オレンジ公ウイリアムの幼少時のエピソードから

オレンジ公ウイリアム (1650-1702) が幼少の時のエピソードをオルレアン公妃リーゼロッテ(1652-1722)の書簡集でみつけたので紹介したい.
オルレアン公妃リーゼロッテ(エリザベート・シャルロッテ)はルイ十四世の弟オルレアン公の妃で,おびただしい数の遠慮ない宮廷ゴシップに満ちた書簡を残したことで知られる.オレンジ公ウイリアムからははとこにあたる.イングランド王チャールズ一世の娘である第一王女メアリー(1631-60)の息子がウイリアム,チャールズ一世の姉であるボヘミア王妃エリザベスの子プファルツ選帝侯の娘がリーゼロッテなのである.なお,エリザベス・オブ・ボヘミアの娘ゾフィア,すなわちリーゼロッテの叔母はハノーヴァーに嫁ぎ,のちにイギリスにハノーヴァー朝を開くジョージ一世の母となる.
リーゼロッテは 1659-63 年に郷里のプファルツを出てハノーヴァーの叔母ゾフィアに引き取られて暮らしていたが,その 1659 年にゾフィアに連れられてハーグのエリザベス・オブ・ボヘミアを訪ねて翌春まで滞在している.以下の引用はこのときのものらしい.1659 年だとするとウイリアム9歳,リーゼロッテ7歳,ボヘミア王妃エリザベス63歳,第一王女メアリー28歳,ゾフィア29歳である.なお,ここに登場するハイド嬢はのちの英国王ジェームズ二世の妃で,当時は第一王女メアリーの女官をしており22歳である.

「私のおば上,あの懐かしい侯妃さまは第一王女を訪ねたことはありませんでした.でもボヘミア王妃が訪問するときに私も連れて行ってもらいました.そのときおばさんは私に言いました.
『気をつけるのよ,リゼット.みんなとはぐれたらだめですよ.あなたはいつもいなくなってどこへ行ったかわからなくなるのですから.いつも王妃さまのそばにいて,待たせたりしないようにね.』
私は言いました.
『あら,おばさま,大丈夫よ.ちゃんといい子でいるから.』
私はよく子供のほう〔オレンジ公ウイリアムのこと〕と一緒に遊びました.母親と一緒にいたので.ただ私はそれが母親だってことを知らなかったので長い間じろじろ見たあげくにこの女の人が誰だか教えてくれる人はいないかとあたりを見回しました.オレンジ公しかいなかったので近寄っていって言いました.
『ねえ,教えて.あの怒ったような鼻の女の人はだあれ?』
彼は笑って答えました.
『第一王女,僕の母上さ.』
ショックのあまり私は口もきけなくなってしまって,慰めようとしてミス・ハイドは私とオレンジ公を王女の寝室に連れて行ってくれました.私たちはいろんな遊びをしました.王妃さまが帰るときには声をかけてもらうよう頼んでおいたところ,トルコじゅうたんの上をころげまわっているときにお召しがありました.私はさっと飛び上がって謁見の間に走っていきましたが,王妃さまはもう次の間に着いていて,私は急いで第一王女のスカートを引っ張って呼び止めて,かわいらしくお辞儀をしてからその前に出て歩き,王妃さまについて馬車まで行きました.みんなが笑ったけれど,私はどうしてだかわかりませんでした.
家に帰ると,王妃さまはおばさんのところにいって,寝台に座って息苦しくなるほど笑いながら
『リゼットのお出かけはよかったわ』
と言って私がしたことを話しました.侯妃さまは王妃さま以上に激しく笑って,私を呼んで言いました.
『リゼット,よくやったわ.あの高慢ちきな王女に一泡吹かせてやったんですから.』」

また,この時期,二歳年上のオレンジ公ウイリアムと結婚すればすばらしい将来が開けるというようなことを言われたリーゼロッテは,シンデレラだってたくさんのすてきなことを約束されたけど,それでも灰の中で生きなければならなかったのよ,と答えたという.
その後,リーゼロッテはオルレアン公に嫁いでフランスに行くが,オレンジ公と結婚していればフランスよりはゾフィアのいるハノーヴァーの近くにいられたとぼやいたこともある.

なお,上の引用はリーゼロッテが晩年の 1720 年 11 月 26 日にイギリス皇太子妃キャロライン(のちのジョージ二世妃)に宛てた手紙である.スペイン継承戦争後の英仏協調の一環として,イギリス大使ステア卿から勧められたリーゼロッテは 1715 年 9 月にキャロラインに手紙を書いており,以後,文通が続いていた.キャロラインはリーゼロッテより31歳年下だが,やはり少女時代にハノーヴァーのゾフィアの薫陶を受けており,二人にはどちらも 1714 年に亡くなった侯妃を慕っていたというきずながあった.




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