コンデ公とテュレンヌの出自と前半生についてのメモ



●コンデ公の「公」(Prince)の由来

コンデ公ルイ・ド・ブルボン(ルイ二世)はブルボン家の血を引いている.コンデ公とルイ十四世は曾々祖父シャルル・ド・ブルボン(d.1538)を同じくするのである.
フランスのブルボン王家の開祖アンリ四世はシャルルの息子アントワーヌ・ド・ブルボン(1518-62)の息子である.
ブルボン家がコンデ公の称号を名乗るのはアントワーヌの弟ルイ・ド・ブルボン(1530-69)からである.母がコンデ(他と区別してコンデ・アン・ブリーという)の女相続人であり,ルイの結婚にあたっての契約でコンデもルイに与えられる所領に含められたのである.
ちなみに,アントワーヌとルイの間にはアンガン公フランソワ,枢機卿シャルル,ソワソン伯ジャンの兄弟がいる.

●テュレンヌの出自

フランス元帥テュレンヌ(1611-75)の父アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(1555-1623)はラ・トゥール一族の分家ラ・トゥール・ドーヴェルヌの六代目の当主であり,同家が1544年に獲得した,オーヴェルニュと隣接するテュレンヌ子爵領の領主でもあった.フランス王アンリ四世の斡旋で迎えた妻シャルロット・ド・ラ・マルクによりセダン公(Prince of Sedan)とブイヨン公(Duc de Bouillon)の位を獲得した.セダンはフランスの王権が及ばない独立公領である.1595年,ブイヨン公はオランダ独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムの娘エリザベート(1577-1642)と再婚した.
ブイヨン公の長男が公位を相続し,次男がテュレンヌ子爵となった.のちのフランス元帥である.
テュレンヌは15歳になるとオランダに送られ,オラニエ公ウィレムの息子マウリッツ,その後はフレデリック・ヘンドリックのもとで軍務を学ぶことになる.1629年にスヘルトーヘンボスの包囲に参加したときにはフレデリック・ヘンドリックの賛辞も得ることができた.
その後フランスで連隊を与えられ,1630年にはイタリアのカサーレに赴いたが,まだ無名だったマザランの活躍によってまもなくケラスコ条約が結ばれたため,活躍の場はなかった.
1634年,テュレンヌは正式にオランダ軍を去ってフランス軍の専属となり,ラモット攻略の功績で准将に任ぜられた.1635年にはライン川方面,1636年にはアルザス,1637年にはネーデルラント,1638年にはザクセン・ワイマール公のもと再びアルザス,1639,1640年はイタリア戦線と各地を転戦した.
1641年,リシュリューの不興を買ったソワソン伯を兄ブイヨン公がセダンでかくまったためリシュリューににらまれるが,ソワソン伯がフランス政府軍との戦いで戦死したため問題は解消された.
しかし,翌1642年,反宮廷の陰謀に巻き込まれたブイヨン公は逮捕され,テュレンヌはスペイン戦線でそれを知った.公の助命と引き換えに,セダン公領はフランスに引き渡された.
ただし,ブイヨン公への代替領土をめぐってその後も問題は尾を引くことになる.

●テュレンヌとコンデ公

1642年末にリシュリューが世を去り,マザランが実権を握る.
1643年,テュレンヌはトリノ奪取への貢献によってフランス元帥となった.五月にはアンガン公(1646年にコンデ公位を相続)がロクロワの戦いでスペインを破っており,フランスはイタリア,ネーデルラントで勝利を上げたことになる.しかし,ライン川戦線のドゥットリンゲンではフランス軍が帝国軍に大敗を喫しており,テュレンヌがドイツ方面軍を任されることになった.こうしてテュレンヌはコンデ公に次ぐナンバーツーの地位に登りつめていく.
1644年,テュレンヌはドナウエシンゲンでバイエルン軍に勝利を上げるものの,メルシーがフライブルクを奪取するのを防げなかった.まもなくコンデ公が増援を率いて駆けつけ,コンデ公はテュレンヌの協力も得てフライブルクを奪還した.
1645年にはスウェーデン王に協力すべくテュレンヌはライン川を渡ってドイツに進撃したが,メルシーに大敗を喫してしまった.またもやコンデ公が増援を率いて駆けつけ,ネルドリンゲンのメルシーを攻撃した.激戦となったが,メルシーの戦死でフランス軍の勝利に終わった.その後,コンデ公の病で指揮を引き継いだテュレンヌは強行軍でトリールを奇襲し,これを奪還して選帝侯を復位させた.
1646年,ミュンスターで行なわれている和平交渉をにらむマザランからテュレンヌはドイツ入りを禁じられていたが,皇帝軍とバイエルン軍が合流するとヴェーゼルでライン川右岸に出,スウェーデン軍と合流した.マイン川,ドナウ川とドイツの奥地へ進み,バイエルン選帝侯にウルムの和を結ばせた.
1647年はオランダが脱落したためネーデルラントのフランス軍はスペインと単独で戦う必要があった.テュレンヌはネーデルラント戦線に向かったが,そのすきにバイエルン選帝侯は再び皇帝陣営に加わった.
1648年,テュレンヌは再びライン川を渡ってドイツにはいり,スウェーデン軍と合流した.テュレンヌは皇帝軍をドナウ川の南に追いやり,さらにその主力を破り,バイエルン選帝侯をミュンヘンから追ってイン川にまで至った.
一方,八月にはコンデ公はランス(Lens)の戦いでスペインを破り,これが三十年戦争の最後の主要な戦闘となった.
ハプスブルク家は追いつめられ,フランスでもフロンドの乱が勃発しようとしていた.1648年10月,ウエストファリア条約によってフランスは皇帝,スウェーデンと講和した.

革命の世紀のイギリス〜イギリス革命からスペイン継承戦争へ〜 inserted by FC2 system