見どころ:11月にはいってイングランド国内で「オレンジ公の宣言」が配布された.配布者の一人が捕らえられ,ジェームズ二世のもとにも文書が届けられた.冒頭の宣言は,ジェームズ二世が「オレンジ公の宣言」の配布を禁じたもの. 11月1日(新暦では11月11日),オレンジ公は再度出港した.ドーヴァーからの報告はその艦隊の動向に関するものである. |
2396号 ロンドン・ガゼット政府当局により発行 1688年11月1日木曜日‐11月5日月曜日 | |
国王による 国王ジェームズ |
厳粛な騎馬行列をなして首都を出て,この地から一リーグほどのスルタンの宮殿ダウー・パチャ近くで天幕が張ってある野営地に行った.スルタンは通常は宮殿で休み,午後スルタンの天幕にやってくるのである.しかし,この騎馬行列は,これまでの歴代スルタンの同様な場合に見せたような光彩や荘厳さはなかった.ハンガリーからこの地に届く情報は不確かこの上なく,実際にこの方面で何が起こっているのかを見きわめるのは困難である.報告によると,イェグヘン・パシャはブジアックのタタール人やテックレーと,ドナウ川のかなりの通過点デミール・カペー付近の地方で得た略奪品の分配をめぐって悶着を起こした.それによりテックレーは手勢とともにパシャのもとからいなくなり,タタール人はニコポリスに退去した.イェグヘンはこちらに向かい,ソフィアまで来ている.この地からネシラ人(あるいはアリールブ人)を徴募してパシャと合流させるよう命令が発されたが,これは経験も規律もない烏合の衆で,概して,国にとって大きな重荷であるばかりで,ほとんど公共のためにはならないことがわかっている.同様に,宰相は出発してソフィアで越冬すると言われている.しかし,これは人々,とりわけ兵士たちの心をアドリアノープルに着くまで落ちつかせるためにリークされているものと考えられている.新たな大宰相代理オミール・パシャは大宰相が首都を出発後ただちに就任した.スルタンは明日宿営地を発ってアドリアノープルに向かう. |
塁壁に三つの大きな突破口を開け,準備中の坑道爆弾が用意でき次第総攻撃にかかると知らされた.ダルマティアからの情報によれば,ダルマティア人がヘルツェゴヴィナ属州に侵入し,大量の略奪品を持ち帰ったという.今月二十日,マントヴァ公爵がハンガリーからの帰途当地に到着. ウイーン,10月24日.ベオグラードからの報告によると,カプラーラ将軍はドナウ川,サヴァ川沿いの征服地の防衛に必要な命令を発し,セルビア人に武器弾薬を供給したのち,ワラディンの統治のために去った.イェグヘン・パシャは小規模の騎兵・歩兵からなる部隊とともにニシュ付近におり,ウスラー将軍とパシャとの間の何らかの交戦の報せが今日明日にもはいるものと思われている.バーデン公ルートヴィヒは当地に帰還する許可を得ている.ピッコロミニ伯爵(中将に任命された)がこの冬ボスニアで指揮に当たる予定.ヴェテラーニ将軍はワラキアの前線からトランシルヴァニアに戻り,その兵は冬営にはいった.グロースヴァルダインの封鎖はコルベッリ伯指揮下の兵によって継続されている.その地からの報せによると,守備隊から三〇〇の兵が糧食受領のため送り出され,コルベッリ伯はこれに対処すべくドイツ兵,ハンガリー軽騎兵からなる部隊に出撃を命じた.彼らは敵に遭遇すると四〇ほどの不正規騎兵で突撃をかけたものの,まもなく敗走.追撃した帝国軍は十名を捕虜にし,十四ないし十五を殺した.しかし,戻ってみると,イエニチェリがワゴンの内側で防備を固めていた.ドイツ兵が攻撃を開始すると,それを指揮していたストロッツィ伯がたちまちその場で銃弾を受けて死亡し,二〜三名の下士官が負傷した.我が兵はこれに臆することなく,二度目の襲撃を行なったが,またもやはね返された.しかし,ドイツ兵やハンガリー兵が三度目に馬から下りて〔突撃をかけると〕,この上ない頑強な抵抗の末,敵を破った.敵は捕虜となった二十三名を除いてことごとく粉砕された.この捕虜のうちにはワラディンの副総督もあった.我が陣営では,上で述べた士官のほかは,約四十名が戦死もしくは負傷.カニサ近辺のバティアーニ将軍指揮下の陣営からの情報によると,前記将軍は,トルコ軍が城壁および庭園(市街の内部ではないが橋でつながれている)の援護物の内側に閉じこもっており,四方を通行不可能な沼地に守られているのを見て取り,一計を案じて守備隊をおびき出すことが必要だと考え,それを実現すべく以下の試みを行なった.セルビア人の住む小さな町(カニサの近郊と言える)があり,四方をこれらの庭園および若干の小さな外堡で守られていた.バティアーニ将軍はその付近に宿営していた四〇〇〇の民兵とともに,今月十三日,この町に突入する構えを見せ,その一方で一〇〇〇のクロアティア兵をこの地とカニサの間に配置した.クロアティア兵には,市街を出てこの地の救援に向かうと思われる部隊が通り過ぎるまで姿を見せないように命令しておいた.期待に違わず,パシャは一〇〇〇の兵とともに打って出た.しかし,クロアティア兵は戦闘が待ちきれず,敵が近づく前に姿を見せてしまった.パシャは応戦し,攻撃してきたクロアティア兵を撃退した.しかし,バティアーニ将軍が救援に向かっており,パシャは一〇〇ほどの死傷者を出して後退した.パシャ自身も負傷者のうちにはいっていたが,傷は危険なものではない.我が陣営では約十が戦死,三十が負傷した.皇帝が新たに命じた募兵の規模は |
二万になる模様. 広告 ハンプソン軍曹(行方をくらましたか死亡したものと考えられている)の妻ハンプソン夫人の所在もしくは夫人に何があったのかをチャンセリー・レーンのクラウン・コートの家にてキッドウェル氏に通知し,彼女に支払われるべき金銭を受け取れるように(もし彼女が生きていれば)した者には,一ギニーの報酬が支払われる. |