スペイン継承戦争関連小説:

スターン『トリストラム・シャンディ』
(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)

英国の作家ローレンス・スターン(1713-68)による小説(1759-67).
1718年11月5日に生まれたトリストラム・シャンディが自分の生涯を完璧に語るという形で始まりながらも,語り手の思いつくままに脱線に脱線を重ねる破天荒な形式をとる.
冒頭ではトリストラムの父ウォルター・シャンディが完璧な息子を得ようと手を尽くすが,ことごとく裏目に出る.以後は,トリストラム出生前の話が延々と続くが,以下,スペイン継承戦争に関係する部分を中心に紹介する.
スペイン継承戦争に関わるのはトリストラムの叔父トウビー・シャンディである.

父の弟トウビーはウイリアム3世時代のネーデルラントでのナミュール包囲戦(1695年,『イギリス革命史』下p.210〜)での股間の負傷がもとで退役を強いられた経歴をもつ(第1巻第21章).現役時代にはアイランドのリメリック包囲戦(1690年,『イギリス革命史』下p.147)(第5巻第37章)やネーデルラントのステーンケルケの戦い(1692年,『イギリス革命史』下p.188〜)(第5巻第20〜22章)にも参加していたらしい.
退役したトウビーはナミュール包囲戦を見舞客に説明するために地図を使うことを思いつくが(第2巻第1章),いつのまにか客のことなどおかまいなしに,城塞研究そのものに没頭するようになって(第2巻第3章),専門書を取り寄せ,イタリアからフランドルに至るまでほとんどすべての城塞都市の地図(第5巻第21章)を揃えるまでになる.
さらに部下だったトリム伍長が,田舎の屋敷の庭に城塞を模型で作り,包囲戦をリアルに再現することを提案する(第2巻第5章).このトリム伍長はランデンの戦い(1693年,『イギリス革命史』下p.193〜)(弟8巻第19章にも記述あり)で足を負傷しつつ,トウビーに仕え続けた人物である(第2巻第5章)
トウビーは実際に1ルード半の土地(1ルードは1/4エーカーなので,1ルード半だと約1500m2)で城塞模型を作った.スペイン継承戦争が始まってからは,マールバラ公や同盟軍がどこの都市で包囲戦を開始しても,すぐ再現を始められる態勢にあった(第6巻第21章).まず図面と首っ引きで城塞を作り上げ,それから平行壕を掘って包囲戦の再現に取り掛かる.城塞を取り巻く平行壕は1ルード半の用地には収まらず,たいていの場合,「キャベツの畝とカリフラワーの畝の間」に掘ることになった.
スペイン継承戦争開戦2年目の1702年にはリエージュ,ルールモントの奪取が言及される(第6課第22章)(『スペイン継承戦争』p.63〜64).3年目の1703年にはアンベルク(Amberg),ボン,ラインベルク,ユイ,リンブルフ(『スペイン継承戦争』p.68〜69)(第6巻第22章)の占領がある.「次の夏」にはランデン(1705年にマールバラ公が近くで行動;『スペイン継承戦争』p.141),トラールバハ("Trerebach",1704年にマールバラ公が奪取;『スペイン継承戦争』p.128),サントヴリート("Santvliet"; Sandvliet, Santoliet, Xanveltとも;1705年10月に同盟軍が破壊),ドルーセン(Drusen),アグノー(『スペイン継承戦争』p.127)(以上1705年の包囲戦),オステンド,メーネン,アト,デンデルモンデ(1706年の包囲戦,『スペイン継承戦争』p.170〜),さらにはリール(1708年に包囲戦;『スペイン継承戦争』p.237〜)(24章にも記述あり),ヘント(ガン),ブルッヘ(ブリュージュ)(1708年に占領;『スペイン継承戦争』p.241)などに言及される(第6巻第23章)
こうした至福の日々を送っていた二人だったが(第6章第22章),1713年,ユトレヒト条約でスペイン継承戦争が終わってしまった(第6章第30章).戦争中も荒天が続いて海外からのニュースがはいらなくなるだけでも苦悶の状態に置かれた(第6章第22章)二人は,再現すべき包囲戦がなくなって生きがいをなくしてしまう(第6章第31,34章)
ユトレヒト条約でフランスの要港ダンケルクの破壊が決められていたが,作業は遅々として進まなかった.その間,トウビーたちは,イギリス軍守備隊の安全を図りつつ作ったダンケルク城塞を破壊する段取りを話し合うのに楽しみを見出した(第6章第34章).しかし,ついにダンケルクの破壊が完了し,トウビーを慰めようとするトリムは話を始める(第8巻第18章)
だがトウビーはまぜっかえさずにはいられない.1712年という年号が出ると,イギリス軍が同盟軍のルケノワ包囲に協力せずに戦線を離脱した(『スペイン継承戦争』p.347〜)ことを国の汚点だと嘆く(第8章第19章).また,地理の重要性を指摘するついでに,1704年の輝かしいブレニム戦役でのマールバラの行軍経路を挙げてみせる.マース河畔からBelburg(軍勢集結地点のベトブルクか?;『スペイン継承戦争』p.103の地図参照),Kerpenord(ベトブルクのすぐ南にKerpenがある),Kalsaken(不詳),Newdorf [Neudorf](コブレンツの少し手前),Landenbourg [Landenburg](ネッカー川を渡る地点がLadenburg),Mildenheim(オイゲン公子と落ち合ったムンデルスハイムか?),Elchingen(ウルム近くの地点;ここでマールバラは転進してドナウと平行な進路を取る),Gingen [Giengen](前者の10マイルほど北東の地点),Balmerchoffen [Ballmertshofen](前者のやや東のドナウ支流河畔),Skellenburg [Schellenberg](ドナウ河畔のシェレンベルク;ここでマールバラは敵陣を撃破した;『スペイン継承戦争』p.107〜)と進んで,ドナウ川を渡河し,レッヘ川を渡って(『スペイン継承戦争』p.111の地図参照)帝国中心部に進撃し,Fribourg [Friedberg](アウクスブルクの南東), Hokenwert [Hohenwart], Schonevelt [Sch¨onfeld]と進んで,マールバラ公の軍勢はブレニムおよびヘヒシュテット(『スペイン継承戦争』p.111の地図参照)の平原に出たのだった.
『トリストラム・シャンディ』は包囲戦再現のほかにも複数のプロットが並行して,かつ前後入り乱れて語られるが,なかにはトウビーとウォドマン未亡人との恋物語もある(第8巻第10章の前後等).あるとき,トウビーはトリムを連れてウォドマン未亡人を訪ねる道すがら,トリムに用心を説くのに,フランスのラモット伯爵のウェイネンダールでの敗北の例を挙げる(第9巻第7章)(1708年,『スペイン継承戦争』p.238)
ウォドマン未亡人がトウビーに迫った指の跡が残るとしてブシャン(1711年に包囲戦;『スペイン継承戦争』p.311〜)の地図も出てくる(第8巻第17章). スペイン継承戦争終結後も,実はオーストリアのカール7世とスペインのフェリペ5世は正式には講和しておらず,国際情勢は予断を許さなかった(実際に1718〜1720年に四国同盟戦争が起こる).トウビーは両国間の戦端はイタリアで開かれると見てイタリア式のはね橋を造ろうとするが,政治通を自認するトリストラムの父はまたネーデルラントが主戦場になると主張したりする(第3巻第25章)
また,オーストリアは旧敵トルコとも再び戦火を交え(1716〜1718),オイゲン公子が活躍するが,自分が行くことはかなわなかったものの,若き中尉ルフィーヴァーを送り出したりした(第6巻第12,13章)

語り手が本作を書いている時期は,第1巻第18章では1759年3月9日で,第9巻第1章には1766年の語り手も描かれ,それぞれスターン自身の執筆時期に対応しているのではないかと思うが,結局,トリストラム・シャンディ自身の生涯らしい生涯は語られることのないまま幕を閉じる.(『トリストラム・シャンディ』が9巻で完結しているかどうかについては続けるつもりだったという説と当初からスターンが計画した終わり方だったという説があるという.)

第6巻第25章に「古い従軍トランクの片隅に何年も裏返しにして入れたままにしてあるramallie wig」なるものが出てくる.ramallieはRamillies(フランス語でラミイ,英語ではラミリーズ)で,1706年のラミイの戦い(『スペイン継承戦争』p.162〜)からきている.大陸の地名の綴りが独自の綴りになってしまう例は上にも例を挙げているように多々あり,これはこの時代のイギリスの著作ではめずらしくない.かのブレニム(Blenheim)も現地のBlindheimがなまったもので,ひどいのになるとBois-le-DucがBoil Duckになってしまうこともある.それはともかく,ラミイの戦いでの大勝利を記念してさまざまな服飾品や服装にラミイの名がつけられたという.「ラミリー・ハットというのはジョージ一世の頃に流行した一種の三角帽.ラミリー・ウィッグというのはジョージ三世頃まで用いられたかつらで,先細りに髪を長く編んで後ろに下げ(これをラミリー・プレイトまたはラミリー・テイルという),上のほうを大きなリボンで,下のほうを小さなリボンで結んで飾りにした.(The Century Dictionary Cyclopedia and Atlas)」(綱島窈訳の注より) そういえば,前述のステーンケルケの戦いがきっかけとなって広まった首布の結び方というものもあった.

個人的な興味から一点付け加えると,第8巻第33章に「子供を生むのは経度の測定と同じくらい世界のためになる」というせりふが出てくる.経度測定法は1762年に時計技師ハリソンによって解決されたが,その経度測定のために懸賞金を出す議会法が制定されたのがスペイン継承戦争直後の1714年であった.(デーヴァ・ソベル『経度への挑戦』参照)
テキスト   テキスト(フラットファイル)   ドイツ語版テキスト
The Time-Scheme of Tristram Shandy and a Source

参考にした訳書
朱牟田夏雄・訳(筑摩書房『筑摩世界文学大系21 リチャードソン/スターン』所収)
綱島窈・訳(八潮出版社『トリストラム・シャンディ』)

革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜 inserted by FC2 system