『ロンドン・ガゼット』でたどる名誉革命


フレームが表示されない場合,ここをクリックし,ページが切り替わったら左側のナビゲーションバーで「2384号」を選択してください.

見どころ:締め切りの関係か情報管理の意図かは分からないが,この号がオレンジ公によるイングランド侵攻を意識した最初のものだと思われる.
冒頭は国王が国民の支持を得るべく発した宣言で,プロテスタント護持と選挙実施を確認している.
オランダ軍の情勢は触れられていない.

2384号

ロンドン・ガゼット


政府当局により発行

1688年9月20日木曜日‐9月24日月曜日

国王による
宣言

国王ジェームズ
たる十一月に余のウエストミンスター市にて会合するよう議会を招集する意向はすでに示しており,それに従って議員選出の詔書が発行されているが,議員を選出する権利をもつ者が不満分子の工作によって先入観や錯誤のもとにおかれることがないよう,余はここに宣言しておくことを適当と考える.余のすべての臣民について全面的な良心の自由の法的確立に向けて努めることが余の望みであり,またイングランド教会を侵されざるものとして保持することも余の決意である.そのためには数次の礼拝統一法を確認して決して変更されることがないようにする.その唯一の例外は,前記礼拝統一法の趣意と目的に反する宗教を用い,実践したことにより教会上の何らかの聖職禄に取り立てられたりその予定となったりしていない,また前記の法の意味内での昇進にも与っていない人物に刑罰を科するいくつかの条項の撤廃に限られる.そしてイングランド教会のみならずプロテスタントの宗教全般をより確かなものとするため,余はローマカトリック教徒が下院議員に選出される資格がないことは現状のままとする意思がある.それにより,立法府がカトリック教徒に乗っ取られプロテスタントに敵対させられるという多くの人々が抱いてきた恐れと懸念は取り払われることであろう.
余は同様に余の忠実なる臣民に保証する.余はみなの安全と利益のためならば,常に民のことを思う国王としてふさわしいことは何でもする用意がある.そしてもし民が自分たちの国の幸福を望むのであらば,あらゆる敵愾心をわきに置き,議会において自分たちを代表してそのように有益な偉業を担うにふさわしい能力と気概を備えた人物のことを考える気持ちになってみるよう,余は訴える.
そして混乱,違反,あるいはなんらかの不正行為が来たるべき議会における議員の選出の前もしくはそのさなかになされるのを防ぐため,余はここに厳命をもって申し渡す.来たるべき議会の議員選出のための,あるいはそれに関わる詔書,召喚状,令状,選挙命令書が託されているすべての市長,州長官,郡代,その他あらゆる役人は,その詔書,召喚状,令状,選挙命令書をしかるべく公表し,その趣意に従って執行させ,そして選出された者がその真価に従って公正に選出された者となるようはからうべし.
余のホワイトホールの宮廷にて発布.一六八八年,余の治世第四年,九月二十一日.

ヴェネツィア,9月8日.我が軍からの最新情報は以下の通り.ネグロポントの橋を守るするために最近トルコによって建設されたカランババの城に突撃を敢行し,これを奪取.市街に対していくつかの砲台を築き,それによる攻撃は順調で,ほどなくして市街を支配下におくことができる見込みである.ラグーザから到着したバーク〔帆船〕のもたらした報せによると,監督官兼将軍コルナーロ指揮するヴェネツィア軍によってクリムに対する九日間にわたる包囲が行なわれ,順調に進んだ結果,籠城軍は交渉を求め,八日以内に救援軍が届かなければその地を明け渡すと申し出た.しかし,コルナーロ将軍は決断をするのに二十四時間しか与えず,それを過ぎればいかなる条件も認めないと宣言した.
ヴェネツィア,9月13日.カンディアから来た船により,ヴェネツィア軍がネグロポントを奪取したとの報告がもたらされた.
ウイーン,9月13日.今月八日,トルコの大使たちがベオグラード前の帝国軍の陣営に到着した.そこからはロレーヌ公が何か壮大な計画のもとに全騎兵を率いて出撃する準備をしていた.ほとんど信じられないほどのめざましい作戦であったボスニアでの勝利については,次の報がはいっている.〔バーデン〕公ルートヴィヒは,今月四日に四〜五〇〇〇のトルコ軍がブロートから約六マイルの地点で野営していると知らされ,騎兵および竜騎兵三〇〇〇を引き連れて夜じゅう行軍して攻撃をしかけた.ところが大いに驚いたことに,ボスニアのパシャ指揮下の敵の数は一万五〇〇〇を超えていた.バーデン公は士官たちを呼び集め,もはや退却するには遅すぎる,生命と勝利をかけて今ここで戦うしかないと言い,その訴えは好意的に受け入れられた.防御態勢を整えるころには敵が取り囲んでおり,四〜五回猛烈な攻撃をしかけてきた.しかし,勇猛な反撃に撃退され,騎兵は逃げ去り,歩兵は帝国軍兵のなすがままにされた.五〇〇〇が殺され,二〇〇〇が捕虜になり,三十六の軍旗と敵の物資すべてが捕獲された.
ウイーン,9月16日.ベオグラードからの今月十日の書状の伝えるところは次の通り.市街と城の清掃時にみつかった死体は七〇〇〇に及び,川に投げ込まれた.捕虜は三〇〇〇でこのうちにはベオグラードのパシャ,二名のパシャが含まれる.彼らは自分たちと低市街に退去したもう五〇〇ほどを守るため,自分たちの前に鎖でつながれた三〇〇のキリスト教徒の奴隷を置いたため,奴隷たちが敵に向けられた射撃を受けたに違いない.殺戮のさなか,それで兵士たちも停止し,〔バイエルン〕選帝侯もそれに気づくとただちに投降を認めるよう命令を発した.選帝侯殿下の前に連れてこられたパシャはその前で平伏し,命を助けてくれたことに感謝を伝えたのち,ハンガリー人やセルビア人の敵に引き渡されないよう懇願した.選帝侯殿下は,


キリスト教徒の捕虜の扱いはトルコ人よりもいいことを身をもって知るだろうと,そして彼が皇帝のもとに送られることになるだろうと答えた.それを聞いてパシャは満足したようだった.こうしてパシャは,現在当地まで三〜四日以内のところまで来ている.同行するカラッファ将軍はトルコ側の和平の提案をもたらすことになっている.ベオグラードには大小の大砲が七〇門みつかった.獲得された最大の戦利品は,支配者たちが富をどこに隠していたかを知っていたキリスト教徒奴隷たちが手に入れた.その数は六〇〇ほどで,大多数はオーストリア人だったが,この幸いなる機会に解放された.市街と城はほぼ焼け尽くしたが,損失は大きなものではなかった.家屋の大半は木造で,地理的に交易に有利なためどのみち長く無人のままであるはずのない土地のこと,よりよい家屋を建てる余地をつくっただけだった.上ハンガリーからの報せによると,コルベッリ伯がジューラ方面に送った一〇〇ほどのハンガリー兵がその地の守備兵の一隊と遭遇し,四〇を殺し,四名を捕虜にし,家畜二五〇頭を持ち去った.同じころ,コルベッリ伯は五〇〇のドイツ兵と一〇〇のハンガリー兵を率いてグロースヴァルダインに向けて進撃し,前哨に攻撃をしかけ,三〜四名を殺し,一名を捕獲した.残りは町に引き下がった.不正規騎兵であったこの捕虜から知ったところによると,トルコ軍は考えうる限りの狼狽ぶりで,グロースヴァルダインのパシャは集められるだけの騎兵を軍勢に送り込むよう命令を受け取っていたが,兵は進撃を拒んだ.一言で言えば,あまりの混乱で,あらゆる面から見てこれらの地点はシゲト,カニサともども,ベオグラードが奪取されたと聞けばたちまち降伏すると思われた.ワラキアのゼルニスからの情報では,ヴェテラーニ将軍はクロンシュタット〔現ブラショフ〕に歩兵と物資を送ってしまってから,自身はオルセトニーから騎兵と若干の竜騎兵を率いてドナウ川に進軍し,トラヤヌスの橋付近に陣取った.そこに十九日,ドナウ川の反対側に位置するノヴィグラートの守備隊からの派遣団がやってき,挨拶かたがた新鮮な食料を贈呈した.派遣団に対し,降伏すればとてもいい条件を期待できるということが伝えられた.二十一日,他の派遣団がやってきて交渉しようとし,二十三日には協定が締結された.守備兵と住民は水路で〔ドナウ川を下って〕ニコポリスまで行く自由が認められ,そのために一万ダカットを支払うものとされた.開城の執行にあたって捕虜が交換された.しかし,その間,テックレーが一〇〇〇のハンガリー兵とともにノヴィグラートに到着し,町と城に火を放って住民をそっくり連れ去ってしまった.帝国軍の兵士は川を行く舟の不足から追跡することができなかった.ヴェテラーニ将軍が先に触れた派遣団から聞いたところによると,ベオグラードへの帝国軍の接近に際して川を下って逃げた一〇〇〇ほどの舟のうち,逃げられたのは二〇〇に満たなかった.残りは水位の不足から座礁するか,ハンガリー兵が追跡していると聞いて乗っていたトルコ人が逃げ出すかしてしまったのだ.およそ一万もが舟を去り,陸路をソフィアまで進む決心をした.しかし,混乱の上武器も持たない男女,子供の集団であり,武装して警戒していた土地の人々によって身ぐるみはがれるか殺されたものと思われた.バイエルン軍の中将セリーニ伯爵が今晩ベオグラードから当地に到着した.
ハンブルク,9月13日.デンマーク国王のアルトナ会議における最初の全権エーレンシルト氏がコペンハーゲンからこの地に戻った.ショーネンに野営しているスウェーデン兵は日々増強されている.

そこからかなりの増援がドイツにおけるスウェーデン領に派遣されるものと伝えられている.ベルリンからの情報によると,ブランデンブルク選帝侯はライン方面にさらに軍勢を送っている.
ストラスブール,9月18日.ブルゴーニュとロレーヌで宿営していたフランス軍が合流してこちらに接近している.フィリップスブルクの包囲を目指しており,王太子が自ら指揮を取るものと伝えられている.ランダウの防備づくりが尋常ならざる精勤さで進められている.
ブリュッセル,9月28日.今月二十四日,我々の総督は盛装して,将官たちや若干の顧問官にかしづかれて大教会に行き,そこでベオグラード奪取およびボスニアで帝国軍が挙げためざましい勝利に感謝してテ・デウムが歌われた.フランス軍はライン川方面に移動を続けている.我々の国境付近の守備兵は増強されている.モンスには四〇〇〇,ナミュールにもほぼ同数.バタリア〔?〕の将軍ド・ポンタムジアール伯爵は去る土曜日〔二十五日〕にこの地を去り,帝国のいくつかの諸侯への特命使節の資格を帯びてドイツに向かった.
パリ,9月29日.昨日,宮廷はヴェルサイユからフォンテーヌブローに移った.フィリップスブルクは今月二十三日には取り囲まれたが,塹壕掘りは来月六日か七日に王太子が軍に到着するのを待って行なわれると言われている.ションベルク元帥がケルン防衛のため三〇〇〇の兵を率いてその地に向かったとのことである.

ホワイトホール,9月23日.サヴォイ公爵からの特命使節ド・ルエーロ侯爵が本日,式部官チャールズ・コットレルに導かれて国王,王妃に初めての拝謁をし,両陛下に皇太子殿下ご誕生について祝辞を述べた.

広告

¶キャムデンの『エリザベス女王伝』改訂,原版と照合した第四版.多数の重大な欠陥を修正,これまで省略されてきたいくつかの部分をしかるべき場所に追加.本文に含まれる主要事項をもれなく収録したアルファベット索引付き.コヴェント・ガーデンの郵便局にてR・ベントレーにより,チャンセリー・レーンのジャッジズ・ヘッドにてJ・トンソンにより販売.
¶貴人の蔵書.ほとんどの言語と分野における数千の書物のほか,比類ない版画や図面が来月十月三十日火曜日,ラドゲート通り近くのアヴェ・マリア小路の熊亭にて競売.目録の頒布はペルメルのノット氏,ウエストミンスターのキング通りのワイルド氏,サヴォイ付近のラウンズ氏,フリート通りのウィルキンソン氏,セント・ポールズ・チャーチヤードのチズウェル氏,王立交換所付近のパーカー氏,ホルバーンのターン****付近のターナー氏,〔以上〕書籍販売業者,ストランド街のソールズベリー・エクスチェンジのベルナール氏,フランスの書籍販売業者,オクスフォードのシャーリー氏,ケンブリッジの製本業者ドーソン氏まで.
王陛下の開封勅許状により郷士ジョン・スミスに,サウサンプトン州のウェイヒル近くのアプルショーにて二つの市の開催を認可.毎年五月の十一,十二,十三日と十月の二十四,二十五,二十六日.扱うのは羊,馬,豚,去勢牛,そしてあらゆる種類の家畜,羊毛,リネン製品,チーズ,コーン,そして市場や定期市で売られる他のあらゆる商品.
王陛下のお慈悲により,家畜の市をハイドパーク・コーナー近くのブルック・フィールドで毎週火曜と木曜に開くことが認可された.最初の市は翌十月の第一木曜日に開かれ,以後,毎週火曜日と木曜日に続けられる.木曜日の市は昼の十二時に,火曜日の市は午前中は牛が,午後は馬が扱われる.
知.これまで四年以上にわたり通行不能だったニューアークとタクスフォードの間のマスカム橋の再建が完了.あらゆる種類の馬車が通行可能.
ドルセックス州ヘストンのハンナ・コール夫人宅から今月二十日の夜に黒馬が不明に.体高約十五ハンド,額に星,右の耳に穴,尾には白い房,約七歳.上記ヘストンのコール夫人,あるいはロンドンのマーゲート通りのブラック・ベアーの毛織物商ヘンリー・コール氏に情報をもたらした者には一ギニーの報酬が与えられる.

(C) 2004.6. 友清理士; 訳文の最終修正日2004.5.31
革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜   歴史文書邦訳プロジェクト   

inserted by FC2 system