『ロンドン・ガゼット』でたどる名誉革命


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見どころ:ハーグからオレンジ公の動静も伝えられるが,集結した軍備はフランスに対する防衛のためのものとするオレンジ公の擬態は看破されていない.
なお,冒頭の奏上文で述べられている皇太子とは,6月10日に生まれたジェームズ・フランシス・エドワード(のちの老僭主)のこと.

2382号

ロンドン・ガゼット


政府当局により発行

1688年9月13日木曜日‐9月17日月曜日

の奏上文が国王に提出され,陛下は愛想よくお受け取りになった.

最も秀逸なる国王陛下へ

サフォーク州,サドベリーの市長,参事会員,正市民からの謙虚なる奏上.

偉大なる陛下
能なる神が陛下ならびに陛下の仁慈深き王妃様に嫡子を,陛下の民には王子をお恵みになり,この幸福にふさわしく,そして忠実にして従順なる臣民らしく,心より両陛下にお祝い申し上げます.このような恵みは天からのもので,陛下が国民に対してたびたび著しい形で証をお示しになった徳に対する報いであります.そしてとりわけ,私たちが心からの偽りない感謝を伝えに参りましたのは,陛下が慈悲深くも,イングランド教会が法によって確立されている現状ならびに陛下のすべての臣民の宗教の自由な実践および市民権と財産の平和裡の享受を護持し,維持するとの宣言をお下しになったことであります.そして陛下がこれらの恵みを法によって民に永続的に与えることを意図しておいでである以上,私たちとしても陛下に対し,陛下の君主としてのご叡慮により議会招集を適当とお考えになった暁には,陛下の御心に添うような人物を選出するよう,心より努めるものであります.そして私たちの祈りの中に,陛下の御代が末永く栄えること,私たちの王子が陛下の無比の徳を王冠とともに受け継ぐこと,そしていずれもが栄光ある王位を享受することを永遠に含めることでありましょう.

最も秀逸なる国王,王妃両陛下へ

陛下のランカスター王権州の統監,副統監,州長官,大陪審,ならびに他の治安判事,紳士らの謙虚なる祝意.去る一六八八年八月二十九日,一般巡回裁判にて採択.

おそれ多い君主様
州の自治体の意思をお伝えする機会がなかったばかりに私ども陛下のこの上なく忠実で喜びにあふれる臣民がこれまで陛下と王妃様に皇太子ご誕生のお祝いを申し伝えることができませんでした.正しき系統への王位継承はこれまで懸案であり,このたびの両陛下からの直系〔の継承者のご誕生〕は私どものみならず,陛下の領国すべての喜びとするところであります.この輝かしき誕生についての外国宮廷の高ぶりは,皇太子殿下の高名がさらに広がり,その徳は照明以上に輝くであろうことを早くも予見するものであります.殿下の雄々しい資質により,時の果てるまで,全ヨーロッパを恐懼と尊重で満たし,両陛下を安逸と満足で満たし,そして陛下の領国を平和と安全,幸福で満たしますように.このことは,陛下のこの上なく忠義な臣民であり誠実にして謙虚なしもべたちの誠実な務めであり,永遠の祈りであります.

最も秀逸なる国王陛下へ

ランカスター王権州のガースタングにおける陛下の都市自治体からの謙虚な奏上文.

偉大なる陛下
の自治体にとって,これまで私どもの義務と忠誠の書状をもって幾たび陛下の足下に近づいても,辞するときには常に陛下の慈悲深い受け入れをいただけたことは比類ない喜びであります.これらの経験に励まされ,また傑出した皇太子ご誕生の喜ばしい報せに促され,私どもの務めも熱意も倍加して,喜びと満足をもって陛下と王妃様にこの幸いなる事跡について謙虚にお祝い申し上げるべく,再び陛下の足下に参るものであります.

天が陛下とこれらの王国を祝福し,あまたの子孫によって王位を固定して王冠の栄光を増しますように.

将来,皇太子殿下のいやます徳と模範的なふるまいが陛下の治世の安息に加わり,王位,懸案と苦難を救い,陛下のすべての臣民の愛情を得,忠誠心を確かなものとしますように.陛下の常に忠実な臣民にして忠義深い謙虚なしもべはかくお祈り申し上げるものであります.

ヴェネツィア,9月10日.前号で触れたヴェネツィア軍とトルコ軍の間のネグロポント島での戦いの報せについては確認されていない.しかし,我々のもとにあるすべての情報によると,ネグロポント包囲はきわめて順調に進んでいる模様である.ダルマティアからは,〔ヴェネツィアの〕監督官兼将軍コルナーロがクリムを包囲しているが,脱走者の情報によるとそこには六〇〇の守備兵がいると伝えられている.
ベオグラード前の皇帝軍陣営,9月2日.前号までの書簡で先月二十四日までにこの包囲戦で起こったことは読者に伝えてある.その日,トルコの使者は通行証を与えられて騎兵二十の護送のもとトルコの大使たちを呼びに送り返された.そしてド・ルドロン伯爵はクロアティア人連隊を率いてセメンドリアの守備隊を増強するために出発した.二十五日,重砲が届き,二十門が砲台に据え付けられた.我が陣営は新たにモスクを一つ奪取し,ミノ人は城壁のふもとに取りついた.二十六日,我が陣営は城塞に砲撃を開始し,円塔の頂部をうち崩して堀に落下させた.十五の臼砲が最前線の砲台の両側に配置された.二十七日,我が陣営の大砲と臼砲は猛烈な勢いを発揮し,城壁にかなりの突破口がつくられた.敵は,我が陣営支配下にあるモスクの近くで坑道爆弾を爆発させ,吹き飛ばされはしなかったもののモスクは使い物にならなくなり,我が陣営に多くの負傷者を出した.二十八日,敵はまた坑道爆弾を爆発させた.敵の狙いは我が陣営の砲台を破壊することにあったが,それほど遠方ではなかったにもかかわらず,ゆさぶっただけだった.これによって引き起こされた混乱は,敵の爆弾の一つが数キンタルの弾薬に火をつけ,我が陣営の砲台にいた兵士七〜八名が吹き飛ばされたことで増加した.そのことを察知した敵は一〇〇ほどの兵で我が陣営の塹壕先端左右に対して打って出た.しかし,我が陣営の衛兵は迎え撃つ態勢を万全に整えており,敵は突撃隊のうち最初の発砲で十二名を失って撃退された.この日,キリスト教徒二名がこの地から脱出し,守備隊の兵力は三〜四〇〇〇であること,我が陣営の接近壕に対抗する坑道をつくるのに熱心であること,そして総督(名はイブラヒムでかつてバグダードのパシャだった)が彼らに大軍が救援に向かっていると断言したことを証言した.二十五日,〔バイエルン〕選帝侯はある中隊長に通訳を付けて籠城軍に送り,もはや救援の望みもないことを見きわめ,その地を明け渡すよう勧告させた.しかし,パシャはギリシア人の通訳を絞首刑にし,中隊長を投獄した.翌晩,我が陣営の工兵が敵の矢来に火をつけ,それに乗じて七〇〇の部隊が前進し,堀に足場を確保することを命じられた.しかし,敵はこの〔矢来が燃える〕火の明かりによりよくねらい撃ちし,我が陣営の一〇〇が戦死,多数が負傷し,残りも後退を強いられた.それでも火は矢来を十分破壊し,我が陣営の塹壕の射程距離内にあったこともあり,敵が修理することはできなかった.三十日,我が陣営の大砲によって突破口が広がったが,それでもまだ突撃に十分な開口ではないと判断された.そして我が陣営の坑道兵は,城壁で最も大きな塔の一つの角に坑道を向けた.それを大いに利用するつもりでいたが,敵も対抗坑道を掘っており,我が軍は敵の坑道に出くわし,擲弾等によって混乱を来たして自らの坑道の入り口に向けて退却を強いられ,いくらかの損害も出た.この日,サヴォイ公〔オイゲン公〕が股にマスケットの銃弾を受けて負傷し,前日にはアスプレモント少将が古い壁の崩落によって負傷した.三十一日,我が陣営の大砲は絶大な効果を上げ続け,籠城軍も負けじと土,薪束などで突破口をふさいでその内部で防備を固めようと奮闘した.我が陣営の塹壕は


十分に進み,地下通路もほぼ完成し,幾日もしないうちに突撃をかけられる態勢になるであろう.最近,地域の民衆からトルコの強力な救援軍が接近しているとの報せがいくつか寄せられ,どの方面から来るものかと警戒したが,結局のところ,小部隊を率いてセメンドリア近郊を徘徊していたテックレーが一部の者を買収し,他の者には欺瞞によってこの説を信じさせていたことがわかった.そこでデューネヴァルト将軍がこの謀反人をさがすべく騎馬隊を率いて出発した.我が陣営のより確かな情報によれば,オスマン・イェグベンはいまだ騎兵とともに(歩兵の大半は脱走している)ニシュ〔ベオグラードの南東一〇〇マイルほど〕におり,四十マイル四方以上にわたって馬糧を破壊し尽くし,町を焼き討ちにしている.我が陣営は今三つの橋を手にしており,それによりすべての河岸において自由な馬糧と通信ができる.一つはサヴァ川に,もう一つはティサ川に,三つ目はドナウ川のベオグラードのすぐ上流にかかるものである.ロレーヌ公がペーターヴァルダイン〔ベオグラードから北西にドナウを少しさかのぼった地点〕に到着し,選帝侯もこの地に表敬の使者を送った.我が陣営は砲台六,臼砲三十二をもって城塞を攻撃している.
ウイーン,9月9日.ベオグラード前の陣営からの今月三日の書状によると,堀を埋める作業を開始し,いくつかの坑道を準備しており,大砲によって敵砲台および敵が突破口の内側に築いた防備を破壊した.突破口は二〜三日のうちには突撃をかけられるだけの大きさになること疑いない.それでも籠城軍は極限まで交戦する決意を固持し続けており,去る二十九日に選帝侯が送った降伏勧告に返答を返す意思を示していない.さらにこれらの書状によると,デューネヴァルト少将が今月一日,騎兵十二個連隊とともに送り出され,セメンドリア方面に進軍,同日,ロレーヌ公がペーターヴァルダインに到着したとの情報を受け取った.バーデン公ルートヴィヒからの最新の報せでは,しばらくの間ブロートにとどまってサヴァ川に橋をかけ,その安全のために砦を築いて一〇〇〇の守備兵を残す予定で,同時に,その地を離れるにはさらなる命令を待つというものだった.それというのも,その地方に敵は合計で二万五〇〇〇の軍勢を有しており,これまでは我が陣営の兵と接触することを慎重に避けていたが,我が軍が去れば大いに問題を起こす可能性があるのである.そのため,ベオグラードの包囲がこの軍勢の援助を必要とするのでない限り―あらゆる面から見てその必要はないと思われるが―この軍勢はボスニアにとどまり,〔ベオグラード前の〕陣営からかなりの騎兵部隊がこれを増強するために送られることになるだろう.今日明日にもスルタン,ヌラディンとポーランド人が交戦したとの報がはいるかもしれない.前者は六万のトルコ,タタール兵からなる軍やあらゆる種類の補給物資の強力な輸送隊を率いて守備兵の救援のためにチェコラ(カミニエクから四〜五日の行軍距離)に到着しており,一方三万のポーランド軍はチェコラとカミニエクの中間というすぐそばにおり,双方の前進部隊はすでに幾度か小競り合いを演じていたのである.それらの小競り合いではポーランド軍が三〇〇の兵で三〇〇〇のタタール兵を敗走させ,一三四の敵を殺し,約一〇〇を捕虜にするというめざましい戦果を上げている.ただし,これらはみな敵の逃走中になされたもので,抵抗を受けることもなかった.これら野蛮人はポーランド軍全軍に追撃されていると思っていたのである.ポーランド軍がこのタタール軍を撃破し,輸送隊を妨害したとしたら,この戦役でカミニエクを支配できるに違いない.その守備隊は糧食が十分でなく,去る十八日現在の我々の最新情報によると,あと三週間分しかなかったのである.
ウイーン,9月10日.本日正午ごろ,バイエルン選帝侯から遣わされたロレーヌ太子カール・トマスがこの地に到着し,今月六日,突撃によってベオグラードの市街と城塞を奪取したことを皇帝に報せた.籠城側の精力的かつ頑強な抵抗の前に,突撃は約四時間にわたり,攻撃側の勇気と決意にもかかわらず,また選帝侯自身英雄的な勇気をもって士官や兵士を鼓舞したにもかかわらず,籠城軍は三度目の襲撃まで突破口を守り通した.すべての努力と抵抗が無駄だと知ると,敵は城塞のほうに逃げ,キリスト教徒兵がそのあとを追った.敵と一緒に混乱状態でなだれこんだ兵は,怒りの勢いで年齢,男女によって容赦することなくあらゆる者を刀にかけた.それは,その地を完全に支配下においたことを見て取った選帝侯殿下が投降を許すように命令するまで続いた.この輝かしい戦闘によって我が陣営で落命した者の数は膨大になると思われるが,そのうち顕著な者としては,中将シェルフェンベルク伯爵,歩兵大佐エマヌエル・フォン・フュルステンベルク伯爵,当市〔ウイーン〕の守備隊長の息子シュターレンベルク伯爵である.選帝侯自身もほおに軽傷を負った.詳報がはいる前にこの著名な要塞の奪取についてさらに言えることは,これがきわめて重要な征服であり,この戦争においてキリスト教徒の軍勢によって獲得されたすべての勝利と利益の頂点をきわめ,それらを安泰にするものであるということである.また,これによりセルビア,ブルガリアのみならず,ルーマニア,さらにはコンスタンティノープルにまで通路が開かれるのである.情報によると,また,

バーデン公ルートヴィヒはボスニアのパシャをブロートの平原にまで追い,今月五日に一戦交えることを強い,敵軍は完全に撃破された.五〇〇〇が戦死,二〇〇〇が捕虜になり,すべての大砲と物資は奪取された.ただし,これについては確報を待たねばならない.
ハンブルク,9月14日.ツェレの軍勢が昨日ヴェーゼル河畔のニーンブルクに向けて進発した.その地でハノーヴァーおよびヴォルフェンビュッテルの軍勢が合流し,合計八〇〇〇ほどになる予定.
ケルン,9月17日.フランスの軍勢はこちらに向かって移動を続けている.その一部は当市近郊に野営している.そしてこの地からほぼ二日の行軍距離にあるヘール・ムレムには野営地の下準備がなされているという.今月十五日,カイゼルヴェルトとラインベルクの守備隊を増強するために一五〇〇の兵が九隻の船でラインを下ってこの地を通過.後者の地で指揮を取るのはフェルディナント・フォン・フュルステンベルク伯爵である.当市にウエストファリア圏の兵をいくらか受け入れようとの議論がある.
ハーグ,9月17日.昨日,ホラント州議会は前回の休会以来初めて会合した.その晩,オレンジ公がヘット・ロー宮殿からこの地に到着.リューネブルク,ザクセン,ブランデンブルクの軍勢はライン川方面に移動中であり,本州の軍勢は今月二十六日にネイメーヘン付近で陣営を張る予定.
ブリュッセル,9月21日.今月十六日,この地にウイーンより急使が届き,今月六日のベオグラード奪取という喜ばしい報せがもたらされた.本日,我々の総督〔スペイン領ネーデルラント総督〕はフランドルの守備隊訪問から戻る.
パリ,9月22日.国王は昨日マルリーより帰還した.次の月曜日には宮廷はフォンテーヌブローへ移ると言われている.フランス軍はライン方面への行軍を続けている.国王はラバトン氏をリエージュ駐在公使に指名した.

ホワイトホール,9月14日.今月十日,ポルトガルからの特命使節ドン・シモン・デ・スーゾ・マジェルハンスが国王と王妃に謁見し,両陛下に皇太子殿下ご誕生のお祝いを述べた.また同様に式部官サー・チャールズ・コットレルに案内されて前〔チャールズ二世の〕王妃にも同じ件で謁見した.

ホワイトホール,9月15日.国王陛下のスウェーデン宮廷における特命使節郷士エドマンド・ポーリーによる,皇太子殿下ご誕生という幸いなできごとにあたってのすばらしい祝典についての報告を受けている.次号において詳報掲載予定.

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近ドーヴァー卿の家から盗み出された大きな荷の金と白釉で装飾した食器.一部のものは半月と二つの星形の印があり,別の一部のものは三つの牛の頭の印がある.金匠その他すべての者に対し,つぶされた,あるいは溶かされた銀を売ろうとする不信人物を止めて拘束し,それについて卿の家に通知するよう要請する.違背した場合は盗品受領者として訴追される.一方,発見者には存分に報酬が払われる.
る八月十六日にベリー通りのカスルヘーヴン伯爵夫人の部屋から持ち去られた,IBと印のある大きな黒のトランク.内容は金貨数枚,すなわちギニー金貨,ブロードピース〔大ぶりの金貨〕数枚,フランス金貨,先の国王のメダル,フランスの五スー玉の包み,指輪,リネン,その他.この物件につき,ロンドンのベリー通りのカスルヘーヴン伯爵夫人あるいはペルメルにおける国王陛下の判事の一人である郷士ジョン・ホールに通知した者には二十ポンドの賞金が与えられる.
近他界したグロスターシアのストウ付近のアイフォードのアンドルー・ウォンリー氏の子馬や繁殖用の牝馬,大量の良質の畜牛,そして家庭用品が相当数売りに出される予定.販売開始は今月二十四日.品目や掘り出し物についての説明はアイフォードの前記した家にて入手できる.
月十日月曜日または十一日火曜日に紛失.九つのダイヤモンドをあしらってばらのようにした金の指輪と金の袖ボタン.取引所通りの角の金匠スミス氏のところにそれらを届けた者は一ギニーの賞金が与えられる.
月十一日,バッキンガムシアのジェラーズ・クロス付近で黒い去勢馬の強奪事件が発生.体高約十四ハンド,額に星があり,両側には拍車による擦り傷といくつかの鞍紋あり.この馬を取り戻すのに役立つ情報をオールド通りの車引きヘンリー・ラックに提供した者には一ギニーの賞金が与えられる.
る八月十日,暗い砂灰色の雌馬が行方不明.体高十三ないし十四ハンド,あらゆる歩態をよくし,右のはみ受けに切れ込み,白い鞍紋,き甲の手前に鞍ずれ,臀部近くにピッチによりIBの印,成熟.この馬についての情報をホルボーン・ブリッジの〔旅籠〕白鳥亭のトマス・トランター氏に提供した者には一ギニーの賞金が与えられる.

(C) 2004.6. 友清理士; 訳文の最終修正日2004.5.30
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