『イギリス革命史』のページ
フレームが表示されない場合,ここをクリックし,ページが切り替わったら左側のナビゲーションバーで「2381号」を選択してください.見どころ:ジェームズ二世の宮廷が,オレンジ公ウイリアムが夏以来進めていた軍備がイングランドに対するものと認識したのは9月17日(新暦では9月27日)のこととされる.本号はオレンジ公に同行するションベルク元帥の動静も伝えているが,まだイングランド侵攻は念頭にない. この時期外国情勢で最大の関心事は,皇帝軍のトルコに対する戦役であった.1683年にウイーン郊外でトルコ軍を撃退して以来,「トルコの脅威」は大幅に減じていたが,まだハンガリーを中心とする戦争が続いており,ブダペスト攻略はその最大の焦点だった. |
さらに砲台が〔築かれ〕,ブダから運ばれてきた残りの大砲,臼砲はここに設置された.この間,敵も手をこまねいていたわけではなく,大砲,爆弾,小銃を休みなく駆使し,余力のあるうちはたびたび勇敢に打って出て激しく防衛した.このため多くの兵が戦死ないし負傷した.ただし,数が著しかったのは後者であるが.歩兵大佐で高級副官のド・リーニュヴィル伯爵は去る二十三日に塹壕で銃弾を受け,それがもとでまもなく死亡した.バイエルン選帝侯からの急使が到着し,トルコの使者が陣営にやってきてトルコの大使たちに通行証の発行を求めていると皇帝に報せていたが,急使は随員ともども通すようにとの指示とともに送り返された.どの地点まで連れてくるべきかの決定についての報はないが,おそらくはプレスブルクまたは当市だと思われる.上ハンガリーからの書状によりカランセベスおよびサランカルの強固な城がヴェテラーニ将軍指揮下の兵によって奪取されたことが確認された.これらの要塞の守備隊は降伏文書に従って妻子ともどもドナウ川近くのオルソナに退去することになっており,それに従い護送隊が一緒に送られた.しかし,帝国軍〔の護送隊〕は〔オルソナの〕町から一マイル以内になるともう危険はないと考えて離れたが,その地は数日前にこの地方に住むセルビア兵の手に落ちており(守備隊はことごとく刀にかけられた),そのことはまだトルコ人にも護送隊にも知られていなかった.このセルビア兵がトルコ人に襲いかかり,皆殺しにした.このことを知らされたヴェテラーニ将軍はかような残虐行為に激怒し,セルビア兵に対してその怒りのほどを思い知らせることは疑いないものである.バーデン公ルートヴィヒ指揮する軍勢からの最後の報せによると,グラディスカ(住民は軍勢が近づくと放棄し,同時に火を放った)に守備隊を投入し,クロアティア兵を故郷に送り返したのち,去る二十五日,ブロートに向かって進んだ.そこからさらに進んでベオグラード前に陣取る帝国軍に合流する予定である.しかし,グラディスカ近辺でのボスニアのパシャの敗北の報せは確認されていない.皇帝は,征服した地点に投入するための数個連隊を新規に募る決意であると言われている.ロレーヌ公は今時分にはベオグラード前の陣営に到着しているものと信じられる. |
大砲によって城壁にかなり大きな突破口ができた. スズの貨幣鋳造および先買権についての国王陛下の取り扱い業者はウィフトからスズを受け取り,価格を三か月後から一ポンドあたり十ペンス,細片一〇〇あたり九三シリング四ペンスと価格を設定した.しかし,当面は現金即時払いに対して八パーセントを割り引く.前記取扱業者の会計リチャード・ホルト氏が前記スズおよび新たなスズ貨幣の販売・処置について全権をもっている.新しい貨幣は来月じゅうには準備できる予定. 広告 新灯の特許権者たちはこれまで自分たちに代わって行動することを一人もしくはそれ以上の特許権者に認めてきたが,その後それらの代理委任状を撤回する必要を感じるようになった.したがって,ここに通知する.特許権者たちは毎月曜日と木曜日に十時から昼の十二時までの間,カティートン通りのバーンズ・コーヒーハウスにて会合し,前記灯の設置のための提案を受け,協定を結ぶものとする. |