1672年8月20日ハーグの政変:スピノザの体験



1672年8月20日,フランス軍の侵略を受けて未曾有の危機が迫るオランダの首都ハーグで,共和政権を担っていたヨハン・デ・ウィットとその兄コルネリス・デ・ウィットが民衆に虐殺されるという事件があった (『イギリス革命史』上p.153-157参照).そのサイドストーリーをマシュー・ステュアート『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ,そして近代における神』(p.152, 252)でみつけたので紹介しておく.(その後リュカス/コレルス『スピノザの精神と生涯』を参照して若干補足した.)

哲学者スピノザは1670年にハーグに移り住んでいて,この政変であやうく命を落しかねないところだったという.1676年にスピノザをハーグに訪ねたライプニッツが本人から聞いたとして書き残すところによれば,デ・ウィット兄弟虐殺の日,スピノザは夜になったら外出し,虐殺現場の近くのどこかに「最も野蛮な野蛮人ども」と書いた紙を貼り出すつもりだった.だがそんなことをすればスピノザまで殺されて切り刻まれると思った家主が家に閉じ込めたので外出できなかったのだという.

「反逆児」スピノザが時代の空気をものともしなかったことを示すもう一つのエピソードがある(これは『宮廷人と異端者』の見方で,『スピノザの生涯の精神』はスピノザ本人はためらったのだが友人に決心させられたという事情を紹介しており,訳注ではフランスとの休戦を取り持つ気持ちもあったとの推測までしている).1673年,なんとフランス遠征軍の指揮官であるコンデ公が占領下のユトレヒトに招いた招待を受けたのである.コンデ公は1672年の当初のオランダ侵攻軍の総司令官だったが,負傷でいったん交代し,その後一時ロレーヌ方面に派遣されたが,オレンジ公ウイリアム(オラニエ公ウィレム)が諸国の同盟を得て頑固に抵抗を続けるなか,1673年は再びオランダに派遣され,5月2日にユトレヒト入りしていた.コンデ公はスピノザの『神学政治論』にいたく興味を抱いており,著者に会いたがったようで,フランス軍の占領下にある地方の通行証を発行して招待したのだった (Bernard Pujo, Le Grand Condé, p.321)

スピノザがユトレヒトに着いたとき(『スピノザの生涯と精神』p.60の訳注によれば6月28日ごろらしいとのこと)には折悪しくコンデ公は所用でその地を離れていた.コンデ公は自分の帰還を待つようにとしばしば通知したが,結局ユトレヒトには戻れないことになった(『スピノザの生涯と精神』p.39).スピノザは結局,三週間ほど滞在していろいろな人と会ってすごしたが,コンデ公が戻れないと知るとただちにハーグに帰ってしまった.

ところが,ハーグに戻ったスピノザはフランスと通じているとの非難に直面することになり,下宿の外には怒り狂った暴徒たちが集まった.不安げな家主に,スピノザは,国家の最高位の人物たちも含めユトレヒト行きの事情を知っている人がたくさんいるから心配は無用と話したという.だが,そうした人たちは記録を残してくれていないので,詳細な事情はわかっていないそうだ.

なお,コンデ公は1673年7月にはフランドル方面に派遣され,オランダ戦線はリュクサンブール将軍が受け持つが,同盟国の力も得たオランダが次第に巻き返し,11月にはユトレヒトも放棄して後退した.



革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜
First posted on 8 November 2012. Last modified on 24 November 2012.
inserted by FC2 system