スペイン継承戦争の戦後20年
――ユトレヒト条約後の国際関係とハノーヴァー朝下のイギリス――

本稿はイギリス史としてはハノーヴァー朝下でウォルポールが初代首相となっていく時代を扱う一方,『スペイン継承戦争』の後日談としての性格ももつ.通史ではスペイン継承戦争の次はすぐオーストリア継承戦争になってしまい省略されることが多く,スペイン継承戦争後の二十年について,トマス・カーライルなどはその『フリードリヒ二世伝』で諧謔的にこう述べているほどである.

「二十年の間,全ヨーロッパがエビをゆでたように七回も色を変えた.長らく煮え切らないエビの変色とは七回の外交危機とやらで,そのうちには二度のいわゆる戦争が含まれるのであるが,その結果たるや巨大なゼロが確定しただけであった」

ある程度長い時代を俯瞰する通史の立場からすれば,ウォルポールの事跡は概要的にまとめ,この間の「エビの変色」は素通りするという判断は無理もない.しかし,結果として「ゼロ」であったとしても,それは政治・軍事力学上のさまざまな要因の平衡の結果の「ゼロ」なのである.その過程を時系列に沿ってたどることには,戦争の連続だった一世紀ののちに二十年も大規模な戦争が起こらずにすんだ事情を考える際の出発点になるだろう.

    スタノップ・サンダーランドの時代
  1. ハノーヴァー朝の成立(1714)
  2. ハノーヴァー朝とホイッグ
  3. スペイン継承戦争後に残された問題
  4. 防壁条約(1715)
  5. 十五年の乱(1715-16)
  6. ドイツ人国王(1714-16)
  7. 皇太子ゲオルク・アウグスト(1716)
  8. 英仏協調と三国同盟(1716-1717)
  9. タウンゼンド罷免(1716)
  10. スタノップ政権(1717)
  11. 減債基金(1717)
  12. ウォルポールの野党活動(1717)
  13. ダイヤモンド・ピット(1717)
  14. フランス銀行設立の試み(1716-20)
  15. 洗礼式事件(1717)
  16. 軍律法(1717-18)
  17. 四国同盟(1718)
  18. 四国同盟戦争(1718-20)
  19. 寛容の復活(1719)
  20. 貴族法案(1719)
  21. 和解(1720)
  22. 南海のバブル(1720)
  23. バブルの事後処理(1720-21)
  24. ウォルポール・タウンゼンド政権の成立(1721-1722)

  25. ウォルポール・タウンゼンドの時代
  26. 王子誕生(1721)
  27. アタベリー陰謀事件(1722)
  28. ボリングブルック帰国(1723)
  29. 二重結婚の計画(1723)
  30. カータレット左遷(1724)
  31. マドリード条約とカンブレー会議開始(1721-24)
  32. ウイーン条約とハノーヴァー同盟(1725)
  33. ジブラルタル包囲戦とウイーン同盟,ハノーヴァー同盟の瓦解(1726-28)
  34. ジョージ一世の最期(1727)
  35. ジョージ二世(1727)
  36. 皇太子フレデリック(1728)
  37. 二重結婚計画の顛末(1728-30)
  38. エル・パルド協定によるジブラルタル包囲の終了(1728)
  39. セビリア条約(1729)
  40. ウォルポール政権(1730)
  41. 第二次ウイーン条約とパルマ継承(1731-32)
  42. 参考文献

スタノップ・サンダーランドの時代

ハノーヴァー朝の成立(1714)

イギリスの現王朝につながるハノーヴァー朝が成立したのは一七一四年にさかのぼる.

一七一四年八月,ステュアート朝のアン女王が崩御した.アンは十七回も妊娠したものの結局世継ぎを残さずに亡くなっており,ここに百年あまりにわたったステュアート朝が断絶することになった.一七〇一年に議会で王位継承法が制定されており,王位を継承するのはアン女王の曾祖父ジェームズ一世の子孫であるハノーヴァー家と定められていた(『スペイン継承戦争』2章)

しかし,議会法によって定められていたとはいえ,このハノーヴァー家への王位継承がすんなりいくかどうかは最後まではっきりしなかった.アン女王が王位についたのは名誉革命によってアンの父ジェームズ二世が追放され,その子ジェームズ・エドワードが王位継承から排除されたためである.しかし,そのジェームズ・エドワードはイギリスの王位を要求し続けていた.

イギリスは前年ユトレヒト条約でスペイン継承戦争を終結させたばかりであり,実にきわどいところで戦争中に王位継承のごたごたを避けることができたのだった.(『スペイン継承戦争』19章)

戦争は終わっていても,イギリス国内でもジェームズ・エドワードを支持するジャコバイト(「ジェームズ派」の意)は根強く,女王の最晩年まで駆け引きが繰り広げられてきた.

それでも結果的にはハノーヴァー家による王位継承に異を唱える声は表面化せず,王位継承はつつがなく行なわれた.

こうしてハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス国王ジョージ一世となったのだった.

ハノーヴァー朝とホイッグ

ハノーヴァー朝成立とともにホイッグが政権に復帰した.これ以後,四十年以上にわたってホイッグの天下が続き,野党のトーリーは党派としての体をなさない状態が続くことになる.もちろん,ホイッグの天下だからといって権力闘争がなくなるわけではなく,この間はホイッグ内部での主導権争いが繰り広げられることになる.

名誉革命以来のホイッグの重鎮はハノーヴァー朝成立直後に相次いで他界して世代交代が進み,ホイッグの長期政権の端緒において中心となるのはスタノップ(四一),サンダーランド(四〇),タウンゼンド(四〇),ウォルポール(三八)といった面々となる.みなアン女王の治世とほぼ重なるスペイン継承戦争中に頭角を現わしてきた者たちだった.

ジェームズ・スタノップは若いころから諸外国で活躍し,スペイン継承戦争中はスペイン戦線やミノルカ島攻略において軍を指揮したが,そうした経歴のなか諸外国との交渉に手腕を発揮するようになっていた.ウォルポールやタウンゼンドとも友人であり,その端整な顔立ちと機知により自然と若いホイッグの中心となっていた.

サンダーランド伯は父の代からのホイッグの重鎮で,戦争中もジャントーと呼ばれるホイッグの大御所たちに混じって活躍していたが,その急進的な思想はアン女王の反感を買ってしばしば政争のきっかけにもなっていた.一方,ジョージ一世に対しては愛妾や異母妹と近づきになることで歓心を買い,各方面にも恩を売っておりその影響力は大きかった

のちに初代首相となるロバート・ウォルポールは下院での弁論で早くから注目されていた.ジャントーの一人オーフォード伯エドワード・ラッセルの縁で海軍本部委員会に加わり(一七〇五),次いで陸軍事務長官として政府の一角を占めるに至った(一七〇八).一七一〇年にトーリー政権となると地位を追われたが,アン女王の治世の末期には下院で押しも押されもせぬホイッグの指導者格となっていた.

タウンゼンド子爵はウォルポールの父の被後見人で,ウォルポールとは長年の親友だった.妻がウォルポールの妹だから義弟でもある.その一方,タウンゼンドはウォルポールのガイド役で,ウォルポールがホイッグに近づいたのもそのおかげだった.戦争中はハーグでの外交交渉などにあたり,ホイッグ政府に託されてオランダとの間で防壁条約を結んだのもタウンゼンドである.フランスの攻勢を恐れるオランダに守りとなるべき一連の都市に守備兵をおくことを認める代わりにイギリスでのハノーヴァー家への王位継承にオランダの援助を得るとしたこの条約の立役者として,タウンゼンドはジョージ一世の覚えがめでたかった.

一七一四年にアン女王が没してハノーヴァー家のジョージ一世が即位したとき,国務大臣となったのはスタノップ(南部担当),タウンゼンド(北部担当)である.議会ではスタノップがウォルポールとともに下院を,タウンゼンドが上院を指揮することになる.ウォルポールは陸軍支払長官という周辺的な地位だったが,これは金に困っていたウォルポールにはちょうどよかった.どの官職よりもうまみのあるこの地位についたことでウォルポールは急速に富を蓄え,後年の政治工作資金をたくわえることができるのである.

サンダーランドはアイルランド総督に任命されたが,これは実入りは大きいものの中心的なポストではなく,しばしば左遷ないし残念賞と受け止められるポストだった.有能で人好きもするのだが急進的な思想を持ち,謙遜ということを知らないサンダーランドが宮廷ではかりごとをめぐらすのを防ぐためにタウンゼンドが仕組んだのである.ただし,王璽尚書となったホイッグの重鎮ウォートンが没したため,翌年八月に王璽尚書に変えてもらうことになり,結局アイルランドには赴任しないままになる.この人事はサンダーランドの不満を買い,のちにタウンゼンドとの対立の伏線となる.

要職の第一大蔵卿となったのはジャントーのハリファックスだったが,ハリファックスは半年で没し,カーライル伯を経て一七一五年十月,ウォルポールが第一大蔵卿に任命された.アン女王の治世には財政を握る(第一)大蔵卿が首相として内閣を率いる慣行が定着しつつあり,この任にあったゴドルフィンやハーレーは首相といってもいい役割を果たしていた.ただ,ハノーヴァー朝初期のこの段階での政権の中心は二人の国務大臣スタノップ,タウンゼンドであり,その上,病のためウォルポールは一七一六年春から初夏にかけては活動ができなくなる.ウォルポールが第一大蔵卿となったこの期間については,まだウォルポール政権と言えるものではなかった.ウォルポールの長期政権が始まるまでにはホイッグの内部抗争という波乱をくぐり抜けてからのことになる.

スペイン継承戦争後に残された問題

スペイン継承戦争は一七一三年のユトレヒト条約で終結したことになっているが,実はまだ解決されていない問題がいろいろとあり,それが戦後二十年もの間くすぶり続けることになる.

そもそもスペイン継承戦争でスペイン王位を争ったハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール六世とブルボン家のスペイン王フェリペ五世はまだ和解していなかった.ユトレヒト条約の時期と合わせてイタリア,スペインでの停戦はしたものの,カール六世はスペイン王位やシチリア島が得られなかったことを納得しておらず,フェリペ五世もスペイン領が列強に割譲されたことを不満としていた.特にナポリ,サルディニア島,ミラノ,トスカナ諸港(トスカナ公領中,十六世紀以来スペイン領となっている五港市)といったイタリアの領土がオーストリアに,シチリア島がサヴォイに,イベリア半島の一角であるジブラルタルがイギリスに割譲されたことに不満が強かった.

一七一四年にフェリペ五世がパルマ公女エリザベッタ・ファルネーゼと再婚して一七一六年に長男ドン・カルロスが誕生したことは,北イタリア問題に新たな側面をもたらした.パルマ,ピアチェンツァ公領のファルネーゼ家は今の公爵とその弟に子がないため断絶が予想されており,二人の姪であるエリザベッタは息子ドン・カルロスの継承権を主張していたのである.さらに,トスカナ公領についても現大公とその息子で断絶が予想されており,そうなれば曾祖母が大公家の出であったエリザベッタを通じて同じようにドン・カルロスが権利を主張できる.しかし,この北イタリア三公領については女子を通じた男子の継承権があるかどうかがはっきりせず,もしそれが認められなければ断絶後は神聖ローマ皇帝(これまた教皇との間で宗主権の争いがあるが)に返上されることになり,ここにもスペインとオーストリアの火種があった.

そして皇帝にはまた新たな課題があった.一七一三年に作成した国事詔書である.結婚後五年たっても子供ができないことに鑑み,カール六世は内密のうちに顧問官たちに国事詔書を呈示していたのである.オーストリア家領を不可分とし,カール六世に男子ができなくても女子が,先帝の子孫の男子よりも優先して相続するというものである(先帝ヨーゼフ一世には娘が二人あり,長女はザクセン選帝侯に,次女はバイエルン選帝侯に嫁いでおり,それぞれ男子があった).スペイン継承戦争の結果スペイン領を分割して領土を拡張したオーストリアのハプスブルク家は,今度は己の継承問題を抱えることになったのである.

一七一七年にようやく生まれたのが女子マリア・テレジアだったことで,国事詔書の重要性はますます高まった.

皇帝は一七二〇年から徐々に通知を進め,一七二四年に諸外国に通知した.直接利害が関わってくるザクセンとバイエルンはもちろん反対したが,各国ともこれを皇帝に対する外交カードとするつもりでおいそれと承知はしなかった.スペイン継承戦争で活躍した皇帝の懐刀オイゲン公子などは皇帝に「交渉ですと,陛下.よく訓練された軍隊と国庫いっぱいの金.この国事詔書を有効たらしめる交渉とはそれだけです」と言ったものだが,オイゲン公子もすでに影響力は下がっていた.

スペイン,オーストリア以外の関係各国もそれぞれに問題を抱えていた.

イギリスは前述のようにハノーヴァー朝に代わって王位を主張しているジャコバイトの問題があり,ジャコバイトに対する諸国の支援を封じ,ユトレヒト条約で認められたハノーヴァー朝を磐石のものとする必要があった.

オランダもオーストリア領となるネーデルラントの要所に自国の守備兵をおいてフランスに対する防壁とするものとされていたが,この件についてはまだオーストリアの合意を得られてはいなかった.

ブルボン陣営でもルイ十四世の死によってフランス・スペイン両国の関係は一変していた.ルイ十四世没後にフランスで実権を握った摂政オルレアン公は,スペインのフェリペ五世とはフランス王位継承権をめぐってのライバル関係となったのである.フェリペ五世はユトレヒト条約での放棄にもかかわらずフランスの王位継承をあきらめていなかったし,当のフランス国内でも聖職者を中心に宗教的に寛容なオルレアン公よりもフェリペ五世を望む気運があり,摂政政府に抵抗する勢力がスペイン王に介入を求めたことさえあったほどだった.ブルボン家の君主がスペイン王となることによるフランス・スペイン連合に対する危惧から始まったスペイン継承戦争だったが,代が変わってしまえばこんなものである.

以上がスペイン継承戦争後の国際関係を形づくる諸要因となる.

防壁条約(1715)

まずオランダがイギリスと共同してオーストリアとの交渉に当たることで,フランスの脅威に対する防壁を確保できた.

一七一四年十月,防壁条約締結のためにハーグやウイーンに派遣されたのは,スペイン継承戦争中,イベリア半島で皇帝カール六世とともに戦った仲のスタノップだった.これが即結果を生むことにはならなかったが,その後も交渉が続けられ,英蘭両国は一七一五年十一月二十五日(旧暦十四日)にオーストリアとの間で防壁条約を締結した.これに伴い,スペイン継承戦争後,オランダが一時的に管理していたオーストリア領ネーデルラントが正式に皇帝に引き渡された.

ウイリアム三世の時代には対フランス同盟の中心だったオランダは,スペイン継承戦争の痛手もあって急速に国際社会での地位を低下させていく.ジャコバイトの脅威にさらされ,ハノーヴァー選帝侯として北方戦争に参戦したジョージ一世は南ヨーロッパの安定化を急ぎ,この後はオランダの同意を待つことなく条約締結を進めがちになる

十五年の乱(1715-16)

防壁条約の調印後,オランダはただちにイギリスに兵を送り込んだ.ちょうどイギリスでジャコバイトの反乱が現実のものとなっていたのである.

この九月にスコットランドでジャコバイトのマー伯がジェームズ・エドワードを国王と宣言してハノーヴァー朝に反旗を翻したのである.

しかし,翌年二月には反乱は鎮圧された(『スペイン継承戦争』20章)

ちなみに,一七一五年の冬は異常に寒かった.テムズ川は氷結し,氷の上に店が出て馬車まで通るほどだった.数週間後の雪解けも突然で,朝は氷を渡ってウエストミンスターに出勤した法律家たちが午後には舟で帰ったとのことであるが,溺死者は出なかったという.

ドイツ人国王(1714-16)

ハノーヴァー朝はその最初の危機を乗り越えることができた.恐れられていたジャコバイトの危機が現実のものとなり,その上で退けられたことは新来のハノーヴァー朝に一定の安定感を与えたことだろう.

ハノーヴァー朝を開いた君主ジョージ一世については,英語を一言も話せず,閣議にも出席しないで,そのためにイギリスの内閣政治が発達したといった記述がされることがかつては多かった.だが,そのような単純なジョージ一世観は近年では見直されている.

まずジョージ一世の英語力だが,ウォルポールの息子ホレス・ウォルポールは父がブロークンなラテン語でジョージ一世と会話をしたと書き残しているが,研究者はジョージ一世も基本的な会話は英語でもできたことをさまざまな同時代の文書から指摘している.王に提出する文書はフランス語に翻訳しなければならなかったものの,治世後半では英語の文書を読み,自身英語でコメントを書き記すことさえあった.

また閣議に出なかったとするのも伝説で,ジョージ一世は治世を通じて閣議を主宰していたことをうかがわせる文書がいろいろとあるという.

またジョージ一世がハノーヴァーから連れてきた二人の女性メルジーネ・フォン・シューレンブルクとキールマンセッゲは当時からイギリスでは愛妾だと呼ばれていた.のっぽのシューレンブルクとでぶのゾフィア・シャルロッテ・フォン・キールマンセッゲは「メイポール」と「像女」として至るまでジョージ一世伝で繰り返し語られる有名な二人のうち,実はキールマンセッゲのほうはジョージ一世の異母妹なのであるが,国王と一緒の馬車に乗ったりする厚遇ぶりが誤解されたらしい.この点は十九世紀にはすでに指摘されていたにもかかわらず,長く言い習わされてきた記述を駆逐するには至っていない

ドイツの公国から大国イギリスの王位についた国王は,当然ながらドイツ人の寵臣の便宜をはかろうとする.それはかつてオランダ人のウイリアム三世が名誉革命で王位についたときにも見られたことで,議会はそれを見越してハノーヴァー家への継承を定めた王位継承法において外国人をイギリス貴族にすることはできないなどと定めていた.しかし,ジョージ一世は抜け道を見つけ出した.アイルランドがイギリスとは独立した王国であり,王位継承法が適用されないことに目をつけ,愛妾のシューレンブルクをマンスター女公爵とし,さらに一七一九年にはケンドール女公爵としてイギリスの爵位まで与えた.

キールマンセッゲのほうは一七一九年にレンスター女伯爵としてまずアイルランド貴族に,翌年ダーリントン女伯爵としてイギリス貴族になる.

外国人国王という偏見に加えてこうした例があったため,国民はジョージ一世を実際以上にイギリスを食い物にするハノーヴァー人と見てしまうのだった.

寵臣の問題ばかりではない.ハノーヴァー選帝侯がイギリス国王となったことで,イギリスはハノーヴァーの利害に巻き込まれることにもなった.当時,スウェーデンとロシアのバルト海における覇権争いを軸として北方戦争(一七〇〇〜二一)が進行中だったが,一七一五年暮れにハノーヴァーがスウェーデンに宣戦布告していたのである.ジョージ一世はスペイン継承戦争で実証されたイギリスの強大な軍事力も利用したかったが,ハノーヴァーと違って君主の行動が議会からいろいろと制約を受けるイギリスではことはそれほど簡単ではなかった.

ジョージ一世にとって大切なのはあくまでもハノーヴァーだった.ジョージ一世はハノーヴァーに一時帰る意向を示した.

ハノーヴァーにしてみれば君主をイギリスに取られることは遺憾なばかりでなく,活力をそぐことにもなり,イギリスに渡る際のジョージ一世はハノーヴァーの民衆に惜しまれつつの出発となった.ジョージはハノーヴァーにはたびたび戻ってくることを約束し,ハノーヴァーの宮廷には孫フレデリックを残したばかりでなく,ジョージの肖像を置いてそれまでどおりの宮廷の日常を維持させていたのだった.

イギリスの王位継承法では,国王は議会の許可なくイギリスから出ることができないと定められていたのだが,この規定は即位して二年にもならない一七一六年に,十五年の乱終結時のハノーヴァー朝支持ムードのなかで早くも撤廃された.国王の不在はジャコバイトを勇気づけかねないとする危惧をよそに,ジョージ一世は一七一六年七月に母国に帰った.

イギリス国内では国王は戻ってこないつもりではないかとの観測もあった.ハノーヴァーを訪ねた口さがないピーターバラ伯は国王がすっかり腰を落ちつけているのを見て,イングランドの王位を継承したことなど忘れてしまっていると思ったと書いたほどだった

ハノーヴァーをこよなく愛するジョージ一世としては毎年でも母国に帰りたかったことだろう.しかし,ウイリアム三世が名誉革命後,ほぼ毎年オランダに帰っていたときには大同盟戦争の指揮をするという立派な名目があった.ジョージ一世についても,大陸での外交交渉のためにハノーヴァー行きが望まれることもあったにしても,結局は実際に大陸に出かけるのは,一七一六年,一七一九年,一七二〇年,一七二三年,一七二五年,一七二七年の六回のみとなる.ジョージ一世のハノーヴァー滞在中,イギリスの重要な外交交渉がしばしばハノーヴァーで行なわれることになる.

ハノーヴァーとイギリスの同君連合を実現したジョージ一世は,実は即位後早々に両国の分離を考えていた.君主の不在はハノーヴァーにとってはマイナスだし,北方戦争の講和時にスウェーデンからブレーメン,フェルデンを獲得した(一七二〇)ようにイギリスのパワーを背にすることがプラスになることはあったものの,へたをすればハノーヴァーがイギリスの属国になり下がるおそれもあった.イギリスにとってもハノーヴァーと分離すれば「外国人国王」の批判は目立たなくなるはずだった.二十世紀になって発見されたその遺書は,十五年の乱が終わったばかりの一七一六年二月に書かれたものである.

分離といっても息子ゲオルク・アウグストや孫フレデリックよりあとの,まだ生まれていない代での話である.フレデリックに男子が二人あれば弟のほうがハノーヴァーを相続する,男子が一人ならイギリス王位を相続し,ハノーヴァーはヴォルフェンビュッテル系が相続するという構想だった(一般にハノーヴァー家として知られているのは正式にはブラウンシュヴァイク・リューネブルク家であり,このブラウンシュヴァイクの本家筋がブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル家である).

問題はこのことが長子相続制を破る形になることだった.ハノーヴァーは一六九二年に選帝侯位を獲得したが,選帝侯家は長子相続制をとることが義務づけられているのである.これについては一七二〇年代に皇帝にはたらきかけて,同意を勝ち得ることができた.

ジョージ一世は遺書をカンタベリー大主教に託し,皇帝,ヴォルフェンビュッテル家にも写しを預けていたのだが,ジョージ二世は即位時にカンタベリー大主教から渡された遺書を握りつぶした.一方,皇帝,ヴォルフェンビュッテル家の写しは外交駆け引きによって取り返すことに成功し,ジョージ一世の同君連合解消の構想は日の目を見ることがなかったのである.

フレデリック自身は死の直前に息子(ジョージ三世)に遺書のことを話すが,結局両家が分離するのはイギリス王位を女性のヴィクトリアが継承するとなるときのことになる.

皇太子ゲオルク・アウグスト(1716)

ジョージ一世が一七一六年七月にハノーヴァーに発つ際,皇太子ゲオルク・アウグスト(英語読みでジョージ・オーガスタス)を摂政とすることが当然期待されていた.ところが,ジョージ一世は息子とは犬猿の仲だった.息子がかつて,不義をして離縁された妃ゾフィア・ドロテアの肩をもったためなどと言われている.

いずれにせよ,そんな息子に大権を預けるつもりはさらさらなく,皇太子には先例をさがして王国守護兼総督というものものしいばかりの称号が与えられた.かつて十四世紀に黒太子エドワードに使われて以来の称号である.国王が皇太子に与えた訓令書はその権限を大幅に制限し,重要なことはすべてハノーヴァーからの指示に基づくとするものだった

国王と皇太子の不仲はさまざまなところに影響を及ぼしていた.

この五月にスペイン継承戦争でめざましい活躍をしたマールバラ公が発作により執務できなくなったが,ジョージ一世がマールバラの辞任を認めなかったのは,皇太子が後任の座を要求してくることをおそれてのことと言われる.一方,実際の職務はマールバラの腹心カドガンが引き継ぐことになったが,マールバラのライバルを自任していたアーガイル公はそれが不満だった.このアーガイルが皇太子と親しかったため(そもそも皇太子がアーガイルと接近したのは国王の信を得ているマールバラのライバルだからだった),六月,国王はアーガイル公の皇太子付き寝室侍従長とスコットランド軍の指揮の任を剥奪した.国王の留守中に不穏な動きをすることを封じるためである

皇太子としてはいかに不満でも,父の弟のエルンスト・アウグストに摂政をさせると脅されれば引き下がらざるを得なかった

しかし,権限は与えられなくとも,皇太子は父親の不在中に国民の人気を得ることに成功した.皇太子妃キャロラインのおかげもあるが,愛想ということを知らない国王と違ってサービス精神旺盛な皇太子ならではのことではあった.イギリス人を褒め,イギリス人らしいと言われるのが何よりうれしいなどと公言するのだった.

皇太子夫妻は夏の間ハンプトン・コートに滞在した.スタノップに国王の早期帰国を促していたウォルポールらは八月後半ごろから皇太子夫妻の愛顧を得るようになっていった.ウォルポールなどは週に三回は訪れ,タウンゼンドも皇太子につききりだった.

暮れにはドルーリーレーンの劇場で観劇をしていた皇太子の暗殺未遂事件があり,その際の落ちついた行動も皇太子の人気を高めた

この十一月には皇太子妃キャロラインは死産というつらい経験をしたものの,まずは順調なイギリス生活のスタートだと言えた.

英仏協調と三国同盟(1716-1717)

スペインとオーストリアやフランスとの間に火種が残るなか,ヨーロッパの安定に向けた交渉の軸になったのがイギリスだった.イギリスはオランダとともに,オーストリア,フランスも含めた安全保障体制の構築を目指していたが,イタリアや海外植民地における皇帝の要求はあまりに大きく,当面オーストリア,フランスとはそれぞれ別個に交渉を進めざるを得なかった.一七一五年十一月にイギリス,オランダがオーストリアと防壁条約を結んだのはその第一歩だったが,その後イギリスはオランダをさしおいてフランス,オーストリアと国際的な安全保障の枠組み作りを進めるようになる.

イギリスとオーストリアは一七一六年六月五日(旧暦五月二十五日)に急遽ウエストミンスター条約(ラテン語)を結んで相互防衛を約した.皇帝としては,イタリアの領土をスペインから守るのにイギリス海軍の協力が欠かせなかったのである.この条約は当初オーストリアに有利なものだったが,イギリスは一七一七年十二月の追加条項で,スペイン継承戦争中に約束しながら未払いになっていた資金援助の支払いを履行するのと引き換えに,王位僭称者をドイツやオーストリア領ネーデルラントに迎え入れないことを皇帝に約束させることができた.

対フランス関係でも進展があった.スペイン継承戦争終結後のイギリスの大きな問題の一つは,それまで敵国だったフランスとの協調路線だった.イギリスの王位僭称者へのフランスの支援の可能性を断ち切る必要があったばかりでなく,北方戦争でスウェーデンとの戦いに加わったハノーヴァーの観点からも,一刻も早いフランスとの同盟が必要だったのである.一方,フランスにとってはルイ十五世に万一のことがあったときにオルレアン公のフランス王位継承を保証するために英仏同盟が必要だった.スペイン王フェリペ五世はスペイン継承戦争の講和条約でフランス王位継承権を放棄したとはいえ,いまだフランスの王位継承に未練を残していたのである.

オランダの仲介で一七一六年春には交渉を進める気運が高まった

ジョージ一世はハノーヴァーに帰る際に,外交に秀でるスタノップを伴っていた.フランス使節デュボワ神父はハーグで偶然を装ってスタノップに会い,その後,ひそかにハノーヴァーを訪れ,内密に交渉が続けられた(公式な英蘭仏の交渉はハーグで行なわれており,ホレス・ウォルポールがイギリス代表だった).

ハノーヴァーでの話し合いから生まれた予備条約がロンドンに送られた.オランダをさしおいて英仏二国だけで先行調印することが打診されたが,タウンゼンドはあくまでもオランダと共同歩調をとる考えだった.しかし,ジョージ一世は一刻も早い英仏同盟の締結を求めていた.北方戦争でスウェーデンを相手にしているハノーヴァーは,この秋には同盟国であったロシアとの関係が悪化していたのである.

一七一六年十月九日,ジョージ一世の命令によりスタノップは英仏同盟に調印し,十一月二十八日には公式にハーグで調印が行なわれた.この条約では,ユトレヒト条約に従った両国の王位継承が確認された上に,南フランスのローマ教皇領アヴィニョンに滞在していた王位僭称者ジェームズ・エドワードをイタリアに退去させることも決められた.この条約については伏せたままオランダに対して若干の譲歩がなされ,一七一七年一月四日(旧暦では一七一六年十二月)に英仏蘭の三国同盟が締結された

これにオーストリアを加えた四国同盟により南ヨーロッパの平和を確保することが次の外交目標となる.

タウンゼンド罷免(1716)

しかし,こうした外交方針についてホイッグ政府は一枚岩でなく,英仏同盟の調印から半年もたたずして政権改造にまで発展することになる.

その端緒となったタウンゼンド罷免についてはさまざまな側面がある.

その第一は同盟交渉においてタウンゼンドが(そして国務次官としてタウンゼンドの下で直接交渉にあたったホレス・ウォルポールも)オランダとの共同歩調にこだわったため,英仏同盟の締結が遅れたことである.タウンゼンドもフランスとの同盟そのものは賛成していたのだが,ジョージ一世がフランスとの同盟を固めてドイツに進出してきたロシアに備えようとしているのに対し,タウンゼンドはロシアの脅威は一時的との考えで北方戦争の和平を進めることを主張していた.これがジョージ一世とタウンゼンドの相違の最も根本的な点だった

そしてロンドンに残ったタウンゼンド,ウォルポールの二人と,ハノーヴァーに行ったスタノップ,サンダーランドとのライバル関係も国王のタウンゼンドへの不信感の増幅に寄与した.

こうしたホイッグ内部の対立は,国王と皇太子の反目というハノーヴァー家の特殊事情が加わって苦いものとなる.国王の留守中の皇太子夫妻の言動はボトマーによって国王に逐一報告されていた.皇太子に近づいたウォルポール,タウンゼンドの動静についても同様である.

サンダーランドはタウンゼンドやウォルポールがアーガイルや皇太子と組んで国王に反する行動をしていると国王に吹き込み,特にタウンゼンドは三国同盟締結を遅らせようとしているとされた.のちにタウンゼンドが国王が海外で冬を過ごすときには摂政の権限を増すべきと手紙に書いたことも,サンダーランドの讒言を裏づける形になってしまった.

一七一六年十二月四日(旧暦),ジョージ一世はタウンゼンド罷免を命じ,スタノップはタウンゼンドへの伝達をウォルポールに依頼する手紙を書いた.スタノップはタウンゼンドがおとなしくアイルランド総督への転任を承服すればホイッグ政府の団結は守れると考えていたのだ.

その後,ウォルポールのとりなしを受け,スタノップは,半年か一年辛抱したら適当なポストを用意すると妥協してきたので,タウンゼンドは現地に赴任しなくていいことを確認した上でアイルランド総督への転任を承知した.

こうしてタウンゼンドを更迭しつつも,タウンゼンド,ウォルポールの両名が野党に走ることは防ぐことができた.宮廷はハノーヴァーから戻り,表面上はホイッグ政府の団結はそれまでと変わらないかに見えた.

スタノップ政権(1717)

タウンゼンド,ウォルポールも当初は政府に協力的だった.スウェーデン大使がジャコバイトと陰謀を企てたことが明るみに出ると,その逮捕(一月)にも賛成した.しかし,二月二十日に議会が始まってスウェーデン貿易の禁止が討議されるようになると,たちまち政府との間の溝が明らかになった.

皇太子も父王への反抗的な態度をとっていた.議会(皇太子はケンブリッジ公爵として上院議員でもあった)ばかりでなく閣議にも出なくなり,イギリス国民の歓心を買おうと非国教徒の抑圧法案の撤回に反対して見せたり,「〔ハノーヴァーがスウェーデンと争っていた〕ブレーメンやフェルデンなど何とも思わない」と発言したりして父親の政策と真っ向から対立する姿勢を明らかにするのだった

二月末,スタノップが皇太子妃キャロラインを訪れて皇太子の考えを改めさせるよう要請するが,これも不発に終わった.スタノップが王室文政費のうちの皇太子の分とされている一万ポンドの固定額をやめると脅したのにもキャロラインは動じず,皇太子を誘惑するなら義父の巨大ダイヤモンドも加えてはと皮肉で答えるのだった(スタノップの妻の父トマス・ピットのダイヤモンドについては後述).さまざまな立場からさまざまな和解の試みがなされたが,みな失敗に終わった.

スタノップが議会でスウェーデンに対する強硬策を主張したときには,ウォルポールも支持演説をしたものの,それは短く,熱もはいっていなかった.しかも,四月八日の投票ではウォルポール本人はともかく,支持者たちはこぞって反対にまわった.皇太子の支持者も同様だった.翌日には政府の多数はわずか四票になった

タウンゼンドにいたっては毎年更新が慣例となっている軍律法に自ら反対票を投じた.この結果,タウンゼンドはアイルランド総督を罷免され,第一大蔵卿ウォルポールも辞任した.ポール・メシュエン,ウイリアム・パルトニー,デヴォンシア公爵といった友人や,ウォルポールのパトロンである大御所オーフォード伯も辞任した.国王も下院指導者としてのウォルポールの実力はよくわかっており慰留したが,ウォルポールの意志は堅かった.

一七一〇年にホイッグ閣僚が一人また一人と地位を追われてホイッグ政権が倒されたときには,前世代のホイッグは共同して抗議することはしなかった(『スペイン継承戦争』14章).このたびのウォルポールの行動は,閣僚が個々に君主に仕えるのではなく,内閣が一体として責任をもつという姿勢の現われだったと言える.

結局,ウォルポールの第一大蔵卿としての職務は一年半でしかなく,そのうちの数か月は病で政界の中心から離れていた.しかし,この短い任期の間にウォルポールは財政のなんたるかを学び,改善に向けての着想も得ていた.己の天職を知ったのだった.

以後,ウォルポールは政権復帰を賭けて強力な野党活動を展開することになる.しかし,共に下野したホイッグは少なく,野党といえばトーリーが大半だった.ウォルポールとしては難しい選択を迫られることになる.

スタノップは第一大蔵卿兼財務府長官となった.サンダーランドはタウンゼンドの後任の国務大臣(北部担当)となった.相棒の国務大臣(南部担当)として文人アディソンが起用されたことは人材難という側面もあったことは否めなかった

減債基金(1717)

ウォルポールは辞任したとき,ちょうど昨年来練っていた財政改善案を議会に提出しようとしていたところだった.スペイン継承戦争中に国庫の債務はふくれあがり,しかも戦争が終わって金利が下がっても戦時中の高利の固定金利に縛られていた.そこで減債基金の設立による国家債務の削減が計画されたのである.これはオランダなどに先例はあるが,イギリスでは初の本格的な試みだった.

ウォルポールの財政改革案は,五パーセントの金利で資金を調達し,利払いが軽くなった分で減債基金を設立し,従来の負債(償還可能なものは一部であるが)を転換ないし償還するというものだった.スタノップ政権はこれをほぼそのまま議会に提案した.

法案にはウォルポールも賛成演説をしたが,スタノップが在任中のウォルポールについて悪しざまに言ったことで激論となる一幕もあった.

ウォルポールは法案成立まではおとなしくしていたものの,以後,トーリーと組んで野党活動をする姿勢を明確にし,それまで自分が主張してきたことも含め,政府批判を続けるようになる.

ウォルポールの野党活動(1717)

一七一七年五月,下院でパルトニーが,十五年の乱においてオランダから援軍を呼び寄せた際にカドガンによる公金着服が行なわれたことを指摘した.当時にあっては公金着服はめずらしいことではなく,その気になれば誰でも告発対象にできるようなもので,こうした告発は往々にして党派的な意図から出るものだった.ウォルポール自身,スペイン継承戦争末期にそのような批判を受け,ロンドン塔に入れられたこともあったくらいだから,そうした党派的な告発合戦の不毛さは承知していたはずだったが,今やウォルポールは政府を批判するためには何でもするつもりになっていた.カドガンは結局は無実となったものの,その差は小さかった.この一件は,スタノップにこの先の政権運営の困難を予想させるに十分だった.

次いで持ち上がったのはオクスフォード伯の弾劾問題である.オクスフォード伯はスペイン継承戦争末期にトーリー政権を率い,強引な形で戦争を終結に持ち込んだ張本人だったが,ハノーヴァー朝になってホイッグが返り咲くと弾劾されてロンドン塔に入れられていた(『スペイン継承戦争』17,20章).オクスフォード伯とともにトーリー政権を担ったボリングブルック子爵は大陸に亡命して十五年の乱の当時はジャコバイトに荷担したのに対し,オクスフォードは逃げも隠れもしないと言って収監に甘んじていたのだが,その後一向に裁判が始まらないのに業を煮やし,この五月二十四日にすみやかに裁判を進めるよう上院に嘆願したのである.

もともと下院がオクスフォードを弾劾したときの調査委員会はウォルポールが座長を務めていた.このたびもスタノップの意を受けてその任についたものの,実際には会合に出ず,手を組んでいるトーリーのうらみを買うことを避けた.一方,トーリーのハーコートはタウンゼンドの支持も得て下院の弾劾手続きに干渉する動議を上院で通過させ,下院の反発を招いて膠着状態にすることに成功した.こうして七月一日,上院はオクスフォードの弾劾を却下した.

議会閉会のめどがたつと,スタノップはマホン子爵となった.スペイン継承戦争中のミノルカ島のマホン港攻略を記念する称号である.実はこれもウォルポールの野党活動のあまりの激しさに,スタノップが上院に移るか辞任するしかないと国王に強く訴えた結果だった(翌年にはスタノップ伯爵となる).

ダイヤモンド・ピット(1717)

一七一七年,トマス・ピットと二人の息子がドーヴァー海峡を渡ってカレーに上陸した.フランスの摂政オルレアン公に売却する巨大なダイヤモンドを自ら運んできたのである.

トマス・ピットは無許可の東インド貿易で巨利を上げ,しまいには取り締まりをあきらめた東インド会社からマドラスを任されて(在任一六九八年七月〜一七〇九年九月)成功を収めた人物で,最初のインド成金の一人だった.

このピットのもとに一七〇一年に四一〇カラットもの巨大なダイヤモンドの原石が持ち込まれた.ピットはこれを四八〇〇〇パゴダ(約二万ポンド)で買い取り,ロンドンで一四〇カラットのクッション型にカットさせた.研磨には五〇〇〇ポンドかかったが,破片とくずの値打ちだけでそれを補って余りあった.

一七一四年にハノーヴァー朝が成立するとピットはこれを国王ないし皇太子に売却しようとしたが話はまとまらなかった.これがスコットランド人財政家ジョン・ローの仲介でフランスの摂政オルレアン公に一三万五〇〇〇ポンドで売却する話がまとまった.こうして一七一七年,トマス・ピットが自らダイヤを携えてカレーにやってきたのである.

ピット・ダイヤモンドと呼ばれてきたこのダイヤは以後,摂政ダイヤモンドとして知られ,歴史を通じて今に伝えられることになる.一七二三年に戴冠したルイ十五世の王冠を飾る宝石ともなり,ナポレオンの戴冠式では剣のつかに使われた.その後もマリー・ルイーズ,シャルル十世,ナポレオン三世妃といった人たちの手を経てルーヴルに残っている.

このトマス・ピットがのちに大英帝国の礎を据えることになるウイリアム・ピットの祖父である.この年トマスは五十四歳,ウイリアムは九歳だった.のちの救国の士ピット(『アメリカ独立戦争』上)の舞台登場までは今少し待たねばならない.

トマス・ピットは成金として疎まれたものの,一七一三年二月,娘ルーシーをスペイン帰りのスタノップに嫁がせることに成功したことをはじめ,子供たちを名家と結婚させることはできた

ウォルポールの野党化で味方を必要とするようになったスタノップは,一時ジャコバイトに走って大陸で亡命生活を送っているかつての敵ボリングブルックともひそかに接触した.トーリーのボリングブルック赦免をちらつかせることでトーリー議員がウォルポールに取り込まれるのを防ぐ狙いだった.そのスタノップの意を受けて,トマス・ピットはパリでボリングブルックと会いもした.今や改心してハノーヴァー朝支持となっていたボリングブルックも,帰国の許しを得るためにスタノップからの接触を歓迎したが,この段階ではボリングブルックの帰国には至らなかった.

フランス銀行設立の試み(1716-20)

摂政オルレアン公にダイヤモンド売却の仲介をしたジョン・ローは,一七一六年五月に摂政から銀行設立の特許状を与えられ,翌一七一七年に「一般銀行」を発足させた.イタリアやオランダ,イギリスではすでに定着している銀行をフランスでも設立する初の試みだった.

ローは紙幣導入にも踏み切った.硬貨は為政者の都合で質が変わることがあるが,ローは銀行券を発行時と同等の硬貨で払い戻すことを保証し,このためローの銀行券は硬貨よりも好まれたほどだった.一七一七年四月の政令でこの紙幣が納税に使えることになるとその信用はいっそう高まった.

ローはさらに一七一七年八月,新大陸のミシシッピ川,オハイオ川流域を含む広大なルイジアナ植民地との貿易推進のための西方会社を立ち上げた.これは一七一九年三月にはヨーロッパ外との交易を一手に担うインド会社となった.

ところがプロテスタントの外国人に大きな権限をゆだねたことに高等法院が反発しており,それに対抗して摂政は一七一八年十二月,一般銀行を王立銀行として銀行券に国王による保証を与え,ローを総裁にした.

ローは国の負債の多くを引き受ける代わりに造幣局を任されるまでになった.ローは時の人だった.成り金が続出し,オルレアン公の母リーゼロッテは,御者が独立して御者を雇ったり,料理女が着飾って劇場に行って女主人を唖然とさせたりといったエピソードを書き残している.

ローはカトリックに帰依して一七二〇年一月にはフランス財務総監にまでなった.ローはイングランド銀行やイギリス東インド会社を破産に追い込むとまで豪語し,イギリス大使ステアを激怒させた.それでもイギリス政府は抗議するどころか,ローを刺激しないためステアを召喚したのだった.

銀行設立と紙幣発行は財政赤字と累積負債の処理が目的だったが,リーゼロッテも言うように一向に事態は改善していなかった.そこでローは新たなシステムを考え出した.国庫の負債は銀行券で清算し,その銀行券はインド会社への投資として吸い上げるというからくりである.投機熱が頂点に達したのがこの冬のことだった.

このころのリーゼロッテの手紙にはこんな一節がある(三月三十一日付).

「毎日のように紙幣についての新しい話を耳にします.金貨なんてすっかりお目にかからなくなって不思議な気持ちです.四十八年間というもの金貨をポケットに入れていたのに,今や銀貨ばかりです.今では三十ソルの値打ちがありますが,月がたつごとにその値打ちは下がっています.ロー氏がひどく憎まれているのは確かです」

巨利を得た人々がその利益を確定する動きに出たことで,銀行では硬貨が不足しはじめていた.硬貨の使用や保有が制限されたりしたが動きは止まらず,紙幣を銀器や宝石に換えようという動きが起こり,これも禁止されると人々は商品の買いだめに走った.もはやインフレがインフレを呼ぶ状態だった.

そして一七二〇年五月二十一日,銀行券の価値を徐々に減じて半分にするという政令が発布された.政令は二十七日にすぐ撤回されたものの,同時に現金の払い出しがストップされたこともあってパニックは収まらず,同日,ローは財務総監を罷免された.

リーゼロッテがイギリス皇太子妃キャロラインに書いた手紙にはこうある(六月二十一日付).

「フランスではもうこすり合わせるペニー貨二枚とありません.ただ(ごめんくださって,プファルツでの言い方をしますと)紙のおしりふきばかりが山ほどあるのです」(輿入れしてきたときにリーゼロッテが驚いたことに,フランス宮廷では紙でなく布が使われていたためわざわざ「紙の」と断わっている)

ローの身にも危険が及ぶようになり,ローは国外に脱出しなければならなかった.

洗礼式事件(1717)

イギリスに話を戻すと,一七一七年の夏,政権交代後の不安定な政情に鑑みて国王はハノーヴァー訪問をあきらめなければならず,ハンプトンコートで夏を過ごした.廷臣たちが離宮に集まるなか,ウォルポールの一派(デヴォンシア派ホイッグと呼ばれた)の不在が目についた.皇太子夫妻はやってきて大臣たちをほっとさせたが,皇太子妃はともかく,皇太子はあからさまに国王を避けており,父子の不和を際立たせることになった.

同じ夏の離宮でも国王が不在で皇太子夫妻がホストとなった前年とは雰囲気はうって変わったものになった.前年のような楽しさはなかったと詩人ホープらは口を揃えている

このころ,マールバラ公爵夫人サラが皇太子夫妻を訪ねたときのことを後年書き記している.子供の一人が鞭で打たれて泣きわめいていたのでサラはなだめようとしたのだが,皇太子が見とがめてブロークンな英語で教訓を垂れた.

「ああ,あなたたちイギリス人は誰も全然行儀が悪いです.小さいころに鞭で打たれなかったから」

サラは「殿下こそ子供のころ鞭で打たれたことなどなかったのでしょう」と答えたかったが,その場はこらえて言葉を飲み込んだという

一七一七年の暮れ,不仲だった国王と皇太子の対立を決定的にする事件が起こった.

皇太子夫妻はキャロラインの出産が迫り,国王より先にハンプトンコートからセントジェームズ宮殿に戻っていた

十月二十日に皇太子妃キャロラインはめでたく男児を上げたのだが,国王は名親の一人にニューカースル公爵を指定した(宮内長官として名親に立つのは慣例だった).皇太子は父に仕える者は誰であろうとみな毛嫌いしていたが,二十四歳のこの若い公爵の生意気さには特に嫌悪感を抱いていた.十一月二十八日に皇太子妃の寝室で行なわれた洗礼式の際,皇太子は公爵に詰め寄って拙い英語で「お前悪党.ばらしてやる」とすごんだ.

命を脅かされたと思い込んだニューカースルがこのことを報告すると,側近たちはこれを利用して野党一派を追い込むことにした.その助言を受けたジョージ一世は皇太子を軟禁状態にし,翌朝ハワード夫人が何も知らずに皇太子妃の部屋に行こうとしても通してもらえなかった

皇太子の母ゾフィア・ドロテアはハノーヴァー時代に不義のかどで離縁され,今もアールデンの城で幽閉の身にある.権力を握っているのが父王である以上,対立がこじれればどんな仕打ちをされるかわかったものではなかった.皇太子は反省の弁を申し立てたが,国王は聞き入れようとしなかった.

十二月二日,皇太子はセントジェームズ宮殿を追放となった.これまで不仲ながらも表面上かろうじて保っていた親子の関係は完全に破綻したのである.

キャロラインは産後の体調への配慮から残留を許されたものの,夫と共に退去することを選んだ.しかし,キャロラインにとってつらいことに,子供たちを伴うことは許されなかった.

皇太子夫妻はレスタースクエアにあるレスターハウスという館に居を構え,そこはジョージ一世のもとで栄達が望めない野党政治家のたまり場となった.なかでも有力だったのがウォルポール,タウンゼンドである.ウォルポールは皇太子以上にキャロラインが時局を見る目があるのを見抜き,しばしば話し合いをもつようになった

国王はレスターハウスに出入りする者は宮廷への出入りを認めない旨を表明し,その意向は諸外国にも公式に通知された.それがアムステルダムの新聞に掲載されたことで,ハノーヴァー王家の不和はヨーロッパ中が知るところとなった

さらに国王はボトマーに,皇太子妃やその文通相手オルレアン公妃の手紙を国王の使者に扱わせないよう命令した.これは盗み見がなかば公然と行なわれている一般の郵便に頼らなければならないことを意味していた.

(ちょうどこの十二月にリーゼロッテは親類にこう書いている.「手紙に封がされているなんて全く意味のないことです.水銀やら何やらの化合物があってそれを封蝋に押しつければ印を写し取ることができるのです.これを用意したら封蝋を破り,それが黒か赤か確認しておく.手紙を読み終わったらまたきちんと封をしておけばいいのです.それで誰も開封されたことはわからなくなります.息子〔オルレアン公〕はこのアマルガム(そういう名前だそうです)をつくることができます」

四月には大法官クーパーも辞任した.ウォルポールと親しいが,べったりではなく,独立した行動で知られる人物であり,ウォルポールの辞任にも同調せず今日まで留任していたのだった.表向きは健康上の理由というあたりさわりのないことになっていたが,皇太子夫妻の子供を両親から引き離すことを認められないと主張したためなど,さまざまに言われている.後任の大法官には,国王に親権があるとした首席裁判官パーカーがマクルスフィールド伯として取り立てられた.

洗礼式事件のきっかけとなった赤子ジョージ・ウイリアムは年が明けると重病になった.赤子はケンジントン宮殿に送られ,ここで両親が付き添うことが許されたが,二月に亡くなることになる.

軍律法(1717-18)

折しも十一月に開会した議会では軍律法の討議が開始されていた.イギリスでは常備軍は中央政府の専制につながるとして反感が根強かったのだが,名誉革命時に毎年軍律法を制定して議会の監督の下に軍を維持するというシステムができあがっていた.ウォルポールはこの軍律法の議論で政府を強く批判した.

十二月,一月と相次ぐ関連する採決で,政府案より規模の小さい額で決着した.ただし,ウォルポールとしても十五年の乱があったばかりで常備軍の完全廃止を言うようなことはしない.あくまでも軍の構成や規模といった各論での批判に終始し,軍律法そのものについては支持者ともども賛成した.

この時期のウォルポールの野党活動の特徴は,トーリーと手を組み,かつて自分が主張したことでさえも批判するような節操のなさがあった反面,国益の根幹に関わる部分では節を守って政府を支持していたことにある.ウォルポールは決してホイッグ政権の終焉を願っているのではなかった.自分が政権にとって有用であることを,自分が政敵として恐るべき存在であることを思い知らせるための野党活動だったのだ.

スタノップがこの会期から上院に移ってしまったとあって,下院でウォルポールに太刀打ちできる論客はいなかった.夏には政府もウォルポールを政権に迎え入れるオファーをしてきたが,ウォルポールとしては友人を見捨てて自分だけポストを得るつもりはなかった.

一七一八年三月,ジョージ一世は政権改造をした.スタノップを北部担当国務大臣に戻したのである(北部担当国務大臣と南部担当国務大臣はその時々の時局によって重要度が違ったが,国王が北方戦争に強い関心を示すこの時期では北部担当大臣が格上と言えた).南部担当国務大臣は経験不足のアディソンに代わってクラッグズとなった.

国務大臣ポストを明け渡したサンダーランドはハノーヴァー朝開始以来空位になっている寝室侍従長のポストを望んだが認められず,第一大蔵卿となった.スタノップが兼任していた財務府長官はエイズルビーとなった(第一大蔵卿が貴族の場合は財務府長官に平民を任命するのが慣例となっていた).

しかし,第一大蔵卿サンダーランドは必ずしも政府首班という地位ではなかった.国内的にはウォルポール,タウンゼンドに対抗する勢力の中心であり,議会への影響力も大きかったが,サンダーランドは外交は不得手であり,この時期,国王の信頼を得て政府を率いていたのはスタノップだった.

四国同盟(1718)

前述のようにカール六世はフェリペ五世のスペイン王位は認めていなかったし,ナポリと一体と考えるシチリアがサヴォイに割譲されたことも不服だった.対するフェリペ五世はスペイン領の分割が不満で,特にオーストリア領となったサルディニア島,サヴォイ領となったシチリア島に目をつけて異教徒対策の名目で海軍を整備していた.

行動を起こしたのはこのスペインだった.オーストリアがトルコとの新たな戦争(一七一六〜一八)にはいるなか,スペインに向かう宗教裁判所長がミラノで拘束されたことを口実に兵を出したのである.一七一七年七月にバルセロナを出たスペイン艦隊は八月二十二日にサルディニア島に上陸し,十一月末には占領した.翌一七一八年六月にも遠征艦隊が繰り出され,シチリア島の大半も手中にした.七月にパッサロヴィッツ条約でトルコ戦の勝利を確定させたオーストリアはイギリス艦隊の支援を借りてシチリアに部隊を派遣したものの,その動きはにぶかった

スペインが戦端を開いた直後に皇帝から同盟条約に基づく支援を要請されたイギリスは,外交努力でスペインを懐柔しようとしてロンドンに諸国の代表を集めて協議した.皇帝からハノーヴァー朝を確認されてからは,艦隊支援を約束する一方,フランスと和平案を練って皇帝に参加を促していた.皇帝がフェリペ五世の王位を承認し,スペインがフランス王位やイタリアへの未練を捨てることによってユトレヒト体制を安定させるという方向である

こうして一七一八年八月二日(旧暦七月二十二日),ロンドンでイギリス,フランス,オーストリア,オランダの四国同盟(ラテン語)が結ばれた(実は最後になって話を持ち込まれたオランダがスペインとの戦争に巻き込まれるのを嫌って参加しなかったので通称の「四国」同盟にはならなかったのだが).

一方,この八月には国務大臣スタノップがスペインに渡ってジブラルタルの返還まで持ちかけて和解を促したが,スペインは矛を収めようとしなかった.(地中海の要衝ジブラルタルを交渉材料として考えていたことは注目に値する.スタノップも国王もミノルカ島があれば地中海でのイギリスの利権を守るに十分と考えたらしい.)

四国同盟戦争(1718-20)

四国同盟締結を機にイギリスも軍事行動を開始した.一七一八年八月十一日(旧暦七月三十一日),ビング提督のイギリス艦隊がパッサロ岬(シチリア島南東端)沖でスペイン艦隊を破ったのだ.(実はビングへの訓令が四国同盟締結前であったことは議会で野党から批判されることになるのだが.

だがビング提督の勝利の報が届いても,スペインは矛を収めようとはしなかった.それどころかスペインにとって最大の脅威であるイギリスを牽制するためにジャコバイト支援に乗り出すことになる.折しも北方戦争でハノーヴァーと敵対するスウェーデンが英仏との対決姿勢を強めており,スペイン,スウェーデンが手を組んでジャコバイトを本格的に支援する可能性が広く信じられた.

この秋に議会が開会したときにはすでにスペイン大使はイギリスを退去していた.スタノップは議会開会の勅語の大半を来たるべき戦争に備える戦費の承認を求めることに費やした.オーフォードは上院で,ウォルポールは下院で政府を批判し,スタノップがマドリードまで行っておきながらスペインの説得に失敗したことを指摘したが,政府はどうにか戦費の承認を得ることができた.

十二月,イギリスはついにスペインに対する宣戦に踏み切り,一月にはフランスもそれに続いた

オルレアン公から軍の指揮を託されたベリック公は大西洋沿岸沿いにスペイン領にはいり,七月にフエンテラビア,八月にサンセバスティアンを攻略したのちカタロニア方面に目を転じ,ウルヘルを奪取したところで戦役を終えた.イギリスはコバム卿の遠征軍を送って十月に大西洋岸のビゴを奪取した.イギリス艦隊の支援を受けたオーストリア軍は十月にシチリア島のメッシーナを占領した.フェリペ五世の決意だけではスペイン軍は英仏両国の敵ではなかった.

ジャコバイトの脅威はどうなったかというと,スペインからの申し入れを受け,ローマに滞在していたジェームズ・エドワードは一七一九年三月にマドリードにやってきた.スペインは数千人規模のイギリス遠征軍をラコルーニャで待つオーモンド公のもとに送り出したのだが,嵐のためスコットランドに上陸できたのは一握りにすぎず,早々に撃破された.

敗退の報せを聞いたジェームズ・エドワードは,ローマに戻る前の五月,マドリードでかつてのポーランド王ソビエスキの孫娘と結婚した.この二人の子チャールズ・エドワードがのちに小僭称者としてステュアート家再興を賭けていま一度イギリス上陸を試みることになる.

英仏と皇帝は一七一九年十月,フェリペ五世が三か月以内に四国同盟の和解条件を認めなければイタリアでわずかにスペイン王子(ドン・カルロス)に認められることになっている三公領も取り上げると決めていた.一七二〇年二月になってフェリペ五世も折れて四国同盟の主張を認めてこれに加盟することとし,ハーグで講和した

これを機にオーストリアとサヴォイはサルディニアとシチリアを交換した.サヴォイ公は自領に近いサルディニア島を獲得し,シチリア王からサルディニア王となった.一世紀半後にイタリアを統一する王家の誕生である.オーストリアはナポリ王国と一体と考えていた念願のシチリアを手にすることができた.

しかし,スペインと皇帝の対立はまだこれで終わったわけではなかった.

寛容の復活(1719)

スタノップは非国教徒の支持を得るための施策をぶち上げた.十二月十三日,便宜的国教徒禁止法,分派防止法という非国教徒を制限する法律の廃止を提案したのである.

上院での第二読会の採決では皇太子はこれ見よがしに反対陣営に与したが,長老派の強いスコットランド人のリーダーであるアーガイル公は反対するわけにもいかず,法案は上院を通過した(ひそかに政府と交渉していたアーガイルは二月に王室家政長官に就任した).

法案が下院に回ってくると,ウォルポールはジレンマに陥った.賛成すれば手を組んでいるトーリーの反感を買う.かといって寛容はホイッグとしてのウォルポールの持論でもあり反対するわけにもいかない.これまでウォルポールは自分自身がかつて主張したことさえひるがえして政府批判を行なうこともあったが,各論では党派的な批判に走りながらも,基本原則は曲げておらず,賛成すべきところは政府案に賛成もしていた.だが,ここへきてウォルポールは今は政府攻撃に全力を挙げる時だと判断し,一月七日の下院の討議では皇太子もやってきて傍聴するなか,ウォルポールは反対論をぶった.だがそれも説得力がなく,法案はすみやかに下院も通過して成立した.

もともと便宜的国教徒禁止法と分派防止法はアン女王の治世末期の党派的行動から成立したものだった(『スペイン継承戦争』16,19章).今回の両法廃止は党派的な行き過ぎを是正する妥当なものといえ,審査法などによるイングランド国教会優位の体制は残しながら非国教徒にも一定の寛容を認めるという名誉革命後に確立した体制に回帰したことになる.

サンダーランドとスタノップは審査法も廃止する動きを見せたが,ウォルポールは慎重だった.国民感情を考えれば,国教徒でない者が公職につけないことを定めた審査法の廃止は,ホイッグ政府への強い反発につながるおそれがあった.

ウォルポールが政権を握ってからもプロテスタントの非国教徒だけでも審査法の対象外としようという声は強かったが,ウォルポールはいつも時期尚早としてかわしていた.いつになったら時期になるのかと詰め寄られたときには,ウォルポールは率直に永遠に無理と答えている.

しかし,政治的な計算から審査法を撤廃しようとはしなかったとはいえ,ウォルポール自身は寛容には賛成だった.毎年のように審査法違反で公職についている人を免罪する法を通過させることになる.現実主義のウォルポールは名を捨て実を取る形で一定の寛容を実現するのである.

貴族法案(1719)

この年のもう一つの大きな争点は貴族法案だった.これは貴族の数を定めて国王による無際限の創家を制限しようというものである.

スタノップとサンダーランドがこのような施策に乗り出した理由の一つには,ジョージ一世のドイツ人寵臣との間がしっくりいっていなかったことがある.与党内部でもスタノップらとハノーヴァー出身者という二つの派閥ができつつあり,このためハノーヴァー寄りの者が貴族に取り立てられることに歯止めをかけたかったのである.

そして同時に,一七一八年に体調不良を示した国王に万一のことがあって皇太子が王位についたときのために,上院での勢力を手中にしておくことが狙いだった.この法案によると,あと六家創家したのちは貴族の叙爵は断絶した爵位の補充に限られ,しかも,スコットランド代表貴族十六名に代わって政府の指名する二十五名が世襲上院議員となることとされていた.

これはもちろん,今上の国王大権にも関わることであるが,イギリスほど貴族の創家が簡単でない大陸の考え方になじんだジョージ一世には抵抗がなかったようだ.その上,不仲の息子が国王となったときに不自由すると思うと悪い気はしなかった.

サマセット公が二月二十八日に上院にこの法案を提案した.しかし,貴族を閉鎖的な集団とすることは貴族による支配を生むとの懸念があり,上院で廃案になった

この夏,国王は三年ぶりにハノーヴァーに帰った.一七一七年は政権改造後の政情不安のため,一七一八年は四国同盟戦争でスタノップが三か月も国を空けなければならなかったため,ジョージ一世はハノーヴァー訪問をあきらめた.しかし,この年は北方戦争の和解に向けた動きが正念場で,ハノーヴァー選帝侯が故国にいることがむしろ重要だった.

この間のイギリス国内の施政だが,前回国を空けたときに皇太子が幅をきかせたことにこりた国王は,今回からは施政官からなる摂政委員会に後事を託すことにした

一七一九年,皇太子は前年から借りていたリッチモンド・ロッジを購入した.テムズ川で簡単に行け,ハンプトンコートよりもロンドンに近いのが好都合だった.セントジェームズ宮殿の王女たちが公式な行事に参加するなか,皇太子夫妻はのけものにされていることが目立たないよう,夏をこのリッチモンドで過ごすようになる.

この夏,スタノップとサンダーランドはハノーヴァーで次なる手を考えていた.貴族法案の再上程によって上院,七年議会法の廃止によって下院での勢力を確保しようとしたのである.

ウォルポールのいる下院の反対は目に見えていたので,ことは秘密裏に運ばれ,十一月二十三日に議会が開会となると上院は一週間で貴族法案を第三読会まで通過させて下院に回した.無党派議員はまだ上京しておらず,反対は無理かと思われた.しかし,ウォルポールは断固として反対の論陣を張り,十二月八日の第二読会には多くの議員がロンドンに到着していた.

国務大臣クラッグズ(アディソンの後任)はアン女王がスペイン継承戦争講和を認めさせるために一時に十二名もの貴族を叙爵した(『スペイン継承戦争』16章)ことを大権の濫用として挙げ,この法案を認めた今上の度量の大きさを称えた.しかし,野党の抵抗も強固だった.春にウォルポールとともに反対のプロパガンダを行なった文人スティールは,このたびも国王や下院をさしおいて貴族寡頭制となる危険を指摘した.さらにウォルポールがだめ押しの演説をした結果,大差で法案は否決された.

しかし,いくらウォルポールとタウンゼンドが議会で得点を上げようとも,スタノップとサンダーランドが国王の信を得ている限り,政権交代の可能性はなかった.唯一の希望は,スタノップ,サンダーランドとジョージ一世のドイツ人顧問の間の溝だった.

和解(1720)

ウォルポールは国王やスタノップとの和解に向けて動き出した.

国王への餌は,六十万ポンドの王室債務の清算である.議会運営に長けたウォルポールならではの武器だった.元大法官のクーパーは王室がつくった負債を議会が穴埋めするのでは王室文政費として定額を支給している意味がないと抗議したが,下院を握るウォルポールの前には反対は無駄だとわかっていた.

父王と不仲の皇太子は必ずしもウォルポールの動きを歓迎していなかったが,権力を握っているのが父である以上,対立を続けるのは不利であることはわかっていた.皇太子はセントジェームズ宮殿に戻ることを拒んだが,それはお互いさまで,国王もこの点に関しては喜んで「譲歩」した.

こうして国王と皇太子を納得させると,一七二〇年四月,ウォルポールとタウンゼンドはベルンシュトルフに政権交代をもちかけた.自分たちが政権に復帰することと引き換えに国王に有利な北方外交政策を提案するという提案で,スタノップは王璽尚書に引き下がるか軍歴に戻るかし,サンダーランドは再びアイルランド総督になるという条件である.

このことを知ると,スタノップやサンダーランドは先手を打ってウォルポール,タウンゼンドに和解の手を差し伸べた.こういう展開を見越して意図的にリークされたものと思われる.

和解の方向が確定すると,ウォルポールらは連日デヴォンシアハウス(デヴォンシア公が名目上はホイッグ不満分子の指導者だった)に集まって皇太子が国王に提出する謝罪文を起草した.

こうして四月二十三日に国王と皇太子が和解するはこびとなった.

皇太子が参内する途上,セントジェームズ宮殿から帰る途中のキャロラインに会った.数日来,長女のアンが天然痘にかかっており,国王の許可を得てキャロラインは連日看病に通っていたのである.和解の件は急にまとまったらしく,参内する夫を見たキャロラインはアンの容態が急変したのかと案じたほどだった

国王はじかに息子を引見して謝罪を受け入れた.皇太子の退出のときには衛兵も回復された.レスターハウスに帰る皇太子の輿に付き従う国王衛士は和解を象徴していた.

しかし,その後も皇太子は父親との接触を避け,和解が政治家に促されてしぶしぶしたものであることをはっきりさせた.国王はプロイセン王妃となっている娘ゾフィア・ドロテアに,息子ゲオルク・アウグストが自分から和解を願ってくれていたらどんなによかったことかと書き送るのだった.一方,子供たちに関してはキャロラインは好きなときに訪れていいことになったものの,レスターハウスに引き取ることは許されなかった.表面上和解はかなったものの,父子の冷戦状態は何ら改善されていないのだった.

翌二十四日が政治家たちとの和解である.デヴォンシアが代表しての奏上にジョージは歓迎の辞をもって答えた

その後,ウォルポールが約束通り議会で文政費の穴埋めを通過させた.それも,船舶保険の特許状発行に対して保険会社から払われる金を財源とし,国民への負担なしでなしとげたのである.

これでウォルポール,タウンゼンドの政権復帰の条件が整った.六月十一日,改めてウォルポールは陸軍支払長官に,タウンゼンドは枢密院議長に就任して与党に復帰した.

スタノップやサンダーランドを現職から外すというのはどうやらこけおどしだったらしく,ウォルポール,タウンゼンドは比較的周辺的な地位にとどまった.一方,表向き和解をもちかけられたベルンシュトルフはいいだしにされたことになる.これはハノーヴァー人の側近の地位の低下を象徴していた.国王はすでにハノーヴァーの廷臣と少なくとも同様,あるいはそれ以上にイギリスの大臣たちに信を置くようになっていたのである.

しかし,本格的な政権交代とはならなかったため,このとき素通りされたパルトニーはのちにウォルポールの敵となるのだった

最大の懸案をクリアーしたことで,国王は六月にハノーヴァーに出発した

南海のバブル(1720)

国王やスタノップ政権が皇太子,ウォルポール,タウンゼンドと和解を果たした一七二〇年四月,南海会社法が議会を通過した.

元祖バブルをもたらしたものとして歴史に名をとどめてしまった南海会社だが,その端緒は決して怪しげなものではなかった.そもそもは国の財政赤字対策として一七一一年にオクスフォード伯が立ち上げたまっとうなプロジェクトだったのである(ホイッグ色の強いイングランド銀行の向こうを張るという政治的側面はあったにしても).これにより,一〇〇〇万ポンドにも上る国の負債(財務府証券などの短期借入金)の債権保有者が六パーセントの利子を将来の税収から保証されて南海会社の株主となった.南海会社はユトレヒト条約で勝ち得たスペインの中南米植民地との奴隷貿易独占権(アシエント)と年一隻の交易船派遣の運営をゆだねられた.スペインとの間の通商条約は一七一五,一七一六年に締結し直す必要があったものの,一七一七年にはついに最初の船が出港するまでになっていた(ウォルポールも一〇〇〇ポンド投資した).

しかし,国の財政赤字は改善せず,その一方,フランスではジョン・ローによる金融改革が成功してイギリスの資本も引きつけており,財政健全化が急務となった.こうした流れのなかで,南海会社が残っている膨大な国庫債務を引き受ける動きが出てきた.

南海会社は当初,イングランド銀行や東インド会社が保有しているものも含め,五〇〇〇万ポンドに上る政府債務の全体を引き受けると申し出たが,一七二〇年一月二十二日に下院に提出された法案は両社の引き受けている分を除外した三〇〇〇万ポンドを対象とするものだった.イングランド銀行も対案を出して争われたが,七五〇万ポンドの支払いを申し出た南海会社が指名を受けた.

一七一七年の減債基金では償還可能な一部の負債が対象となっただけだったが,この計画では,償還のきかない年賦金も含めて(スペイン継承戦争終結時点では,国庫の債務の最も大きな部類は個人に対する年賦金だった)南海会社が一手に引き受けることとされた.会社は国から五パーセントの金利を受けることが決められた.これにより国は一パーセント分もの利払いの経費を削減できることになった

一見すると南海会社の持ち出しのように見えるが,イングランド銀行も引き受けを狙ったように,ビジネスマンにはちゃんとした計算があった.引き受けた国庫債務の利払いのために指定された税収から将来にわたって収入が保証されるのみならず,そのような国の保証は資金調達市場でのこの上ない信用となった.こうした政府借入金の引き受けは一六九七年にイングランド銀行が一〇〇万ポンドを引き受けて以来,信用市場が逼迫しているときに政府が資金を調達する手法となっていたのだった

ただし,南海会社法は,年賦金証券保有者に南海会社の株式への転換を強制するものではなかったので,保有者が承知してくれるかどうかが鍵だった.だが収益の見込みをあおったこともあって,ふたを開けてみると南海会社の株は大人気となった.年賦金のような非償還債券も償還可能な債券もそれぞれ総発行額の約八割が南海会社の株に転換された.南海会社の株価はうなぎのぼりで,一〇〇ポンドの株が五月末には八九〇ポンドの値を付け,六月二十五日には最高値の一〇六〇ポンドに達した

マールバラ公爵夫人サラは「このプロジェクトはまもなく崩壊して無に帰すに決まっている」と確信しており,年賦金証書を南海会社株に転換するのを拒否していたが,こうした冷静な人は少数派だった.

南海会社の好調は投機ブームを呼び起こすことになった.まっとうなものから怪しげなものまで,ありとあらゆる種類のプロジェクトが雨後のたけのこのように立ち上げられては人気を博した.永久運動や錬金術といったものまで持ち出され,「多大な利が見込めるが誰もその内容を知らない事業を遂行する会社」といったとても信じられない会社にまで多くの投資家が群がった.皇太子も銅会社の総裁に収まり,ウォルポールらから警告を受けて引き下がったものの,まんまと四万ポンドの利益を上げることができた

政府も手をこまねいているわけにはいかず,六月二十四日に泡沫会社規制法を成立させて特許状のない会社の処罰をちらつかせ,これで会社の乱立はストップした.だが,このことは民衆の投機熱に水を差すことにもなった.人々は南海会社自身のブームも一過性のものであることに気づきはじめたのである.

ウォルポールは六月の最高値のころに南海会社の株を買って失敗したが,にわかの好況で他の投資で十分な利を上げることができた

八月,株価にはかげりが見えていたもののいまだ高水準で,夏の休暇でノーフォーク州ホートンに帰郷していたウォルポールは,知人に南海会社株の追加購入を依頼したほどだった.しかし,その矢先に留守政府を預かるタウンゼンドから届いた手紙には気がかりな一節があった.

「南海会社が,排除したばかりのバブル状態になっています」

八月下旬には七〇〇台だった株価は九月にはいると急落し,ウォルポールもロンドンに急行した.九月十九日には株価は三八〇にまで下がっていた.

この日,支援を求める南海会社とイングランド銀行,政府関係者の話し合いの場にウォルポールも出席して打開策を考えた.しかし,株価の下落は九月二十九日には一九〇と予想以上の速さで進み,当初の対策は無に帰した.ウォルポールはいったんホートンに戻って国王の帰国と議会の開会を待つことにした.政権中枢と距離をおくことが賢明と判断したのかもしれない.

全財産をつぎ込んだ多くの株主が破産した.投機に手を染めていない者も債務者の破産によって不良債権を抱え,連鎖的に破滅した.折しもフランスでは初夏にローのプロジェクトも破綻したところであり,英仏両国で時を同じくしてバブルが崩壊したのだった.

バブルの事後処理(1720-21)

南海バブルの崩壊後,一躍注目を集め,のし上がるのがウォルポールである.ウォルポールとしても,最初から危機を見通していたわけでもなかったが,事態が一向に改善しないなか,人々の目が徐々にウォルポールに向けられるようになった.ウォルポールは十一月の上旬にロンドンに到着した.

ハノーヴァー滞在中の国王は株の急落を知るととりあえず十一月の議会開会を決めたが,下落が止まらないのを知ると,急遽帰国の意を固めた.国王がスタノップやサンダーランドと帰国したのはウォルポールの上京直後のことだった

ウォルポールは知恵袋のジャコンブの起草した案をイングランド銀行に提示して,十一月二十八日には交渉の足がかりを得ることに成功した.南海会社の九〇〇万ポンドの資本金と政府から補填される年五パーセントの年賦金はイングランド銀行に移行され,九〇〇万ポンドの資本金に対する証券保有者は一二〇ポンドあたり一〇〇ポンドのイングランド銀行株を受けられるというものである.この計画が風説として伝わるだけで,南海会社の株価は一四〇から二一五まで持ち直した.

しかし,責任追及を求めるトーリーの攻撃は熾烈をきわめた.南海会社の理事をずた袋に詰めてテムズ川に投げ込むべきだといった声まで出るほどで,政府としても「我が国が現在おかれた不幸な状況の原因となった者」の処罰を盛り込む修正を計数採決なしで受け入れざるを得なかった.

トマス・ピットなども南海会社の理事の喚問を要求した.ウォルポールは信用制度の回復が先決であり,責任追及は紛糾を招いて改革を遅らせることになると力説したが,止めることはできなかった.

ウォルポールの主張は無政府状態やトーリー復権を避けるためもあったが,信用制度の再建を最優先するという態度は常に一貫していた.そのためには報復だとか借金の棒引きといったことを求める人情は頑としてはねつけなければならなかった.

議会が紛糾するなか,理事の喚問が予定されている前日の十二月十四日には株価は最低の一二〇を記録した.

ウォルポールは狂乱が収まるのを待って,十二月二十一日,事態収拾案を議会に提出した.しかし,代案がないため受け入れムードだったものの,審議は年をまたいで間延びし,成立後もたなざらしにされることになる

その一方,責任追及の手はゆるまず,南海会社の理事や役員が国外に出ることを禁じ,資産の目録を作成するといった提案がなされ,ホイッグのホレス・ウォルポールやフィリップ・ヨークなども賛成した

さらに,南海会社の会計主任がブラバントに逃走したことが判明すると下院は沸騰し,議員だった理事四名がロンドン塔送りになった.しかし,ブラバントが「歓喜の入市」という文書によって認められている特権のため,オーストリア領ネーデルラントの主権者である神聖ローマ皇帝も会計主任の引き渡しは認めず,野党側の追及は決め手を欠くことになる(実は国王がオーストリア領ネーデルラント総督のオイゲン公子にひそかに引渡しを拒むよう要請していたとも言われる).

議会では,二月四日,スタノップとウォートン公の間で非難の応酬があった.スタノップ自身にやましいところはなかったのであるが,演説中のスタノップは激しい頭痛に襲われ,翌日の夕刻,ホワイトホールの自宅で亡くなった.バブル問題での心労がたたったのだと言われた.スタノップのことをハノーヴァー家直参の側近以上に頼りにするようになっていたジョージ一世は,その死をことのほか悼んだ.

二月十六日には国務大臣クラッグズが天然痘の犠牲となり,政府は相次いで二人の中心人物を失ったのだった.

バブル問題の追及は続き,大蔵部書記官チャールズ・スタノップ(故第一大蔵卿スタノップと同年齢の親戚)が腐敗のかどで告発された.ウォルポールらの雄弁でかろうじて三票差で無罪となったが,人々は激怒し,ウォルポールは「かばいだて総監」の悪名を奉られた

財務府長官だったエイズルビーについては,一月にすでに辞任していたにもかかわらず非難の声は強かった.ウォルポールも人身御供と決めていたらしく弁護せず,エイズルビーはロンドン塔送りになった.

関心の焦点はスタノップ亡き今,政権の首班となったサンダーランドである.投機熱が狂乱をきわめた時期には国王とともにハノーヴァー滞在中だったにもかかわらず,サンダーランドへの風当たりは強かった.しかし,国王やその愛妾のお気に入りであり,宮廷に支持者の多いサンダーランドを犠牲にすることは危険だった.三月十五日,皇太子も傍聴に来たほどの盛況の下院で,ウォルポールはヘンリー・ペラムの力も借りて証人の矛盾を突き,政敵サンダーランドの無罪を勝ち取ることに成功した.

三月十六日には,翌日に審理を控えていた父クラッグズも急死した.息子を失った悲しみと責任追及を苦にしての自殺とされる

こうして南海バブルに対する非難の嵐のうちにスタノップ政権は瓦解した.いよいよウォルポールの出番だった.

イングランド銀行の力を借りての事態収拾計画そのものはウォルポールが考案したわけではないし,そもそも実行段階にまで至らなかった.むしろ,報復や補償を求める声に流されず,断固として信用回復に努めた姿勢こそがウォルポールの真価だった.

ウォルポール・タウンゼンド政権の成立(1721-1722)

一七二一年四月三日,ウォルポールが第一大蔵卿兼財務府長官となった.盟友タウンゼンドはスタノップの死後に国務大臣に就任していた.その一方,病死したクラッグズの後任カータレット,タウンゼンド昇進後の枢密院議長ボイルといった人事は,寝室侍従長でしかなくなっていたサンダーランドの影響力が衰えていないことを表わしていた.

第一大蔵卿の座をサンダーランドから勝ち得,大蔵部で将来のための権力基盤を固めることができるようにはなったものの,ウォルポールは政権を握る鍵と言われる機密費の采配はサンダーランドから取り上げることができなかった.サンダーランドは国王の信頼の象徴である寝室侍従長の地位も保持した.通信文を盗み見る機会のある郵政総監のポストはカータレットの弟とウォルポールの弟の二人制とされた.この時点ではまだ,サンダーランドは機密費,国王の信頼,そして大幅な官職推挙権を握っていた

一七一五年から一七一六年にかけてのウォルポール,一七一八年から一七二〇年にかけてのサンダーランドは第一大蔵卿のポストを占めてはいたが,「首相」と呼べる地位でなかったことはすでに見てきた.南海バブルの混乱が明けた一七二一年,ウォルポールの二十一年間に及ぶ第一大蔵卿の任期が始まり,これをもってウォルポールの「首相」としての任期の始まりとすることもあるが,この時点では少なくともウォルポールとタウンゼンドが政権の二本柱であり,サンダーランドの影響力も無視できなかった.

イースター休暇後に再開した議会は新政権の試金石だった.最初の一週間は相次ぐ採決で負け続けたが,ウォルポールは南海会社の理事たちの資産没収を穏健なものにすべく最大限の努力をし,引き延ばし戦術などを駆使して「かばいだて総監」の名を上げた.だが少なくとも,国王自身が南海会社の株で利を得ていたこともあり,こうした穏健路線は宮廷の好感を得ることになった.

ウォルポールはその後もしばしば採決で負けたが,主要な論点では動員できる票を総動員した.王室文政費の赤字対策として,王室からの給金や年金について一ポンドにつき六ペンス(二・五パーセント)減額するという宮廷御用議員の利害に反する法案さえ通過させたほどだった.

ウォルポールがホートンに帰郷すると,ウォルポール降ろしの動きが活発化した.その中心はサンダーランドである.サンダーランドは南海バブル問題でウォルポールに擁護してもらったことを恩義に感じるような人物ではなかった.機密費を押さえ,国王の信頼と官職推挙権を握って政府を率いる立場のサンダーランドであったが,下院を操れるウォルポールの実力を恐れてもいたのである.ウォルポールはタウンゼンドから情勢を伝えられ,急ぎロンドンに戻った(八月二十日ごろ到着).

最初の対決は大蔵部の人事だった.サンダーランドは急死した盟友スタノップのいとこチャールズ・スタノップを国王私財府財政官に取り立てようとした.これに対し,帰京したウォルポールは,南海バブル問題を蒸し返さないためにも七年議会法により今の議会が解散する三月までは延期することを強く主張した.国王もその考えを認めたので,サンダーランド,カータレットとしても反論はできなかった.そのときのカータレットの言葉「国王は第一大蔵卿が統治を行なうべきではないとの決意ですが,それを防ぐのは難しいのです」は,第一大蔵卿の首相としての地位がまだ公認のものではないことを示している.

十月に議会が開会になると,ウォルポールは七年議会法を廃止して今の議会を無期限で続けられるようにしようとした.サンダーランドが貴族法案とのからみで企てたときにはウォルポール自身が反対の論陣を張ったその政策である.だが,今やサンダーランドは自分やニューカースルが官職推挙権を握っている間に一刻も早く総選挙に訴えたいところで,ウォルポールの試みを難なく封じることができた.

ウォルポールもサンダーランドも表面上は友人づきあいを続け,議会でも政府としての協力は続けていた.下院の第一人者となったウォルポールも,国王に自分の有用さを示すためにも政府の法案を精力的に推進していた.しかし,両者の対立は周知のこととなっていた

一七二二年三月に始まった総選挙では,ウォルポールもサンダーランドもホイッグでありながら,互いの勢力伸長を恐れるあまり,選挙区によってはどちらもトーリー候補を支援することさえあった.

だがこの選挙の最終結果が明らかになる前の四月十九日,サンダーランドが胸膜炎で急死した.こうなるともはや(少なくとも内政では)ウォルポールの独擅場だった.カータレットは派閥をもっておらず,派閥を抱えているニューカースルは先頭に立つ度量はなかった.

前年から第一大蔵卿についていたウォルポールの地位は,サンダーランドの死によって政府首班と言えるものになった.有能でありながら国王からも多くの政治家からも疎まれていたウォルポールが政府を率いる立場につけたのは,スタノップ,サンダーランドというライバルの相次ぐ不慮の死によって実現したのだった.ただし,まだ外交分野では長年の盟友タウンゼンドが主導権を握っていた.この時期でのウォルポールの主導権は,ひとえに国際情勢が安定したおかげと言える.

この一七二二年四月の時点をもってウォルポールの首相としての地位が確立したとの見方もあるが,盟友タウンゼンドを排して内政・外交両面を握るのは一七三〇年のことになる.

ウォルポール・タウンゼンドの時代

王子誕生(1721)

一七二一年四月十五日,皇太子妃キャロラインは待望の男子を産んだ.長男フレデリックはハノーヴァーに残されもう四年も会っていない.洗礼式事件のきっかけとなった男子ジョージ・ウイリアムは半年足らずで亡くなっていた.今回は国王も干渉せず,ウイリアム・オーガスタスと名付けられた(のちのカンバーランド公爵).

前年長女アンが天然痘にかかって心配したこともあって,キャロラインはレディ・メアリー・ワートリー・モンタギューが東方から持ち帰って自分の娘に施した種痘に興味を示していた.一度天然痘にかかった人が免疫になることは広く知られており,弱い天然痘の膿を接種することで免疫をつくろうという試みである.

国王も種痘には意欲を示し,十分な試験ののち,キャロラインは二人の娘に接種させ,普及に一役買った.

ハノーヴァーのフレデリックについては,国王はもう自分で判断できる年だと持ち上げ,接種を受けるかどうかを決めさせたが,フレデリックが接種を受けることにすると喜んだ(一七二五).

しかし,当時はまだ医師や聖職者,大衆の間で非難する人が多かった.現に植えつけられた膿から罹患して死亡する例もあった.有名なジェンナーが乳搾りの女性に天然痘の痘痕をもつ人が少ないことからヒントを得てより危険の少ない牛痘接種を実施するのは一七九六年のことになる.

慶事は海の向こうのジャコバイト宮廷にもあった.一七二〇年,王位僭称者ジェームズ・エドワードと妃との間に早くも嫡子チャールズ・エドワードが生まれた(ジェームズ・エドワードは大僭称者,チャールズ・エドワードは小僭称者と呼ばれるようになる).ハノーヴァー朝への潜在的な脅威は次の世代にも続くことになったのである.

アタベリー陰謀事件(1722)

南海バブルによるイギリス国内の混乱と後継者誕生に勢いづいてジャコバイトの動きが活発化した.一七二二年五月,その陰謀がフランス政府からの通報により発覚した

ハノーヴァーを訪問する途上のジョージ一世を暗殺し,イギリス国内では大臣を拘束してロンドン塔送りにする,そしてフランスの支援を得て軍勢がイギリスに上陸するというものであるが,事前の情報のおかげで未然に防ぐことができた.

首謀者とされた高教会派の主教アタベリーは位階を奪われ,国外追放となった.

事件が一段落した一七二三年六月十日,国王はウォルポールの長男を貴族に叙したが,ウォルポール本人は叙爵の申し出を断わった.これまではロバート・ハーレーがオクスフォード伯になったときといい,ヘンリー・シンジョンがボリングブルック子爵になったときといい(『スペイン継承戦争』15,17章),閣僚として一定の貢献をしたら貴族に叙されることが栄誉と考えられてきた.しかし,貴族になれば上院に移らなければならなくなる.ウォルポールは下院にいてこそ行政の手綱を握り続けることができることを明確に意識していたものと思われる.アン女王の治世の初期に下院の金銭法案についての優位性は確立した(『スペイン継承戦争』p.131等).さらにアン女王の治世を通じて官職法案が穏健な形で決着した(『スペイン継承戦争』p.331, 395等)ことも下院の優位性を保証することになっていたのだった.

ウォルポールは一七二六年六月には一六六〇年以来初めて平民としてガーター勲章を受けることになる

ボリングブルック帰国(1723)

一七二三年夏,亡命の地に向かうアタベリーはカレーで偶然にも帰国するボリングブルック子爵と出会った.国を去る老主教は,許されて帰国する者に「私たちは交換されるのですな」と言った

ボリングブルックはアン女王の治世の晩年にオクスフォード伯とともにトーリー政権を担った人物である.しかし,あまりの強引なトーリー路線にジャコバイトの嫌疑をかけられて亡命し,議会には私権剥奪もされてその後実際にジャコバイトの十五年の乱に加担していた(『スペイン継承戦争』19,20章).反乱失敗後はジャコバイトとは手を切っていたが,それがこの五月にようやく許され,六月に帰国を果たしたのである.

ボリングブルックは二年ほどの間ウォルポールに協力を続けるが,一七二五年にウォルポールが上院議席回復に反対したため,政権復帰の道は閉ざされることになる.この年五十歳になるボリングブルックはウォルポールより二歳年下ながらすでに政権中枢での政治生命は終わっていた.

ジャコバイトもすでに過去のものとなりつつあった.イギリス国内では,十五年の乱ののち,ジャコバイトは国王誕生日になるとステュアート家の象徴であるオークの葉を付けたりはしたが,ハノーヴァー家への反抗といってもそれがせいぜいだった

政治的な見識を持つボリングブルックは,あくまでもハノーヴァー朝の枠内での野党活動によりウォルポールを批判する道を選ぶことになる.

一七二六年にウォルポールと決別したパルトニーと手を組んで週刊紙『クラフツマン』を創刊したが,大きな影響力を持つにはいたらなかった.野党として重きをなすのはボリングブルック自身ではなく,その助力も得てパルトニーがウインダム,ブロムリーといったトーリーまで引き込んで結成する反ウォルポールの愛国者グループだった

二重結婚の計画(1723)

アタベリー陰謀事件のおかげで一七二二も前年に続いてジョージ一世はハノーヴァー行きをあきらめねばならなかったが,一七二三年には久しぶりに母国に戻ることができた(タウンゼンドとカータレットも同行).

そしてこのたびのドイツ訪問においてイギリス・プロイセン両王家の間の二重結婚の計画が進められた.皇太子フレデリックをプロイセン王女ヴィルヘルミーナ(のちバイロイト辺境伯妃)と,次女アミーリアをプロイセン王太子フリードリヒ(のち大王)とめあわせようというものである.

この二重結婚の計画はプロイセン王太子妃ゾフィア・ドロテアがヴィルヘルミーナを生んだ一七〇九年に兄嫁であるハノーヴァー太子妃キャロラインに互いの子の縁組を提案したことにはじまる.一七一二年にプロイセンでフリードリヒが生まれると王太子妃はフリードリヒとキャロラインの下の娘アミーリアが年が近いということで二重結婚を提案した.キャロラインはもとより,夫ゲオルク・アウグスト,選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ,その母ゾフィアも賛成だった.プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムは無関心だったが,承諾はした.

しかし,その後の国際情勢はスペイン継承戦争が終わってもイギリスの王位継承,ジャコバイトの乱,四国同盟戦争,北方戦争と紛争が絶えず,当事者が幼年だったこともあって話が具体化することはなかった.それがこの一七二三年になって本格的な話し合いが始まることとなったのである.

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムと身重の妃ゾフィア・ドロテアはハノーヴァーを訪ねて八月に合意に達し,その後正式な条約に仕上げるため,ジョージ一世はタウンゼンドらを伴って十月にプロイセンを訪ねた.食事の席でジョージ一世が卒倒するという事件があったが,話し合いは進んだ.

しかし,議会への報告といった手続きのためまだ足踏みが続くことになる.

カータレット左遷(1724)

スタノップ,サンダーランドの死後,ウォルポール,タウンゼンドはサンダーランドの子飼いだった国務大臣カータレットの追い落としをはかっていた.閣僚中,ただ一人ドイツ語を話せるカータレットはジョージ一世の信を得ており,いまだ三十代前半ながら政府を率いることに意欲を見せるカータレットは,ウォルポール,タウンゼンドにとって獅子身中の虫だった.

一七二四年になって機会が訪れた.北方問題でカータレットが続けようとしたロシア封じ込め政策はロシアに接近していたスウェーデンに受け入れられず,タウンゼンドの宥和政策が勝った.カータレットはまた,ケンドール女公爵の信を得ているタウンゼンドに対抗してキールマンセッゲに取り入るため,フランスの貴族叙任に介入してフランス宮廷の反発を買った.これを機にウォルポール,タウンゼンドが攻勢に出てアイルランド総督として転出させることに成功した(四月).

後任の国務大臣はウォルポールの子分格の若きニューカースル公爵となった.その弟ヘンリー・ペラムは陸軍事務長官となった.

こうしてホイッグ政権をウォルポール,タウンゼンドの一派で固めることができた.

しかし,今回の一件はウォルポールが外交に目を光らせはじめたことを示してもおり,長年苦楽を共にしてきたウォルポールとタウンゼンドの間にも対立の萌芽が見られるようになった.

一七二四年はジョージ一世は特にハノーヴァー訪問の意向を示さなかった.隔年のハノーヴァー訪問と割り切ったらしく,一七二六年についても同様である.

一方,一七二五年にはハノーヴァー訪問をするが,この年は外交上の必要もあってイギリスの政治家からも大陸行きを勧められた.それは再び国際情勢から要求されたことだった.

マドリード条約とカンブレー会議開始(1721-24)

スペインが四国同盟の条件を飲むことで四国同盟戦争はひとまず収まっていたが(一七二〇年二月),それでもフェリペ五世もカール六世も納得したわけではなかった.

焦点は四国同盟条約に沿ってスペインのドン・カルロスに認められることになったイタリアにおける継承領土である.ドン・カルロスはパルマから輿入れしたフェリペ五世の後妻エリザベッタ・ファルネーゼの子で,母親を通じて(現パルマ公の次の)パルマ,ピアチェンツァ,(メディチ家断絶後の)トスカナという三公領の継承者だった.しかし,この三公領が帝国版図に組み入れられることがスペイン王としては許せなかったし,その一方,これらの守備兵を中立国の兵とすることは皇帝が渋っていた.

皇帝に条件を認めさせるため,一七二一年三月,フランスとスペインがマドリード条約を結び,六月にイギリスもこれに加わった.これは相互防衛のほかジブラルタルのスペイン返還も適当な代償を前提に含むものだった(スタノップ没後のイギリス政府もその可能性はまだ認めていた).さらに,秘密条項ではイタリアの三公領の守備兵を中立国でなくスペイン兵とすることも定められていた.

このマドリード条約の線に沿ってカール六世とフェリペ五世の間の最終的な和解を実現するために,一七二二年四月,カンブレー会議に諸国の代表が集まった

しかし,各国とも熱がはいらず席次の議論に終始し,カンブレー会議が正式に始まる一七二四年一月までに国際関係は大きく変わることになる.

ウイーン条約とハノーヴァー同盟(1725)

まずはスペインとフランスの関係である.四国同盟戦争後の話し合いではフランスはスペイン寄りの姿勢を見せ,それがマドリード条約の締結にもつながっていた.ブルボン朝を戴く両国は王室の二重結婚によってきずなを深めることとなり,ルイ十五世にはフェリペ五世の六歳の娘が,スペインのアストゥリアス公にはオルレアン公の娘が婚約者として送られた.ところが一七二三年末にフランスの次の王位継承権者であったオルレアン公が没して事態が一変した.王位継承を早く安泰にするため,ルイ十五世は前ポーランド王の娘(フランス語でマリー・レクザンスカ,原語でマリア・レシュチンスカ)と結婚し,スペイン王女は本国に送り返された.これでスペインが反発した.

一方,スペインに矛を収めることを強いた四国同盟の側にも不協和音はあった.

北方戦争の講和条約(一七二〇年のストックホルム条約)でハノーヴァーはスウェーデンがドイツに有していた領土ブレーメン,フェルデンを獲得していたが,神聖ローマ皇帝からの正式認定がなされておらず,その代償として皇帝は国事詔書の承認をイギリスに求めていた.

また,オーストリア領ネーデルラントにオステンド会社が設立され(一七二二年十二月),海外貿易に乗り出したことも,英蘭両国はウエストファリア条約に反するとして不満だった.一七二三年にはイギリス下院はイギリス人にこの会社への出資を禁じたほどだった

そしてこの時期,プロイセンが西南ヨーロッパの国際舞台に登場するが,それはオーストリアとの不和が原動力となっていた.まずポーランドやプファルツのプロテスタントを抑圧する皇帝とプロテスタントを奉じるプロイセンとの間の宗教上の相違があった.また,北方戦争の講和に関し,皇帝を蚊帳の外としたことやプロイセンがシュテティーンを獲得したことがオーストリアには不満だった.そしてプロイセンにとっての最大の関心はユーリヒ,ベルク公領の相続問題である.

こうした流れの中で,スペインと皇帝が接近した.カンブレー会議をさしおいて一七二五年四月三十日,二国間の直接交渉によってウイーン条約を結んだのだ(帝国側の署名者はオイゲン公子,ジンツェンドルフ伯,グンダーカー・シュターレンベルク,スペイン側はリッペルダ).これによってカール六世はフェリペ五世をスペイン国王と認め,フェリペ五世もイタリア,ネーデルラントにおける領土割譲も承認した.スペイン継承戦争の直接の当事者が和解したのは実にこの時点のことだった.

スペインはドン・カルロスによる三公領継承を認めてもらう代わりに(帝国封土とし,中立国の兵を入れることになった),皇帝の望む国事詔書を承認し(列強で初),帝国にもイギリスと同様の商業上の地位を与えることとした(つまり,オステンド会社がスペイン植民地と交易できるようになる)

この条約は,発表されていない秘密条項について憶測も交えてイギリスに伝えられた.秘密条約ではジブラルタル,ミノルカのスペインへの返還に向けて皇帝が仲介することとなっていたが,これが武力による奪還を含むのではないかとされた.さらにジャコバイト支援やハノーヴァー侵略といった内容も含んでいるのではないかと考えられた.

そんなウイーン条約に対する警戒感のおかげで,タウンゼンドが前年からプロイセンやフランスと進めていた交渉が進んだ.夏にジョージ一世がハノーヴァーを訪れると,プロイセン王もじきじきにやってきて交渉が進捗し,一七二五年九月,イギリス,フランス,プロイセンの間にハノーヴァー同盟が締結された(のちオランダ,スウェーデン,デンマーク,ヘッセン・カッセルが加盟).

スペインとオーストリアは十一月には新たな条約によって先のウイーン条約を攻守同盟として補強することでこれに応えた

このように,スペイン,オーストリアによるウイーン同盟,イギリス,フランス,スペインなどによるハノーヴァー同盟を中心として勢力地図が塗り替えられたように思われた.

ジブラルタル包囲戦とウイーン同盟,ハノーヴァー同盟の瓦解(1726-28)

だがハノーヴァー同盟とウイーン同盟はいずれも団結して本格的な攻勢に出るような結束はなかった.

まず,ハノーヴァー同盟からプロイセンが脱落した.

一七二六年,オーストリアの兵站部総監で外交家,そして根っからの陰謀家のゼッケンドルフがベルリンに送り込まれ,その口達者でプロイセン王に取り入った.その秋,狩りのシーズンで宮廷がベルリン南東三〇キロのヴスターハウゼンに移ったとき,ユーリヒ,ベルクの継承問題で譲歩をちらつかされるとプロイセン王はやすやすとハノーヴァー同盟から脱落した.一七二六年十月十二日のヴスターハウゼン条約である.いくら条約が秘密にされても,プロイセンの離反は明らかだった

一方,ウイーン同盟を結んだスペインとオーストリアも,利害を共にはできないことがすぐ明らかになった.

スペインはイベリア半島の一角のジブラルタルをイギリスから取り戻そうとしていた.イギリス政府が返還に前向きな姿勢を表明していたことはすでに述べた.スペインは一七二六年中にジブラルタル周辺に部隊を送って包囲戦の下準備を進める一方,イギリス政府にはジブラルタル返還を要求し,文書の写しを野党に送ってゆさぶりをかけた.イギリスの南海会社の商船がスペイン艦に拿捕されるという事件もあった

ここでさらに皇帝が本格的にスペインに肩入れすればハノーヴァーが危うくなる.タウンゼンドはヘッセン兵を雇うことにしたが,これが議会で批判を浴びた.ハノーヴァー同盟締結について事前に相談されなかったウォルポールも当初反対していたが,緊張が高まるにつれ考えを改めていた.ウォルポールは議会で,皇帝のオステンド会社に反対することによってハノーヴァーこそイギリスのために危険を冒しているのだと擁護した.結局,上下両院ともハノーヴァー同盟を支持し,ハノーヴァーが攻撃を受けたときには支援を約束した

タウンゼンドの外交方針を擁護したウォルポールだったが,このころからこれまで任せきりだった外交についても報告を要求するようになる.両名の対立はこの五月には外国使節が報告するまでになる

イギリスはスペインと戦争状態になり,地租も年価値一ポンドあたり四シリングという戦時の額に引き上げられた

一七二七年三月初頭,スペインはジブラルタル包囲戦を開始した.とはいえ,オーストリアからはジブラルタル奪還に向けてスペインを支援する具体的な動きは見られず,スペインからオーストリアへの資金援助もイギリスの海上封鎖に阻まれた.

フランスではオルレアン公没後に実権を握った平和志向のフルリ枢機卿がイギリスと協調してまずオーストリアを取り込む方針を推進した.

この結果,一七二七年五月三十一日,パリ予備条約でイギリスとオーストリアの和解が成立した.ウイーン条約(一七二五)においてそれ以前に英仏に認められた権利に反する部分は撤廃され,オステンド会社は七年間の活動停止とされた(イギリスがオーストリアの国事詔書を承認すれば解散することになった).ハノーヴァーによるブレーメンとフェルデン領有についても皇帝による正式認定も約束された.

ジョージ一世の最期(1727)

一時はウイーン同盟とハノーヴァー同盟(一七二五)によって新たな国際戦争が生じるかとも思われたが,パリ予備条約によってオーストリアとの関係も修復でき,ジョージ一世は二年ぶりにハノーヴァーを訪れることにした.

ドイツでの危機が回避されたことでプロイセンがハノーヴァー同盟から脱落したことも災難とはならずにすみ,ヘレンハウゼンでは娘のプロイセン王妃ゾフィア・ドロテアと会って二重結婚の計画を進めるつもりだった.これにはプロイセンとオーストリアが近づき過ぎないようにするという狙いもあった.

しかし,このたびの大陸行きはジョージ一世にとって帰らぬ旅となる.

一七二七年六月十四日(旧暦三日),セントジェームズ宮殿を出た国王はグリニッジで乗船した.風を待って出港し,十八日,下ライン川を少しさかのぼったオランダのスホーンホーヴェンに上陸した.

オランダ領内はオランダ兵の護衛がつけられる.ここからひたすら東へ進めば弟エルンスト・アウグストが司教を務めるオスナブリュック,さらに行けばハノーヴァーである.

アッペルドールンを通って十九日の晩はデルデンで過ごし,翌二十日の朝七時に出発した.

当時以来,多くの伝記で語られるところによれば,この際,ジョージ一世は一通の手紙を渡された.それは前年十一月に亡くなった元妃からのものだった.ジョージによってアールデンの城に三十年間も幽閉されたままその生涯を閉じた元妃ゾフィア・ドロテアは,死に臨んでジョージに手紙を書き,ジョージが次にドイツに来るときに渡すようにと忠実な下僕に託していたのだった.ゾフィア・ドロテアはその手紙で幽閉のうらみを述べたのち,自分の死後一年以内にジョージも死ぬだろうと予言していた.死者からの手紙を見たジョージはうろたえ,急に気分が悪くなり,うわごとのように「オスナブリュックへ」と言い続けたが,馬車がオスナブリュックに着いたときにはこときれていた.

――こういう劇的な形で語られることの多いジョージの死だが,同行者の記録に基づく歴史家の記述は次のようなものである.

二十日の朝七時に出発した国王は,一時間半後に用足しに馬車を降りたが,戻ってきた国王は顔色が悪く,右手の自由もきかないようだった.国王は気を失い,馬車を止めてたまたま後続の馬車にいた外科医に血抜きをさせた.馬車に戻った国王は左手で行程を続けるように指示したが,三十分もすると昏睡状態になった.途中,ノルトホルンでも降ろして介抱したが,とにかくオスナブリュックまで行くことにし,夜十時ごろ到着した.

着いたとき,ジョージはかろうじて左手で帽子を取って挨拶したが,これがジョージの最後の意識的な行動となった.まる一日正体なく眠り続けるジョージに医師の手当てが続けられたが,次の夜,日付が六月二十二日に切り替わった零時三十分から一時ごろ,ジョージは息を引き取った.イギリスの皇太子からの指示に基づき,ジョージの遺体はハノーヴァーに埋葬された.

ことほどさように,ジョージ一世については長く語り継がれてきたことが史実とかけはなれてしまっている点が多々ある.

長いことジョージ一世といえば,英語を一言も話せず,イギリスの王位継承にも無関心で,ハノーヴァー朝を開いてからも政治は大臣に任せきりという記述がなされてきた.そのおかげで立憲君主制が発達した……となるのであるが,現在ではことはそれほど単純ではないことがわかっている.

イギリスの王位継承について情勢が不透明だった時期にあからさまな野心は示さなかったとしてもイギリスの王位継承がハノーヴァーの威信を高めることは十分意識しており,それを確かなものにするために打つべき手は打っていた(『スペイン継承戦争』p.380)

ジョージ一世はその治世を通じて閣議には臨席していたし,政治においてもリーダーシップを発揮していた.外国人ということで人気はなかったが,祖国ハノーヴァーのためにイギリスの利害を犠牲にしたと言い切れることはほとんどない.北方戦争においてイギリスの資金と海軍力を背にブレーメンとフェルデンを獲得した際はハノーヴァー選帝侯としての利害が前面に出たものの,バルト海貿易を守ったことではイギリスの国益にもかなっていた.

また,将来のイギリスとハノーヴァーの分離を考える遺書でも長男はイギリスを継承するとするなど,イギリスを主要な領土と割り切る現実的な視点も持っていた.

英語についても,治世前半はイギリスの大臣が手紙をフランス語で書くことがあったが,これはジョージ一世が無関心どころか大臣間のやりとりを細かくチェックしていたことを示唆している.治世後半には一定の英語力もつけ,英語の文書を翻訳させずに読み,英語でコメントを書き込むまでになったのである.

このジョージ一世のもとでイギリスはスペイン継承戦争の強引な講和で傷ついた国際関係を修復し,戦争でなく会議において平和を保障する枠組み作りを進めることができたのであった.

ジョージ二世(1727)

一七二七年六月十一日(新暦二十二日)のジョージ一世の死がイギリスに伝わったのは十四日のことだった

この時代,閣僚の任免権は君主が一手に握っている.アン女王が没してジョージ一世が即位したときにはトーリーが一掃されてホイッグの世となったことは記憶に新しい(『スペイン継承戦争』20章)

ジョージ一世に重用されたウォルポールは皇太子の不興を買っており,ウォルポールの命運もこれまでとするのが下馬評だった.

ウォルポールはとにかく誰よりも先に皇太子に国王崩御を知らせようと思った.このとき,皇太子夫妻は例年のようにリッチモンドで夏を過ごしており,ウォルポールはチェルシーからリッチモンドまで馬を駆った.その強行軍のため馬を二頭も乗りつぶしたほどだった.

ウォルポールが着いたとき,皇太子は午餐のあとの習慣で昼寝の最中だった.

ウォルポールはなんとか女官を説得して皇太子が起きているかどうかを見に行かせ,女官がドアをそっと開けたところでわきをすり抜けてベッドのわきにひざまづいて言上した.

「陛下にお父上の薨去をお伝えしに参りました」

寝ぼけまなこの皇太子の反応は「悪い冗談だ」だったと伝えられる.皇太子ゲオルク・アウグスト――今やジョージ二世――は,ウォルポールにとりあえずスペンサー・コンプトンを通じて沙汰をすると言って引き取らせた.コンプトンはこれまで皇太子に忠実だった反ウォルポールの下院議長である.ウォルポールの命運も尽きたかと思われた.

ジョージと妃キャロラインはただちに首都に戻り,レスターハウスで各方面からの祝辞を受けた.

ジョージがまずしたことは,父王に隠して保存しておいた母ゾフィア・ドロテアの肖像を取り出すことだった.問題は今後の施政の手綱を誰にゆだねるかである.

ウォルポールは,父王に重用されることでジョージ二世の不興をこうむっていたが,早くから妃キャロラインの夫への影響力を見抜いてその信を得ていた.一七二〇年の父王との和解のように,いやなことをジョージに引き受けさせたいときには決まってキャロラインからの口利きに頼っていた.その一方,コンプトンはジョージの愛人ハワード夫人に接近するという失策を犯し,王妃の反感を買ってしまった.

もちろん感情問題だけではない.キャロラインもウォルポールの有用さを確信していた.

コンプトンはジョージ二世の枢密院に対する勅語を起草しなければならなかったが,途方に暮れ,ウォルポールに頼らなければならなかった.

そしてウォルポールなら王室文政費についても先王時代の七〇万ポンドに十三万を上乗せした額を議会に認めさせることができる.キャロラインの説得もあって,ジョージ二世もウォルポールの留任に同意した.

こうしてジョージ二世がかつてごろつきと呼んだウォルポールは第一大蔵卿兼財務府長官,「生意気なばか者」ニューカースルと「かんしゃく持ちの頑固頭」タウンゼンドは国務大臣に留まった.政界を二分するほどだった先王と世継ぎの反目にもかかわらず,君主の交代による政権交代は避けられたのである.コンプトンは支払長官のままで,翌年初頭,残念賞としてウィルミントン男爵に叙されることになる.

ただし,キャロラインは決してウォルポールの言いなりではなく,家政部門については意を通した.カータレットの友人でウォルポールの嫌うクレイトン夫人を残したり,ジャコバイトとされる人物を登用さえしたのである

新王の即位に伴い一七二七年八月に総選挙が布告された.一七二八年一月二十三日に開会した議会は順当に与党が多数を占めた

皇太子フレデリック(1728)

王位につくと,ジョージ二世とキャロラインはようやく息子フレデリックをハノーヴァーから呼び寄せることができる立場になった.一七一四年にハノーヴァーに残してきたときは七歳の子供だったのが,今や二十歳の青年である.

ジョージ一世はハノーヴァーに帰るたびにフレデリックに会っていたが,ジョージ二世もキャロラインもハノーヴァーに帰る機会はなく,フレデリックも両親よりも祖父のジョージ一世になついていた.

この間,フレデリックは政治上の訓練はなされず,放蕩生活を覚えるのみだった.七歳から二十歳まで会うこともなく過ごしてきたフレデリックよりも,国王夫妻にとっては六歳になってかわいいさかりの下の子カンバーランド公ウイリアム・オーガスタスのほうが大切になっていた.

そしてフレデリックのほうでも,父の即位後すぐに呼び寄せられなかったことで両親に対する不信を募らせた.

フレデリックは父王即位から一年以上もたった一七二八年十二月になってようやくイギリスにやってきた(一月九日に英国皇太子に叙任).これもフレデリックが独断でプロイセンのヴィルヘルミーナとの結婚を進めようとしたのを止めるためだったとされる

両親と違って流暢な英語を話すフレデリックは国民には人気があったが,両親の冷ややかな扱いははた目にも明らかだった.フレデリックのほうでも私的な場では両親に対する軽蔑と反感を隠そうともしなかった.ジョージ二世とその父王との不和は,今,皇太子フレデリックとその父ジョージ二世の不和として繰り返されることになった.

フレデリックがイギリスに伴った随員の中に,ジョン・ハーヴィーがいた.この時代の宮廷生活を知る上で貴重な(偏見に満ちてはいるが)回想録を残した人物である.

ジョージとキャロライン付きだったハーヴィーはモリー・レペルと結婚したのだが,ジョージ二世の戴冠後,大陸旅行に出,帰国するフレデリックと一緒になったのである.

一時フレデリックの随員に加えられたがすぐ仲違いして,一七三〇年に再び国王付きになる.フレデリックへの反感もあって,キャロラインの信を得,ウォルポールなどもしばしばキャロラインに持ち込む案件の相談をした.ただし,本人は政治家を目指していたが,家政部門の職しか与えられなかった.

二重結婚計画の顛末(1728-30)

ジョージ二世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムとはそりが合わなかった.ジョージ二世はいとこであり義弟でもあるプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世をライバル視して嫌っており,フリードリヒ・ヴィルヘルムのほうでもジョージ二世のことは蔑視していた.

ジョージ二世の即位後初めてのハノーヴァー訪問の際,プロイセン領内を通過するときの宿馬の料金の問題が持ち上がった.ジョージ一世のときは慣習として無料で提供されていたものである.プロイセンの役人は先代同様の無料でいいかどうか伺いを立てたが,フリードリヒ・ヴィルヘルムの答えはジョージ二世が頼んでくれば無料とするがそうでなければ有料とし,いとこに頭を下げる気などないジョージ二世は料金を払うことを選んだのだった.

イギリスとプロイセン王家との間の二重結婚計画は,そんなしゃくにさわる相手との同盟を意味し,しかも不仲の父がお膳立てしたものだった.そうではあっても,ジョージ二世は感情的に二重結婚計画をすぐ取りやめたわけではなかった.

ヴスターハウゼン条約(一七二六)でハノーヴァー同盟(一七二五)から脱落したプロイセンがオーストリアに接近するのを避ける必要は変わらないどころか増していた.だがこうしたプロイセンの親オーストリアの姿勢はイギリス王家との二重結婚の可能性を遠のけた.もちろんオーストリアの使節ゼッケンドルフは反対である.

一七二八年五月末にポーランド王がベルリンを訪問したころ,一向に自分の結婚話が話が進まないのにしびれを切らしたハノーヴァーのフレデリックは勝手な行動に出る.

かつて伝説的に語られたところによると,ハノーヴァーに留めおかれていたフレデリックは歓迎行事に合わせてベルリンを訪問し,プロイセンのヴィルヘルミーナと秘密結婚する意向を叔母であり義母となるべきプロイセン王妃ゾフィア・ドロテアに手紙で伝えた.ゾフィア・ドロテアは乗り気になったが話を聞きつけたイギリス公使が本国に報告し,フレデリックは急遽イギリスに呼び寄せられた――

ただ,実のところは,フレデリックがヴィルヘルミーナとの結婚に乗り気だったことは事実だが,フレデリックが結婚のためベルリンに乗り込んだというのはあくまで噂に過ぎなかった.フレデリックがイギリスに渡ったのは前述のようにこの年暮れになってからのことである.

さて,二重結婚についてはこの年十一月から翌年初頭にかけてもイギリス・プロイセン間でやりとりがあるのだが,この一七二八年十二月にはオーストリア・プロイセンの同盟が成立するまでになる.これによりプロイセンはベルク継承でのオーストリアの協力を得るのと引き換えに,国事詔書を承認し(スペインに次ぐ列強の承認),次の皇帝選挙でもハプスブルク家に協力することを約した.これはフリードリヒ・ヴィルヘルム一世の治世中,プロイセンの基本方針となる

ジョージ二世は先王と同様,ハノーヴァーに帰る方針を固め,一七二九年六月に帰った.そして国王の不在中の摂政は妃キャロラインとした.見る目のある人の多くはジョージ二世がキャロラインに仕切られていることを見抜いており,民衆にあげつらわれることさえあったが,幸いジョージ二世は妃への信頼を失わなかった.しかし,当然自分が摂政になるものと思っていた皇太子フレデリックにとっては屈辱的なことだった.

なお,ジョージ二世は一七二九年,一七三二年,一七三五年,一七三六〜三七年とハノーヴァーを訪問する際には妃キャロラインを単独の摂政として施政を託している

少し先走って二重結婚計画の顛末を述べておくことにしよう.次に動きがあったのは一七三〇年のことである.プロイセン王妃は相変わらず乗り気だったのだが,プロイセン王はヴィルヘルミーナについては早く結婚させてしまいたい一方,王太子フリードリヒとイギリス王女との結婚については,イギリスとの間のさまざまな政治問題(スペイン・オーストリアのイタリア三公領の問題やユーリヒ・ベルクの件についてのイギリスの協力)が解決してからのことと意を固めていた.

プロイセンに促されてイギリスからは使者が送られたが,イギリス側は両者同時の二重結婚との立場をくずさず,五月には物別れとなった.

ヴィルヘルミーナの結婚を急ぐプロイセン王は,実はイギリスからの使者が着く前に次の候補者としてバイロイト辺境伯太子にあたりをつけており,翌一七三一年にはヴィルヘルミーナはバイロイト辺境伯太子妃となる.

王太子フリードリヒのほうは,一時オーストリアのマリア・テレジア,ロシアのエリザヴェータ(いずれものちにフリードリヒ大王の宿敵となる女性である)も候補に上ったものの一七三二年にブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテルのエリザベート・シャルロッテ(皇帝カール六世妃エリザベートの姪)と婚約,同年,プロイセンは帝国議会で国事詔書を承認させるのに尽力した(バイエルン,ザクセン,プファルツが反対).フリードリヒの結婚式は翌年のことだった.

エル・パルド協定によるジブラルタル包囲の終了(1728)

ジョージ一世はパリ予備条約によりオーストリアとの和解を果たした段階で他界し,ジョージ二世が即位した時点ではスペインによるジブラルタルの包囲はまだ続いていた.

イギリスの外交を主導するタウンゼンドは,皇帝への牽制として,ジブラルタルを返還してでもスペインと友好関係を回復したがっていた.タウンゼンドはシチリアを得た上にイタリアの三公領の主権まで認めれば皇帝が強くなりすぎると考えていたのである.(ジョージ一世の政府がジブラルタル返還をスペインにもちかけていたことを野党はジョージ一世の死の直前に知ったが,そこで王位交代があったので,新王が「ジブラルタルおよびミノルカへの疑う余地なき権利を保持する」ものと信ずると宣言してくぎを刺すにとどめた.)

一七二八年三月六日にイギリスとスペインの間でエル・パルド協定が結ばれてジブラルタル包囲も中止された

多国間の問題については,空中分解したカンブレー会議に代わり,ソワソンで六月に協議が開始されるが,イタリアの三公領についての話し合いは進まず,これも翌年のセビリア条約に出し抜かれることになる.

セビリア条約(1729)

国際関係の緊張は次第にウォルポールとタウンゼンドの路線の相違を際立たせることになっていった.慎重で機が熟するのを待つタイプのウォルポールは,より大胆なタウンゼンドとはカータレットの追い落としてにしても,外国への資金援助にしても,軍事的な攻勢にしても,方針を違えることも多くなっていたのである.

ソワソン会議は行き詰まり,諸国の圧力に反発した皇帝はスペインと断交した(一七二九年六月).この結果,イギリスもオーストリアかスペインかを選ばねばならなくなった.それはとりもなおさず,ウォルポールとタウンゼンドが雌雄を決する必要があるということだった.

当面は内閣の多数に抗してタウンゼンドの対オーストリア強硬論が勝利した.一七二九年十一月九日のセビリア条約によって,スペインと和解したのである(イギリス,フランス,スペインにのちオランダが参加).これによって話はウイーン条約(一七二五)の前の状態に戻ったが,スペインはイタリアの三公領の守備兵は中立国ではなくスペインの兵とすることを共同して皇帝に要求するとの方針を勝ち得ることができた.ジブラルタル返還については暗黙のうちに忘れられることになった

ウォルポール政権(1730)

皇帝は断固としてイタリア三公領へのスペイン兵の上陸を阻止する構えでイタリアに兵を集めていた.タウンゼンドは断固として皇帝に譲歩を迫るつもりだったが,戦争に踏み切るつもりまではなく,それはフランスも同じだった.

皇帝がイギリスに国事詔書の承認を要求してきたことが交渉の糸口となったが,これも思うようには進まなかった.その一方,スペインからは,セビリア条約が守られなかったとしてもはや拘束されない旨を宣言された.

一七三〇年,プロイセンが決定的に皇帝側に付くと,タウンゼンドはドイツ,イタリアでの戦争に備える覚悟を決めた.ウォルポールのほうは最後まで外交努力を続ける考えでこれに抵抗した.

両名の間に激しい口論があったのち,タウンゼンドは辞任した(一七三〇年五月十五日).ウォルポールの長年の友であったタウンゼンドはカータレットのように野党に加わったりはせず,ノーフォークの地所に戻って以前から興味を抱いていた農業改良の実験に専念することになる.

タウンゼンドに代わってウォルポールが外交においても主導権を握ることによって,イギリスがスペインを見切って皇帝につく方針が固まった.

すでに述べたように,ウォルポールは一七一五年から一七一六年にかけて第一大蔵卿の座にあったが,これは首相という地位にはほど遠かった.一七二一年には再び第一大蔵卿となったが,ウォルポールが内政における主導権を握ったのはサンダーランドが没した一七二二年四月からである.その後はウォルポール,タウンゼンドが国政の両輪となっていたが,タウンゼンドが辞任したこの一七三〇年五月をもって,ウォルポールが内政・外交を掌握する「首相」という地位を確立したものと見ることができる.

これまで内閣ができ,首相という地位も確立しつつあったが,まだ閣僚は個々に君主に仕えるというものだった.このような性格はまだ半世紀残ることになる.しかし,ウォルポールとタウンゼンドの対立は,内閣が一致してことに当たる必要性を実感させた.それには一人の指導者――首相――という存在を要求していたのだった.

しかし,首相という地位は国憲上認められたものではなく,ウォルポールは「単独の大臣」として批判されるようになる.首相(Prime Minister)の呼称はウォルポールの批判者が使うことによって一般的なものとなっていく

第二次ウイーン条約とパルマ継承(1731-32)

一七三一年一月,ついにファルネーゼ家の最後のパルマ公が没した.皇帝はドン・カルロスのためという名目でただちに公領に兵を送って占拠した.オーストリアとスペインとの間の緊張が一気に高まった.

しかし,上述のように,ウォルポールはすでにオーストリアにつく決意をしていた.一七三一年三月十六日に第二次ウイーン条約が結ばれ,イギリスは皇帝の求めていた国事詔書を承認した(ただしマリア・テレジアがブルボン家に嫁した場合は無効).皇帝のほうはイタリアの三公領におけるスペイン兵守備隊を認め,オステンド会社の活動を停止した(書類の上では一七九三年まで続くが,実際上はこの時点で廃止).六月にはスペインもセビリア条約を確認した.

ドン・カルロスは年末にはパルマ,ピアチェンツァを無事継承する.そして一七三二年,スペイン兵とともにトスカナにはいり正式にメディチ家断絶後の継承者となった.皇帝とスペイン王が和解し,スペイン継承戦争以来くすぶり続けていた問題がここにようやく解決したのだった.

一連の危機を通じてヨーロッパは外交交渉によって戦争を回避することに成功した.特にイギリスとフランスが協調すればヨーロッパを安定させられることがわかった.しかし,イギリスによる国事詔書承認はオーストリアとの同盟の代償として,フランスとの火種を抱え込むことになっていた.一七二〇年代のイギリスの基本方針は,フランスとの友好を保つことでフランス,スペインのブルボン勢力が反イギリス同盟となることを妨げることだった.この根底が崩れる可能性が出てきたのである.

そもそも歴史的に抗争を繰り返しスペイン継承戦争でも干戈を交えたばかりのイギリスとフランス両国の接近の裏には,それぞれの王位の不安定性というやむにやまれぬ事情があった.イギリスはジャコバイトの危機を抱えていたし,フランス王ルイ十五世は体の弱い少年でその薨去後にはオルレアン公とフェリペ五世で王位継承争いになると思われていたのである.しかし,今やイギリスのハノーヴァー朝は安泰で,フランスのルイ十五世は結婚し,世継ぎも上げていた.イギリスとフランスが手を結んでおく積極的な理由はなくなったのである.十八世紀はいまだ数次の国際戦争を経験することになる.

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