イギリス革命史略年表
《 》内は拙著『イギリス革命史』での関連ページ(明示しないが1685年以降が下巻)
1628 権利の請願《3》
1629 議会解散(11年間の無議会政治の開始)《3》
1638 国民盟約(スコットランド長老派)
1639 スコットランドの教会総会が監督制廃止を決議
1639-40 主教戦争
1640 短期議会(三週間で解散)《3》
1640 長期議会《4》
1641 三年議会法
1641 ストラフォード伯(チャールズ1世の助言者)処刑
1641 星室庁(専制的とされる裁判所)廃止
1642 チャールズ1世,ノッティンガムで挙兵(大内戦の勃発/ピューリタン革命の開始)《4》
1642 エッジヒルの戦い《5》
1645 ネーズビーの戦い(議会軍が国王軍に勝利)《5》
1646 チャールズ1世,スコットランド軍に身を投じる《6》
1647 チャールズ1世,イングランドの議会軍に引き渡される(大内戦・第一期の終了)《7》
1648 国王派の蜂起(大内戦・第二期開始)《8》
1648 プレストンの戦い(議会軍が国王軍に勝利)《9》
1648 プライドの追放(長老派議員が排除されて残部議会に)《9》
1649 チャールズ1世処刑《9》
1649 クロムウェルのアイルランド遠征
1650 ダンバーの戦い(クロムウェルがスコットランド軍を破る)《13》
1651 ウスターの戦い(クロムウェルがスコットランド軍を破る)《14》
1651 航海法《22》
1652 第一次英蘭戦争(-1654)《22》
1653 クロムウェル,残部議会を解散《24》
1653 クロムウェル,ベアボーンズ議会を解散;統治章典に基づき護国卿に(狭義の共和制から護国卿体制へ)《24》
1655 クロムウェル,護国卿体制下の第一議会を解散《37》
1657 上院復活などを含む新体制《37》
1658 クロムウェル,護国卿体制下の第二議会を解散《37》
1658 クロムウェル病死.息子のリチャードが護国卿に.《37》
1659 リチャード・クロムウェル辞任(護国卿体制の終焉)《37》
1660 マンク将軍のロンドン入り.長期議会の再開《41》
1660 ブレダ宣言(オランダ亡命中のチャールズ2世が王政復古に向けた宣言)《43》
1660 王政復古(チャールズ2世帰国)《45》
1660 航海法再制定《55》
1661 騎士議会《53》
1661-65 クラレンドン法典(非国教徒抑圧)《54》
1662 出版許可法(検閲制度)《53》
1662 王立協会成立(勅許交付)《54》
1664 三年議会法(1641年のものに比べ弱い)《53》
1665 第二次英蘭戦争(-1667)《55-》
1665-66 ロンドンで大悪疫《63》
1666 ロンドン大火《72》
1667 オランダ艦隊,メドウェー川を遡上しチャタムの海軍基地近くまで襲撃《77》
1670 ドーヴァーの密約(チャールズ2世とルイ14世)《84》
1672 信仰自由宣言《159》
1672 第三次英蘭戦争(-1674)《161-》
1673 審査法(非国教徒の公職排除)《163》
1673 王弟ジェームズ,カトリック教徒のモデナ公女メアリー・ベアトリスと再婚《174》
1674 ウエストミンスター条約でオランダと講和(オランダとフランスの戦争は続く)《175》
1677 王弟ジェームズの娘メアリー,プロテスタントのオレンジ公ウイリアムと結婚《224》
1678 カトリック陰謀事件(カトリックの陰謀がでっちあげられ,カトリック教徒の弾圧へ)《230-》
1679 人身保護法《236》
1679 第一次排除法案,議会解散《236》
このころ排除法危機をめぐってホイッグ,トーリーの両党派が形成される
1680 第二次排除法案,議会解散《244》
1681 第三次排除法案,オクスフォード議会解散(以後,四年間の無議会政治)《250》
1683 ライ・ハウス陰謀事件(急進派ホイッグによるチャールズ2世暗殺未遂)《264》
1685 ジェームズ2世即位《3》
1685 モンマスの乱(チャールズ2世の庶子モンマス公が王位を要求)《7-》
1685 血の巡回裁判(反乱鎮圧後の弾圧)《15》
1685 フランスでナント勅令の廃止(プロテスタント弾圧)《19》
1686 ヘイルズ裁判(国王の法律の適用免除権を認めた)《18》
1687 信仰自由宣言《23》
1688 信仰自由宣言を再発布《28》
1688 七主教裁判事件(信仰自由宣言に抗議した主教が裁判となるも無罪)《29》
1688 名誉革命(オレンジ公ウイリアムの来寇,ジェームズ2世の国外逃亡)《56-》
1689 権利宣言;ウイリアムと妃メアリーは国王・女王に《102》
1689 軍律法(以後,ほぼ毎年更新)《114》
1689 ジェームズ2世,王位奪還を期してアイルランドに上陸《131》
1689 イングランド,大同盟戦争に参戦《133》
1689 寛容法(非国教徒に一定の寛容)《115》
1690 ボイン川の戦い(ウイリアム3世がアイルランドでジェームズ2世を破る)《143-》
1691 リメリック条約(アイルランド平定の完了)《157》
1692 グレンコー事件《119》
1692 国庫債券開始
1692 ラオーグの海戦(ジェームズ2世のイングランド侵攻不発に)《166》
1694 イングランド銀行設立《200-》
1694 女王メアリー病没.以後ウイリアム3世の単独統治.《208》
1694 三年議会法《205》
1695 出版許可法失効《205》
1696 ウイリアム3世の暗殺未遂《213》
1696 貨幣改鋳《215》
1696 土地銀行の失敗と財務府証券の開始《215-6》
1696 商務院発足《212》
1697 レイスウェイク条約(大同盟戦争終結)《219-》
1700 4月.金銭法案に関する下院の優位性をめぐり「名誉革命以来の上下両院の最も深刻な対立」(1704-5年の会期で上院は事実上下院の優位性を認める)
1701 王位継承法(ハノーヴァー家への王位継承を定め,王権を制限)
1702 アン女王即位(ホイッグを残しつつトーリー中心の政権)
1702 スペイン継承戦争に参戦
1704 トーリー右派失脚(ゴドルフィン,ハーレーによる中道政権)
1704 ジブラルタル占領
1704 ブレニムの戦い(マールバラ公率いる同盟軍がフランス軍に勝利)
1705 帰化法
1706 摂政法(ハノーヴァー家への王位継承手続きを定めたほか,王位継承法による制限を修正)
1706 ラミイの戦い(マールバラ公率いる同盟軍がフランス軍に勝利)
1707 イングランド・スコットランドの合邦(グレートブリテン王国成立)
1707 アン女王,拒否権行使(議会を通過した法に君主が裁可を与えなかった最後の例)
1708 ハーレー失脚,トーリーが政権を去り,ホイッグ政権成立
1708 アウデナールデの戦い(マールバラ公率いる同盟軍がフランス軍に勝利)
1708 ミノルカ島占領
1709 マルプラケの戦い(マールバラ公率いる同盟軍がフランス軍に勝利するも被害甚大で反戦派が勢いづく)
1710 サシェヴェレル事件(名誉革命を批判した牧師の裁判で有罪となるも罰が軽くホイッグ政府の権威失墜)
1710 ホイッグ政権倒れ,ハーレーによるトーリー政権成立
1711 マールバラ公爵夫人サラ(アン女王の寵臣)罷免
1711 便宜的国教徒禁止法成立
1711 マールバラ罷免
1713 ユトレヒト条約
1714 分派防止法(非国教徒弾圧)
1714 ハノーヴァー家のジョージ1世即位;トーリーを排し,ホイッグ政権成立
1715 十五年の乱(ジェームズ2世の遺児ジェームズ・エドワードが王位を要求)
1716 七年議会法
1717 減債基金
1719 便宜的国教徒禁止法,分派防止法廃止
1720 南海泡沫事件(元祖バブル)
1721 ウォルポールが第一大蔵卿に(翌1722年サンダーランド伯の死で事実上の首相に近い地位に;1730年のタウンゼンド辞任で首相となったとされる)


革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜   
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