もない返答が返ってきた.

「ハノーヴァーに残って作業を進めるのがよろしいでしょう.例の課題をお忘れではないと期待します」

これについてライプニッツはこう書いている.

「あれほど深く傷つけられたことはありませんでした.全ヨーロッパから栄誉をいただいているのに,ハノーヴァーでは何よりも期待する権利があることを拒絶されたのです」

だが国王は頑なで,かねてよりの任務であるヴェルフェン家年代記の完成を求めるばかりだった.年代記完成のためにはイギリスの歴史も関わってくるとして,ライプニッツはイギリスの王室史家としての登用も求めたが,これも断られ続けた.

ジョージ一世(ゲオルク・ルートヴィヒ)がライプニッツの活動を理解しようとせず,単にお抱えの宮廷学者の一人とみなしていたという面はあったにしても,ライプニッツのほうでもたびたび無許可で旅行するなど,その行動に問題はあった.選帝侯はライプニッツの居所がわからないのをしばしばこぼしている.ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテルやプロイセンといったライバル宮廷とよしみを通じたことが猜疑心を招いたこともあった.

ウイーンから帰ったあともオイゲン公子と文通を続けていたため,ライプニッツがまたウイーンに去るつもりであるとの情報が国王に伝えられた.王はハノーヴァーの顧問会議を通じてライプニッツに禁足令を出させた.ライプニッツはオイゲン公子との文通はウイーンへの退去のためではないと主張するが,王は信じなかった.

●歴史編纂(1714-1716)

国王の不満の一つは,ヴェルフェン家年代記が一行に完成しないことである.先に紹介したように,国王はライプニッツの作業の遅さにはあきれていた.

当初は17世紀の先代ハノーヴァー公エルンスト・アウグストまでの叙述とするつもりだったが,初期の段階で調査が難航したこともあって,1693年ごろには768年から1235年までの年代記とする許可を求めている段階だった(エイトンp.252).その後,対象を1024年までに限定し(エイトンp.497),結局ライプニッツが完成させられたのは1005年までとなる

国王の恩顧を取り戻す唯一の道はヴェルフェン家の年代記を完成させることだと思い知らされたライプニッツは,1714年の秋から集中的に作業に取り組む.これまで,1707年,1710年,1711年には3巻の『ブラウンシュヴァイク家の事績を明らかにするのに功のあった著述家』(Scriptores rerum Brunsvicensium illustrationi inservientes)を刊行させていた.ライプニッツはこの3巻に収録された史料に基づいて『西帝国に関するブラウンシュヴァイク家の編年史』(Annales imperii occidentis Brunsvicenses)の第1巻は完成させる意気込みだった(エイトンp.459).

だが,結局ライプニッツの存命中に公刊されることはなく,19世紀になって新たな史官が任命され,1843〜1846年に全3巻が出版されることになる.

●ニュートンとライプニッツ(1710-1716)

ハノーヴァーとイギリスの君主を兼ねるジョージ一世について,フランスの哲学者フォントネルはこう書いている.

「一つの王笏のもとに一つの選帝侯国と三つの王国,ゴットフリート・ヴィルヘルム・フォン・ライプニッツ,そしてアイザック・ニュートンを抱えている」

ジョージ一世はこの言葉に見合う処遇をライプニッツに与えていなかったようだが,それはともかく,ニュートンとライプニッツといえば微積分発見の優先権争いが有名である.それが激しい非難合戦に発展したのがライプニッツの晩年だった.ジョージ一世の二つの領国の誇る両大家は,最初から敵意を燃やしていたわけではない.周辺からライバル意識が高まり,1704年にニュートンが『光学』の付録で1676年にライプニッツに研究成果を教えたと書くと,1705年にはライプニッツは匿名でニュートンの剽窃を強く示唆する論文を書いた(ライプツィヒの『学術紀要』1月号).だが,この時点ではまだ非難合戦にはなっていない.

ニュートン門下のキールは1710年,1711年と相次いでライプニッツ批判の論文を発表したが,後者は『学術紀要』を見たニュートンの意を受けたものだった.この時点ではまだライプニッツはニュートン当人にわだかまりはなかったらしく,ニュートン自身が会長を務めるイギリス王立協会に再三,沈静化を求めている.

王立協会による調査結果が1713年1月にラテン語の『新しい解析学についてのコリンズその他の往復書簡集』(Commercium epistolicum)としてまとめられたが,これはニュートン自身が強く関与してライプニッツを非難する内容となっていた.ライプニッツは6月にヨハン・ベルヌーイの手紙でその内容は知って反論を発表したが,現物を見たのは,ウイーンからハノーヴァーに戻った1714年秋のことだった.

ニュートンは,1715年に匿名で発表した『往復書簡集』の書評でさらにライプニッツを攻撃した.大学者の争いは宮廷でも取り上げられ,国王ジョージ一世の賛同のもとに,1716年3月にはニュートンがライプニッツに直接手紙を送ったが,その内容は先の書評の要約といったものだった.ライプニッツはニュートン当人との論争なら喜んで相手をするとして『往復書簡集』が自分の業績を非難する根拠になりうるものではないことを指摘する手紙を知人に書いている.

1715年末からライプニッツの死までの1年間には,イギリスの宮廷司祭クラークとの間に5回の往復書簡が交わされた(エイトンp.486〜494).これはイギリス皇太子妃となったキャロラインがライプニッツの『弁神論』の英訳を思い立ったのが発端となった哲学・科学論争だが,クラークの書簡はニュートンのチェックのもとで書かれていた.キャロライン自身は二人を和解させたいと願って手紙の仲介をしていたが,ライプニッツ本人はニュートンに敵意を抱かざるを得ない心情を述べている

二人の大学者の和解はもはや不可能で,キャロラインもあきらめの境地をライプニッツに宛てて書いている

●ハノーヴァー選帝侯(ジョージ一世)との関係(1716)

この間,キャロラインはライプニッツ渡英の希望は捨てていなかった.1716年8月末の手紙でもハノーヴァー訪問中の国王がイギリスに戻る際に同道させてくれると期待していることを書いている.

ジョージ一世は7月以来,ハノーヴァーに帰国していたのである.王位継承法によりイギリス国王は議会の許可なく国外に出られないとされていたが,ハノーヴァー朝が成立して2年もしないうちに撤廃され,ジョージ一世は政治家たちの心配をよそに,年末まで故国に滞在を続けたのだった.

1716年6月,ライプニッツはピルモントの湯治場で過ごし,ここでまたピョートル大帝に会っており,7月にハノーヴァーに戻ったライプニッツは,ちょうど国王の帰郷に間に合った.国王との会食の際,国王はライプニッツが元気がないように見えるのを気遣った.8月には国王のピルモント行きにも随行し,キャロラインへの手紙から見る限り,国王とライプニッツの間の確執はないようだという(エイトンp.463).

だが国王の態度以前に,ライプニッツはすでに,自分の仕事や健康状態の面から,イギリスに渡るのは絶望的だと考えていた.キャロラインへの返事でそれを伝えるとともに,ライプニッツはハノーヴァーにとどめ置かれたキャロラインの幼い息子の近況を伝えたりしている.

●最期(1716)

健康の衰えは進み,1716年11月14日,ライプニッツはハノーヴァーの自宅で世を去った.

葬儀と埋葬の際には国王はまだイギリスに戻っておらず,リューネブルクの猟場にいたが,国王どころか宮廷からは誰も参列しなかった.大哲学者の死には宮廷も教会も冷淡で,ライプニッツの最期を見送ったのは妹の子で相続人レフラー,秘書エックハルトなど数人の友人だけだったという

リンク・参考文献

リンク
Leibnitiana

主要参考文献
E・J・エイトン『ライプニッツの普遍計画 バロックの天才の生涯』
………書簡などを利用してライプニッツの生涯を丹念にたどる.詳細で,随所で出典も示されており,ライプニッツの足跡をたどるにはうってつけ.学問上の業績も含めて年代順の記述になっているが,適切なセクション分けがされていて,選択的に読み進むことも可能.邦題「普遍計画」が難解な印象を与えるが,へんに抽象的な内容ではない.記述が断片的との批判もあろうが,通読可能ながらも資料性を重視したものとして評価したい.

永井博『ライプニッツ』
………古いがコンパクトにまとまっており,前半生では政治状況への言及も多い.

R・フィンスター,G・ファン・デン・ホイフェル『ライプニッツ その思想と生涯』
………巻末参考文献が分野別に整理されており,重宝する.

佐々木能章『ライプニッツ術』
……多彩な業績をライプニッツ個人の方法論という観点から考察.「哲学以外」に関しては,「3-2図書館活動」「遺されたもの」(遺稿・著作について)「ライプニッツ1702年密着取材」(ライプニッツの典型的な1年を1日ごとに追う)などが興味深かった.

マシュー・ステュアート『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ,そして近代における神』

下記は筆者未見.主にフィンスター/ファン・デル・ホイフェルの参考文献より
CONZE, WERNER: Leibniz als Historiker. 1951. (Lieferung 6 von: Leibniz. Zu seinem 300. Geburtstage 1646-1946. Hg. von ERICH HOCHSTETTER. Berlin 1946-1952)

ECKERT, HORST: Gottfried Wilhelm Leibniz' Scriptores Rerum Brunsvicensium. Entstehung und historiographische Bedeutung. Frankfurt a. M. 1971

FRICKE, WALTRAUT: Leibniz und die englische Sukzession des Hauses Hannover

HAMMERSTEIN, NOTKER: Leibniz und das Heilige R¨omische Reich deutscher Nation. In: Nassauische Annalen 85 (1974), p.87-102

Leibniz als Geshichtsforscher. Symposium des Istituto di Studi Filosofici Enrico Castelli und der Leibniz-Gesellschaft, Ferrara, 12. bis 15. Juni 1980. Hg. von ALBERT HEINEKAMP. Wiesbaden 1982 (Studia Leibnitiana. Sonderheft 10)

REESE, ARMIN: Die Rolle der Hisotrie beim Aufstieg des welfenhauses 1680-1714. Hildesheim 1967

SCHNATH, GEORG: Geschichte Hannovers im Zeitalter der neunten Kur und der englischen Sukzession 1674-1714. Bd. 1-4. Leipzig und Hildesheim 1938-82


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