ジョン・ウォリスと暗号解読2(1689-1703)

数学者ジョン・ウォリス(John Wallis; 1616-1703)の名誉革命後の暗号解読活動を中心に紹介する.名誉革命前の活動については別稿「ジョン・ウォリスと暗号解読1(1642-1688)」を参照されたい.

目次

名誉革命後の暗号解読

個人的な暗号

ライプニッツからの教授要請

ウォリスの後継者

参考文献

名誉革命後の暗号解読

ウォリスは名誉革命(1688)後は当初ノッティンガム伯(1689〜1693年に国務大臣)の依頼により政府のために暗号解読を引き受けた.当時はウイリアム三世(オレンジ公ウイリアム)がイギリス・オランダ・神聖ローマ皇帝などの同盟軍を率いてフランスと戦っていたこともあり『イギリス革命史』下・第二部参照),この時期にウォリスが解読したものはほとんどがフランス語のものだった.具体的には,少なくとも1689年6月14日〜1703年8月29日までの手紙が含まれる (Kahn p.1005)

名誉革命後の最初の暗号解読

名誉革命後にウォリスが新政権のために暗号解読を始めきっかけは,ジェームズ二世派の陣営から発されたフランス語の暗号の手紙が捕獲されたことだった (Wallis to Mr Harbord, 15 August 1691, infra).それは,アイルランドのプロテスタントの牙城ロンドンデリーを包囲する(1689年4月〜7月)アイルランドとフランスのカトリック兵からなる陣営からのものだった.ウォリスはその暗号の解読を,国務大臣ノッティンガムと与党ホイッグの下院議員リチャード・ハムデンから依頼されたのだった.二通目の依頼も同様の手紙で,三通目はポーランド駐在のフランス使節の本国への報告だった.

次の引用は最初の成果を依頼主の一人ハムデン議員に報告したものと思われる.

7月27日のお手紙は去る日曜日の夜の就寝後にノッティンガム伯からの小包で受け取りました.翌日,伯爵閣下にはご依頼について当初危惧した困難について説明しました.それらの書類が難しい暗号で,しかも私が完全にマスターしていない言語で書かれていたためです.ですが,本気で取り組んでみると,(かかる不利な点にもかかわらず)予想以上にうまくいきました(それも予想以上のスピードで).送られてきた書類は暗号で書かれていたことをわかるように説明したものを付けて伯爵閣下にお返ししました.
(Wallis to Hampden, 1 August 1689, Gentleman's Magazine, vol.58, p.851-2)

次の引用は追加説明だが,新政権からの依頼に応える最初の気負いからか,どうでもいいような誤記も含めて実に細かく報告している.

この手紙は暗号解読の現場の苦労を具体的に伝えている点でも興味深い.この手紙から,対象となった暗号では小さな数字を,35(r), 36(s)のようにアルファベット順に割り当てる単換字暗号(サイファー)に使っていることがわかる.一方,コード暗号である大きな数字は(完全なアルファベット順ではないとしても)配列に何らかの規則性があったらしく,「cで始まる単語」のような予想はできるのである(別稿(英文)では一部式でないのに「Dで始まる名前」のような推定ができるコード表を紹介).

ノッティンガム伯からの包袋のうちに同封されていた貴方のお手紙を最近受け取り,(伯爵閣下への同様の包袋において前回の便で)簡単な答えを返送しました.もっと具体的に書くべきでしたが,その便を逃す恐れがあってできませんでした.その便は,包袋をあの通りで発送してもらうまで数分しかありませんでした.(とはいえ,速く仕上げてほしいとのことでしたので,昼も夜も奮闘しました.)
暗号文中にいくつか誤りがみつかりました.たとえば(ある箇所では)BrigadierがBrigadiesに(35のところが誤って36と書かれていた),effetがefgetに(二回),piedがpuedに,allerがalllerになっていました.これらはみな(オリジナルを改変することはすべきでないのでしませんでしたが)私の責任で転写文では正しておきました.そのほかは,一箇所,pouvoitをpouroitと誤記したかもしれませんが,暗号文中にあったものを一文字たりとも変えていないはずです.
いくつかの語は意味から補うしかありませんでした.たとえば(二行目か三行目で)c...sは,ここまでは確信がありました(つまり,cで始まる単語で,末尾にsが付加されている)が,(意味から)chancesと補いました(同じ数字は他で使われておらず,意味が通るような別の単語を思いつかなかったので).sans,tout,homme(それに他の若干の語)も同様ですが,こちらは異なる状況で何度か出現したことで確認されましたので疑問はありません.
若干の語(疑問が残るもの)は空欄のままにしておきました.たとえば(二行目で)entraine t...(ここはtrainまたはtraictまたは何らかのそのような語を補うべきかと思います〔手稿の傍注:否.tousiours〕).
そのしばらくあとにc... toute sorte de r... というくだりがありますが,これはcontre toute sorte de regleではないかと考えます.これは次の行にも現われそこではregleが一文字ずつ綴られています.ただ,前者の箇所ではraisonと読む可能性もあります.
他のいくつかのフランス語の単語は理解できませんでしたが,判明したとおりに書いておきました.数箇所では,単語の一部が欠けているようでした(ですが,私の判断で補うことはしませんでした).たとえば,ordonnerのはずが(二〜三箇所で)donnerとなっています.ただ,これは単に私がフランス語の語法に通じていないためかもしれません.
Mr d'HamiltonとMr RoseはMonsieurと読むべきかMonseigneurと読むべきかわかりません(これらの人物の身分を知らないので).ですが後者だと思います.というのも,同じ敬称があとで言及される,(手紙の冒頭および末尾からすると)Monseineurでなければならない人物に使われているからです.しかし,M... Melfort(ここでは別の数字が使われています)はMy Lord Melfortと読むべきだと考えます.ですが,Mr d'Hamiltonなどと書いておきました.(暗号文でない)手紙の冒頭でMr d'Hamiltonと書かれているからです.
Non estoit parfaitement b...はbasまたはbで始まる他の何らかのそのような語を補うべきと考えます.
En e... de tout craindreはexcesまたはeで始まる他の何らかのそのような語を補うべきと考えます.
Ny a... pas iciはavonsと補うべき.
L'escrit m... apreはmesmeまたはmで始まる他の何らかのそのような語を補うべき.
そして末尾付近でe...eは間違いなくenvoyéと読むべきものです.ですが,この単語が当時思いつかなかったので空欄にしておきました.
上記以外については,何も外していないと確信してよいかと思います.
「約四十の士官と六十ほどの兵士」が戦死または負傷したというとき,士官が四十だとしたら兵がたった六十なのは奇妙に思われます.soixante(60)がsix cents(600)の誤記だというならわかりますが.ですが,原文どおりにしておきました.
署名はMointisかNointisかPointisかわかりません.どれとも読めるような書き方だからです.私はNointisだと思いますが,当地での指揮官であることは確かです.
誰宛に書かれたかもわかりません(表書きは私に送られなかったので).ですが,文章の様子からして,書き手よりはるかに高位の者のはずです.
こんなに短い時間でどうしてあれほどぼろぼろになり変色したのかもわかりません.可能性としては,海水に投げ込まれたものが回収されたことがありえます.〔訳注:敵船に拿捕されそうになったときに文書を海中に投棄することはよくあった.〕
英語に翻訳して出版物で公表するべきかどうかはわかりません.
これほど些細なことでこれほど長い手紙で煩わせることをお許しください.どこまで確実に結論でき,どこからは推測でしかないか,そのような推測をするにあたってどのような根拠があったかについてお伝えしたかったのです.そうしておけば,フランス語により通じた人ならよりよい推測ができるかもしれません.
(Wallis to R. Hampden, Oxford, 3 August 1689)

これは多数の同様の依頼のほんのはじまりでしかなかった.ウォリスが上記の詳細な報告を書いていたまさにその日,次の依頼が届いたのである(英語版の引用参照).

フランスの駐ポーランド使節の手紙の解読

次の手紙では解読の途中経過を報告するほどの緊急性を認識していたことがうかがえるが,ウォリスがノッティンガム伯のために解読した上述した三通目の手紙のことと思われる.

お恥ずかしい限りですが,あのポーランドからの手紙の非常に込み入った暗号には多大な時間と労力と研究を注ぎ込んだのですが,いまだ仕上げられていません.ですがこれまでの作業から二つの重要な(と私には思える)ことがわかりました.一つはプロイセンに対して早期に戦争を仕掛けるというフランス王のポーランド王との協定(というよりは懇願)です.もう一つはフランス王が推進するハノーヴァー公女のポーランド王子との結婚についてです.それがどこまで我々が知るべき関心事かについては私は判断する立場にありませんが,(遅滞によって害が生じないよう)このように早めにお伝えしておくことが適切と考えました.その間,自分で持参するよう命令がない限り,次の便(またはさらにその次の便)でその手紙の(今できるよりも)完全な説明を与えるべく用意しております.
(Wallis to Nottingham, Oxford, 18 August 1689)

フランス王ルイ十四世は大同盟戦争(1688-1697)の開戦『イギリス革命史』下・第二部参照)に当たり,ポーランド王ソビエスキを神聖ローマ皇帝との同盟から引き離して味方に取り込もうとしたが不成功に終わった.この手紙で述べられているのはそのようなフランスの試みについてである.

ちなみに,ハノーヴァー公女というとゾフィア・シャルロッテ (Wikipedia) のことと思われるが,ゾフィア・シャルロッテは1684年にブランデンブルク選帝侯の太子フリードリヒに嫁いでいるので,何か誤解があるようだ. Histoire de Jean Sobieski, Roi de Pologne (Oeuvres complettes de M. l'abbé Coyer, Tom. 7 (1783)所収)(Google)によると,フランスがブランデンブルク(プロイセン)に対抗してポーランド王の長男ヤクプの結婚の後押しをした事実はあったらしい.1688年に全ヨーロッパの垂涎の的である広大なラジヴィウ家の所領をもつルドヴィカ (Wikipedia) をめぐってブランデンブルク選帝侯の息子ルートヴィヒとポーランドのヤクプの間で争いがあった(p.261).ポーランド王を皇帝から引き離すためにフランス王もポーランドのヤクプを応援していたという.ルドヴィカはノイブルク家に嫁いだが,翌1689年になっても,ポーランド王はルドヴィカが王子ヤクプと一度婚約したことを理由にその所領を没収しようと訴え出たが,認められなかった.フランスはその後もフランスの血を引く公女を提案するつもりはあったが,君主の娘でないと受け入れられなかったという(p.298)

一方,皇帝レオポルトはプファルツ選帝侯の娘(皇妃の妹)との縁談をもちかけ,1691年3月に結婚のはこびとなった.だがフランス使節ベテューヌ侯(BeelyはFrançois-Gaston de Bethune, marquis de Chabris (1638-1692)とするが,The Cambridge Modern Historyの索引ではMaximilien-Aspinとされている;前者なら没年が歴史書の記述に合う)はこの結婚を阻止しようと策動してウイーンの宮廷の怒りを買い,結婚協約に侯のポーランド退去が盛り込まれたほどだったAuthentic memoirs of John Sobieski, King of Poland, Google, p.257).ポーランドを舞台にしたフランスと皇帝の外交戦はエスカレートし,皇帝の大使はフランスが現国王の存命中にフランスの意のままになるポーランド王を擁立する野心を抱いており,ベテューヌがその陰謀に関わっていると告発した.ポーランド王は大使に根拠を問うたが,大使は回答をはぐらかした(Histoire, p.301-302).大使がウイーンに送った使者が何者かに襲われるに及んで皇帝は激怒し,ポーランド王にベテューヌの追放を強く迫った.結局,ルイ十四世は追放される前にベテューヌをスウェーデン大使に転任させることになった(Histoire p.304, Authentic memoirs p.259)

ポーランドのフランス使節の手紙は重要な情報源だったらしく,ウォリスは1689年9月6日付の手紙も解読している(別稿(英文)参照)ほか,9月4日,5日などの手紙も次官を通じてノッティンガムから解読依頼されているし(英語版の引用参照),その後の手紙でもポーランドについてはしばしば言及される (EMLO)

最初の弱音(1689)

こうして数か月もすると,ウォリスは暗号解読が過度な負担になっていると感じ,11月23日付の手紙で体調が悪かったことや,暗号解読の激務を続けるのは難しいことを述べた (Gentleman's Magazine, vol.59, p.3).翌月にはさらに,解読に時間がかかることを理解してもらえなければ奉仕をやめるしかないと訴えた.

ですがこのところ体調が思わしくなかったのです.視力もこれまでにないほど衰えを見せはじめており,このご奉公をやめざるを得ないほどです.続けるのであれば,思うように結果をお送りできないとしてもご容赦いただかねばなりません.この冬すでにこのこのご奉公で一方の目の視力を失いました(それも視力がよかったほうの目です).反対側の目もかすんできており,両目とも失わないためには大切にする必要があります.私の残念な境遇を陛下にお伝えいただけるものと信じております.
(Wallis to Nottingham, 22 December 1689, Gentleman's Magazine, vol.59, p.3; Date corrected according to EMLO, accessed on 14 January 2013)

アイルランド遠征中のローザン伯へのルーヴォワの手紙への取り組み (1690)

アイルランド情勢に関してはノッティンガムも切迫感をもっており,1690年7月13日付の依頼では,すぐ解読して使者に解読文を持たせて帰すよう言ったほどだった(英語版の引用参照).そのとき解読を依頼された手紙というのはフランスの陸軍大臣ルーヴォワからローザン伯に宛てたものだが,ローザン伯は名誉革命で英国王位を追われたジェームズ二世を支援するフランス軍を率いていた.ノッティンガムの切迫感は,1690年7月1日にアイルランドのボイン川の戦いでジェームズ二世とローザン伯のジャコバイト軍が敗れたばかりというタイミングを考えれば理解できる.このとき,ローザン伯の所持品から暗号書簡が発見されたのである.ノッティンガムから送られてきたなかには,ルーヴォワからの5月1日,25日,26日,27日,6月10日付の手紙と,「〔ウォリスが〕判読できないフランス式の書体で書かれたフランスの名前」の6月22日付の手紙があった.

4日後,ウォリスは判読できない差出人からの手紙の暗号は解読できた.だが解読文を返送する際,ウォリスは,当初使者を空手で返した言い訳として,フランスの偉大な大臣によって,見たことのない暗号で書かれた手紙を,鍵なしに解読して,同じ使者に持たせて返すことなどできないと指摘せずにはいられなかった.

ルーヴォワの手紙は解読できたのとは別の暗号で書かれており,ウォリスは解読できなかった.ウォリスは「彼〔ルーヴォワ〕の暗号は一つも制覇できたことはなく,何か特殊な暗号化の方法を使っているではないかと思われますが,残念ながらまだ解明できずにいます」と述べた (Monthly Magazine, vol. XIII, p.447).ハリー・トンプソン『鉄・仮・面 歴史に封印された男』の付録に,ウォリスが解読できなかった暗号の一通(1690年5月27日付)が掲載されている.この暗号は400番台までの数字からなる数字暗号である.

ウォリスはフランス暗号の高度化を指摘している.

暗号や暗号方式の変更が実に多く,今では〔フランスの暗号は〕きわめて精巧なものになっています(それだけ多くの暗号が解読されたことに気づいたということです).そのため当の私でさえ,解読できない場合があることより,解読できるものがあることが不思議に思えるほどです.このようなことを申し上げるのは,閣下が〔解読作業の〕遅れを国王陛下に対する忠誠心の不足のためと思われないよう必要だと思った次第です.
(Wallis to Nottingham, 22 July 1690, Gentleman's Magazine, vol.58, p.852; also cited in Monthly Magazine, p.253 without date)

簡単な暗号の解読 (1690.7, 1692.1)

同じころ(7月26日),ウォリスは枢密顧問官サー・ヘンリー・ケーペル (Wikipedia)に簡単な暗号の解読を送った.朝受け取ったが簡単な暗号だったのでその日のうちに発送できたという (Monthly Magazine, vol. 13, pp. 560-561, vol. 14 pp. 251-252)

ウォリスに送られた包みには2通の手紙が含まれており,その一通が暗号の手紙を同封していた.暗号といっても十あまりの語句("Sir Will. Sharp", "Scotland", "three commissioners"など)を2種の暗号で暗号化しただけものだった.ウォリスは独特な綴り等から書き手はスコットランド人だろうと述べている.

また,ウォリスは文中の「ウィルソン」が国王を意味し,「ウィルソンがアイルランドの破産した商人の代理をしている」といった表現はウイリアム三世が(名誉革命により)ジェームズ二世に代わって王位にあることを指していると推測している.(このような商用文に見せかけた暗号文はジャコバイトがよく使う方法だった.)

のちにノッティンガムは同じような手紙の解読を依頼している(英語版の引用参照)が,解読文を使者に持たせるよう求めたときに比べて切迫感はない.

このときはウォリスは1月14日付で依頼されて19日には解読文を送っている.暗号で書かれた若干の語は3通りの暗号がごたまぜに使われており,各単語はどの暗号を使っているかのマークが付されていた.また,多くの冗字が使われていた.

相次ぐ依頼

ウォリスは最初の三通の解読でノッティンガム伯から五十ポンドの褒賞をもらったという (Wallis to Mr Harbord, 15 August 1691, infra) が,上記のように,その後も解読依頼は次々に舞い込んだ.ひっきりなしに依頼がくる様子は次の手紙からもうかがえる.

愚息に閣下のもとに伺候するよう命じました(今ごろはロンドンにいるか,さもなくばすぐにも着くでしょう).閣下に,去る日曜日の便で包袋を送り,その前に二つをその前の日曜と火曜の便で送ったことをお知らせするためです.いずれも無事に閣下のお手元に届いているかと存じます.ですが,今は行き詰っています.他の五つの手紙は少なくとも三つの(たぶん四つだと思います)異なる暗号で書かれており,みなこれまで遭遇したことのない新しい暗号です.……
(Wallis to Nottingham, Oxford, 12 November 1689〔火曜日〕)

暗号解読の秘匿

次の手紙はウォリスが自分の功績が話題になることに警戒心を示している.暗号が解読されていることが知れればフランスが暗号を強化したり変更したりする可能性があるので,暗号解読の事実は秘すべきだとの考えである.

ロンドンを発つ前(出立は去る月曜日でした),オクスフォードに向けた閣下の指示をいただこうと(日曜日に)バークシャー・ハウスとホワイトホールの執務室で閣下にお目通りをしようとしましたが,どちらもお会いできませんでした.同じ日,同じような事情でブランデンブルクの使節にも伺候しました.その少し前に私の友人が,何人かの貴顕や地位ある人々が集まるある貴顕宅で食事をしていたとき,一人がおおっぴらにブランデンブルク選帝侯が私に贈り物として銘と金の鎖のある大きなメダルを送ったと公言しました.私の友人は,その前夜私と話したが私がそのようなことを知らなかったので間違いだと思うと言いました.件の地位ある人は,先に言ったことを確言し,見てきたかのように具体的に説明しました. 今では私は(事実ではなかったということを別にしても)仮に事実だったとしてもこの件をあれほど公然にしてしまうことが賢明とは思えません.事実でなかったわかるのは,その後,かの使節に伺候したのですが,そのようなことは何も言っていなかったからです.使節はたしかに主君は私に厚意のしるしを送るつもりであるが,そのようなものはまだ何も届いていないと言い,そのうえ,こうした奉仕に対して私に報いるのは〔イングランド〕国王と同盟国との共同の関心事である前に〔イングランド〕国王がすべきことであると付け加えました.なぜ私がそれを(私がフランス王の手紙を解読しているということを)そのように公然にすることが賢明なことであるかどうか疑問に感じるかというと,そうすれば,そのことが当地のフランスの情報員から何らかの形でフランス国王の知るところとなり,少なくとも次の不都合なことの一方または両方に見舞われることは避けられないからです.すなわち,そのような手紙の捕獲を防ぐ一層の注意と,今使っている暗号(これはすでに一度ならず変更されており,私はすでに九か十のフランスの暗号を手にしています)を他のより難しい,そして(可能性としては)克服不可能な他の暗号に変更することです.私がロンドンから持ってきた二通の手紙(一通は二葉,他方は五葉)は少し時間が取れたらきるだけすぐ仕上げるよう努力いたします.
(Wallis to Nottingham, Oxford, 20 February 1690〔木曜日〕)

(なお,上記で引用した手紙で言及されているブランデンブルク選帝侯が贈ったという話の「メダル」については,1691年6月9日付けの駐ベルリン大使宛の手紙で,期待させておきながら一向に何も来ないことで駐英ブランデンブルク使節への不満を述べている (Sermons p.xliv-xlvi)(一度だけ使節から食事に招かれたが,馬車代のほうがかえって高くついたという)(Sermons p.xlix).ちょうど一年後の1692年6月9日付けの駐ベルリン大使宛の手紙でも,いまだ受け取っておらず,贈るつもりがないなら公言すべきではないと不平を述べている ('John Wallis as a Cryptographer').結局は遅れに遅れた末に届いた.そのメダルはウォリスの肖像にも描かれているが,曾孫のウイリアム・ウォリスが換金してしまった (W. Wallis, Sermons, p.l).)

外国宮廷のための暗号解読

ウォリスはイングランドの同盟相手であるブランデンブルク選帝侯のためにも暗号解読をしていた.フランス王のポーランド駐在使節からの多数の手紙がブランデンブルク選帝侯からロンドン駐在使節スメッタンに送られ,それをウォリスが解読して送り返した.しかもそれらは多くの異なる暗号(しばしば暗号方式も異なる)を含んでいたという (W. Wallis, Sermons, p.xlvii)

ブランデンブルク選帝侯はウォリスが解読した手紙をポーランド王に送りつけた.ポーランド王は激怒し,フランスの使節を呼び出すとその面前で解読された手紙を聞かせ,国外退去を命じた (W. Wallis, Sermons, p.xliv)

ウォリスは次節で訳出する手紙や同趣旨の駐ベルリン大使ジョンソン宛の1691年6月9日付けの手紙(W. Wallis, Sermons, p.xliv-xlvi) ではこの一件を,暗号解読したことを当のフランスに知らせてしまうことの問題(前節参照)はわきにおいて,自分の手柄として語っている.

ただし,ポーランド王ソビエスキの伝記(上記参照)によればたしかにフランス使節ベテューヌはポーランドと皇帝が縁戚になることを妨害しようとしたり,王の存命中に別の国王を擁立しようとしたとの疑念を招いたりしてポーランドを退去せざるを得ないところまで追い込まれたが,上記のエピソードとはいささか事情が異なっている.

暗号解読の褒賞

ウォリスは最初の五十ポンドをもらって以後,一年ほどで「百葉ほど」を解読したにも関わらず,全くのボランティア扱いだったのでハムデン議員に苦言を呈し,さらに五十ポンドを得た.だがその後は再び無報酬で,さらに一年以上たった次の1691年8月15日付の手紙のような不平を訴えることになる .(なお,1692年6月9日付けの駐ベルリン大使宛の手紙では「非常に難しく,非常に異なった暗号を二百から三百葉」解読したと述べている.)

この手紙のまずはじめに,最近および以前いただいたご厚意や私の知らぬ間に(私が不平を申し立てたのでもないのに)私のためにご助力いただいたことへの感謝から始めるべきところですが,(貴重なお時間を取らせないよう)ご指示に従い,お尋ねの件について若干説明することにします.
今はまる二年以上前のことですが,ノッティンガム伯からの手紙とハムデン氏からの別の手紙により,ロンドンデリーを包囲する陣営からの捕獲されたフランス語の手紙を解読するよう依頼されました.そして(その後まもなく)同じ場所からの第二の手紙を,さらにはポーランドからの,フランス王の駐在大使からフランス王への第三の手紙〔上記参照〕と続きました.これを実行したので,〔国務大臣〕閣下は私に五十ポンドの恩賞(国王からのものと拝察します)を賜りました.それは,当時なされた奉仕に対する結構な心づけであり,(ありがたくも)国王陛下の是認の証と考えました.
その後,同様の奉仕を絶えず仕事とする状態になりました.私は(助手をしていた息子とともに)昼も夜も奮闘し(仕上げるより速く次々に手紙がやってくるので),長い間それがほとんど私たちの専業の仕事となりました.
約一年後,(最初の三通の手紙に対するもの以来)報酬として(聞こえのよい言葉のほかは)何も受け取らなかったので,ハムデン氏にそのことをお知らせしました(氏も加わっての依頼で私はこのご奉仕を引き受けたのです).氏が(おそらく)ノッティンガム伯に話をつけてくださり,さらに五十ポンドを送っていただきましたが,それが私が受け取ったすべてです.
これは,かほどの奉仕(これは誰もがしてさしあげることができるものではありません)に対しては決して過分な報酬ではないとご判断いただけるものと思います.その時までには,解読のために私に送られた暗号の書類を百葉ほど解読していたのです.そのいくつかは(氏からお聞きいただけますが)非常に重大な内容でした.それらの手紙のいくつかの解読が,当時,ポーランドにおけるフランス王の計略の一切を完全に打ち砕き,フランス王の大使が不名誉のうちにその地から放逐される結果をもたらしたのです.その一事は国王陛下とその同盟諸国に対してずっと大きな利益となったものであり,それに関して私が受け取る可能性のあるすべてをもってしてもそれを超えることはないでしょう.
私の記憶によれば,アーリントン卿は(国務大臣職を辞する〔1674〕少し前に)わざわざ私を召し出し,(私が求めたわけでもないのに)即金で五十ギニーをくださり,随時私のもとに送られる手紙の解読に努めるために四半期毎に五十ギニーを約束してくださいました(それはきちんと支払われました).そして(私の記憶では)卿の国務大臣辞任までに二百ギニーを受け取りました.それでも,アーリントン卿に対して私のしたことは,ノッティンガム卿に対してした奉仕の十分の一にもなりません.
しかしながら,あの五十ポンドの褒賞がそれまでになされたすべての奉仕(最初の三通の手紙以外の)に対するものだったのかその後のすべてに対するものだったかという点は持ち出さないことにしますが(今や後者だったのだと思われます),その後まる一年以上も同じ仕事を続けていますが,一ペニー相当のものさえいただいておりません(それにいただけそうにないものとお見受けします). たしかに,いつも幾多のありがたいお言葉を頂戴しております.閣下が私の卑しいしもべである;忠実なしもべである;この上なく忠実なしもべである〔いずれも手紙の末尾の常套文句で「敬具」というほどの意味で目上の者からも使う〕;この難しい問題での私の忠勤や成功を必ず国王のお耳に入れる;この困難な作業に費やした努力はよく承知している;私のために尽くすどんな機会でもあれば幸甚である;国王は私の熱意や敬愛をご承知であり,(閣下の信ずるところでは)近々何らかのご厚意のしるしを示されるであろう(何らかのお取り立てのことと拝察いたします)し,その際には閣下も努力を怠らない;私のためになるよう私の奉仕を口添えしていただける;などです. ですが,こうした約束は二年もそのままになっています.その間(多くの地方執事や主教,大主教が叙任されたのに)閣下がそれほどに望んでおいでのことの機会をみつけられなかったというのは奇妙なことに思えます.
さて,薬剤師らのいうところでは,強心剤には調製後時間がたつと効き目が弱くなるものがあるそうです.そして(事情通と称する者から)聞いたところでは,宮廷人というものはすぐ実行しない場合に約束をするのであって,そもそも実行する見込みは少ない(だがもちろん口先だけはきちんとしている),なおざりの約束をあてにすることは昔の貸し金の返済を求めるようなもので,放置された期間が長いほど絶望的になるものだということです.
〔国務大臣が〕取り立てについてお漏らしになることについては,私は何も求めず,向こうも何も差し出さないということです(よって,この限りでは行き違いはありません).それに(自分や知己により)取り立てを求める者はあまりに多いので,求めているように見えない者が当たる可能性は低くなるのです.
……
(Wallis to Mr Harbord, 15 August 1691)

同じ日,ウォリスはノッティンガムにも直接不満をぶつけている.

追伸
ですが閣下からこれほど多くの新しい〔解読すべき〕手紙をいただきながら以前の,6月11日の手紙で申し上げたことに全くご配慮いただけないことはいささか奇異に存じます.その際は解読者が必要ないほどはっきり書いたつもりでおりました.明らかに閣下の他の事務員たちのほうがよい俸給を受けています.さもなければみな閣下に仕えることはしないことでしょう.
(Wallis to Nottingham, 15 August 1691, from Sermons p.xxxv)

ウォリスは「ただ(無料)の馬をあまり酷使するなということわざがあります」「どんなにないがしろにされようとも私のほうでは両陛下への奉仕をないがしろにするつもりはないのでいったん放置した手紙に再び取り組みました」などかなりきつい言葉で苦言を呈し,また100ポンドの報酬を勝ち得ることができた(英語版の引用参照).

その後

1692年には暗号に関する現存の手紙の量はぐっと少なくなる.1692年8月,女王メアリー二世がノッティンガムを通じてヘレフォードの主任司祭の地位のオファーを受けたが,ウォリスはこれを辞退して,暗に息子や義息ブレンコウの取り立てを求めるようなことを書いた (History of Parliament Online, Encyclopedia.com, Galileo Project)

ノッティンガムはホイッグ隆盛の流れのなか1693年11月に国務大臣を罷免されたが,ウォリスは後任のシュローズベリーのためにも暗号解読を行なった.1695年1月5日付のシュローズベリー宛の手紙では,ウォリスは解読できずにいることを報告せざるを得なかったが,その後10週間の苦闘の末解読できた (Gentleman's Magazine, vol.59, p.113; Sermons pp.xxxi-xxxii; Monthly Magazine, vol. 14, pp.252-253)英語版の引用参照).

現存の手紙のリスト (EMLO) を眺めていると,1696年から1701年にかけてはウォリスの暗号解読作業は必要とされていなかったものと思われる.1699年にはウォリスはOpera Mathematica, vol. 3で,解読したフランスの手紙のうちの二編を出版している(別稿(英文)参照).

個人的な暗号

シーザー暗号 (1692)

上述した駐ベルリン大使宛の手紙から,大使の要請に答えて個人で使う簡単な暗号としてシーザー暗号を勧めているくだりを訳出しておく.シーザー暗号で安全とする根拠は40年前のボドリーアン図書館に寄託した解読文集の「はしがき」(別稿参照)と同様である.

……
ご希望の,個人的に使いたく,あまり時間をかけられないため簡単だがそこそこ安全な暗号についてですが,次のようなものをお試しになってもよいでしょう.
文字a b c d e f g h i k l m n o p q r s t u w x y zについては,アルファベット中でそれらの次の文字b c d e f g h i k l m n o p q r s t u w x y z aまたはそれらの直前の文字z a b c d e f g h i k l m n o p q r s t u w x yを書きます.
あるいはそれらの文字の後または前の二つ先,三つ先のものでも構いません.そして(冗字として)数字1 2 3 4 5 6 7 8 9やギリシア文字α β γ δ ε ζなどや他のそのような記号を混ぜます.そして,そのような一つのアルファベット〔換字表〕によってある人と文通し,別のアルファベットによって別の人と文通すれば,いずれの人も他の人の暗号を理解できません.(これは非常に簡単に使える方法です.(それに,私は,ジェームズ王が当地の連絡員と使っている暗号もこの程度のものであることを知っています.))それがそこそこ安全であるというのは次のような理由によります.1.手紙が捕獲されるかどうかは一つの可能性である.2.そうだとしても,手紙を手にした人が(無意味と考えて無視するのではなく)解読を試みるというのはさらに一つの可能性である.3.それをできる者に行き当たるかどうかはさらに一つの可能性である.4.解読されたとして,それが貴方に何らかの著しい害をなすかどうかもまた一つの可能性である.(というのも,きわめて重大な事柄をその暗号に託すようなことはなさらないと思います.)そしてこれらすべての偶然性のうち,一つでも思い通りの結果になれば,安全なのです.(もう少し面倒になってでも)もう少し安全なものがお望みでしたら,オクスフォードから送ることもできます(今,オクスフォードに戻る途上です).
(Wallis to Mr J. Johnston, Secretary for Scotland at Nottingham's Office, 9 June 1692)

なお,この手紙では,フランスで亡命生活を送っているジェームズ二世が使っている暗号が(フランス政府の使う高度なコード暗号と異なり)単純なシーザー暗号程度のものであることも伝えていて興味深い.

ライプニッツからの教授要請

ウォリスの暗号解読の評判は海外にも聞こえ,晩年には,ハノーヴァー宮廷に仕えていた(参考) ライプニッツから重ねて教示を乞われることになった.だがウォリスは最後までライプニッツの要請に応えなかった.ウォリスはバーネット主教から尋ねられたときにも,「洞察力と勤勉の前には難しすぎることなどありません」と答えるにとどめている (Davys p.51)

下記では,ライプニッツからの教授要請の顛末を両名の間に交わされた書簡(ラテン語)を交えながら追っていく.

最初の依頼(1697)

ウォリスより一世代下のライプニッツは科学上の研究でウォリスの著作の影響も受けていたという.また,ライプニッツ自身,1680年代に暗号解読の初歩的な研究をしていたこともあって,1690年代半ばに科学上の問題でウォリスと文通を始めるとまもなく,暗号解読の技法について発表することを求めた(Leibniz to Wallis, 19/29 March 1697) (Beely)

この手紙でライプニッツは,数学など他の話題を論じたあとに,科学雑誌Acta Eruditorum(『学術紀要』;ライプツィヒで1682年に刊行された学術雑誌;二人の書簡では「ライプツィヒのActa」という意味でActa LipsiensiaとかActa Lipsicaと呼ばれている;ネットによると『学術論叢』『ライプチヒ学術論叢』『ライプチヒ学報』と訳されることがあるとのこと)に掲載されたウォリスの著書Algebra (1685) の匿名の書評を引用して「御著書Algebraを1686年のライプツィヒのActaのp.283で書評している者が,秘密に書かれたものを暴く技術について(de Arte Divinandi occulte scripta)何か発表をなさることを望んでいます.」と切り出している.その書評では,ウォリスの暗号解読の才を認め,それは数学とも共通点があると述べ,これまで紹介されてきたことがきわめて不完全だと指摘している.そして,フェリペ二世の暗号(別稿(英文)参照)を解読したことで有名なフランスのヴィエトの例もあるが,後世に記録を残すことが重要だとしている.

実はこの匿名の書評を書いたのは当のライプニッツだった.ライプニッツは,数学者としての観点からウォリスに暗号解読を論じてもらいたかったらしい (Beeley).書評が現われた1680年代半ばは,「ジョン・ウォリスと暗号解読1」で紹介したフェル主教への手紙で述べられているように,(王位継承にからむ処遇の問題もあってか)ウォリスがネーズビーで捕獲されたチャールズ一世の手紙を解読したとの疑惑が取り沙汰されている時期だった.それがライプニッツの耳にもはいったのだろう.ライプニッツは十年後にして当の本人にじかに要望をぶつける機会を得たわけである.

ライプニッツは自作自演の引用に続けて,暗号解読の技術が(ウォリスの死とともに)絶えること危惧し,過去の努力を無駄にして一からやり直す必要がないよう,若者に教授してほしいとの希望を述べている.

これに対し,ウォリスはその返書(Wallis to Leibniz, 6/16 April 1697)で,暗号の限りない多様性と,今でも困難なのに日々高度になっているために,暗号解読は決まった規則に帰着できないと述べ,仮説から始めてうまくいくかいかないかを見極めつつ仮説を維持したり破棄したりすることをそれらしい意味が確立されるまで続けるという一般論を述べるに留めた (Beeley).その上で,暗号で書かれた手紙の見本をオットー・メンケに送ってあると伝えた.このメンケというのは,上記の科学雑誌Acta Editorumの編集者である.

ウォリスがメンケに送った見本(1697)

その手紙(Wallis to Mencke, 1/11 January 1697)はやはりメンケが解読規則を教えて欲しいと求めたのに答えたもので,ウォリスは決まった規則に帰着できないなどと述べつつも,暗号解読の見本を送っていた.ウォリスが見本に選んだのは,ポーランド駐在のフランス使節ベテューヌがデストレ枢機卿に送った1689年9月6日(新暦)の暗号の手紙で,ウォリスは暗号文,解読文,暗号の行間に解読内容を書き込んだもの,そして解読されたコード表の順に記載した.メンケはライプニッツへの報告(Mencke to Leibniz 22 May [1 June] 1697)で,これを印刷する出版者をみつける問題は別としても,解読文の公表の政治的危険性を指摘しているというが (Beeley),結局はウォリス自身が存命中にOpera Methmaticaに収録して出版することになる(別稿(英文)参照).

(大意)
……
暗号の解読について,規則を教えて欲しいとのことだが,多大な苦労と(私が言ってよければ)鋭い洞察力を伴うことであり,決まった規則によって理解できるものではない.暗号は多様なので(それも日々増している),その才覚は長年の経験によって得る必要がある.(いわば)〔剣闘士は〕状況に応じて闘技場で策を決めるのだ.
このことに初めて取り組んだのは五十年以上前のことだった(当時の暗号は今日より簡単だった).それは簡単な暗号(私が初めて見たもの)で,二時間で制覇した.
その後は随時,より難しいものに取り組んだが,まずまずの成功だった.
といっても,あらゆる暗号で書かれたあらゆるものが私に解読できるというわけではない.中には(より複雑な暗号のため,才覚不足のため,仮説が外れたためなどで)私の手に負えなかったものがあることは認めるにやぶさかではない.
複雑な暗号(今日の暗号はそうだが)を解くのがいかに困難で厄介に満ちているかをおわかりいただけるよう,多くのうちから例を一つ送る.私に関わったすべてのうちで最も難しいものではなく,もっと難しいものを解明したこともあったと思う.
ベテューヌ侯(ポーランド王妃の兄〔侯の妃がポーランド王ソビエスキの姉〕にしてフランス王のポーランドへの使節)からデストレ枢機卿に手紙が送られ,その写しをベテューヌは(他の手紙に同封して)パリのクロワシー侯(フランス王の大臣)に送ったが,それが私の手元にきた.
これを私は送るべく選んだ.誰もが正しいか否かがわかるように示した.
一つの数字〔コード〕で表わされている固有名詞(および同様のもの)は,文脈から以外の方法では推測できない.だが一つかそこらの数字で私が間違った推測をしたとしても,容易に許されるだろう.というのも,書き手の過失(眼前に鍵〔コード表〕があるのに数字を取り違える)によって誤りが導入されたことは明らかだ.ありがちなことで驚くにはあたらない.
さてここでは,第一に手紙自身,あるいは手紙の写し(私の手元に届いたときのように暗号で書かれている)が忠実に転記される.第二に,私が作成した翻訳〔平文〕(ここで,書き手の導入した誤りを訂正したり,省略を補ったりしているものは注記した).その後,同じものを,どの数字が何を示すかをご覧いただけるよう行間の説明付きで.(ここで,誤りを訂正したり省略を補ったりしているところでは,訂正は括弧に入れてテキストに挿入し,省略も同様.)最後に,この手紙から集められた限りの鍵〔コード表〕を加えてある.それにより貴方は一つ一つを調べられる.
貴方の好奇心を満足させられるようこれらを書いた.
Wallis to Otto Mencke, 1/11 January 1697 (大意)

だがもちろん,暗号文と解読文を対照して公表すればどのような暗号が使われていたかはよくわかるが,それをどうやって解読したかまではわからない.ライプニッツはウォリスへの手紙で,例を挙げれば有用だったと述べた(Leibniz to Wallis, 28 May / 7 June 1697).ライプニッツはメンケにも,ウォリスが解だけでなく解読法も送るべきだったとこぼした(Leibniz to Mencke, August - beginning of September 1697).

ライプニッツの五月の手紙に対するウォリスの返書(Wallis to Leibniz, 30 July 1697)では,単にライプツィヒのActaの編者に今年一月に書き送ったが,受け取られたかどうかは知らないと述べただけだった.

推論過程の公開を求める(1697-1699)

ライプニッツは暗号解析の技術(Ars cryptolytica)は決まった方法に帰着できないことは認め,それができるくらいならたいしたことはないとしつつ,具体例に基づいてどのように解析を進めていったかを説明することを訴えた (Beeley, Davys p.31) (Leibniz to Wallis, 28 September /8 October 1697).一般規則に帰着できないまでも,試行錯誤しながら解読した過程を明かしてもらえれば,それと同じ手法が使えないまでも,考え方の指針として有用だということだろう.

翌春の手紙では,ライプニッツはメンケに送られた例を見たことを明言し,見事だとしつつ,方法の開示を重ねて訴えた(Leibniz to Wallis, 24 March 1698).(この間,1698年1月にハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグストが没し,ゲオルク・ルートヴィヒ,のちの英国王ジョージ一世があとを継いだ.)

この間,ウォリスとライプニッツの文通は暗号解読法に関する不毛なやり取りだけをしていたわけではなく,数学などを論じる手紙の付け足しのような形でこうしたやり取りが続けられてきているのだが,年末にもまた同じようにライプニッツは手紙の最後の部分で要請を繰り返した.ライプニッツは,ウォリスがその賞賛すべき暗号解読の技法を(自らの死とともに)絶えるままにすることがないことを願い,十分一般的なまたは十分確定的な規則によって理解できないことは知っているとしつつ,この不足は見本によって埋めることができ,推論の足跡を常に付記するようにすればよいと述べた.そして後世の者に恩恵を授けることを願い,書記が必要であればなんとかなるとまで言った(Leibniz to Wallis, 29 December 1698).書記云々の話が新選帝侯の正式な意向が背後にあることを示しているのか,図書館長・枢密顧問官としての立場での発言かはわからないが,この段階では後者であるように思える.

年明けのウォリスの返書(Wallis to Leibniz, 16 January 1699)も,ライプニッツを満足させるものではなかった.ウォリスは暗号解読に関しては誰もが同等ではなく,特殊な才能が必要であるとし,能力のある人でも大変な作業だと知るとしりごみしてしまうことを指摘する.その上で,暗号解読の作業を狩りにたとえて,獲物のさまざまな種類に応じて狩猟はさまざまに変わると述べた.(Opera Mathematicaは1699年の刊行なので同書で追えるのはここまで.

ライプニッツの次の手紙(Leibniz to Wallis, 30 March 1699)は,追伸で暗号解析の件もお忘れなくと念を押して,人知の極致が失われるのは惜しいと一言述べるに留めた.いったんこの件は中だるみになったようで,暗号解読に触れられないままいくつかの手紙が交換された(Wallis to Leibniz, 20 April 1699; Leibniz to Wallis 4 August 1699; Wallis to Leibniz, 29 August 1699).

本格的な要請の再開(1699-1700)

1699年11月になってライプニッツは再びこの話題を持ち出す(Leibniz to Wallis, 24 November 1699).今回はこれまで手紙の末尾で付け足しのように書いていたのとは異なり,手紙の前段で言及している.ライプニッツは,ウォリスの近著のすべてが有益とはいえ,暗号解読法の見本ほど喜ばしいものはなかったと述べた(この年出版されたOpera Mathematicaのことだろう.別稿(英文)参照).だがライプニッツはそのあとすぐに,これで十分ではないとして,才能があり熱意のある青年たちをウォリスのもとに派遣して指導を受ける話を持ち出し,引き受ける条件を尋ねるよう命令されていると述べている.今度はライプニッツ個人の希望ではなく,ライプニッツの仕えていたハノーヴァー宮廷の要請なのだろう(ウォリスも下記で引用するWallis to Tilson, 20 March 1701の手紙でライプニッツのはたらきかけがハノーヴァー選帝侯の意によるものとの認識を示している).しかも,ウォリスに条件を指定させようという破格の話である.

ライプニッツの本格的な提案に対してウォリスの返書は数か月後のものである(Wallis to Leibniz, 29 March 1700).ウォリスは暗号の件については何を言うべきか途方に暮れているとして,これまでとは違った事情を説明した.すなわち,国家の大事を伝える際に暗号が使われているので,暗号解読法が広く知られるようになると不都合だというのである.そして国王の意向を持ち出して誰にも教えないと宣言した(仮に教えることができるものとして).そしてそもそも主君に相談することなく無差別に開示していいものではないとした.ここに至って暗号解読法の開示については拒絶の意を明確にしたものの,ウォリスは,ライプニッツが解読しなければならないものがある場合には尽力すると結んだ.

ウォリスとライプニッツの間にはこのあとも年内に手紙の往復があるが,暗号解読の話題が蒸し返されることはない.

解読法公開の是非

ウォリスが暗号解読法の開示に応じなかった理由として最初に挙げたのは,暗号解読は臨機応変に対応しなければならないもので,所定の規則に帰着できるようなものではないということだった.これは暗号解読に携わった者なら誰でも実感することといえる.だが,一般的な規則はだめでも,例を挙げてどのように推論を進めていったかを示してほしいというのにも応じず,解読の結果を出版物で公表したウォリスも,解読法を明かそうとはしなかった.そして,若者を指導してもらいたいというハノーヴァー宮廷をバックにしたと思われる具体的な要請がされるに及ぶと,ウォリスは国王の意向を持ち出して明確に拒否したのだった.

1685年に刊行されたジョン・フォークナーの『クリプトメニシス・パテファクタ』(別稿参照)のように,暗号解読の知識の普及が陰謀の防止に有益という考えも出てきてはいたものの,解読法の普及は国の安全保障上有害だという考えはこの後も根強く残ることになる.

Opera Mathematica別稿(英文)参照)で公開されたフランスの暗号の二つの見本を見ると,ウォリスが恐れていたことがよくわかる.小さな数字が単独文字を表わすのに使われているというフランス暗号の決定的なウイークポイントが現われているのだ.暗号解読にあたってウォリスが真っ先にしたことは,こうした小さな数字に取り組むことであったはずだ.たとえば100程度以下の数字のみに着目すれば,ウォリスにとって単換字暗号と変わらなかっただろう(十分な量の暗号文があるとしてだが).(さらに簡単なことに,数字が飛び飛びとはいえ,文字がアルファベット順に配列されていた.)解読過程を明かそうとすれば,まず小さな数字を攻めるというこの基本戦略を暴露せずにはいられない.おそらくウォリスは,この基本的な構造が変更されて,たとえば単独文字も他の単語や名前もひっくるめてランダムに数字を割り当てる方式になってしまうことを恐れていたのだろう.

実はそのような方式は17世紀にすでに使われていた.例としては,護国卿時代のJ. Peterson (1653),Henry Manning (1655),William Lockhart (1656-1658)の暗号(Codes and Ciphers of Thurloe's Agents)やPRO SP 106/6 no. 34のスペイン語用の暗号(別稿参照),17世紀末にスペインで使われた暗号(Spanish Ciphers in the Seventeenth CenturyのCg.52, Cg.53, Cg.54, Cg.55, Cg.56参照)がある.おそらくウォリスの時代のイギリス,フランスにも例はあるだろう.遅くともアメリカ独立戦争時代には一般的なものとなる(ジョン・ジェイが使ったWE006やWE007(参考)やベンジャミン・フランクリンが使ったWE008(参考)など).

むしろ大家ロシニョールを輩出したフランスがいまだこのような弱い暗号を使っていたことが驚きだが,これらはフランス暗号の中のベストではなかったということかもしれない.

ウォリスとライプニッツが使っているラテン語の語彙についてのメモ

cryptographema, -atis n. 暗号(文)……羅和辞典に載っているcryptogramma, -atis, n.(英語のcryptogram)と同義で使われている.

・solutio cryptographematum 暗号文の解読, 暗号を解くこと

・de cryptographematis explicandis 暗号文の解法について


cryptographicus, -a, -um, adj. ……暗号の(羅和辞典に載っているcryptographia, -aeの形容詞形.geographia/geographicusの関係と同じ)

・res cryptographica 暗号のこと


cryptolyticus, -a, -um, adj. ……暗号解読.現代英語のcryptanalysisに対応.

・ars cryptolytica 暗号解読の技術

・de cryptolyticis 暗号解読について(名詞的に使っている)

ウォリスの後継者

ウォリスは自分の技術を息子にも伝えようとしていた.上記で引用した1691年8月15日の手紙でも息子ジョンを助手として昼夜奮闘したことが述べられいる.だが息子ジョンはウォリスの後継者とはならなかった.才能がなかったという記述もある (John Wallis as a Cryptographyer, p.83) が,ウォリスの曾孫は別の事情を伝えている.1694年2月28日の手紙でウォリスはこう書いている.「息子のジョン・ウォリスに時折どのように作業を進めるかを見せ,どのようにすれば同じようにできるかを教え(そもそも教えることができる限りにおいてですが),(一緒にいるときには)多くの手紙の解読で助手として使ってきました.息子はそれを理解するだけの力があるのですが,他の仕事があるので,その苦労について,やるに値しないと不平を言います.熟練するには(天性の洞察力に加えて)長い間の実践しかありません.」と述べている.法廷弁護士だった息子にとって暗号解読は割の合わない仕事だったという面もあるのだ (W. Wallis, Sermons, p.liii-liv)

それでも,暗号解読の技術がウォリスの死とともに絶えるのではないかというライプニッツの懸念は杞憂に終わった.ウォリスは娘の子(三男四女のうちの一人)である孫ウイリアム・ブレンコウに希望を託し,その指導のために俸給を得る約束を大法官サマーズから得ることに成功した (Kahn p.169, Calendar of Treasury Papers, W. Wallis, Sermons, p.lii-liii).これは1699年のことで,ちょうどライプニッツからの要請が本格化したころに当たる.ウイリアム・ブレンコウ(1683-1712)はまだ十六歳だったが,八十三歳になるウォリスとしてはあまり悠長に待ってもいられなかったのだろう.

ただし,すぐ支払いはされなかったようで,ウォリスは1701年になって催促しなければならなかった.下記の引用に見られるように,ウォリスはこの際,ちゃっかりライプニッツから繰り返し解読法教授の要請があったことも強調し,同じころの国王への覚書(Calendar of Treasury Papers)ではブレンコウが「イギリスの最もよくできた暗号の一つと非常によくできたフランスの暗号」を解読したという実績を訴えている.

お気づきでないとは思いますが,私は貴方に恩があります.私がある若者(判事ブレンコウの息子,ウイリアム・ブレンコウ)に暗号解読の技術を教授するため,私に年額100ポンドの年金が支払われるよう国王陛下に署名していただく支払命令書を起草していただきました.
これに関し,さらに提案があります.その認可では,ある面ではすでに行なった奉仕に対して私に報いること,ある面ではその技術が私の死とともに絶えることがないようその技術の継承を私に促すことが国王陛下の主たるご意思であらせられましたが,件の若者に暗号解読に励むよう促すこともよしとせられるかもしれず,年金を,私の存命中(私ももはや85歳になろうとしていますのでこれは長いことではないと思われます)は私に対して支払われ,その後は件の若者に君寵ある間,支払われるようにすべくお命じいただけるかもしれないと存じます.
これはゴドルフィン卿〔第一大蔵卿〕かサー・スティーヴン・フォックス〔大蔵委員の一人〕に提案するべきところですが,私はいずれも面識がありません.このたびの提案が受け入れられない場合には,起草されている通りに通していただくために,ひと言,付け加えてきます.
私はライプニッツ氏から一度ならず,ハノーヴァー選帝侯を代表しての要請を受けました.この地に何人かの若者を派遣して私に教授してほしいというのです.引き受けるに当たっての条件は私自身に提案させるというものでした.これに対し,私は次のように回答しました.機会があれば選帝侯殿下に奉仕する用意がありますが,その技量は私の主君自身にとって有用となりうる稀有なものですので,国王陛下の許可なくして国外に出すのは適切ではないと考えます.
もし適切とお考えでしたら(最もふさわしいと思われる仕方で)このことを国王陛下にご奏上いただきたくお願い申し上げます.
(Wallis to Tilson, Oxford, 20 March 1701)

ウォリスはここで,当初認められた孫の指導料という名目に対して変更をもちかけている.指導料という限りはそれはウォリス存命中に限られるが,ウォリスは自分の死後もブレンコウが年金を受けられるように要請しているのである.上記「名誉革命後の暗号解読」の節での引用からもわかるように,暗号解読者としてのウォリスの地位は公式なものではなく,あくまでも,オクスフォード大の数学者がたまたま暗号解読に長けているから依頼が舞い込むという形であり,報酬も約束されたものではなかった.ウォリスは孫のために,暗号解読を固定給が得られるポストにしようとしたのである.

ウォリスの要請は認められたらしく,ウォリス,ブレンコウの両名共同での俸給が1699年にさかのぼって支給されることになった.こうして1703年にウォリスが没したときには,ウイリアム・ブレンコウはイングランド初の公式な解読官(Decipherer)となったのだった.

参考文献

ウォリスの伝記

ウォリスの自伝……1697年1月29日付けのトマス・スミス(オクスフォード大学のフェロー)宛の手紙のこと.かねてから生涯について書いてほしいと言われていたのに応えたものとのこと.なぜかPeter Langtoft's chronicle (1725)の編者による序文の付録(p.cxl)として収録されている(Google).

C.J. Scriba, "The Autobiography of John Wallis, F.R.S.," Notes and Records of the Royal Society, 25 (1970), 17-46. (従来知られていたものとウォリスの最初の草稿を対照)

Biographia Britannica (Google)

Oxford DNB

DNB

J. A. Kemp (ed.), John Wallis's Grammar of the English Language (1972) ... Introductionがウォリスのさまざまな面を扱う.

William Wallis, Sermons now first printed from the original manuscripts of John Wallis ... to hwich are prefixed memoirs of the author (1791) ... ウォリスの曾孫によるメモが1690年代の書簡などを引用しているが,日付を欠くものが多い(Gentleman's Magazineへの寄稿からの抜粋のよう).

"The Reverend John Wallis, F.R.S. (1616-1703)" Notes and Records of the Royal Society, 15 (1960), 57-67. (Royal Society創立に関わった人々の紹介をする巻に掲載されたウォリスの小伝)

G. Udny Yule, "John Wallis, D.D., F.R.S. (1616-1703)," Notes and Records of the Royal Society, 2 (1939), 74 (未見)

J. Scriba, Complete Dictionary of Scientific Biography at Encyclopedia.com

O'Connor, John J., Robertson, Edmund F., "John Wallis", MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews

書簡集・原文書

Johannis Wallis, Opera Mathematica Vol.3 (1699) (Google)…p.615から書簡集.p.659-672にウォリスの解読した暗号あり(別稿に抜粋)

Gothofredi Guillelmi Lebnitii, Opera Omnia (Google) (1768)

Gottfried Wilhem Leibniz, Leibnizens mathematische schriften: Briefwechsel (Google, Internet Archive) (1859) (1699年以降の書簡も収録;ウォリスとのやり取りは巻頭から)

Philip Beeley and Christoph J. Scriba (ed)., Correspondence of John Wallis (1616-1703) (2003- ) (全8巻中2012年現在3巻まで刊行)

David Eugene Smith, 'John Wallis as a Cryptographer' (1917) (pdf)(1690年代のいくつかの書簡を収録)

Gentleman's Magazine, (vol.58 (1788), vol.59 (1789), p.3, 113)

Monthly Magazine and British Register, vol. XIII, pp.446-447, 560-561; vol. XIV, pp. 252-253, 521-522 (1689-1694年のいくつかの書簡を収録)(vol. XIII (欠行多数), vol.XIV)

John Davys, An Essay on the Art of Decyphering (1737) (ウォリスが図書館に寄託した解読文集に付した「はしがき」を収録)

カタログ

Early Modern Letters Online (EMLO), Beta Version (accessed in January 2013) (online)

C.J. Scriba, "A Tentative Index of the Correspondence of John Wallis, F.R.S.," Notes and Records of the Royal Society, 22 (1967), 58-93.(暗号解読関係等については既刊本に掲載されたもののほかは原則除外)

National Register of Archives at The National Archives (ウォリス関係の原文書の所在一覧)

John Wallis Bibliography

その他

Philip Beeley, "Un de mes amis.": On Leibniz' Relation to the English Mathematician and Theologian John Wallis, in Leibniz and the English-speaking world (2007), pp.63-82 (ウォリスが解読した暗号の図版を掲載)

David Kahn, The Codebreakers (1967) (p.168にウォリスが解読した1693年6月9日のルイ十四世の手紙の図版を掲載)

Geneva, Astrology and the Seventeenth Century Mind p.25 (ウォリスが解読したチャールズ一世の1647年2月3日の手紙の図版を掲載)

ハリー・トンプソン『鉄・仮・面 歴史に封印された男』巻末にウォリスが解読できなかったというフランスの数字暗号を掲載

Life of Dr. John Barwick (Google)

Calendar of the Clarendon State Papers (CClSP), vol. IV (Internet Archive)

Underdown (1960), Royalist Conspiracy in England

Richard S. Westfall, 'John Wallis', The Galileo Project (各種データ・参考文献など)

'Wallis, John (1650-1717)' (History of Parliament Online)…ウォリスの息子の紹介

'Blencowe, John (1650-1717)' (History of Parliament Online)…ブレンコウの紹介

'A Recently Discovered Sir John Blencowe Document', 3 August 2009 (page from Blencowe Families' Association)…ブレンコウの子孫のページ



本稿の
英語版もご参照ください.(英語版のみ,日本語版のみで引用を掲載している文書などもあります.)
©2012 S.Tomokiyo
First posted on 5 November 2012. Last modified on 6 February 2013.
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