『ロンドン・ガゼット』でたどる名誉革命


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見どころ:冒頭でジェームズ二世は,かつて排除したプロテスタントの地方行政官や治安判事の復職に向けた指示を発している.オレンジ公の来寇に備え,国民の支持を得るためであることはもちろんである.
9月29日(新暦)のホラント州議会の秘密会はオレンジ公のイングランド侵攻計画が明らかにされ,その支持が決められたものだが,本号の報道ではフランス商品禁輸のことしか伝えられていない.オレンジ公のイングランド侵攻についても,いまだ明確には触れられていない.

2385号

ロンドン・ガゼット


政府当局により発行

1688年9月24日月曜日‐9月27日木曜日

ホワイトホール,9月25日

王陛下は,今月二十一日付の先の宣言の公表以来,各州の統監に最近副統監の地位から排除された人物に代理権を認める権限を与えることになさった.国王陛下はまた,イングランドの大法官閣下に,最近治安判事の地位から除かれた者で前記統監から推薦のあった者について復位させるよう指示を出した.

マドリード,9月9日.フランスの特命大使ド・ルブナック伯爵が先週当地に到着.そして今月六日,国王,王妃と個人的な面談をもった.以来,この地に滞在している一通りの外国公使に着任の通知をしてきた.カディスからの報せによれば,数隻の軍艦が出港準備を進めており,帰還が予定されているニュー******艦隊襲撃を予定しているという.ダル****侯爵はスペインの大公位に属する名誉を獲得した.
ローマ,9月11日.ケルン〔大司教〕の選出問題を審査する会議が今月九日に再び開かれた.ダグイッレ枢機卿は完全に回復した.アンコーナ経由ではいった情報によれば,ヴェネツィア軍が先月十八日にネグロポントを支配下においた模様.これについては確認を要す.
ジェノヴァ,9月14日.今月十一日,本邦に属するガレー船三隻が当地を出港.コルシカ沖を巡航する予定.
ワルシャワ,9月11日.リヴィフからの書状の伝えるところによれば,国王はゾルキーフに到着し,二〜三日そこに滞在したのち二万五〇〇〇の兵からなる軍勢に合流する予定.スルタンのヌラディンは相当な規模のタタール兵を擁してそれほど遠くない地点に野営しており,従えている糧食の輸送隊をカミニエクに入れようと努めている.その地の守備隊は不足に悩み始めている.しかし,ポーランド軍が敵とその地点との間に配置されており,スルタンが計画を実行できないことが期待される.ワラキアの諸州は,トランシルヴァニア諸州がしたように皇帝の保護下に身を投じることにかなり傾いているとの情報がある.******の軍勢に関してはこのところ確かな情報がない.
ウイーン,9月19日.昨夜,バイエルン選帝侯はベオグラードよりこの地に戻る.戦役の主要な作戦はすでに終わっており,ロレーヌ公も二〜三日のうちに着くだろう.そして帝国軍はいくつかの部隊に分かれ,

いまだトルコ軍の手にあるハンガリーの各拠点を落とそうとしている.現在の混乱状況を見ると,抵抗らしい抵抗はできないことは疑いない.セルビア人はセメンドリアとニシュの間で八〇〇〇ほどの一団となり,古くからの敵意に,先ほど家を焼かれ,畑を荒らされたことによる新たな怒りに燃えている.イェグヘン・パシャがベオグラードから算を乱して撤退する際に帝国軍の追撃を妨害するためにしたのである.セルビア人はドイツ人に使いをやって彼らを指揮し,規律を与える若干の兵を求めた.そして,ごく短期間でソフィアを奪取し,ブルガリア人,ギリシア人をも皇帝の権益に合一させることを疑っていなかった.こうした遠大な見通しも,オスマン帝国の現状を考えると異常とは思えなかった.サヴォイ公,コメルシー公,アスプレモント伯,アウエルスペルク伯は傷の治療のためにこの地に連れてこられる予定.ベオグラードの包囲戦では,キリスト教徒側に約四〇〇〇の死傷者が出たものと言われている.その地のパシャはノイシュタットに移送されるよう命じられた.皇帝はこれまでシェルフェンベルク伯,フュルステンベルク伯指揮下にあった連隊を,前者はグイード・フォン・シュターレンベルク伯に,後者はカウニッツ伯に引き継がせた. 本日,皇帝皇后両陛下,ハンガリー国王,ポーランドの太后,バイエルン選帝侯殿下は全宮廷とともに壮大な行列,そしてベオグラード奪取に感謝して聖シュテファン教会で歌われたテ・デウムに参加した.その後,町中で三度大砲が放たれた.そして今月二十一日には,皇帝軍がボスニアで挙げた大勝利を記念して同様な行事が行なわれる.この勝利について,次のような詳報がはいっている.帝国軍がブロートでサヴァ川にかけていた橋が完成すると,〔バーデン〕公ルートヴィヒは今月三日,物資を橋の対岸に送らせ,自らも翌日には軍勢に続くかのように万事準備をさせた.これは,ブロートから五マイルほどのテルウェントで野営しているボスニアのパシャを防衛拠点からおびき出すための作戦だった.しかし,パシャが動こうとしないのを見,この敵軍を背後に去ることはこれまでに獲得したもの一切を失うことになると承知していたため,そして(前号で述べたように)敵の数について誤った情報を受けていたため,今月四日の晩,行軍を開始し,まっすぐだが困難な道を通過し,翌朝夜明けごろに敵野営地の近くに到着した.しかし,敵の前哨が警報を発し,パシャはただちに兵に戦闘態勢をとらせた.騎兵が両翼,歩兵が中央である.バーデン公も手勢を両翼に分け,右翼の指揮はピッコロミニに,左翼はカステッリ(いずれもバタリア〔?〕の将軍)に託し,この隊形で敵を待ち受けた.敵軍は猛烈な勢いで我が軍左翼に襲いかかり,激しい突撃を三回も行なったが,我が軍の兵の衝撃にそれ以上耐えられなくなり逃走した.


反対側の翼もすぐそれに続いた.あとには七〇〇〇ほどの歩兵が自分で活路を開くべく取り残された.これは一時間にわたって勇敢に防戦を続けたが,我が軍の騎兵が突入すると投降を認められた二〇〇〇を除いて殺害された.敵が攻撃をしかけたとき,皇帝軍は丘の中腹にいるという利点があった.我が軍の損失は,この大規模な戦闘においてほんの一五〇でしかなかった.その主要なものはマラヴィル大尉と二人の中尉である.ハノーヴァーの太子は手に,クロンスフェルト伯爵は首に軽傷を負った.この軍勢の敗走により,トルコはボスニア全域を失ったのだった.バイエルン選帝侯はほどなくしてミュンヘンに戻る.
ウイーン,9月19日.バーデン公ルートヴィヒは,ボスニアのパシャ率いるトルコ軍を破ったのち,強力な拠点バグナルカを陥落させたとの情報がはいっている.帝国軍から届く予定の増援が加わり次第,その地方の首都サラエヴォの攻撃を予定している.
ケルン,9月27日.この地では,〔ウエストファリア〕圏の兵さらに二〇〇〇が守備隊の増援として合流予定.現在守備隊を指揮するのはダウバッハ男爵.同盟軍の合流はこの地点とデュースブルクの中間点が指定されている.ボンからの情報によると,ライン川に橋をかける作業が進められているとのこと.プファルツ選帝侯太子はドイツ騎士団の団長である弟とともにハイデルベルクからデュッセルドルフに帰還.
クレーフェ,9月29日.兵站総監グロムスコフがオランダの指揮下にはいるブランデンブルク軍とともにネイメーヘンに到着.ベルリンからの情報によれば,さらに軍勢がこちらに向かっているとのこと.
ハーグ,10月2日.二〜三日間休会していたホラント州議会が去る水曜日〔九月二十九日〕に再び会合した.いまだフランス商品の禁輸の問題をかかえている.オレンジ公は二十八日にネイメーヘンの野営地で兵を視察していたが,去る三十日,ディーレンからこの地に戻った.フリースラントとフロニンゲンの総督であるナッサウ公はレーワールデンに戻った.ウイーンからの報せではバイエルン選帝侯は先月十八日にハンガリーからその地に戻り,二〜三日のうちにドイツに戻って―世評によれば―ライン方面軍を指揮するとのことである.
ブリュッセル,10月1日.フランス軍がフィリップスブルクを取り囲んだとの情報がはいっている.翌月五日には王太子も到着する予定で,ともに来る歩兵二万二〇〇〇,騎兵一万二〇〇〇の軍勢は王太子のもとでデュラス元帥が指揮をとる.塹壕掘りは七日に開始される.そしてブーフレール将軍が同時に別の部隊を率いてプファルツのカイゼルラウテルを攻撃する.この〔ネーデルラント〕方面では,フランス軍はサンブル川とマース川の間に集まりつつあり,ラ・ブーフィエールがその野営地として予定されている.その指揮を取るのはユミエール元帥.ウイーンからの書状によると,ティミショアラが帝国軍に降伏したとのこと.
パリ,10月2日.王太子は去る二十五日にヴェルサイユを出発し,その晩はモーに泊まった.二十六日はモンミレル,二十七日はフェール・シャンノワーズ,二十八日はアルシリエール,二十九日はスタンヴィル.そこからはトゥール経由でヴィサンブール方面に旅程を続けた.先週ピミエンタ氏が国王に,皇帝からのベオグラード奪取を報せる手紙を届けた.バイエルン選帝侯からの特命使節トゥルン・ウント・タクシス伯も同様に,同じ件につき国王に拝謁した.フランス兵の一部がアヴィニョン〔教皇領〕にはいったと言われている.フィリップスブルクは十分に防衛できる状態にあり,

勇敢な軍人シュターレンベルク伯の指揮下の四〇〇〇の守備隊が守っていると伝えられている.
ディール,9月25日.昨日,ダウンズから七〇隻ほどの外洋向け商船団が出港した.

ホワイトホール,9月26日.今月二十三日,デンマーク国王の特命使節レヴェントラウ伯爵が退任の挨拶のため前王妃に,二十五日には皇太子殿下に謁見した.案内役は式部官チャールズ・コットレル.
二十四日,サヴォイ公爵からの特命使節ド・ルエーロ伯爵が前王妃と,二十五日には皇太子と最初の謁見.案内役は式部官.

ジョン・ワドロー,ジョン・ヘンダーソン,トマス・ディオス,リチャード・ダーマーらは前国王に四七八八一ポンド八シリング九ペンスの負債があるがいまだ支払われておらず,彼らおよびその相続人,執行人の財産が国王を欺くために入念に隠されたことに鑑み,すべての者に告知する.上に名指された人物らの何らかの財産について知っている者は,インナー・テンプルの財務局のバサースト氏のもとに来られたし.同氏は発見奨励のための提案をする権限を有している.そのような財産を有しており,被告召喚状が発される来期の終わりまでに出頭する者はすべて穏便な条件で放免を得るものとする.

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¶〔ヨハン・ルドルフ・〕グラウバー全集,大半がすでに刊行済み.予約申し込みをしていてまだ最初の支払いをしていない人はただちにリトル・ムーアフィールドのガン亭の隣の薬屋Chr・パック氏に支払いをされたし.支払いをしないと提供を受けることができない.また,これから申し込みをしようという人は前記のパック氏,養鶏場のキングズ・アームズ亭のD・ニューマン氏,あるいはリトル・ブリテンのペリカン亭のW・クーパー氏のところで案内をもらえる.そこで申し込みを受け付けてもらい,領収書を受けることができ,望む者には刊行作業の進み具合も示される.またそこでは,最近発行された『化学金言集』も手にはいり,その巻末にはグラウバーの著作についての若干の説明もある.製本済み価格六ペンス.
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王陛下のお慈悲により,家畜の市をハイドパーク・コーナー近くのブルック・フィールドで毎週火曜と木曜に開くことが認可された.最初の市は翌十月の第一木曜日に開かれ,以後,毎週火曜日と木曜日に続けられる.木曜日の市は昼の十二時に,火曜日の市は午前中は牛が,午後は馬が扱われる.
バート・ラウザー,小太りで低身,年は六十近く赤ら顔の男が最近,アイルランドに駐留しているゴールモイ卿の騎兵連隊のサー・チャールズ・ハミルトンの隊より脱走.真鍮ボタン,赤の裏地の明灰色の外套,ガルーンで縁飾りをした黒い帽子,もみ皮の肩ベルト,国王の紋章を着け,騎銃,拳銃,剣を帯びている.乗馬はずんぐりした明灰色で体高約十五ハンド以上.イングランドまたはスコットランドに来ているものと思われる.この男の身柄を馬,紋章,騎銃,拳銃,剣,その他装具とともに押さえ,書状その他でダブリンにおける前記連隊の担当官トマス・パルマー氏,あるいはヘレフォードのヒュー・ロッド・マーサー氏に伝えたものは五ギニーの報酬と適切な経費が支払われる.
月十四日,ある淑女の身辺から金の時計が外側の金のケースとともに紛失.一機構式.交換所小路のトマス・ダイド製作.頂部に男の子の像があり,ひもに結びつけられている.同品をロンドン,ベーシングホール通りのキングズ・アームズ・コートのジョン・スパイサー氏に送る,あるいは持参する者は三ギニーの報酬を与えられる.
月十一日,ケントのメイドストン近くのオタムのウイリアム・ベケットから明鉄灰色の雌馬行方不明に.体高約十四ハンド,腰の両側には馬車の引き革による擦りあとあり.たてがみは農夫が引くために切られている.体毛は耳のわきの鐘のためすっかり傷んでいる.ファンチャーチ・ストリート・マーチャントのサミュエル・サイノーク氏にこの馬について報せた者には一ギニーの報酬が支払われる.
月四日,ランカシアのサルフォードから鹿毛の馬が行方不明.体高十四ハンドで額に星あり.この馬についてロースベリーのファウンダーズ・コートの角のジョン・ヒル氏またはマンチェスターのブルズ・ヘッド亭のエドワード・ホレンド氏に報せた者には存分に報酬が支払われる.

(C) 2004.6. 友清理士; 訳文の最終修正日2003.10.2
革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜   歴史文書邦訳プロジェクト   

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