私は世代的にアンパンマンが出てくるよりちょっと前なので実はあまり読んだり見たりしたことがないのだが,アンパンマンが自分の顔を食べさせるという設定に賛否両論があることは聞いたことがある.そんな設定には,従軍経験をした作者やなせたかし(本名 柳瀬嵩,1919-2013)の強い思いが込められているということを,柳瀬をモデルにした2025年度前期のNHK朝ドラ「あんぱん」で知った.突飛と思われる設定は,従軍中の飢えの経験があったからだという.このホームページで紹介するにあたり,(かいけつゾロリのときみたいに)暗号が出てくるエピソードでもあればと思って検索したところ,なんと作者が大戦中に暗号兵だったと知った.
今ではあちこちで紹介されていることを今さらながらに知ったが,やなせたかしの暗号兵としての経歴をまとめておきたい.典拠は主にやなせの著書『ぼくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い』と『アンパンマンの遺書』.
柳瀬は1941年に徴兵されて小倉の連隊に配属になり(「1941年」は『アンパンマンの遺書』の著者略歴によるが,同書p.63には二年目が終わろうとするときに大東亜戦争がはじまったとあり,『ぼくは戦争は大きらい』p.8の1940年のほうが会うのだが,1941年とするウェブサイトが多い.山口(2024)は柳瀬が所属したという部隊と実際の部隊の動きが合わないことを指摘している),数か月後に幹部候補生の試験を受けて下士官の伍長になり,「大隊本部の暗号班」に配属になった(p.31)(ページ数のみの引用は『ぼくは戦争は大きらい』より.『アンパンマンの遺書』には軍曹になってから暗号教育隊に派遣されたとある.同p.68では「聯隊本部づき」だが,p.70には「大隊本部づきの軍曹」とある).「乱数表の数字を足したり引いたり」する仕事だが,炎暑のなか教練でしごかれている兵をしりめに乱数計算をするのは「ラクチン」だった.班長になってからは,実際の作業は部下がやるので,その確認をするのが仕事だったという.
通常の召集期間は2年なのだが,1941年12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったことで,翌春の除隊がだめになってしまい,召集延長に.部隊は1943年には大陸に渡った.(米軍が大陸から台湾を攻めて日本侵攻の足がかりにすることを防ぐため.)
柳瀬の部隊は上海の南方の福州に上陸し,民家を接収して兵舎にした.暗号班のある大隊本部は,村長の家を使った.親日的な土地だったとはいうが,やなせは自分たちが侵入者であることも意識していた.
「福州の人たちにとってはずいぶん迷惑な話です.住んでいた家をいきなり取り上げられるわけですから.」(p.57)
(朝ドラでも主人公が,東洋平和のため,米英の侵略から大陸の領民を守るためと言われてきたが,「どこが正義の戦争なんだ」,「こっちの人からしたらいい迷惑なんじゃないか」と悩む場面があった(第56話).今回の朝ドラは日本の加害の側面を正面から取り上げているという点でも画期的だった.脚本家の中園ミホはやなせの言葉に基づき,意識的に取り組んだようだ(朝日新聞2015年9月17日).)
暗号の連絡というのはそれほど頻繁ではなく(p.61),時間的にはずいぶん余裕があった.そこで柳瀬は宣撫班の仕事を手伝うことになって,紙芝居を作って現地の人に見せたりした(朝ドラでは第56〜57話).
暗号解読の結果を大隊長に報告する際には「正解だったかなあ」と,とても緊張したという.集結命令の日時や場所を間違ってしまったら一大事だからだ.海路の移動のため解読された命令に従って海浜に全部隊が集結しているとき,「定刻に沖の方から海面にただよう霧の中を,鉄舟が数百隻進んでくるのを見た時は,本当にほっとした」という(『遺書』p.65).
その後上海に移動してからは,暗号班にはいってくる情報を利用して壁新聞を作ったところ,好評だったという(p.84).空襲で甚大な被害が出ていること,アッツ島の玉砕などの情報もはいっていたが,負けたニュースはあまり書かないようにしていた(p.91).だが,広島と長崎が特殊爆弾で壊滅したことは紹介した.
暗号班の柳瀬は激戦を経験せず,戦争の間は小休止だったという.それでも銃剣を持ったゲリラの乱入で目の前で何人かが死ぬこともあった.
柳瀬にとって何より困ったのは食糧難だった(朝ドラでは第58〜59話).タンポポまで食べたが,長野県の部隊の人たちが食べていたヘビや虫はだめだったという.
アンパンマンの原点について,やなせたかし本人が語った言葉を紹介したい.
やなせたかし(2013,2023)『ぼくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い』(小学館eBooks,2013年の著作の新装版を2023年に電子書籍化したもの)
やなせたかし(1995,2023)『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫,1995年の著作の2013年の文庫版を2023年に電子書籍化したもの)
吉田直哉(2024)「まんが家たちの〈戦争〉―飢餓・生命・倫理をめぐる手塚治虫・やなせたかし―」,大阪公立大学(pdf)
山口一樹(2024)「戦場体験が問いかける「生存」とナラティブ ―やなせたかしと水木しげるの比較を通じて―」,立命館大学国際平和ミュージアム紀要 第23号(pdf)
真山知幸(2025)「【朝ドラ あんぱん】やなせたかし「戦地で紙芝居」ウケた訳 現地の大人も子どもも大笑い いったいなぜか?」(東洋経済ONLINE)
タニグチリウイチ(2025)「『あんぱん』嵩が配属された“宣撫班”とは? やなせたかしの著作から史実を解説」(Real Sound映画部)
歴史人編集部(2025)「朝ドラ『あんぱん』嵩はどれくらい偉くなったのか? 陸軍の「階級」と「幹部候補生試験」とは?」(歴史人)
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