数学者ジョン・ウォリス(John Wallis; 1616-1703)の名誉革命後の暗号解読活動を中心に紹介する.名誉革命前の活動については別稿「ジョン・ウォリスと暗号解読1(1642-1688)」を参照されたい.
ウォリスは名誉革命(1688)後は当初ノッティンガム伯(1689〜1693年に国務大臣)の依頼により政府のために暗号解読を引き受けた.当時はウイリアム三世(オレンジ公ウイリアム)がイギリス・オランダ・神聖ローマ皇帝などの同盟軍を率いてフランスと戦っていたこともあり(『イギリス革命史』下・第二部参照),この時期にウォリスが解読したものはほとんどがフランス語のものだった.具体的には,少なくとも1689年6月14日〜1703年8月29日までの手紙が含まれる (Kahn p.1005).
名誉革命後にウォリスが新政権のために暗号解読を始めきっかけは,ジェームズ二世派の陣営から発されたフランス語の暗号の手紙が捕獲されたことだった (Wallis to Mr Harbord, 15 August 1691, infra).それは,アイルランドのプロテスタントの牙城ロンドンデリーを包囲する(1689年4月〜7月)アイルランドとフランスのカトリック兵からなる陣営からのものだった.ウォリスはその暗号の解読を,国務大臣ノッティンガムと与党ホイッグの下院議員リチャード・ハムデンから依頼されたのだった.二通目の依頼も同様の手紙で,三通目はポーランド駐在のフランス使節の本国への報告だった.
次の引用は最初の成果を依頼主の一人ハムデン議員に報告したものと思われる.
次の引用は追加説明だが,新政権からの依頼に応える最初の気負いからか,どうでもいいような誤記も含めて実に細かく報告している.
この手紙は暗号解読の現場の苦労を具体的に伝えている点でも興味深い.この手紙から,対象となった暗号では小さな数字を,35(r), 36(s)のようにアルファベット順に割り当てる単換字暗号(サイファー)に使っていることがわかる.一方,コード暗号である大きな数字は(完全なアルファベット順ではないとしても)配列に何らかの規則性があったらしく,「cで始まる単語」のような予想はできるのである(別稿(英文)では一部式でないのに「Dで始まる名前」のような推定ができるコード表を紹介).
これは多数の同様の依頼のほんのはじまりでしかなかった.ウォリスが上記の詳細な報告を書いていたまさにその日,次の依頼が届いたのである(英語版の引用参照).
次の手紙では解読の途中経過を報告するほどの緊急性を認識していたことがうかがえるが,ウォリスがノッティンガム伯のために解読した上述した三通目の手紙のことと思われる.
フランス王ルイ十四世は大同盟戦争(1688-1697)の開戦(『イギリス革命史』下・第二部参照)に当たり,ポーランド王ソビエスキを神聖ローマ皇帝との同盟から引き離して味方に取り込もうとしたが不成功に終わった.この手紙で述べられているのはそのようなフランスの試みについてである.
ちなみに,ハノーヴァー公女というとゾフィア・シャルロッテ (Wikipedia) のことと思われるが,ゾフィア・シャルロッテは1684年にブランデンブルク選帝侯の太子フリードリヒに嫁いでいるので,何か誤解があるようだ. Histoire de Jean Sobieski, Roi de Pologne (Oeuvres complettes de M. l'abbé Coyer, Tom. 7 (1783)所収)(Google)によると,フランスがブランデンブルク(プロイセン)に対抗してポーランド王の長男ヤクプの結婚の後押しをした事実はあったらしい.1688年に全ヨーロッパの垂涎の的である広大なラジヴィウ家の所領をもつルドヴィカ (Wikipedia) をめぐってブランデンブルク選帝侯の息子ルートヴィヒとポーランドのヤクプの間で争いがあった(p.261).ポーランド王を皇帝から引き離すためにフランス王もポーランドのヤクプを応援していたという.ルドヴィカはノイブルク家に嫁いだが,翌1689年になっても,ポーランド王はルドヴィカが王子ヤクプと一度婚約したことを理由にその所領を没収しようと訴え出たが,認められなかった.フランスはその後もフランスの血を引く公女を提案するつもりはあったが,君主の娘でないと受け入れられなかったという(p.298).
一方,皇帝レオポルトはプファルツ選帝侯の娘(皇妃の妹)との縁談をもちかけ,1691年3月に結婚のはこびとなった.だがフランス使節ベテューヌ侯(BeelyはFrançois-Gaston de Bethune, marquis de Chabris (1638-1692)とするが,The Cambridge Modern Historyの索引ではMaximilien-Aspinとされている;前者なら没年が歴史書の記述に合う)はこの結婚を阻止しようと策動してウイーンの宮廷の怒りを買い,結婚協約に侯のポーランド退去が盛り込まれたほどだった(Authentic memoirs of John Sobieski, King of Poland, Google, p.257).ポーランドを舞台にしたフランスと皇帝の外交戦はエスカレートし,皇帝の大使はフランスが現国王の存命中にフランスの意のままになるポーランド王を擁立する野心を抱いており,ベテューヌがその陰謀に関わっていると告発した.ポーランド王は大使に根拠を問うたが,大使は回答をはぐらかした(Histoire, p.301-302).大使がウイーンに送った使者が何者かに襲われるに及んで皇帝は激怒し,ポーランド王にベテューヌの追放を強く迫った.結局,ルイ十四世は追放される前にベテューヌをスウェーデン大使に転任させることになった(Histoire p.304, Authentic memoirs p.259).
ポーランドのフランス使節の手紙は重要な情報源だったらしく,ウォリスは1689年9月6日付の手紙も解読している(別稿(英文)参照)ほか,9月4日,5日などの手紙も次官を通じてノッティンガムから解読依頼されているし(英語版の引用参照),その後の手紙でもポーランドについてはしばしば言及される (EMLO).
こうして数か月もすると,ウォリスは暗号解読が過度な負担になっていると感じ,11月23日付の手紙で体調が悪かったことや,暗号解読の激務を続けるのは難しいことを述べた (Gentleman's Magazine, vol.59, p.3).翌月にはさらに,解読に時間がかかることを理解してもらえなければ奉仕をやめるしかないと訴えた.
アイルランド情勢に関してはノッティンガムも切迫感をもっており,1690年7月13日付の依頼では,すぐ解読して使者に解読文を持たせて帰すよう言ったほどだった(英語版の引用参照).そのとき解読を依頼された手紙というのはフランスの陸軍大臣ルーヴォワからローザン伯に宛てたものだが,ローザン伯は名誉革命で英国王位を追われたジェームズ二世を支援するフランス軍を率いていた.ノッティンガムの切迫感は,1690年7月1日にアイルランドのボイン川の戦いでジェームズ二世とローザン伯のジャコバイト軍が敗れたばかりというタイミングを考えれば理解できる.このとき,ローザン伯の所持品から暗号書簡が発見されたのである.ノッティンガムから送られてきたなかには,ルーヴォワからの5月1日,25日,26日,27日,6月10日付の手紙と,「〔ウォリスが〕判読できないフランス式の書体で書かれたフランスの名前」の6月22日付の手紙があった.
4日後,ウォリスは判読できない差出人からの手紙の暗号は解読できた.だが解読文を返送する際,ウォリスは,当初使者を空手で返した言い訳として,フランスの偉大な大臣によって,見たことのない暗号で書かれた手紙を,鍵なしに解読して,同じ使者に持たせて返すことなどできないと指摘せずにはいられなかった.
ルーヴォワの手紙は解読できたのとは別の暗号で書かれており,ウォリスは解読できなかった.ウォリスは「彼〔ルーヴォワ〕の暗号は一つも制覇できたことはなく,何か特殊な暗号化の方法を使っているではないかと思われますが,残念ながらまだ解明できずにいます」と述べた (Monthly Magazine, vol. XIII, p.447).ハリー・トンプソン『鉄・仮・面 歴史に封印された男』の付録に,ウォリスが解読できなかった暗号の一通(1690年5月27日付)が掲載されている.この暗号は400番台までの数字からなる数字暗号である.
ウォリスはフランス暗号の高度化を指摘している.
同じころ(7月26日),ウォリスは枢密顧問官サー・ヘンリー・ケーペル (Wikipedia)に簡単な暗号の解読を送った.朝受け取ったが簡単な暗号だったのでその日のうちに発送できたという (Monthly Magazine, vol. 13, pp. 560-561, vol. 14 pp. 251-252).
ウォリスに送られた包みには2通の手紙が含まれており,その一通が暗号の手紙を同封していた.暗号といっても十あまりの語句("Sir Will. Sharp", "Scotland", "three commissioners"など)を2種の暗号で暗号化しただけものだった.ウォリスは独特な綴り等から書き手はスコットランド人だろうと述べている.
また,ウォリスは文中の「ウィルソン」が国王を意味し,「ウィルソンがアイルランドの破産した商人の代理をしている」といった表現はウイリアム三世が(名誉革命により)ジェームズ二世に代わって王位にあることを指していると推測している.(このような商用文に見せかけた暗号文はジャコバイトがよく使う方法だった.)
のちにノッティンガムは同じような手紙の解読を依頼している(英語版の引用参照)が,解読文を使者に持たせるよう求めたときに比べて切迫感はない.
このときはウォリスは1月14日付で依頼されて19日には解読文を送っている.暗号で書かれた若干の語は3通りの暗号がごたまぜに使われており,各単語はどの暗号を使っているかのマークが付されていた.また,多くの冗字が使われていた.
ウォリスは最初の三通の解読でノッティンガム伯から五十ポンドの褒賞をもらったという (Wallis to Mr Harbord, 15 August 1691, infra) が,上記のように,その後も解読依頼は次々に舞い込んだ.ひっきりなしに依頼がくる様子は次の手紙からもうかがえる.
次の手紙はウォリスが自分の功績が話題になることに警戒心を示している.暗号が解読されていることが知れればフランスが暗号を強化したり変更したりする可能性があるので,暗号解読の事実は秘すべきだとの考えである.
(なお,上記で引用した手紙で言及されているブランデンブルク選帝侯が贈ったという話の「メダル」については,1691年6月9日付けの駐ベルリン大使宛の手紙で,期待させておきながら一向に何も来ないことで駐英ブランデンブルク使節への不満を述べている (Sermons p.xliv-xlvi)(一度だけ使節から食事に招かれたが,馬車代のほうがかえって高くついたという)(Sermons p.xlix).ちょうど一年後の1692年6月9日付けの駐ベルリン大使宛の手紙でも,いまだ受け取っておらず,贈るつもりがないなら公言すべきではないと不平を述べている ('John Wallis as a Cryptographer').結局は遅れに遅れた末に届いた.そのメダルはウォリスの肖像にも描かれているが,曾孫のウイリアム・ウォリスが換金してしまった (W. Wallis, Sermons, p.l).)
ウォリスはイングランドの同盟相手であるブランデンブルク選帝侯のためにも暗号解読をしていた.フランス王のポーランド駐在使節からの多数の手紙がブランデンブルク選帝侯からロンドン駐在使節スメッタンに送られ,それをウォリスが解読して送り返した.しかもそれらは多くの異なる暗号(しばしば暗号方式も異なる)を含んでいたという (W. Wallis, Sermons, p.xlvii).
ブランデンブルク選帝侯はウォリスが解読した手紙をポーランド王に送りつけた.ポーランド王は激怒し,フランスの使節を呼び出すとその面前で解読された手紙を聞かせ,国外退去を命じた (W. Wallis, Sermons, p.xliv).
ウォリスは次節で訳出する手紙や同趣旨の駐ベルリン大使ジョンソン宛の1691年6月9日付けの手紙(W. Wallis, Sermons, p.xliv-xlvi) ではこの一件を,暗号解読したことを当のフランスに知らせてしまうことの問題(前節参照)はわきにおいて,自分の手柄として語っている.
ただし,ポーランド王ソビエスキの伝記(上記参照)によればたしかにフランス使節ベテューヌはポーランドと皇帝が縁戚になることを妨害しようとしたり,王の存命中に別の国王を擁立しようとしたとの疑念を招いたりしてポーランドを退去せざるを得ないところまで追い込まれたが,上記のエピソードとはいささか事情が異なっている.
ウォリスは最初の五十ポンドをもらって以後,一年ほどで「百葉ほど」を解読したにも関わらず,全くのボランティア扱いだったのでハムデン議員に苦言を呈し,さらに五十ポンドを得た.だがその後は再び無報酬で,さらに一年以上たった次の1691年8月15日付の手紙のような不平を訴えることになる .(なお,1692年6月9日付けの駐ベルリン大使宛の手紙では「非常に難しく,非常に異なった暗号を二百から三百葉」解読したと述べている.)
同じ日,ウォリスはノッティンガムにも直接不満をぶつけている.
ウォリスは「ただ(無料)の馬をあまり酷使するなということわざがあります」「どんなにないがしろにされようとも私のほうでは両陛下への奉仕をないがしろにするつもりはないのでいったん放置した手紙に再び取り組みました」などかなりきつい言葉で苦言を呈し,また100ポンドの報酬を勝ち得ることができた(英語版の引用参照).
1692年には暗号に関する現存の手紙の量はぐっと少なくなる.1692年8月,女王メアリー二世がノッティンガムを通じてヘレフォードの主任司祭の地位のオファーを受けたが,ウォリスはこれを辞退して,暗に息子や義息ブレンコウの取り立てを求めるようなことを書いた (History of Parliament Online, Encyclopedia.com, Galileo Project).
ノッティンガムはホイッグ隆盛の流れのなか1693年11月に国務大臣を罷免されたが,ウォリスは後任のシュローズベリーのためにも暗号解読を行なった.1695年1月5日付のシュローズベリー宛の手紙では,ウォリスは解読できずにいることを報告せざるを得なかったが,その後10週間の苦闘の末解読できた (Gentleman's Magazine, vol.59, p.113; Sermons pp.xxxi-xxxii; Monthly Magazine, vol. 14, pp.252-253)(英語版の引用参照).
現存の手紙のリスト (EMLO) を眺めていると,1696年から1701年にかけてはウォリスの暗号解読作業は必要とされていなかったものと思われる.1699年にはウォリスはOpera Mathematica, vol. 3で,解読したフランスの手紙のうちの二編を出版している(別稿(英文)参照).
上述した駐ベルリン大使宛の手紙から,大使の要請に答えて個人で使う簡単な暗号としてシーザー暗号を勧めているくだりを訳出しておく.シーザー暗号で安全とする根拠は40年前のボドリーアン図書館に寄託した解読文集の「はしがき」(別稿参照)と同様である.
なお,この手紙では,フランスで亡命生活を送っているジェームズ二世が使っている暗号が(フランス政府の使う高度なコード暗号と異なり)単純なシーザー暗号程度のものであることも伝えていて興味深い.
ウォリスの暗号解読の評判は海外にも聞こえ,晩年には,ハノーヴァー宮廷に仕えていた(参考) ライプニッツから重ねて教示を乞われることになった.だがウォリスは最後までライプニッツの要請に応えなかった.ウォリスはバーネット主教から尋ねられたときにも,「洞察力と勤勉の前には難しすぎることなどありません」と答えるにとどめている (Davys p.51).
下記では,ライプニッツからの教授要請の顛末を両名の間に交わされた書簡(ラテン語)を交えながら追っていく.
ウォリスより一世代下のライプニッツは科学上の研究でウォリスの著作の影響も受けていたという.また,ライプニッツ自身,1680年代に暗号解読の初歩的な研究をしていたこともあって,1690年代半ばに科学上の問題でウォリスと文通を始めるとまもなく,暗号解読の技法について発表することを求めた(Leibniz to Wallis, 19/29 March 1697) (Beely).
この手紙でライプニッツは,数学など他の話題を論じたあとに,科学雑誌Acta Eruditorum(『学術紀要』;ライプツィヒで1682年に刊行された学術雑誌;二人の書簡では「ライプツィヒのActa」という意味でActa LipsiensiaとかActa Lipsicaと呼ばれている;ネットによると『学術論叢』『ライプチヒ学術論叢』『ライプチヒ学報』と訳されることがあるとのこと)に掲載されたウォリスの著書Algebra (1685) の匿名の書評を引用して「御著書Algebraを1686年のライプツィヒのActaのp.283で書評している者が,秘密に書かれたものを暴く技術について(de Arte Divinandi occulte scripta)何か発表をなさることを望んでいます.」と切り出している.その書評では,ウォリスの暗号解読の才を認め,それは数学とも共通点があると述べ,これまで紹介されてきたことがきわめて不完全だと指摘している.そして,フェリペ二世の暗号(別稿(英文)参照)を解読したことで有名なフランスのヴィエトの例もあるが,後世に記録を残すことが重要だとしている.
実はこの匿名の書評を書いたのは当のライプニッツだった.ライプニッツは,数学者としての観点からウォリスに暗号解読を論じてもらいたかったらしい (Beeley).書評が現われた1680年代半ばは,「ジョン・ウォリスと暗号解読1」で紹介したフェル主教への手紙で述べられているように,(王位継承にからむ処遇の問題もあってか)ウォリスがネーズビーで捕獲されたチャールズ一世の手紙を解読したとの疑惑が取り沙汰されている時期だった.それがライプニッツの耳にもはいったのだろう.ライプニッツは十年後にして当の本人にじかに要望をぶつける機会を得たわけである.
ライプニッツは自作自演の引用に続けて,暗号解読の技術が(ウォリスの死とともに)絶えること危惧し,過去の努力を無駄にして一からやり直す必要がないよう,若者に教授してほしいとの希望を述べている.
これに対し,ウォリスはその返書(Wallis to Leibniz, 6/16 April 1697)で,暗号の限りない多様性と,今でも困難なのに日々高度になっているために,暗号解読は決まった規則に帰着できないと述べ,仮説から始めてうまくいくかいかないかを見極めつつ仮説を維持したり破棄したりすることをそれらしい意味が確立されるまで続けるという一般論を述べるに留めた (Beeley).その上で,暗号で書かれた手紙の見本をオットー・メンケに送ってあると伝えた.このメンケというのは,上記の科学雑誌Acta Editorumの編集者である.
その手紙(Wallis to Mencke, 1/11 January 1697)はやはりメンケが解読規則を教えて欲しいと求めたのに答えたもので,ウォリスは決まった規則に帰着できないなどと述べつつも,暗号解読の見本を送っていた.ウォリスが見本に選んだのは,ポーランド駐在のフランス使節ベテューヌがデストレ枢機卿に送った1689年9月6日(新暦)の暗号の手紙で,ウォリスは暗号文,解読文,暗号の行間に解読内容を書き込んだもの,そして解読されたコード表の順に記載した.メンケはライプニッツへの報告(Mencke to Leibniz 22 May [1 June] 1697)で,これを印刷する出版者をみつける問題は別としても,解読文の公表の政治的危険性を指摘しているというが (Beeley),結局はウォリス自身が存命中にOpera Methmaticaに収録して出版することになる(別稿(英文)参照).
だがもちろん,暗号文と解読文を対照して公表すればどのような暗号が使われていたかはよくわかるが,それをどうやって解読したかまではわからない.ライプニッツはウォリスへの手紙で,例を挙げれば有用だったと述べた(Leibniz to Wallis, 28 May / 7 June 1697).ライプニッツはメンケにも,ウォリスが解だけでなく解読法も送るべきだったとこぼした(Leibniz to Mencke, August - beginning of September 1697).
ライプニッツの五月の手紙に対するウォリスの返書(Wallis to Leibniz, 30 July 1697)では,単にライプツィヒのActaの編者に今年一月に書き送ったが,受け取られたかどうかは知らないと述べただけだった.
ライプニッツは暗号解析の技術(Ars cryptolytica)は決まった方法に帰着できないことは認め,それができるくらいならたいしたことはないとしつつ,具体例に基づいてどのように解析を進めていったかを説明することを訴えた (Beeley, Davys p.31) (Leibniz to Wallis, 28 September /8 October 1697).一般規則に帰着できないまでも,試行錯誤しながら解読した過程を明かしてもらえれば,それと同じ手法が使えないまでも,考え方の指針として有用だということだろう.
翌春の手紙では,ライプニッツはメンケに送られた例を見たことを明言し,見事だとしつつ,方法の開示を重ねて訴えた(Leibniz to Wallis, 24 March 1698).(この間,1698年1月にハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグストが没し,ゲオルク・ルートヴィヒ,のちの英国王ジョージ一世があとを継いだ.)
この間,ウォリスとライプニッツの文通は暗号解読法に関する不毛なやり取りだけをしていたわけではなく,数学などを論じる手紙の付け足しのような形でこうしたやり取りが続けられてきているのだが,年末にもまた同じようにライプニッツは手紙の最後の部分で要請を繰り返した.ライプニッツは,ウォリスがその賞賛すべき暗号解読の技法を(自らの死とともに)絶えるままにすることがないことを願い,十分一般的なまたは十分確定的な規則によって理解できないことは知っているとしつつ,この不足は見本によって埋めることができ,推論の足跡を常に付記するようにすればよいと述べた.そして後世の者に恩恵を授けることを願い,書記が必要であればなんとかなるとまで言った(Leibniz to Wallis, 29 December 1698).書記云々の話が新選帝侯の正式な意向が背後にあることを示しているのか,図書館長・枢密顧問官としての立場での発言かはわからないが,この段階では後者であるように思える.
年明けのウォリスの返書(Wallis to Leibniz, 16 January 1699)も,ライプニッツを満足させるものではなかった.ウォリスは暗号解読に関しては誰もが同等ではなく,特殊な才能が必要であるとし,能力のある人でも大変な作業だと知るとしりごみしてしまうことを指摘する.その上で,暗号解読の作業を狩りにたとえて,獲物のさまざまな種類に応じて狩猟はさまざまに変わると述べた.(Opera Mathematicaは1699年の刊行なので同書で追えるのはここまで.)
ライプニッツの次の手紙(Leibniz to Wallis, 30 March 1699)は,追伸で暗号解析の件もお忘れなくと念を押して,人知の極致が失われるのは惜しいと一言述べるに留めた.いったんこの件は中だるみになったようで,暗号解読に触れられないままいくつかの手紙が交換された(Wallis to Leibniz, 20 April 1699; Leibniz to Wallis 4 August 1699; Wallis to Leibniz, 29 August 1699).
1699年11月になってライプニッツは再びこの話題を持ち出す(Leibniz to Wallis, 24 November 1699).今回はこれまで手紙の末尾で付け足しのように書いていたのとは異なり,手紙の前段で言及している.ライプニッツは,ウォリスの近著のすべてが有益とはいえ,暗号解読法の見本ほど喜ばしいものはなかったと述べた(この年出版されたOpera Mathematicaのことだろう.別稿(英文)参照).だがライプニッツはそのあとすぐに,これで十分ではないとして,才能があり熱意のある青年たちをウォリスのもとに派遣して指導を受ける話を持ち出し,引き受ける条件を尋ねるよう命令されていると述べている.今度はライプニッツ個人の希望ではなく,ライプニッツの仕えていたハノーヴァー宮廷の要請なのだろう(ウォリスも下記で引用するWallis to Tilson, 20 March 1701の手紙でライプニッツのはたらきかけがハノーヴァー選帝侯の意によるものとの認識を示している).しかも,ウォリスに条件を指定させようという破格の話である.
ライプニッツの本格的な提案に対してウォリスの返書は数か月後のものである(Wallis to Leibniz, 29 March 1700).ウォリスは暗号の件については何を言うべきか途方に暮れているとして,これまでとは違った事情を説明した.すなわち,国家の大事を伝える際に暗号が使われているので,暗号解読法が広く知られるようになると不都合だというのである.そして国王の意向を持ち出して誰にも教えないと宣言した(仮に教えることができるものとして).そしてそもそも主君に相談することなく無差別に開示していいものではないとした.ここに至って暗号解読法の開示については拒絶の意を明確にしたものの,ウォリスは,ライプニッツが解読しなければならないものがある場合には尽力すると結んだ.
ウォリスとライプニッツの間にはこのあとも年内に手紙の往復があるが,暗号解読の話題が蒸し返されることはない.
ウォリスが暗号解読法の開示に応じなかった理由として最初に挙げたのは,暗号解読は臨機応変に対応しなければならないもので,所定の規則に帰着できるようなものではないということだった.これは暗号解読に携わった者なら誰でも実感することといえる.だが,一般的な規則はだめでも,例を挙げてどのように推論を進めていったかを示してほしいというのにも応じず,解読の結果を出版物で公表したウォリスも,解読法を明かそうとはしなかった.そして,若者を指導してもらいたいというハノーヴァー宮廷をバックにしたと思われる具体的な要請がされるに及ぶと,ウォリスは国王の意向を持ち出して明確に拒否したのだった.
1685年に刊行されたジョン・フォークナーの『クリプトメニシス・パテファクタ』(別稿参照)のように,暗号解読の知識の普及が陰謀の防止に有益という考えも出てきてはいたものの,解読法の普及は国の安全保障上有害だという考えはこの後も根強く残ることになる.
Opera Mathematica(別稿(英文)参照)で公開されたフランスの暗号の二つの見本を見ると,ウォリスが恐れていたことがよくわかる.小さな数字が単独文字を表わすのに使われているというフランス暗号の決定的なウイークポイントが現われているのだ.暗号解読にあたってウォリスが真っ先にしたことは,こうした小さな数字に取り組むことであったはずだ.たとえば100程度以下の数字のみに着目すれば,ウォリスにとって単換字暗号と変わらなかっただろう(十分な量の暗号文があるとしてだが).(さらに簡単なことに,数字が飛び飛びとはいえ,文字がアルファベット順に配列されていた.)解読過程を明かそうとすれば,まず小さな数字を攻めるというこの基本戦略を暴露せずにはいられない.おそらくウォリスは,この基本的な構造が変更されて,たとえば単独文字も他の単語や名前もひっくるめてランダムに数字を割り当てる方式になってしまうことを恐れていたのだろう.
実はそのような方式は17世紀にすでに使われていた.例としては,護国卿時代のJ. Peterson (1653),Henry Manning (1655),William Lockhart (1656-1658)の暗号(Codes and Ciphers of Thurloe's Agents)やPRO SP 106/6 no. 34のスペイン語用の暗号(別稿参照),17世紀末にスペインで使われた暗号(Spanish Ciphers in the Seventeenth CenturyのCg.52, Cg.53, Cg.54, Cg.55, Cg.56参照)がある.おそらくウォリスの時代のイギリス,フランスにも例はあるだろう.遅くともアメリカ独立戦争時代には一般的なものとなる(ジョン・ジェイが使ったWE006やWE007(参考)やベンジャミン・フランクリンが使ったWE008(参考)など).
むしろ大家ロシニョールを輩出したフランスがいまだこのような弱い暗号を使っていたことが驚きだが,これらはフランス暗号の中のベストではなかったということかもしれない.
cryptographema, -atis n. 暗号(文)……羅和辞典に載っているcryptogramma, -atis, n.(英語のcryptogram)と同義で使われている.
・solutio cryptographematum 暗号文の解読, 暗号を解くこと
・de cryptographematis explicandis 暗号文の解法について
cryptographicus, -a, -um, adj. ……暗号の(羅和辞典に載っているcryptographia, -aeの形容詞形.geographia/geographicusの関係と同じ)
・res cryptographica 暗号のこと
cryptolyticus, -a, -um, adj. ……暗号解読.現代英語のcryptanalysisに対応.
・ars cryptolytica 暗号解読の技術
・de cryptolyticis 暗号解読について(名詞的に使っている)
ウォリスは自分の技術を息子にも伝えようとしていた.上記で引用した1691年8月15日の手紙でも息子ジョンを助手として昼夜奮闘したことが述べられいる.だが息子ジョンはウォリスの後継者とはならなかった.才能がなかったという記述もある (John Wallis as a Cryptographyer, p.83) が,ウォリスの曾孫は別の事情を伝えている.1694年2月28日の手紙でウォリスはこう書いている.「息子のジョン・ウォリスに時折どのように作業を進めるかを見せ,どのようにすれば同じようにできるかを教え(そもそも教えることができる限りにおいてですが),(一緒にいるときには)多くの手紙の解読で助手として使ってきました.息子はそれを理解するだけの力があるのですが,他の仕事があるので,その苦労について,やるに値しないと不平を言います.熟練するには(天性の洞察力に加えて)長い間の実践しかありません.」と述べている.法廷弁護士だった息子にとって暗号解読は割の合わない仕事だったという面もあるのだ (W. Wallis, Sermons, p.liii-liv).
それでも,暗号解読の技術がウォリスの死とともに絶えるのではないかというライプニッツの懸念は杞憂に終わった.ウォリスは娘の子(三男四女のうちの一人)である孫ウイリアム・ブレンコウに希望を託し,その指導のために俸給を得る約束を大法官サマーズから得ることに成功した (Kahn p.169, Calendar of Treasury Papers, W. Wallis, Sermons, p.lii-liii).これは1699年のことで,ちょうどライプニッツからの要請が本格化したころに当たる.ウイリアム・ブレンコウ(1683-1712)はまだ十六歳だったが,八十三歳になるウォリスとしてはあまり悠長に待ってもいられなかったのだろう.
ただし,すぐ支払いはされなかったようで,ウォリスは1701年になって催促しなければならなかった.下記の引用に見られるように,ウォリスはこの際,ちゃっかりライプニッツから繰り返し解読法教授の要請があったことも強調し,同じころの国王への覚書(Calendar of Treasury Papers)ではブレンコウが「イギリスの最もよくできた暗号の一つと非常によくできたフランスの暗号」を解読したという実績を訴えている.
ウォリスはここで,当初認められた孫の指導料という名目に対して変更をもちかけている.指導料という限りはそれはウォリス存命中に限られるが,ウォリスは自分の死後もブレンコウが年金を受けられるように要請しているのである.上記「名誉革命後の暗号解読」の節での引用からもわかるように,暗号解読者としてのウォリスの地位は公式なものではなく,あくまでも,オクスフォード大の数学者がたまたま暗号解読に長けているから依頼が舞い込むという形であり,報酬も約束されたものではなかった.ウォリスは孫のために,暗号解読を固定給が得られるポストにしようとしたのである.
ウォリスの要請は認められたらしく,ウォリス,ブレンコウの両名共同での俸給が1699年にさかのぼって支給されることになった.こうして1703年にウォリスが没したときには,ウイリアム・ブレンコウはイングランド初の公式な解読官(Decipherer)となったのだった.
ウォリスの自伝……1697年1月29日付けのトマス・スミス(オクスフォード大学のフェロー)宛の手紙のこと.かねてから生涯について書いてほしいと言われていたのに応えたものとのこと.なぜかPeter Langtoft's chronicle (1725)の編者による序文の付録(p.cxl)として収録されている(Google).
C.J. Scriba, "The Autobiography of John Wallis, F.R.S.," Notes and Records of the Royal Society, 25 (1970), 17-46. (従来知られていたものとウォリスの最初の草稿を対照)
Biographia Britannica (Google)
Oxford DNB
J. A. Kemp (ed.), John Wallis's Grammar of the English Language (1972) ... Introductionがウォリスのさまざまな面を扱う.
William Wallis, Sermons now first printed from the original manuscripts of John Wallis ... to hwich are prefixed memoirs of the author (1791) ... ウォリスの曾孫によるメモが1690年代の書簡などを引用しているが,日付を欠くものが多い(Gentleman's Magazineへの寄稿からの抜粋のよう).
"The Reverend John Wallis, F.R.S. (1616-1703)" Notes and Records of the Royal Society, 15 (1960), 57-67. (Royal Society創立に関わった人々の紹介をする巻に掲載されたウォリスの小伝)
G. Udny Yule, "John Wallis, D.D., F.R.S. (1616-1703)," Notes and Records of the Royal Society, 2 (1939), 74 (未見)
J. Scriba, Complete Dictionary of Scientific Biography at Encyclopedia.com
O'Connor, John J., Robertson, Edmund F., "John Wallis", MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews
Johannis Wallis, Opera Mathematica Vol.3 (1699) (Google)…p.615から書簡集.p.659-672にウォリスの解読した暗号あり(別稿に抜粋)
Gothofredi Guillelmi Lebnitii, Opera Omnia (Google) (1768)
Gottfried Wilhem Leibniz, Leibnizens mathematische schriften: Briefwechsel (Google, Internet Archive) (1859) (1699年以降の書簡も収録;ウォリスとのやり取りは巻頭から)
Philip Beeley and Christoph J. Scriba (ed)., Correspondence of John Wallis (1616-1703) (2003- ) (全8巻中2012年現在3巻まで刊行)
David Eugene Smith, 'John Wallis as a Cryptographer' (1917) (pdf)(1690年代のいくつかの書簡を収録)
Gentleman's Magazine, (vol.58 (1788), vol.59 (1789), p.3, 113)
Monthly Magazine and British Register, vol. XIII, pp.446-447, 560-561; vol. XIV, pp. 252-253, 521-522 (1689-1694年のいくつかの書簡を収録)(vol. XIII (欠行多数), vol.XIV)
John Davys, An Essay on the Art of Decyphering (1737) (ウォリスが図書館に寄託した解読文集に付した「はしがき」を収録)
Early Modern Letters Online (EMLO), Beta Version (accessed in January 2013) (online)
C.J. Scriba, "A Tentative Index of the Correspondence of John Wallis, F.R.S.," Notes and Records of the Royal Society, 22 (1967), 58-93.(暗号解読関係等については既刊本に掲載されたもののほかは原則除外)
National Register of Archives at The National Archives (ウォリス関係の原文書の所在一覧)
Philip Beeley, "Un de mes amis.": On Leibniz' Relation to the English Mathematician and Theologian John Wallis, in Leibniz and the English-speaking world (2007), pp.63-82 (ウォリスが解読した暗号の図版を掲載)
David Kahn, The Codebreakers (1967) (p.168にウォリスが解読した1693年6月9日のルイ十四世の手紙の図版を掲載)
Geneva, Astrology and the Seventeenth Century Mind p.25 (ウォリスが解読したチャールズ一世の1647年2月3日の手紙の図版を掲載)
ハリー・トンプソン『鉄・仮・面 歴史に封印された男』巻末にウォリスが解読できなかったというフランスの数字暗号を掲載
Life of Dr. John Barwick (Google)
Calendar of the Clarendon State Papers (CClSP), vol. IV (Internet Archive)
Underdown (1960), Royalist Conspiracy in England
Richard S. Westfall, 'John Wallis', The Galileo Project (各種データ・参考文献など)
'Wallis, John (1650-1717)' (History of Parliament Online)…ウォリスの息子の紹介
'Blencowe, John (1650-1717)' (History of Parliament Online)…ブレンコウの紹介
'A Recently Discovered Sir John Blencowe Document', 3 August 2009 (page from Blencowe Families' Association)…ブレンコウの子孫のページ