『ロンドン・ガゼット』でたどる名誉革命


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見どころ:11月にはいってイングランド国内で「オレンジ公の宣言」が配布された.配布者の一人が捕らえられ,ジェームズ二世のもとにも文書が届けられた.冒頭の宣言は,ジェームズ二世が「オレンジ公の宣言」の配布を禁じたもの.
11月1日(新暦では11月11日),オレンジ公は再度出港した.ドーヴァーからの報告はその艦隊の動向に関するものである.

2396号

ロンドン・ガゼット


政府当局により発行

1688年11月1日木曜日‐11月5日月曜日

国王による
布告

国王ジェームズ
オレンジ公とその追従者がまもなく余の諸王国の侵略を企んでおり,そのため反逆的な内容を含む文書や宣言を画策し,でっちあげている.それによって余の民をたぶらかし,(できうるならば)余の軍隊を籠絡せんがためである.膨大な部数が印刷されており,それを余の諸王国じゅうにあまねく配布するために人員が送り込まれ,あるいは雇われている.そしてあらゆる者は(犯罪者だろうと他の場合だろうと)法に通じている必要があり,これに反すれば罰を受けるものであるが,発覚したときにその罪の性質を知らなかったふりをすることで刑罰を逃れたり,言い逃れしたりできると思う者が出ないよう,余は慈悲深くも,余の枢密院の助言によって発されるこの余の布告によって,身分や位階を問わず余のすべての臣民にあらかじめ警告し,注意を促すものである.前記の反逆的な内容を含む文書や宣言だろうと,その一部,あるいは同様の性質の文書もしくは文書類であろうと,発表したり,配布したり,伝えたり,手渡したりしてはならないものとする.また前記の反逆的な内容を含む文書や宣言だろうと,その一部,あるいは同様の性質の文書もしくは文書類であろうと,読んだり,受け取ったり,隠匿したり,保存したりするようなまねをしてはならず,もしした場合にはこれをできる限りすみやかに余の枢密院の誰か,または余の裁判官,治安判事,あるいはその他の公の行政官に届け出,明らかにしなければならない.これに違背する者は法に従ってこの上ない厳格さをもって訴追されるものである.

余のホワイトホールの宮廷にて発布.一六八八年,余の治世第四年,十一月二日.

コンスタンティノープル,8月31日.既報のアドリアノープルへの宮廷の移動が決定されて,前スルタン・メフメト〔四世〕,その息子たちと兄弟,妃ヴァリデすなわち皇太后は今月二十四日,二〇〇のBostangees〔?〕の護衛のみを連れてひっそりと首都を出て野営地に移った.二十五日,スルタン〔スレイマン二世〕は(旅程その他の計画がうまくいくよう,Y***のモスクで羊を殺して貧民に分け与えるコルバン,すなわち生け贄の儀式を行なったのち)

厳粛な騎馬行列をなして首都を出て,この地から一リーグほどのスルタンの宮殿ダウー・パチャ近くで天幕が張ってある野営地に行った.スルタンは通常は宮殿で休み,午後スルタンの天幕にやってくるのである.しかし,この騎馬行列は,これまでの歴代スルタンの同様な場合に見せたような光彩や荘厳さはなかった.ハンガリーからこの地に届く情報は不確かこの上なく,実際にこの方面で何が起こっているのかを見きわめるのは困難である.報告によると,イェグヘン・パシャはブジアックのタタール人やテックレーと,ドナウ川のかなりの通過点デミール・カペー付近の地方で得た略奪品の分配をめぐって悶着を起こした.それによりテックレーは手勢とともにパシャのもとからいなくなり,タタール人はニコポリスに退去した.イェグヘンはこちらに向かい,ソフィアまで来ている.この地からネシラ人(あるいはアリールブ人)を徴募してパシャと合流させるよう命令が発されたが,これは経験も規律もない烏合の衆で,概して,国にとって大きな重荷であるばかりで,ほとんど公共のためにはならないことがわかっている.同様に,宰相は出発してソフィアで越冬すると言われている.しかし,これは人々,とりわけ兵士たちの心をアドリアノープルに着くまで落ちつかせるためにリークされているものと考えられている.新たな大宰相代理オミール・パシャは大宰相が首都を出発後ただちに就任した.スルタンは明日宿営地を発ってアドリアノープルに向かう.
カディス,10月11日.帰国予定の新スペイン艦隊を迎えるため先月はじめに軍艦七隻を率いて当地を出港したドン・マトベオ・オラヤが本港に帰還し,現在オラン救援のために兵や食糧を積み込み中.副提督パパチーノが六隻の艦隊を率いて前記艦隊をさがし求める予定.シャトー=ルノー侯爵がフランス艦六隻を率いて今この湾に滞在中.ガレオン船は来年初頭に西インドに向けて出発するため準備中.
ヴェネツィア,10月23日.去る二十七日にコルフ島を出発してこの地に到着した船の船長の報告によると,カソッポ沖でネグロポント包囲から帰還するトスカナのガレー船団に遭遇,ガレー船船長の一人から,彼らのネグロポント出港の時点で包囲軍はその地の堀まで進んでおり,


塁壁に三つの大きな突破口を開け,準備中の坑道爆弾が用意でき次第総攻撃にかかると知らされた.ダルマティアからの情報によれば,ダルマティア人がヘルツェゴヴィナ属州に侵入し,大量の略奪品を持ち帰ったという.今月二十日,マントヴァ公爵がハンガリーからの帰途当地に到着.
ワルシャワ,10月20日.リヴィフからの書状により,ポーランド軍がカミニエク前から撤退し,タタール人がその地に大量の物資輸送隊を送り込んだとの報せが確認された.地方議会は来月二十日に会合する予定であり,その目的は十二月十五日にこの地で開催されることになっているこの王国の全国議会を構成する代表を選任することにある.兵は分散し,冬営にはいった.

ウイーン,10月24日.ベオグラードからの報告によると,カプラーラ将軍はドナウ川,サヴァ川沿いの征服地の防衛に必要な命令を発し,セルビア人に武器弾薬を供給したのち,ワラディンの統治のために去った.イェグヘン・パシャは小規模の騎兵・歩兵からなる部隊とともにニシュ付近におり,ウスラー将軍とパシャとの間の何らかの交戦の報せが今日明日にもはいるものと思われている.バーデン公ルートヴィヒは当地に帰還する許可を得ている.ピッコロミニ伯爵(中将に任命された)がこの冬ボスニアで指揮に当たる予定.ヴェテラーニ将軍はワラキアの前線からトランシルヴァニアに戻り,その兵は冬営にはいった.グロースヴァルダインの封鎖はコルベッリ伯指揮下の兵によって継続されている.その地からの報せによると,守備隊から三〇〇の兵が糧食受領のため送り出され,コルベッリ伯はこれに対処すべくドイツ兵,ハンガリー軽騎兵からなる部隊に出撃を命じた.彼らは敵に遭遇すると四〇ほどの不正規騎兵で突撃をかけたものの,まもなく敗走.追撃した帝国軍は十名を捕虜にし,十四ないし十五を殺した.しかし,戻ってみると,イエニチェリがワゴンの内側で防備を固めていた.ドイツ兵が攻撃を開始すると,それを指揮していたストロッツィ伯がたちまちその場で銃弾を受けて死亡し,二〜三名の下士官が負傷した.我が兵はこれに臆することなく,二度目の襲撃を行なったが,またもやはね返された.しかし,ドイツ兵やハンガリー兵が三度目に馬から下りて〔突撃をかけると〕,この上ない頑強な抵抗の末,敵を破った.敵は捕虜となった二十三名を除いてことごとく粉砕された.この捕虜のうちにはワラディンの副総督もあった.我が陣営では,上で述べた士官のほかは,約四十名が戦死もしくは負傷.カニサ近辺のバティアーニ将軍指揮下の陣営からの情報によると,前記将軍は,トルコ軍が城壁および庭園(市街の内部ではないが橋でつながれている)の援護物の内側に閉じこもっており,四方を通行不可能な沼地に守られているのを見て取り,一計を案じて守備隊をおびき出すことが必要だと考え,それを実現すべく以下の試みを行なった.セルビア人の住む小さな町(カニサの近郊と言える)があり,四方をこれらの庭園および若干の小さな外堡で守られていた.バティアーニ将軍はその付近に宿営していた四〇〇〇の民兵とともに,今月十三日,この町に突入する構えを見せ,その一方で一〇〇〇のクロアティア兵をこの地とカニサの間に配置した.クロアティア兵には,市街を出てこの地の救援に向かうと思われる部隊が通り過ぎるまで姿を見せないように命令しておいた.期待に違わず,パシャは一〇〇〇の兵とともに打って出た.しかし,クロアティア兵は戦闘が待ちきれず,敵が近づく前に姿を見せてしまった.パシャは応戦し,攻撃してきたクロアティア兵を撃退した.しかし,バティアーニ将軍が救援に向かっており,パシャは一〇〇ほどの死傷者を出して後退した.パシャ自身も負傷者のうちにはいっていたが,傷は危険なものではない.我が陣営では約十が戦死,三十が負傷した.皇帝が新たに命じた募兵の規模は

二万になる模様.
ハンブルク,10月29日.先日マグデブルクにおいてザクセン選帝侯,ブランデンブルク選帝侯,ハノーヴァー公,ヘッセン方伯の会談があった.今月二十七日,ライン方面に進軍することになっているスウェーデン兵を指揮するビールケ男爵がこの地に到着.デンマーク国王は常備軍増強のため歩兵二〇〇〇,騎兵三〇〇〇の募兵を命じた.
ハンブルク,11月3日.リューネブルク軍は,フランクフルトに向かって進軍中のザクセン軍との合流に向けて行軍中.同様にブランデンブルク,ヘッセン・カッセルからも若干の兵が合流する予定.
フランクフルト,11月4日.今月二日,王太子率いるフランス軍がマンハイムへの進撃を開始した.ザクセン選帝侯が同盟軍を率いてこちらへ向かいつつある.
ブリュッセル,11月9日.今月一日,フィリップスブルクが明け渡された.守備隊長および守備隊は武器と物資,大砲四門とともに退去した.王太子は今度はマンハイムを包囲している.ブーフレール氏はコブレンツ前に陣取っている.ザクセン選帝侯は二万二〇〇〇の兵とともにフランクフルト近郊に到着した.ウイーンからの報せでは,郷里に向かっている一万のバイエルン軍がその地を通過した.そして皇帝は一万二〇〇〇を帝国方面に送り出すところである.
パリ,11月10日.去る月曜日,フィリップスブルク奪取を感謝してこの地でテ・デウムが歌われた.マンハイムも同様に陥落したとの情報もある.来たる金曜日に宮廷はヴェルサイユに戻る予定.

ドーヴァー,11月3日.本日,十時から十一時の間,膨大な数のオランダ艦隊が海を半分渡っているのが発見された.そしてこの午後五時ごろ,艦隊はみなこの地を通過,西に向かって海峡にはいっていった.風は東北東で,疾強風.

ディール,11月3日.エイルマー大佐指揮する英国艦スワローがダウンズに一隻の平底船を連行した.オランダ艦隊の給仕船の一つである.乗っていたのはコランビン少佐指揮するバビントン大佐の連隊歩兵四個中隊である.オレンジ公は艦隊とともにある.オランダ艦隊は去る木曜日の午後フレーを出港し,西に向かった.

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ンプソン軍曹(行方をくらましたか死亡したものと考えられている)の妻ハンプソン夫人の所在もしくは夫人に何があったのかをチャンセリー・レーンのクラウン・コートの家にてキッドウェル氏に通知し,彼女に支払われるべき金銭を受け取れるように(もし彼女が生きていれば)した者には,一ギニーの報酬が支払われる.
ョン・ウィロビーなるノーフォーク男,紳士の召使い,背は高く年のころは五十くらい.灰色の外套と革のズボンを着けている.銀ボタンあり.血色がよくかつらをつけず,目は灰色,非常に白い歯をして少し足を引きずっている.去る十月十八日に一〇〇ポンドを持って主人のもとを逃走.その金はロンドン,スレッドニードル通りの代書人ロバート・スタンパー氏から受け取ったもの.そして十月二十二日にはバッジ・ロウのド・コスタ氏の家の向かいで目撃されている.この男を捕獲し,前述のスタンパー氏に通知した者には五ギニーの報酬が支払われる.

(C) 2003.10. 友清理士; 訳文の最終修正日2003.10.2
革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜   歴史文書邦訳プロジェクト   

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