『ロンドン・ガゼット』でたどる名誉革命


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見どころ:ハーグでのホラント州議会の会合の報道で,その議題として言及されているのはフランスの対オランダ関税に対する報復措置のみ.オランダにおける軍事的な準備進行については触れているものの,いまだイングランド侵攻についての懸念は見られない.

2383号

ロンドン・ガゼット


政府当局により発行

1688年9月17日月曜日‐9月20日木曜日

の奏上文が国王に提出され,陛下は愛想よくお受け取りになった.

最も秀逸なる国王陛下へ

ノーサンバランド州の統監,州長官,副統監,治安判事,大陪審がその州のニューカースルの城にて開催された巡回裁判に際して集まった際の謙虚なる奏上文.一六八八年八月十三日.

偉大なる陛下〔※注:以下,コピーの品質が悪く,一部省略あるいは推測している〕
でにこの上なく誠実な献身をもって慈悲の父たる全能なる神に感謝を捧げた私どもは,陛下の足下にひれ伏して,陛下と王妃様に皇太子というこの上ない恵みについて心よりのお祝いを申し述べに参りました.この御子は神の叡慮により陛下の王国に対して陛下の血筋と私どもの慶事とを永遠なものとするため与えられたものであります.この御子が陛下の敬虔さの偉大な例のもとで栄えますように.そして陛下ご自身がこの御子が統治の技術を習得するのをお見届けになりますように.私どもはさらに,陛下の次の議会には,(陛下の宣言に従って)陛下の栄光のみならず私どもの幸福の障害にもなっている刑罰法規と審査を撤廃するという陛下の慈悲深い意図に協力するような者を選出するよう努力することをお約束いたします.陛下が私どもを最も何でも受け入れ公正な者として扱ってくださるであろうことはよく承知しております.

ストックホルム,8月19日.六月二十九日,陛下の特命使節たる郷士エドモンド・ポーリーは王后陛下が幸いにも御子をお生みまいらせたとの喜ばしい報せを受けた.宮廷は首都にいなかったが,それでも個人的に陛下の臣民の間で何らかの喜びの表現をする義務があると考え,この幸いなる報せをただちに伝えた.そこで特使は翌日の晩餐の席でその主立った者を饗応し,三日後にはその地に滞在している残りの商人たちすべてを招き,二つのテーブルで接待した.宮廷が帰還すると,特使は公式の謁見で報せを国王に伝えた.その際,この地に滞在するイングランド人で一杯の馬車二十ほどが付き添ったが,彼らが宮廷を辞すと,特使も再び両陛下と御子の健康のための祝杯に招待した.数日後,特使は元老および国王の公務員の長を招き,館でできる限りの贅を尽くした饗応をした.その朝,その時港に停泊中のすべてのイングランド船(九〜十あった)が町の大橋の隣,城の近くに旗を掲げて整列し,かほどに喜ばしい行事に際してしかるべき尊敬を払うよう手配を命じていた.そのうちの三隻は,会食中に特使の家からの合図によって祝杯に合わせて砲を撃つよう準備しておくことが命じられた.これほど近くで多数の砲を放った場合の,いくつかの家屋(特使の家の近くの岩に基礎を据えている)に及ぶかもしれない危険を考えて,港より近くでは発砲はされないことになった.前夜,国王の近衛隊からの使いが特使にそのような場合に起こりがちのあらゆる不都合を防止するために兵を少し貸そうと申し出ており,それにしたがって一人の士官と八人の兵士をその任務を果たすために送ってくれた.
元老その他の一行が到着すると,国王のらっぱとケトルドラムの歓迎を受けた.それは,大砲を撃つ合図をするのと同時に祝杯のたびに鳴らされた.****の健康のために九発,王室一家の健康のために十五発である.惜しげもなく繰り出される食事の間,特使は民衆のために六つの固定した管から,合計六時間の間クラレットと白ワインを流すように命じた.家の前にはそのための機械が設けられていた.頂部には大きな額に納められた国王と王妃の絵.その額は彫刻が施され,平和と豊穣の象徴としてぐるりとオリーブが飾っている.その背後からはアーチが支えられており,

そのアーチは特使の家とつながり,あらゆる種類のかぐわしい花に飾られ,家につながる二層の階段全域を覆っており,実に楽しい見物だった.両陛下の絵の下には大きな国王の紋章があり,〔紋章の〕盾持ち〔の動物〕もそれに比例して彫刻されており,そして管は,ワインが〔盾持ちの〕ライオンとユニコーンの口から流れ出るように配置されていた.国王の紋章の下には大きな銘板があった.美しく塗られ,芸術的に装飾され,コーニス,頭部,基部と完備したドーリア式の柱が両側にあり,その間には金の美しい文字でこの幸いなるできごとのことが〔ラテン語で〕書かれていた.すなわち,

ジェームズ二世,ブリタニアの偉大なる王,
父なる尊厳者に,
そして,
メアリー,ブリタニアの偉大なる王妃,
母なる尊厳者に,
幸福と豊穣を;
御子の誕生にあたって
六月十三日をさかのぼること四日目
一六八八年

そしてその下にはこれよりもずっと大きな銘板があり,絵画とそれに属するあらゆる装飾で飾られている.その中央にはオリーブの枝で囲まれてこのたびのことを題材としてつくられた次の詩行がある.その全体は花やとりどりの技巧で飾られ,時宜にふさわしい実に立派な外観をなしていた.

神託がかなえられたかのように,両親にふさわしい子孫が与えられた.
この御子にまさるものはない.
彼の父は最も偉大なチャールズ〔一世〕であり,彼女は偉大な〔モデナ公〕アルフォンソの娘である.
これらの祖父について評判を語らない者がいようか.
彼は愛らしさにおいて偉大であり,徳においても偉大である.
父は自身の種族の誉れであり,母もまたしかり.
かくも多大な称賛のうちに生まれ,かくも大いなる勝利のうちに生まれ,
この後裔が誉れに値しないはずがあろうか.

肉料理がすんだあと,絶妙なデザートが供された.乾いたケーキの多数の巨大なピラミッドの間に季節にかなう限りのフルーツ,アイス・クリームその他もろもろが配されているものだった.晩餐では十二種類のワインが出され,いずれも極上のものだった.元老たちは七時近くまでテーブルにとどまって,一時間ほどのちに退出し,それから花火を見に移動した.花火は大橋の前の水上で,そこに停泊する船の間で準備されていた.花火開始の合図のために,二十一発の大砲が放たれた.館にもっと近いところで花火ができなかった理由は,この町の家の多くが木造であったり,木の屋根を使っていたりするため,このような暑い季節には火事の危険性が高かったからである.同様の懸念からかがり火をたくことは見合わされた.花火が始まると国王とホルシュタイン太子は近くの島に渡ってご見物になった.花火の本体は塔や旗を備えた楼にあり,水の上を動くように配置されていた.そのすべての塔からは多大な数の火箭その他の火物が放たれた.そのなかには空中でいくつかの擲弾を放出して水上に落下する玉もあった.そしてしばらくすると再び上がり,空いっぱいに多大な数の火箭と星などを振りまき,見物者の目を大いに楽しませるのだった.花火が始まるのに合わせて,船上のらっぱやケトルドラムも役を果たした.やはり船上にいるイングランド人商人の多くも祝典にその感嘆の声を加えた.これは一時間ほど続き,締めくくりとして開始の時と同じ数の大砲が放たれ,特使が船上に送ったワイン二ホグズヘッド〔約500リットル〕で両陛下と王子の健康のために乾杯がされた.これは断続的な銃声とともに午前二時か三時まで続いた.この国の誉むべき慣習に従って特使邸で饗応を受けたあらゆる位階の人々の数は膨大な数に上った.そして階級を問わずあらゆる人々にふんだんにワインがふるまわれたので,一般民衆も参加できた.それでもすべてが混乱なく終了した.
コンスタンティノープル,7月18日.先月十三日,昼の十一時から十二時に,


スミルナで強烈な地震が起こり,わずかの間にその市の家屋のすべてを破壊し,多くを倒壊させた.地震はあらゆる近隣地域やメテレーネやキオスにも伝わり,若干の被害が出た.そして当日,当地においても揺れが感じられたが,遠方のため威力は弱まっており,一般には気づかれないほどだった.地震発生から四時間ほどたって,フランク通りにおいてジェノヴァ邸と呼ばれる家屋から火事が発生し,遮る物がないこともあって,フランク通りを焼き尽くし,家屋がまばらで連続していない郊外や丘側を除いて町全体を飲み込んだ.犠牲者の数は最も控えめに見積もっても五〇〇〇に上る.この倍の推計をする者もいる.このうちには四〇〇人のユダヤ人と,東方において最も著名な賢人でラビのアロン・アベン・ハイムが含まれる.ラビは存命中ユダヤ人たちの尊敬を大いに集めており,彼の死に対して当地ではとりわけ嘆きの声が聞かれる.スミルナの府司教は数人の聖職者とともに礼拝のために教会に行き,建物が崩れて亡くなった.アレクサンドリアの総主教もまた同じ運命をたどった.そして多くの貧民が助けを得る前に廃墟のうちに焼死した.フランス人では領事が死亡したのみ.オランダ人では商人一名.イングランド人では三名.そのほか若干名が負傷したが,危険なものではない.領事とイングランド人の半数は土曜日だったので出かけていたが,地震を感じるとただちに市に戻り,みな停泊中の船に避難した.地震から火災発生までの間に,大量の物資が移動され,商品の損失に関してはイングランド人は港に船のなかったオランダ人よりもずっと損害が少なくてすんだ.ヴィセルチャンの下層倉庫の物はすべて無事だったが,上階の物は開いていた窓のためか,あるいは火が壁の隙間から入ったのか,かなりの損害を受け,ほとんど焼けた.聖ジャコーモ岬の城はかなり地中に沈んだ.パシャがスルタンに関係する利害を処理するためにこの地からスミルナに派遣され,跡継ぎなく死んだ者の財産を没収することになっているが,これは災難に災難を加えるものとなろう.しかし,この地での公共の必要性は多大である.イングランドの大使閣下は役人に,特に我が国民が懸案事項を処理するのを助けるようにとの大宰相からの命令を託して派遣した.我々はこの地では現在いくらか平静を取り戻している.スルタンと大宰相が一か月ほど先にアドリアノープルに出発するための馬の準備がなされている.ただし,大宰相が実際に行くかどうかは大いに疑問視されている.イェグヘン・パシャは力で将軍に成り上がり,この地の宰相にも宮廷にも依存しておらず,好き放題にふるまっている.戦役が終わったのち,彼が軍を率いて当地にやってきて新たな政変を起こすのではないかと大いに懸念されている.しかし,この地でもたれている大きな希望は,大宰相の書状とともに〔神聖ローマ〕皇帝に派遣されているスルフィカル・エフェンディとマウロ・コルディトが和平を実現するだろうということである.
リスボン,8月30日.今朝,ポルトガル王妃は王女を出産し,宮廷じゅうの大いなる慶事となった.大ブリテンの国王陛下からスペイン国王への特命使節スタフォード氏はマドリードへの出発を準備中.
ローマ,8月31日.ケルン〔大司教〕選出問題を審査する会議が今月二十*日に開かれた.しかし,その答申内容はまだ公表されていない.マルタの大使が今週教皇に長時間の拝謁をした.ダグイッレ枢機卿の病重し.
リヴォルノ,9月1日.ザンテから来た船の船主の報告によると,我々の大公爵〔トスカナ大公〕の四隻のガレー船が兵員を運ぶ二隻とともに先月十一日にその地に到着.十四日に,ヴェネツィア艦隊と合流すべく東地中海に向けてその地を出発した.先週,トスカナの太子とバイエルン公女との結婚が締約され,この地で厳粛に発表された.
ジェノヴァ,9月7日.アレクサンドリアから来た船による情報では,その地からコンスタンティノープルに向けて九隻の船が出港した.エジプトのパシャが甚大な苦労の末に集めた兵士や弾薬,現金五〇万クラウンを積んでおり,オスマン帝国の現在の切迫した状況の救援に向かったのである.そして別の七隻がコンスタンティノープルよりその地に到着したが,乗っていたのは大難のためにその地を退去してきたトルコ人の家族らで,大カイロその他の場所に定住するつもりである.マルタのガレー船団が砲三八門を備え五〇〇の兵を載せたバルバリアの海賊船を捕らえたとの報告がはいっている.この地で三隻のガレー船が武装しているところで,コルシカ島近海を巡航する予定になっている.
ウイーン,9月12日.昨日,シェリーケ伯爵が当地に到着,今月五日にバーデン公ルートヴィヒのはたらきにより帝国軍がブロート付近でボスニアのパシャ率いるトルコ軍に対して挙げた大勝利の確報がもたらされた.伯爵はその際に奪取された三十四の軍旗を運んできた.敵のうち,五〇〇〇が殺され,二〇〇〇が捕虜になり,物資もすべて奪取されたと言われている.これについては次号においてより詳しく述べる予定である.今月六日のベオグラード奪取について前号で読者に与えた説明に追加する情報がはいっている.突撃は午前九時ごろ開始され,選帝侯自身が率いて突破口に向かった.そこで待ちかまえていたトルコ兵は,決然として銃撃,石,擲弾でこれを迎え,一時間の間,どちらの側においても虐殺あるばかりで大きな地歩は得られなかった.ついに帝国軍は勢い新たに

突破口に上り,同時に,より多数がその壁を封したものの,三十分ほどで再び撃退された.勢いが少しそがれたが,選帝侯は今一度先頭に立って襲撃にかかった.両陣営とも一層激しく奮闘し,それが四十五分ほど続いたとき,疲労困憊し優秀な兵を失っていた敵軍の激しい抵抗にゆるみが見られた.そして一時間のうちにキリスト教徒が突破口と市街を支配下におき,怒りの勢いであらゆる者を刀にかけた.それでも夕方ごろには投降が認められた.敵軍のうち,四ないし六〇〇〇が殺され,二〇〇〇ほどが助命されたと信じられている.助けられたうちには総督とこの水都に退却した他の三名のパシャが含まれる.兵士たちは豪華な略奪品に豊富にありつけた.我々の陣営では,約二〇〇〇が戦死,そのうちにはシェルフェンベルク中将,若きシュターレンベルク,フュルステンベルク伯爵,高級副官グルネーが含まれる.そして下級の士官も多数戦死または負傷した.選帝侯は矢によってほおに軽傷を負った.セントオールバンズ公爵〔チャールズ二世の庶子〕はこの作戦の栄光に大きく関わっており,軍功を挙げ,めざましいはたらきをした.
ハンブルク,9月21日.ライン方面に向かっているリューネブルクの軍勢は数日間,ホリンガー・ヒースで停止する予定.ブレーメン公領にいるスウェーデン軍からは,全中隊から十二名ずつが派遣される.
ケルン,9月21日.昨日,ションベルク元帥がウエストファリア圏の軍から歩兵二六〇〇,竜騎兵一〇〇を率いてこの地に到着した.この地の守備隊としてとどまる予定である.今朝,防備の視察を終えると,元帥はヴェーゼルに戻るべく再びこの地を発った.これで守備隊は総勢約五〇〇〇となった.
ハーグ,9月24日.ホラント州議会の会合が続いている.審議されているさまざまな事項のうちには,フランス製品の禁輸があると言われている.ワルデック侯が今月二十一日にドイツからこの地に到着,昨日ヘルダーラントに向けて出発した.ヘルダーラントではその州の兵がモーケルハイデ河畔に今月二十九日または三十日に集結することになっている.フリースラントとフロニンゲンの総督であるナッサウ公がこの地に到着.昨日国務評議会で補助をした.
パリ,9月25日.国王が帰還した.王太子が自ら軍勢を指揮をする予定であり,本日,モーに向けて出発した.****五日にストラスブールの下流のヴィサンブールに到着する予定である.*****この地で一般に取り沙汰されているところによると彼はフィリップスブルクを包囲することになっている.国王はメーヌ公爵に〔ヴィヴォンヌ〕公爵の死によって空席になっていたガレー船の指揮権を与えた.ポルトガルの特命使節タボルダ氏が昨日ヴェルサイユで国王に拝謁し,ポルトガル王妃が王子を出産したとの本国からの情報を伝えた.また同様に聞くところによると,*****は十七日に床につき,女児を出産した.国王はこれまでヴィヴォンヌ元帥指揮下にあった連隊を陛下の*****であるド・T****侯爵に与えた.

ウインザー,9月18日.今月十六日,デンマーク国王からの特命使節レヴェントラウ伯爵が退任の挨拶のため,式部官チャールズ・コットレルに導かれて両陛下に拝謁した.
ホワイトホール,9月15日.国王は昨日ウインザーよりこの地に帰還.今朝は川を下ってチャタムに行き,明日,王妃も同様に皇太子殿下および全宮廷とともにこの地に帰還する.デンマーク公ジョージ殿下とデンマーク公妃アン殿下は去る〔十日の〕月曜日にタンブリッジから戻られた.

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¶来週「〔ノースリー著〕『平和をもたらす議会』についてのバーネット博士の考察,第一部」と題する論文が発売.著者の立場から答える.二番目のものに対する答えも印刷中.また「平和をもたらす議会」の第二版も発売中.ホルボーンの子羊亭にてT****氏により販売.
イリアム・バージェス,十八歳くらい,すらっとしたやせ形******で髪は明るい茶色.ノーフォークのバーナード・ハワード氏の家から最近逃走し,彼が馬番のもとで働いていた厩舎でなくなったものあり.彼を捕らえ,連行し,あるいは発見して******ギルフォードまたはファーナムにおけるハワード氏の宿営地に,あるいは氏の不在時にはそこの指揮官に届け出た者には,存分に報酬が払われる.
月*日にコーンウォールのトルロ近くのヘンリー・エドモンズ氏から盗まれた黄色の**雌馬.背中には月毛の縞が一本,臀部はまるく発達している.たてがみは黒で薄く,前髪は黒っぽくて短く切ってある.耳は大きく,額に若干の白毛あり.後ろ足の一方のひづめは少し割れている.体高約十五ハンドで年は*歳.この雌馬について,前記のエドモンズ氏またはセントマーティンズレーンにある白馬亭のジョージ・アーノルド氏に通知した人には二ギニーの報酬が支払われる.
月七日金曜日に盗難,あるいは迷子になった雌馬三頭.一頭は黒で体高約十五ハンド,右前足に少し白毛あり.腰の左後部に羊飼いの杖〔?〕,鞍部の後ろに小さなこぶあり.八歳.もう一頭は暗い鹿毛で,体高約十四ハンド,背中が低く,額に星,いくつか鞍紋あり.三頭目は明るい鹿毛で,体高約十五ハンド.十歳.左後足のひづめの少し上に少し白毛.いくつか鞍紋あり.たてがみと尾は黒.これらの馬についてスミスフィールドのガンのマーシオ・ラクストンに通知する者には一ギニーの報酬が支払われる.

(C) 2004.6. 友清理士; 訳文の最終修正日2004.5.30
革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜   歴史文書邦訳プロジェクト   

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