『ロンドン・ガゼット』でたどる名誉革命


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見どころ:10月20日(新暦では10月30日),オレンジ公の艦隊は出港したが,嵐で押し戻された.ハーグからの報告はこれに関するものである.


■ロンドン・ガゼット 2395号
政府当局により発行

1688年10月29日月曜日‐11月1日木曜日

―表面は手元にコピーがなく省略―

……アルクール侯爵,デストレ伯爵,ド・ギーシュ伯爵,国王の小姓ド・ビレー伯爵またその他の高位の人々がこの機に功績を上げた.この堡塁の奪取により,これまでは絶え間ない雨,寒波,三フィートも掘らないうちに水が出るため塹壕を掘ることもできないぬかるんだ地質によって妨げられてきたかの地の奪取も大いに容易になるものと思われる.昨日,大攻撃壕の左の土塁を抵抗なく奪取した.下ライン側では冠塞の溝から水を排出する作業を続けた.
フィリップスブルク前の陣営より.10月29日.二十二日夜,我が方はロンドの方形堡をほとんど抵抗を受けることなく奪取した.籠城軍がそこに配していたのは兵十二と伍長だけで,これは残らず捕虜になるか殺された.翌日,方形堡の右側で斜堤に取りつき,覆道の矢来まで作業を進めた.いろいろな連絡路をつくり,冠塞に対していくつかの砲台も築いた.二十四日,ドイツ騎士団の団長は,父プファルツ選帝侯退去後もハイデルベルクに残っていたが,同様にその地をあとにしたとの情報がはいった.二十五日,〔フランス〕国王の軍勢がその都市にはいった.降伏文書に従い,守備隊はマンハイムに護送された.二十五日夜,冠塞を破壊すべくライン川の側で攻城作業を進め坑道爆弾を使うための準備万端が整った.包囲線側では斜堤上の覆道にそって攻城作業を進め,矢来まで一ヤードに達した.シュヴァリエ・ド・ドノンヴィルはマスケットの銃弾を受けて重態となり,十二名ほどの兵が戦死ないし負傷.二十六日,冠塞への砲撃が奏効し,二十七日にはかなりの突破口ができた.二十八日,冠塞に対する砲撃が続けられ,突破口も十分広がったので,翌日突撃を敢行することが決定された.二十九日,アンジュー連隊および国王の連隊の第二大隊が攻撃を命じられた.擲弾兵部隊が突破口を乗り越えた.他の兵は半月堡の他の突破口を同じようにして乗り越え,大きな抵抗なくそこを制圧した.我が方の損害はほとんどなかったが,籠城軍では三十名ほどの死者を出した.我が軍がそこに取りつくべく奮闘していると,塁壁に白旗が掲げられるのが見えた.籠城軍は投降条件の交渉を求めてき,両陣営とも砲撃を中止し,捕虜は交換された.その後,町の市長が出てきて投降文書の条項を調整した.それに従って,今や一八〇〇ほどの籠城軍は来月一日,王太子の誕生日にそこを退去してウルムに護送されることになっている.武器や物資を保持し,太鼓を鳴らし,軍旗を掲げ,大砲四門を運び去ることは認められた.この地の守備隊長シュターレンベルク伯は病で危険な状態.この地には大砲一二四門があり,弾薬,食料は数か月分ある.

ブリュッセル,11月5日.フィリップスブルク守備隊が去る二十九日に降伏したとの情報がはいっている.ブーフレール侯爵はプファルツのいくつかの地点に守備隊を置くと,指揮下の軍勢とともにライン川を下ってコブレンツにやってきた.しかし,この地には非常に良好な守備兵がある.ネイメーヘンとデュッセルドルフの間に三万人ほどの野営地ができつつある.フランクフルト方面にも同様の規模のもの進行中.
パリ,11月6日.今月二日,王太子の副官アンタン侯爵がこの地に到着,今月一日のフィリップスブルクの明け渡しの報せをもたらした.それを祝してフォンテーヌブローの城館ではテ・デウムが歌われた.王太子はフィリップスブルクに守備兵をおいたのち,そこからマンハイム包囲に向かう予定.

モンクラール男爵は彼の指揮下の兵とともにフランケンダール前に,ブーフレール侯爵は七〜八〇〇〇の部隊とともにコブレンツ前に陣取っている.宮廷は今月十二日もしくは十四日にヴェルサイユに戻る予定.

ハーグ,11月5日.先日の嵐でオランダ艦隊がこうむった損害は当初の報告よりかなり重大な模様.死んだ,もしくは任に耐えなくなった馬は一五〇〇に上る.オレンジ公は自分の馬のほとんどを失い,ションベルク元帥も最上の何頭かを失った.その息子,カール・ションベルクは,乗っていた船がメインマスト失って危険な状態にあった.ベンティンク氏の連隊の騎兵大尉はその全中隊とともに行方不明.近衛歩兵の大尉二名も同様に中隊ともども不明.損失を補填するため,多数の新たな馬を艦隊に送るよう命令が発された.ド・フリーズ男爵の連隊が乗船すると言われている.この間,オレンジ公はヘレフットスライスに滞在を続け,艦隊の準備ができ,天候が許し次第出港する予定でいる.

ロンドン,10月29日.本日,次年度の市長として選出されているサー・ジョン・チャップマンが参事会員たちと州長官たちを伴い,いくつかの団体に付き添われ,このような機会に習慣となっている盛儀のうちにウェストミンスターを訪れた.ホワイトホールでは,一行が通過する際,国王陛下は窓辺まで出てこられるという栄誉を賜わった.そして財務裁判所裁判官たちの前で宣誓をすませると,ブラックフライアーズ桟橋に戻り,そこから通常のようにグローサーズ・ホールへと進み,そこで壮麗な宴が催された.宴には陛下の至尊の枢密院の諸卿や裁判官,その他高位の人々が出席した.
ホワイトホール,10月31日.今月二十八日,モデナ公爵よりの特命使節ボニファツィオ・ランゴーニ侯爵が王妃に,そして本日は前王妃に初めて謁見した.案内は式部官サー・チャールズ・コットレル.

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ョン・ド・ペテパスなる男が,九月二十八日に宿舎から〔消え〕,サリーのリプリーで宿営していたサー・ウイリアム・ヴィラーズの騎兵中隊から逃亡した.低身でかつらをつけ,顔じゅう火薬による斑点がある.乗馬と一緒で,馬は茶色の鹿毛の去勢馬で体高約十五ハンド.この人物についてミューズのサー・ウイリアム・ヴィラーズに通知した者には一ギニーの報酬が支払われる.
近,グロスターシアのウォルド地帯のストウに近いマルガースベリーのエドモンド・チェンバレン郷士より盗難.帯黄の鹿毛の馬で,尾が長く,体高約十四ハンド.速足をよくし,約十二歳,背に一本の黒縞.両後足からTwitterboneを除去している.前記エドモンド・チェンバレン郷士もしくはウエストミンスターのチャールズ通りのその自宅のリドリー氏にこの馬について通知した者には存分な報酬が支払われる.
〔注:Twitter Boneというのは馬の歩行に障害を起こすものらしい.検索エンジンで twitter bones を検索すると説明がみつかるが,よくわからなかった.〕
る四日,ランベス教会区のディオニシウス・アンドルース氏から紛失.刈り込んだ栗毛の去勢馬.体高約十五ハンドであらゆる歩態をよくする.また明るい鹿毛の雌馬.額に星,左前****に****っぽいところあり.同様に暗褐色の雌の子馬.体高約十四ハンド.顔に小さな流星,馬車の引き革による擦りあと少しあり,約四歳.そして乳白色の雌馬.約十二ハンドであらゆる歩態をよくする.これらの馬について前記アンドルース氏にランベス教会区のケンジントン・コモンに面する家もしくはストランド街のハンガーフォード・マーケットの家にて通知した者には二十シリングの報酬が支払われる.

(C) 2004.6. 友清理士; 訳文の最終修正日2003.10.2
革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜   歴史文書邦訳プロジェクト   

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