『ロンドン・ガゼット』でたどる名誉革命


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見どころ:冒頭はジェームズ二世による,煽動的な情報流布を禁じる布告.書面・口頭による発信者のみならず,そうした情報を読んだり聞いたりした人も,ただちに当局に届けなければ罪に問われるとしている.

2394号

ロンドン・ガゼット


政府当局により発行

1688年10月25日木曜日‐10月29日月曜日

国王による
布告

偽りの風説流布を制限するために

国王ジェームズ

余が王位について以来,余はたびかさなる大赦によって慈悲深くも余の慈悲と寛容を余の臣民たちに広げてき,先ごろにもそうした大赦の一つを発したばかりであるが,余の感ずるところ,そのような余の恩寵と好意によっても更生,更改しないよこしまな考えの人物は,それにもかかわらず,偽りで煽動的な報せや報告によって余の政府をおとしめるための書状,出版物,口頭による活動を続けており,それによって余の忠実なる臣民を乱し,この余の王国に対して企まれている侵略によって脅かされているこの危難の時節にあってできうる限り人々のうちに猜疑と不満の気持ちをあまねくかき立てようとしている.その結果として,通常であれば自然な忠誠心から当然余に対して支援と援助をすぐにも与えたであろう余の忠実なる臣民の心を余から離反させることが目的である.そしてこの王国古来の法と制定法により,通常一般の会話にて偽りの報せを流布した,あるいはなんらかの悪意ある誹毀や誹謗を推進したことが露見した者すべてに,あるいは特に,民をして余自身もしくは確立された政府を嫌悪もしくは憎悪せしめるよう煽動もしくはあおり立てるような言辞や事項を口にしたり発行したりするような者に対しては,重い刑罰が課される.それにもかかわらず,このところ以前より大胆で放埒なやりとりが聞かれ,人々はコーヒー・ハウスのみならず公共私的を問わずその他の場所や会合においても,理解もできない物事について悪し様に語って国政の舵取りを非難し,中傷する自由を標榜するようになった.それゆえに,この種の罪は邪悪な人物の満足を知らない悪意から,もしくは余のいつもの寛容と善意をあてにしきった他の者の不注意なふるまいから生ずるものと考え,余の枢密院の助言による,またその助言を得た上でのこの余の布告によって,身分や境遇を問わず,余のすべての臣民に直接警告し,命ずることを適当と考えるに至った.以後,書状,出版物,口頭を問わず,いかなる偽りの報せや報告をも発したり公表したり,あるいは一般通常の会話において国家もしくは政府の事柄または余の顧問官や大臣の何人かに干渉するようなまねをしてはならない.それに反する行為には,最大限の危険をもって応えることになるであろう.
そして,このように枢要な性質の事項に関して大胆かつ不遜なあらゆる発言ならびに煽動の傾向のあるもしくは余の民を惑わすあらゆる悪意ある偽りの報告は,発言者を罰するのみならず,聴衆も,余の枢密院のいずれか,もしくは余の裁判官か治安判事のいずれかに発言者を通告しない限り処罰の対象とするものであるから,それゆえに,ふさわしい控えめで忠義深い関心のうちにとどまらない者に今後弁解の余地がなくなるよう,余はここにさらに宣言する.書状,出版物,その他の発表かを問わず,そのような偽りの報せと報告をそのような悪意をもって不法に流布するあらゆる人物,またはそれを受け取ったり聞いたりしながら前述のようにしかるべき時間内に通告したり情報を伝えたりしない人物に対しては,余はこの上ない厳正さと厳格さをもって訴追するであろう.余は,今後発見されるそのような犯罪者すべてに対し,見せしめとしてこの上なく厳格な処罰をすることによって,前記の無法行為を抑える決意である.

そして余はここに,余のすべての裁判官,治安判事,州長官,市長,郡代,その他余の官憲および大臣たちおのおのに,今後いかなる時においてでも前述の罪を犯した人物に対し,すみやかに拘束し,訴追し,厳しく処罰するよう有効な手はずを整えるよう,直接に託し,命じるものである.
余のホワイトホールの宮廷にて.一六八八年,余の治世第四年,十月二十六日発布.

ヴェネツィア,10月18日.去る水曜日,当地にネグロポントからの船が到着して先月二十日の書状をもたらした.その書状は外堡に対する突撃において起こったことの詳報を含んでおり,それによるとその作戦はこれまで試みられた中で最も危険なものだった.敵の堡塁は広大な土地を囲んでおり,土地は岩だらけで,その上敵軍は膨大な数の大砲,人員で固められているのである.そして包囲軍が作業を進める間も,突撃をかけるずっとよい機会に恵まれているトルコ軍に悩まされることたびたびだった.盛り上がった地形によって敵は見られることなく行動でき,我が軍に向かって少し進んではたちまち土嚢や防柵で防備を固めるのである.そこから敵を排除するために幾度か小競り合いを演じた.その一つにおいて,シュヴァリエのアルクールは騎兵と志願者の一隊を率いてトルコ兵に対して前進したところ,敵は古い水道橋の柱の背後に引き下がり,シュヴァリエはマスケットの銃弾で手を負傷したものの,トルコ兵は撤退を強いられた.ケーニヒスマルク将軍の病気のため指揮を取っていたハーン将軍の指揮よろしきを得て我が方の作業は進捗し,八月二十日にトルコ軍に対して突撃を敢行することが決定された.攻撃は五部隊に分けて行なわれることになった.夜が明けるやいなや,大砲三発による合図とともに,我が軍は敵に襲いかかり,敵も猛烈な最後の射撃で必死の抵抗をした.クールボン少将指揮する騎兵が先発隊を補佐し,戦いを続ける双方とも決意は揺るぎなかった.騎兵は突入に成功し,身を守るために市街に逃げ込もうとする者の帰還を阻止した.その多くの者は海に飛び込むことを強いられた.溺死した者もいれば,我が方の舟に引き上げられた者もいる.我が方の兵の一部が市中にはいり,トルコ兵も逃げ込もうと必死だった.しかし,内部にいた者たちは,同胞がどうなろうとお構いなしで,彼らみなの前で城門を閉じたため,外の者は追撃者の怒りの犠牲となるままとされた.この作戦においてトルコ兵一五〇〇が戦死,軍司令官の息子もその一人だった.キリスト教徒側は四〇〇を失い,そのうちには大砲の直撃を受けたジローラモ・ガルツォーニ閣下が含まれる.しかし,このほかにも士官兵士ともに多数の負傷者がおり,そのうちにはマルタ騎士団の騎士九名,聖ステファン騎士団の数名が含まれる.テュレンヌ公はマスケットの銃弾で腕に負傷した.この機に指揮を取ったブラウンシュヴァイクの太子はその武勇と指揮の才能を示し,一時間もしないうちにこの偉大な勝利を獲得したのだった.
こうしてトルコ軍が市街に押し戻されると,大砲で市街を攻撃し,あらゆる連絡路を封鎖することが決定された.一方,トルコ軍は二十二日の朝に打って出たが,たちまち撃退された.ただし,我が方ではヴュルテンベルクの太子が胸に銃弾を受けて致命傷を負った.その後,市街のより近くに七つの砲台がつくられ,大砲二十五,臼砲十二が据え付けられた.こうして我が軍は総攻撃を開始した.九月三日,技師の……


〓裏面なし〓
(C) 2004.6. 友清理士; 訳文の最終修正日2003.10.2
革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜   歴史文書邦訳プロジェクト   

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